消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.146 大衆プロパガンダとしての投資理論

2007-08-14 21:39:44 | 金融の倫理(福井日記)


 ジョージ・ソロスのクァンタム・ファンドと並ぶ米国大手ヘッジ・ファンドのタイガー・マネジメントが、このファンドとジャガー・ファンドを含む六つのファンドのすべてを二〇〇〇年三月三〇に清算した。このファンドは、一九九七年のアジア通貨危機のさい、各国の通貨を大量に空売りを仕掛けたことで有名になった。ところが、勇名を馳せたわずか二年そこそこで、このファンドは店仕舞いをしてしまった。

 ソロスのクァンタム・ファンドもそうであるが、タイガー・ファンドが依拠する投資理論は、グレアムの主張するバリュー投資理論に基づくものであった。つまり、理論値と市場価格との差が売買を決定する基本的判断材料であった。

 しかし、理論値の算定が必ずしも正しくないことに、この種のファンドを待つ落とし穴がある。たとえば、タイガー・ファンドは、アジア通貨売りの最終局面として円売りのポジションに立った。一九九八年秋のことである。当時、日本経済は、未曾有の経済不況に見舞われていた上に、アジア通貨危機のダブル・パンチに喘いでいた。この場合、理論値が円安を算定したのは無理からぬ判断であった。

 理論値からすれば、円安が進行するはずであった。しかし、九八年一〇月七日、円は一日で九円以上も高騰した。そもそも、通貨の対外相場は、ファンダメンタルズに従うものではないし、よしんば、広い意味でのファンダメンタルズに左右されるものであるにしても、肝心のファンダメンタルズとして列挙される要素が、ファンダメンタルズのすべてを包含するものではないのである。バリュー投資理論は、理論の前提が硬直的すぎることへの目配りが総じて乏しい。

 結局、円相場の判断の間違いによって、タイガー・ファンドは、一日だけで二〇億ドルも失った。同年のロシアのデフォルト危機でも、六億ドルを失った 。

 よしんば理論値が正しくとも、一瞬の巨大な市場の痙攣で、ファンドは資金を失いかねない。もっとも苦しいときに資金量の補給があれば危機を乗り切れるのだが、往々にして補給は枯渇する。資金の不足によって、ファンドは致命的な傷を負う。それが後遺症となり、その後の投資行動に制約をつけてしまう。相場とは、一瞬の判断力の誤りを致命傷にしてしまうものなのである。

 タイガー・ファンドがいきづまったのは、IT相場を軽視したこともある。
 グレアムは、既述のように、株の本来の価値を算定するのに、その株を発行した企業の成長性を加味しなかった。よしんば、成長性が株価引上げに大きく貢献するものであっても、成長性そのものに不確実さがつきまとうからである。成長性を評価されてかさ上げされた株価よりも、成長性を排除して現在の財務諸表のみで本来の株価を算定する方がリスクが小さいとグレアムは見なしていたのである。

 タイガーを主宰するジュリアン・ロバートソン(Julian Robertson、1933年~)は、グレアムの判断の仕方を採用した。利益を挙げていない人気企業株は、砂で作った楼閣にすぎない。それは崩壊確実なものであるとして、ロバートソンは、IT関連株を軽蔑していた。

 ロバートソンは、大手証券会社のキダー・ピーボディーに二〇年間勤めた後、一九八〇年にタイガー・ファンドを設立した。一九九六年には預かり資産の五〇%、九七年には七二%もの運用益を挙げ、九八年にはクァンタム・ファンドに次ぐ二二〇億ドルという巨額の資金を集めた。サッチャー元英国首相、元米国大統領候補のボブ・ドールなどの政界の大物を顧問に迎えている(三浦潤一氏の二〇〇〇年四月一日付ブログ、http:www.daytradent.com/HowtoDT/C02.htm)。

 タイガーの死命を制したのは、デイ・トレードといった株式を一日のうちに何度も売買するという株式売買方式であった。

 
株式をもつ時間が極端に短い。これは、自分では制御できない外的な要因を排除するために生み出された手法である。数日間も株式を保有すれば、プロ集団ですら、情勢の変化によって大損をする。

 最近、株式市場がとみに短期間に乱高下するようになってきた。夜、眠る前に見たときの相場は上がっていたのに、目が覚めたら大損をしていたという状況が相次いだ。そこで、株の理論も知らず、世界情勢も深く知らない素人たちがパソコンの画面で、特定の株の値動きだけに注目し、購入後、数時間で売り抜けて、わずかの利益を積み重ねるという手法で、リスクを避けるのがデイ・トレードである。

 この手法は、グレアム、バフェット、ロバートソンたちのファンダメンタル分析とは基本的に性質の違うものである。デイ・トレードは、ファンダメンタルを分析するよりも、株式の売買を短時間に繰り返すことによって、小さな利益を積み重ね、集計的に大きなリターンをとるという手法である。

