消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 23 日本版ディオニソス

2006-07-13 01:28:39 | 神(福井日記)

 古代のエーゲ海にはディオニソス信仰があった。牛を殺し、祭壇に捧げ、その牛を八つ裂きにし、生肉を食べ、生血を啜ることによって、運命を変えてくれるディオニソス神との一体感を得るという秘儀が、ディオニソスの祭りでは行われていた。この点については、このブログの「ギリシャ哲学」で説明した通りである。エーゲ海ではこの儀式に参加するのは圧倒的に女性であった。日常的に抑圧されていた女性の自己解放の願いがこの儀式には込められていた。アテネに来ると、生肉はパンになり、生血は葡萄酒になり、荒ぶる神のディオニソスは豊饒の神となった。さらに、この秘儀は、キリスト教の聖餐式に受け継がれた。ディオニソスはキリストに擬されたのである。

 ところが、このディオニソス神の秘儀が、ユーラシア大陸の東の果てのわが日本に伝えられていたのである。ディオニソス神は、中国の神、漢神とされていたのでる。もちろん、当時の日本人は、ディオニソス神なるものが西方にあったなどとは知る由もなかったが、漢神を祀る秘儀は、ディオニソス神を祀る手法とまったく同じであった。



 『日本霊異記』中五に「漢神の祟により牛を殺して祭り・・・」という項がある。摂津国東生郡撫凹村の富裕な家長が、聖武天皇の時代に、漢神の祟りから逃れようとして、毎年、牛を1頭殺して漢神を祀った。七年間それが続いた。しかし、7回目の祀りの後、その家長は重病になった。殺生を続けた罰だとして、あわてて、飼っていた牛を野に放ったが、死んでしまった。しかし、閻魔さんが、牛を放った(放生)善行をほめて、この世に戻してくれたという逸話である。このように、漢神は祟りをもたらす鬼神として当時の日本人は意識していたのである。

 『霊異記』同じ個所では、秘儀の中身の説明がある。この家長が、殺した牛から復讐されるという場面が書かれているのである。殺された牛の化身が、頭が牛、体が人間の姿(牛頭人身姿)をした7名が、膾(なます)机と小刀を持ち出し、我々がされたと同じ事をしてやる。お前の肉を膾にして食ってやると言ったとされる。当時、漢神を祀るには、牛の肉を膾にし、それを祭壇に供えた後、祀る側の人間もその膾を食っていたのである。なんと、ディオニソス神祭と似ていることか。

 日本では、牛は農耕に不可欠なものであった。農業の重要な担い手を殺してまで祭られる漢神の祟りを、当時、つまり、7世紀の日本の農民は、極度に恐れていたのである。これは「殺牛祭神」と言われていた。

 ディオニソス神と同じく、漢神は鬼神だけではなく、雨を恵んでくれる豊饒の神としての地位も得ていた。『日本書紀』皇極天皇元年七月戊寅条では、この年(642年)、日照りが続いたので、雨乞いのために、村々の祝部の教えに従って、牛馬を殺して神に祈ったが効果がなかった。河の神である河伯に祈っても駄目であったと書かれている。これらは、中国からきた信仰であろう。中国の『漢書』于定国伝には、牛馬を殺して神を祀る儀式があることを伝えている。河伯も中国起源である。そうした祀り方で効果がなかったという群臣の話を聴いた蘇我大臣蝦夷が、それでは、諸寺で大乗教典を読み上げることで、雨を祈ろうと提案し、実際そうして雨乞いをしたのだが、わずかに小雨を得ただけであった。今度は、皇極天皇が古式ゆかしい日本的祈りを捧げた。南淵の河上で、四方を拝し、天を仰いで祈った。すぐに雷雨がやってきて5日間も雨が降り続けたという。

 殺牛祭神や河伯の儀式は道教からきたものであると考えられる。大乗教典はもちろん仏教である。つまり、中国から渡来したものは駄目で、伝統的な神道に民衆は戻れとこの説話は訴えているのである。

 『類聚三代格』に掲載されている延暦10年(791年)9月16日付の太政官符「応禁制殺牛用祭漢神事」によれば、この年、伊勢、尾張、近江、紀伊、若狭、越前に対して、百姓が牛を殺して漢神を祀ることが禁じられた。牛を殺して祭壇に捧げたものは懲役(徒という)1年が科された(厩庫律、故殺官私馬牛条)。

