消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.153 クオンツ

2007-08-28 20:00:41 | 金融の倫理(福井日記)


 「クォンツ」とは、「定量分析者」(quantitative analyst)のことで、金融機関で金融商品の数学モデル開発に従事する数学者を指す。日本では、一時、金融界に入ったロケット博士のことを意味していた。

 一九五二年、ハリー・マーコビッツ(Harry Max Markowitz, 1927~)が提出した博士論文、「ポートフォリオ選択」が、数学的な考え方を金融部面に適用した最初の試みであるとされている(Markowitz, Harry[1952])。

 
彼は、一九九〇年のノーベル経済学賞を受賞している。彼が初めて市場の分散を定式化した。「共分散」(covariance)と「平均収益」(mean return)をキーワードに、トレーダーがもっていた経験則を数式化したとされている。

 共分散とは、二つの変数の間の量的な変動の関係を示す指標のことである。共分散は、一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値も大きい関係にあれば正とされ、逆に一方の値が大きいほど他方の変数の値が小さい関係にあれば負とされる。二つの変数間に共変関係がなければゼロに近づく。つまり、株式価格の連動を表す考え方である。

 投資には、特定の金融商品に集中させるのではなく、分散させることが重要であることについては、株式投資関係者の間では経験的に理解されていた。

 マーコビッツは、証券を個別的に分析するのではなく、適度に分散された「複数の証券の組み合わせ」(このことを「ポートフォリオ」という)に投資の主眼を置くべきだと主張した。

 それまでの主流は、当ブログでも紹介したベンジャミン・グレアムの「バリュー投資」論であった。株式の本来の価値より安いものを買うという考え方がそれであった。しかし、多くの人たちは、こうした理論があったにもかかわらず、特定の株式だけではなく、複数の株式に分散投資をしていた。経験的にその方が安全であったからである。これは、収益だけでなく、リスクも投資家の関心を引いていることの証左である。

 しかし、結論的に言えば、この「クォンツ」理論の隆盛が、最近の「サブプライム・ローン」問題を引き起こしたのではないかという見方もある(「日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク」;http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2007/08/post_400.html)。

 「サブプライム」とは、「プライム」という点からすれば劣る(=下=sub)という意味である。したがって、「サブプライム・ローン」とは、返済能力に不安がある人にも借りやすいように仕組まれたローンのことを指す。つまり、借り手の危険性を、多くの貸し手が分散して請け負うという仕組みのローンである。ローンを証券化して、投資家が分散してもつという商品である。

 米国の住宅金融にこのサブプライム・ローンが大々的に適用されていたが、米国の金利の上昇とともに、このローンの貸し倒れ率が急速に高まり、フランスの銀行系のクォンツ・ファンドが、親銀行の指示で運用を停止したことから、二〇〇七年八月の大騒動が世界的に拡大した。これは、危険な借り手から搾取するサラ金を待つ当然の報いである。

 そもそも、ファンドは、運用する原資産の価値を分割し、一口当たりいくらという価格をつけて投資家に売り出すものである。

 
当然、その価値(NAV=Net Asset Value)の上昇を期待して投資家は応募(subscribe)し、大きなリターンでの償還(redeem)を受け取る積もりではあるが、貸し倒れ率が高まると、ファンド側は、資産価値の確定ができなくなり、投資家の資金引き上げが発生することになる。

 他方で、株式市場では、大型M&Aの横行によって、活況を呈していたが、ファンド側が買収資金を出さなくなってしまうと、株式市場に流入する資金も先細りになるのではないかと市場の思惑から、株式相場が急速に下落してしまう。

 こういう情況下では、投機資金は優良株(blue chips)に逃避するのが過去の経験則であったのに、二〇〇七年夏には、優良株自体の価格が下落した。逆に、これまでの経験からすれば大幅に値下がりするはずの弱小株の値段が上昇している。これは大変なことであある。市場が迷走しだしたことを意味するからである。