 ネット社会におけるデイ・トレードが、ITのバブルをあおった。それに対して、ロバートソンは、「熱狂的」な「馬鹿げたこと」と一蹴してきた。昔ながらのバリュー投資を信じて、財務書評を重視する姿勢を変えなかった。そのことによって、タイガー・ファンドは、みすみすIT関連のリターンを得るチャンスを逃がし、顧客が期待するリターンを挙げることができなくなった。こうしてファンドを閉めることになったのである。

 ただし、その後、ITバブルは破裂した。IT関連企業株に集中したファンドの多くが破綻した。結果的にはロバートソンは正しかった。しかし、正しさが証明される前にファンドは閉められた。短期即効性を求める顧客が満足しなかったからである(「株式投資日記」二〇〇六年三月二五日。http://bose.blog.ocn.ne.jp/bose/2006/03/post_7b73.html)。

 先述の三浦潤一のブログは、「素人熱狂相場にプロ負けた、タイガーファンドが清算」という表題であった。

 二〇〇七年の夏、再度、バブル崩壊の危険性が迫っている。二〇〇七年八月九日までは、世界、とくに韓国の株価が上昇していた。韓国はそれまでの一年間で六〇%以上も上昇していた。これは非常に危ない。少なくとも、石油、金、銀、パラジウムなど、多くの資源価格が上昇したのが、二〇〇七年のことであった。これは、世界中でカネが余っているのに、受け入れるバケツが小さいことを意味する。中国マネーだけでも九〇兆円を超えている。こうした巨額のカネが世界中を物色し回っているのである。

 この状況は、一九九七年六月、ロバ-トソンがタイ中央銀行を相手に、バーツのカラ売りを始めたときに酷似している。当時、アジア各国の通貨がマレーシア、インドネシアへと波及していった。

 これら諸国の政治は不安定である。石油が出るインドネシアはいまは石油輸入国に転落している。韓国は工場を中国に移転していて、国内経済の空洞化が心配されている。タイのバーツも、インドネシアのルピアも、韓国のウォンも理由もなく高い。

 これら諸国の経済は将来性がないということを、あらゆるチャンネルを通じて、大々的に叫べば、これら諸国の通貨は暴落するであろう。そうしたマイナス情報を効果的にするには、どのタイミングがいいかということが、巨大ファンドの関心事項なのである。

 かつて、アジア通貨が高かった初期には、ロバートソンンは、なにもいっていなかった。黙ったまま巨額の売りポジションを確保していた。

 
そして、彼は、絶妙のタイミングで攻撃をしかけた。それまでは、アジアの世紀万歳とうかれていたマスコミが、一転して、アジア経済の悲観論を唱え始めた。クローニー・キャピタリズムとか、対ドル固定相場維持政策が一斉に攻撃されるようになった。それまでは、そうした論調はまったく聞かされることはなかった。売り攻撃を仕掛けたときに、悪い情報を一斉に垂れ流す。これが投機屋の常套手段である。

 バリュー投資によって本来の価格を把握しているがゆえに、ファンドは、証券の売買をすると説明されているが、事実はそうではない。実際に攻撃が開始してから、攻撃にさらされている物件の本来の価格が、市場評価よりもはるかに低いものであり、これが本来の水準なのに、市場が間違っているとの、大キャンペーンが張られるのである。投機の成功は、本来のバリューの正しい算定ではなく、事後的に市場が本来のバリューからはそもそも大きくかけ離れていたのだということを多くの投資家に信じさせるという力量、つまり、ジャーナリズムをあおる力量なのである。理論は、攻撃を開始した後に、攻撃の口実として語られるだけである。理論に沿って投機がおこなわれるのではなく、投機を成功させるために、理論が事後的口実に使われただけのことである。

 五〇〇億円集めることができれば、一兆円規模の投機をおこなう。二〇倍のレバリッジがかけられる。一九九七年、ロバートソンの攻撃を防ぐべく、タイ中央銀行はまじめにバーツ買いに走った。これが、投機家・ロバートソンの手元に軍資金として渡った。タイは投機を放置しておくべきであった。そうすれば、ロバートソンは資金が続かなかったはずである。投機に通貨当局が翻弄されたという苦い経験があるにだから、今後、通貨当局は、投機家を相手にしないという気位をもつべきであろう(大前研一「好調アジア株に潜む『第二のアジア危機』」第二九回、http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a//31/index.htmlを参考にした)。

 このファンドの歴史を紹介した本が、二〇〇四年に出版された(Strachman, J.[2004])。



 引用文献

Strachman, Daniel A.[2004], Julian Robertson: A Tiger in the Land of Bulls and Bears, John Wiley & Sons Inc. 邦訳、ダニエル・A・ストラックマン、田村勝省訳『魔術師は市場でよみがえる一タイガー・マネジメントの興亡』東洋経済新報社、二〇〇五年。