 それでも、越前にはこの秘儀は続けられていたのであろう。10年後にも同じ禁令が越前に向けて出された。延暦20年(801年)4月8日、のことである。

 ディオニソス神は、トラキアから西のギリシャにも行ったが、東を旅して、はるばる、わが日本にまで上陸していたのである。実際、西欧の神とわが日本の神仏とは出自を同じにしているのではないかという例が結構見られる。これは後日紹介したい(一例が弥勒菩薩とエルメス)。

 『延喜式』神名帳に掲載されている越前の神社の中には渡来神を祀っていると想われる事例が結構ある。


 敦賀郡(敦賀市白木)の白城神社信露貴彦神社(敦賀市杳見)がそうである。これはどう見てもシラギである。南条郡今庄には新羅神社があり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られている。『日本書紀』(神代上大八段第四の一書)では、素戔嗚尊が新羅に天下ったという記述がある。どうも素戔嗚尊(すさのおのみこと)大国主命(おおくにぬしのみこと)と並んで半島生まれの臭いがする。



 養老2年(718年)5月に分立するまでは、能登国は越前に属していた。この国の鳳至群には美麻奈比古神社がある。任那のことであろう。同じく珠洲群には古麻志比古神社がある。高麗のことであろう。そもそも、彦神という接尾語そのものが半島系である。私の名前の彦も、半島で男という意味であった。

 本稿は、『福井県史』通史編1・原始・古代、第三章「コシ・ワカサと日本海文化」の資料に依存した。

本山美彦 福井日記 22 越前の地から遠く京の祇園祭を想う――京の町衆とは?

2006-07-11 23:51:00 | 路(みち)(福井日記)

日蓮宗は、つねに、内部分裂と内部抗争を起こしてきた。その戦闘的な性格が他宗派からの敵視を招き、その対応面で分裂を余儀なくされたという事情もあった。それでも、この宗派は、室町幕府の懐に入り込むことを方針にしていたように見える。京都に妙満寺(現・顕本法華宗)を創建した日什の弟子たち(日仁、日実、日行)が応永5年(1398年)に将軍・足利義満と面会し、以後、その膝下に入った。寛政6年(1465年)、京都本覚寺の日住が同じく将軍・足利義政の厚誼(こうぎ=心からの親しいつきあい、手厚い親切)を得た。織田信長は日蓮宗の本能寺に本陣を張った。つまり、本能寺が信長に忠誠を誓った。この本能寺は、元、本応寺といい、日隆が応永22年(1415年)に建立したものである。その後、本能寺は、徳川家康の懐刀として湯名になった茶屋四郎次郎を大旦那にしている。日隆は、八品派を立てている。


 本能寺の変は、天正10年(1582年)であるが、その2年前の天正8年(1580年)に石山本願寺が信長によって焼き払われている。この時、日蓮宗各派は信長に協力した。その前年、天正7年(1579年)、信長は、浄土真宗と日蓮宗とを論争させ(安土宗論)、日蓮宗側の敗北を宣言して、日蓮宗から「詫証文」を取り、日蓮宗の京都での布教活動を禁止していた。その禁止令も、天正13年(1583年)、秀吉が詫証文を廃棄して、日蓮宗の活動の再開を許している。信長や秀吉の一向一揆弾圧政策に協力したことの報償という面があったものと思われる。

 いまから述べる天文の動乱以前の歴史に残る大一揆と言えば、1428年の近江・山城の一揆、1488年の加賀一向一揆、1506年の全国の一向一揆、1531年の朝倉とぶつかった一向一揆、等々があった。そうした一揆のことごとくに対して日蓮宗は弾圧側に荷担した。


 細川晴元は、天文元年(1532年)8月、浄土真宗の山科本願寺を焼き払った。日蓮宗がそれに協力した。加賀から急遽帰洛した本願寺の下間筑前頼秀・下間備中頼盛兄弟は(これだけでも、当時の寺院が戦闘のプロ、武将を傭兵として使っていたことが分かるであろう。本願寺では、こういった傭兵の隊長を『家宰』と呼んでいた)、大阪の石山本願寺に拠点を移した。細川晴元は、同じく、京都の法華衆を動員して石山を攻めている。