 相場の下落局面では、大幅に値下がりしそうな株を借りて、市場で売り(空売り=short sale)、一定の現金を入手する。現物価格が十分に下がって時点でその株を買い戻し、借りた相手に現物株を返却する。そうすれば、現物株を買ったときの低い価格と、下がり前の相対的に高い価格との差額が儲かる。こういう操作で損失をカバーしようとするものだが、二〇〇七年夏に起こったことは、優良株を売って、弱小株を買うという逆の取引の横行であった。急いで損失を取り戻そうとする末期的狼狽が市場を支配しているのである。

 すでに説明したが、ヘッジファンドとは、会員制クラブで、大金持ちや機関投資家から一口数億円という巨額の出資を募り、巨額の運用資金をもつ。

 
個人が分散された市場とは違い、巨額の運用資金を駆使できるのだから、当然、市場そのものを振り回すことができるようになる。ファンドは、株式、債券はもとより、およそ儲かるものならなんにでも手を出す。とにかく、投機対象を分散させて投資する。

 もともと、「ヘッジ」とは安全を期待した「つなぎ」という意味であるが、ヘッジファンドは、安全性など無視して高い危険があるほど高い収益を得られるといった「ハイリスク・ハイリターン」の行動様式をとる。それでなくては年間二〇数パーセントという償還などできないからである。失敗すれば、さっさと解散してしまえばいい。その間、儲けるだけ儲ければいいという短期即効型の投機組織であり、さんざん儲けさせてもらった大金持ちたちは、ファンドを解散されても文句を言わず、次のファンドを物色するという構造にある。じつは、ファンドの数が少ないときには、ヘッジファンドは順調に収益を上げてきた。しかし、無数のファンドが雨後の竹の子のように現れてしまえば、市場自体のうま味がなくなって、ファンドの生きる場が消失してしまうのである。

 ブルドッグソースの買収騒ぎで有名になったスティール・パートナーズ(Steel Partners)もヘッジファンドであるが、ヘッジどころか、投資先に乗り込んで株主価値を振り回し、相手先をヘッジするどころか掻き回して、自分たちが注ぎ込んだ投機資金のリターンを向上させることだけを考えている。こうしたファンドは「アクティビスト・ファンド」(積極派行動ファンド)と呼ばれる。

 スティール・パートナーズは、米国に本拠地をおくアクティビスト・ヘッジファンドで、代表は、ペンシルバニア大学卒のウォーレン・リヒテンシュタイン(Warren Lichtenstein、1966~)である。ウォレン・リヒテンシュタイン自身が一九九三年に設立した「スティール」の名前は最初の投資先が鉄鋼株だったことに由来する。日本で一躍有名になった二〇〇三年一二月のソトー及びユシロ化学工業に対する敵対的TOB、韓国のタバコメーカー、KT&Gに対してM&Aを仕掛けた。二〇〇七年七月現在、スティールが五パーセント超の株式をもつ日本企業は三〇社以上ある。

 日本法人名は「スティール・パートナーズ・ジャパン株式会社」(SPJS Holdings LLC)で、二〇〇一年一一月に設立された。江崎グリコやブルドックソースといった食品関連銘柄への投資が目立つのも特徴と言える。

 二〇〇七年五月、サッポロ・ホールディングが買収意図や事業計画についての質問状を送ったが、スティール側は「時間の引き伸ばしに過ぎない」として回答を拒否した。

 同年同月一八日、ブルドックソースに対して全株取得に向けてTOBを行うと発表、五月一四日以前の一か月平均の株価に約二〇%のプレミアムを付けた価額で全株取得に向けたTOBを開始した。

 ブルドック側は、TOBに反対し、新株予約権割り当てを軸とする対抗策をとった。新株予約権割り当ての対抗策は株主総会で承認され、スティールは東京地方裁判所に対し新株予約権の差止めを求めたが却下、東京高等裁判所に即時抗告を行ったが七月九日転売目的で株を購入する濫用的買収者であるとして抗告を棄却された。スティールは、これを受けて最高裁判所に特別抗告・許可抗告したが、いずれも棄却された(ウィキペディアより)。

