消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 26 私度、白山、泰澄

2006-07-19 02:18:32 | 神(福井日記)
日本への仏教伝来は、百済聖明王が釈迦金銅仏と教典を欽明天皇に献上したことを指す。欽明天皇戊午の年(538年)とされる。これは、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』の記述による。『日本書記』では、欽明天皇13年としている。いずれにせよ、6世紀半ばに公的なルートを通じて仏教が伝来したとされている。これを「仏教公伝」という。

 しかし、どうだろうか。宗教の伝来を、権力による伝達に見るという発想自体がおかしいのではないだろうか。宗教は民衆に伝播するものである。とすれば、日本の権力に「学問」としての権力的宗教が伝来するよりもはるか以前から、私的レベルで日本に民衆宗教が伝えられていたはずである。そして、これが、越前・若狭の民衆宗教ではなかったのか。事実、538年より古い5世紀後半から6世紀前半のものであるとされる「仏獣鏡」が小浜市国分の国分古墳から発見されている。この鏡は、日本では数例しかない(『小浜市史』通史編上)。


 日本で最初の本格的な伽藍をもつ寺院は飛鳥寺であるとされている。蘇我馬子が造営したと言われている。崇峻天皇元年(588年)から推古天皇17年( 609年)の年代に建設されたものらしい。その後、聖徳太子による斑鳩寺(若草伽藍)や四天王寺、等々が建立されていく。持統天皇6年(692年)には、全国で545もの寺が存在していたとされる(『扶桑略記』)。全国の有力豪族が大伽藍を建立したのは、財力を誇ることだけでなく、中央政府が提供する仏教寺院への各種優遇措置、例えば、寺他の保有が認められるという特権を得ようとしたこともあったのだろう(『続日本記』和銅六年十月戊戌条)。

 伝来した仏教においても、それまでの日本の土着の神々信仰と同様、山は聖なる存在であった。事実、仏教伝来と同時に、「須弥山」信仰が出現している。

 「国家仏教」とは、僧は国が任命し、僧は、国家、国王のために働くことを義務づけられていたものである。とくに、天皇の病を癒すことが僧には期待されていた。病を治したり、国家の危機を救う祈りをするために、国家は、僧に山岳の修行を命じた。とくに吉野山での修行は有名であった。法王という空前の高い地位に昇った道鏡も山岳修行(密教的)で鍛え、権力者達の病を癒したということで、権力者の寵愛を得たのである(薗田香融『平安仏教の研究』)。

 国家の認可を得ない僧も多数存在していた。彼らは「私度」と呼ばれていた。今日の言葉の「支度」(したく)がこの「私度」に由来するのかどうかはまだ分からない。自前の費用で山岳修行に励む僧がこのように呼ばれていた。彼らは、初期から神仏混淆思想の持ち主であった。彼らの山岳修行は、この日記でも紹介したが、正式の「密教」に対して、「雑密」と言われる。正式なものと同じく、密教的な色彩を帯びていたのであろう。

 越前の白山信仰は、大和に仏教が公的権力の手で移植される以前から存在していた。中央からの指令以前に、民間レベルで神仏混淆の姿が民衆に受け入れられていた。それはかなり、道教的なものであったらしい。

 白山信仰では、十一面観音が非常に重要な位置にある。元来は、観音菩薩は女性を体現したもので、素朴な祖先崇拝の媒介神であった。祖先を追善するために、観音像が7世紀頃から民衆の手で彫られていた。天平時代に入ると、漢音は国家を護るという任務を帯びることになった。天平7年、玄という高僧が帰朝した時に、「十一面神呪経」を持ち帰った。つねに、変化を遂げる観音という受け取り方が民衆の中に広まり、それを象徴的に表したのが十一面観音であった(速水侑『観音信仰』)。

 奈良時代、十一面観音は、懺悔の対象であった。「十一面悔過」という。懺悔が仏事になったのである。そもそも、東大寺二月堂の「お水取り」は、この「悔過」を主たる仏事としていたのである。松明火のこぼれ火を浴びに参拝する善男善女は、本来は、自らの罪を懺悔するために集まっていることを忘れてならない(堀池春峰『南都仏教史の研究』上)。
 言うまでもなく、古来の日本には「禊ぎ」(みそぎ)や「祓い」(はらい)という、れっきとした懺悔行為があった。これを中央、地方、官寺、私寺、等々、全国レベルにまで「悔過」の仏事を広めることになったのは、じつにこの十一面観音の出現である。

 日本の神は仏が身をやつしたものであるとした「本地仏」としての神様として、十一面観音は、女性的たたずまいといい、変化する顔といい、神仏混淆の象徴的な姿であったのだろう。現在でも、無宗教の人の葬儀には、観音様が祀られている。

 奈良県桜井市に、大神神社がある。この神社の中に神宮寺がある。この寺の本尊が十一面観音である。大三輪寺本尊と呼ばれている。神仏習合の象徴である。これも道教と悔過が混淆したものであろう。白山の十一面観音はその嚆矢である。

 越前では、白山の美しさは女性のイメージとダブらされたのかも知れない。季節によって美しさの現れが異なる白山の姿が十一面観音になったのであろう。

 一口に白山といっても、地元では3つの山の総称である。その中心は「御前峰」である。ここの白山神が十一面観音なのである。それに対して、「大汝峰」が奥の院になり、この本尊は阿弥陀如来である。そして、越前側から見て一番近くが「別山」であり、ここの本尊は聖観音である。阿弥陀の脇侍が浄土教では観音とされているので、白山はかなり以前から浄土教と古来の神とが共存させられていたことになる(井上鋭夫『白山信仰』)。
 ちなみに、白山の神として、「白山比」(はくさんひび)という女神を頂いているという神話がある。この女神は、高麗生まれであるとも言われている。

 泰澄の創建になる大谷寺の本尊は、この十一面観音である。この日記の大安禅寺での項で説明した泰澄は、奈良時代に越前が誇った高僧であったが、詳しい経歴は分かっていない。官僧ではないが、地方で山岳修行して霊験を得た私度の僧が、都や地方の病人を直したという逸話がどこにもある。越前が生んだ修験者がついに都でも認知されたという誇りが、越前で多くに泰澄伝説が残る理由であろう。越前には、平泉寺、大谷寺、豊原寺大安禅寺の前の寺はじめ、非常に多くの寺を建立したとされる。おそらくは、数多くの泰澄的な僧がいたのであろう。

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