原資産である株式の価格とオプションの価格は、ともに同じ要素である株式価格の変動に影響される。つまり,ごく短期間のコ-ル・オプションの価格は,原資産である株式の価格と非常に強い正の相関をもち,プット・オプションは強い負の相関をもつ。したがって、適切な株式とオプションの組合せを構築することで、株式のポジションとオプションのポジションをともに相殺することが可能になる。そして、コールとプット・オプション価格を算定する計算式を開発したのである。
一九八〇年代、メリー・ウェザーを中核とするソロモンのデリバティブ部門は、時代の最先端を切っていた。マートンは、デリバティブの普及に伴って、銀行と投資会社との区分がなくなると信じていた。
マートンは、LTCMをヘッジ・ファンドとは見ていなかった。そうではなくて、最先端の「金融仲介機関」であると考えていたのである。町の銀行は、預金者からカネを借りて、そのカネを地元の住民や事業者に貸し付け、借入金利と貸付金利の差(スプレッド)が銀行の利益になる。そうしたささやかなスプレッドを稼ぐのがこれまでの銀行である。LTCMも借り入れる。
これは、先物での債券の売りという行為に相当する。先物での債券を売るということは、将来、その債券の現物を渡すということなので、先物売りとはカネを借り入れたことと同じである。そして、そのカネで、リスクが高いので、高い利率を払わなければならない信用に低い事業者の債券を買うことによって、彼らに流動性を供給する。つまり、なかなか事業資金を調達できない業者にカネを貸し付けるのである。これまでの銀行とLTCMが異なるのは、後者がリスクをあえてとるという点にある。
流動性を供給することが銀行の仕事でありかぎり、同じく流動性を供給できるファンドはこれまでの銀行を進化させたとマートンは理解するのである。こうして、
「輪郭が整い始めたヘッジ・ファンドは、マートンのおかげで、もっと壮大な文脈で我が身をとらえ始めた」(Lowenstein[2000]、邦訳、六〇ページ)。
資金調達の看板としてハーバード大学から引き抜いたLTCMではあったが、実際には、マートンは集金活動には向かなかった。性格がまじめすぎて集金活動に身を入れてくれなかったからである。しかし、いずれ、ノーベル経済学賞をもらうであろうと噂されていた超重鎮、マートンを陣営に引き込んだことは、LMTCを世界に認知させる上でとてつもなく大きな価値をもつものであった。
実際に、先頭に立って資金集めを行ったのが、もう一人のノーベル経済学賞受賞候補のマイロン・ショールズであった。
ショールズもまた大学を辞めてLTCMに参加した。彼は、弁舌さわやかで、比喩も美味かった。適度に相手を恫喝することもできた。とくに、大手保険会社のコンセコ(Conseco Fieldhouse)に出資を決断させたときには、コンセコ側の担当者を馬鹿呼ばわりをしてコンセコの主席者は激怒したが、結局はショールズに説得されてしまたことを、ローウェンスタインは描いている(同、六五ページ)。
ローウェンスタインは、ショールズが若い頃からいかに金儲けに腐心していたかを書いている。兄弟と組んで怪しげな本を出版したこと、サテン(繻子織)というブライダル用の生地で作ったシーツを売り出したり、各種ビジネスに手を染めていた。
ショールズが、在籍していた頃のシカゴ大学は新保守主義者のメッカであった。ユージン・ファーマ(Eugene Fama)は、一九七〇年に初めて「効率的市場仮説」という言葉を使った(Fama, Eugene[1970], [1991])。市場がつける株価はつねに適正であるという信念である。
市場信奉者が集まるシカゴ大学で研究したショールズは、投機に熱中し、一九六〇年代後半には給与のすべてを株に注ぎ込み、相場の急落で銀行に泣きついたこともあった。
各国の税法にも精通していた。「税金をまともに払うのは愚の骨頂だ」と言い放ったこともあるという(Lowenstein[2000]、邦訳、六七ページ)。お陰で、LTCMのパートナーたちは、儲けの税金を一〇年も納税を繰り延べることに成功した。
収益から二五%を手数料としてとり、二五億ドルの出資を要求するLTCMの過大な要求も、ショールズの加入でその半分は実現することになった。結局は、外国銀行を巻き込むことに成功したのである。
それは、クリントン政権が、宮澤内閣に金融自由化圧力をかけるようになった一九九三~九五年にいたる金融分野交渉の開始時期と完全に重なるのである。
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