 そして、二〇〇七年八月二三日、スティール側はブルドク株のTOBを締め切った。ステール側は、二〇〇七年八月九日から買い付け価格を一株一七〇〇円から四二五円に引き下げた。ブルドックがスティール以外の株主に新株を交付したからである。これによって、ステールの持ち株比率は約一〇%から約三%にまで下がった。TOBに応じて、ステールに株を売った株主はごくわずかであった(発行済み株式の一・八%、二四日にパートナーズが公表)。

 『讀賣新聞』二〇〇七年八月二四日付「日本・第四部・揺れる経営③」の記事によれば、二〇〇七年六月一三日、ブルドックの池田章子社長と会見したさい、リヒテンシュタイン代表は、「私はソースが好きではない」、「味わったこともない」と言ってのけたという。同記事を引用する。

 「ブルドックは操業一〇五年の老舗だ。日本の食文化を担ってきた自負もある。約二七〇億円もの巨額を投じて手に入れようとしている会社の製品を否定したような発言に、池田社長は内心、怒りに震えた」。

 同記事の内容をさらに紹介しておこう。

 投資ファンドは信託銀行の名義で投資するケースが多く、会社側の株主名簿では実態がつかめない。敵対的買収で傘下におさめた企業の経営陣を入れ替え、従業員を大胆に削減するファンドも珍しくない。

 二〇〇四年三月に日系投資ファンドに買収された旧東急観光(現トップツアー)では、取締役会の過半数となる五人の取締役がファンドから送り込まれ、ボーナスの支給を取りやめたことから労使対立が激化し、最近一年間で全従業員の一割に当たる役二〇〇人が退社した。

 そして、ブルドック買収は、スティール側の全面敗北となった。以上が、讀賣新聞の記事である。日本の新聞もことM&Aに関するかぎり様変わりしたものである。

 さて、クォンツに話を戻そう。
 
普通、投資でどの銘柄を選ぶかを考えるとき、企業の過去の業績、今後の見通しというファンダメンタルズの分析と株価の動きをチャートで追うものだが、これを数式にモデル化する人がクォンツである。クォンツごとに実績が競われる。彼らが必要になったのは、扱う銘柄が旧来のアナリストでは把握不可能なほどの、数千という膨大な数になったからである。膨大な数の銘柄を期待される収益率ごとにランキング分けし、その中から投資しやすいポートフォリオに組み込むというのが、クォンツの役目である。

 数学的に処理されることから、ファンド・マネジャーの思い込みというマイナスのリスクを避けることができるのではないかと一般投資家たちが期待する。事実、クォンツたちの運用成績は市場平均を上回っていた。

 しかし、データがすべて過去のものであることにクォンツ運用の致命的な欠陥がある。既存データでは把握できない新しい条件変化に対してクォンツは鈍感にならざるを得ないのである。

 さらに大きな欠陥がクォンツにはある。そもそも、クォンツが実績を示せたのは、計算上の格差が、実際の市場で取引されている格差よりも小さいところにあった

 「あるべき水準」と「現在の実際の水準」との格差がクォンツたちが目指す運用益の源泉であった。

 ところが、クォンツ運用が普及すればするほど、この格差が縮小してしまう。多くの投資家が実態を見落としているからこそ、格差の間隙を突く儲けがあったのに、コンピュータを駆使する取引が増えれば増えるほど、肝心の格差が縮小し、儲け口が狭まるからである。

 たとえば、空売りはそうした格差をもっとも収益の大きい源泉として狙う取引である。その空売りが、二〇〇七年夏、過去一八年間でもっとも運用成績を悪化させたのであるThe Wall Street Journal, August 11, 2007)。

 おそらくは、先行きが不透明となって、ものすごい勢いで「手仕舞い」が始まっているのであろう。業界用語では、手仕舞いのことを "unwinding"という。上記の新聞は、「巨大な手仕舞いが進行している」(a massive unwinding is occuring)と表現した。

 引用文献

Markowitz, Harry M. [1952], "Portfolio Selection, " Journal of Finance , vol. 7, no. 1.