 同年9月、摂津国の一向一揆勢力が山崎付近の法華勢力を撃退した。しかし、同年末、法華宗側は河内の本願寺、富田同上を焼き討ちした。

 翌、天文2年(1533年)、晴元は、法華衆とともに、摂津国山田市場の一向一揆勢を焼き討ちした。同年3月、一向一揆側が盛り返して、河内の富田に盤踞する法華衆を駆逐し、細川晴元を淡路に追いやった。さらに、一揆側は勢いを駆って細川領の摂津伊丹城を包囲した。

 同年4月、畠山氏を裏切って細川晴元方に寝返った木沢長政が法華衆を動員して伊丹から一向一揆勢を追い出し、淡路から晴元を帰還させ、摂津の池田城へ入城させた。

 ところが、晴元の敵、細川晴国が同年5月、丹波から山城国高雄に攻め入ってきた。晴元に協力していた法華衆は、梅ヶ畑で敗北した。晴元側の摂津守護代・薬師寺国長も討ち死にした。

 慌てた晴元は、同年(1533年)6月、本願寺の証如と和睦した。仲介したのは、かつて晴元が本願寺に要請して堺南荘で滅ぼさせた三好元長の嫡男で淡路に逃れていた三好長慶であった。

 じつは、三好家は法華宗の大旦那であった。元長自身は、堺南荘の日蓮宗・顕本寺で自害している。

 こうして、日蓮宗は、京都の商人階層を信者とし、洛中21か寺を中心として、法華衆の町衆による自治権を獲得したのである。

 京都の人は、祇園祭りが最高潮に達する7月17日、必ず、町衆が権力側から自治権を獲得したことを誇らしげに語る。はたしてそうであろうか。権力側と結託して、真に権力と戦った一向一揆の農民たちを虐殺して権力からご褒美として与えられた自治権ではなかったのか。事情は、本願寺も同じである。本願寺は、一向一揆という身内を殲滅させることによって、宗門の巨大化に成功した。日蓮宗といい、本願寺といい、一向一揆を「撲滅したことの報償」を共有したのである。歴史にはつねに表裏がある。

 加賀・越前の一向一揆は見捨てられた。私にもその傾向があるので、自らを諫めなければならないのだが、私たちは、百姓一揆という言葉のイメージから、いとも簡単に圧政に苦しむ百姓が、政治権力に対して、命をかけた反抗を挙行した。しかし、権力側の圧倒的武力の前に、尊い夢を破砕されてしまったという シナリオを描いてしまう。

 そういう側面があったのは確かである。しかし、本願寺の指令で動いた一揆は、必ずしもそうは言い切れないものがある。戦国大名と同じく、本願寺も自己の領土を、他者から奪う武力攻勢に積極的に参加していたのである。本願寺の命令に従って武器を取らない農民は、容赦なく、本願寺から破門された。 現在では、破門されても、ただ出入り差し止めという次元のものに留まり、命に関わることではない。しかし、村全体が本願寺の門徒であるという時代で、破門されるということは、農業のもつ特性を考えれば「死ね」ということに等しい。「結」(ゆい)を基本とする日本的稲作の農業では、仲間の村人の協力なしには、人は、一刻たりとも生きてはいけないのである。

 「村八分」(むらはちぶ)ということは、それこそ死の宣告を意味していた。村には「十分」(じゅうぶ)の人間的つきあいがある。農作業の共同というのがそのうちの八分を占める。村八分とは、この付き合いを止めることである。残り二つのつきあいとは、死者の埋葬と火事の消火である。埋葬と消火という二分まで放置してしまうと、伝染病とか大火とかの害悪を村全体に及ぼすので、この二分は残すが、もっとも重要な八分は取りやめるということである。本願寺から破門されるということは、自動的にこの村八分が発動されることを意味していた。

 農民は、本願寺に反抗することはできなかった。本願寺の要請は、武士権力の命令よりも恐ろしいものであった。もっとも身近な、もっとも頼りになる仲間から見捨てられることだからである。権力に背いたとしても、仲間を背いたわけではないので、まだ一緒に戦ってくれる仲間がいる。しかし、本願寺から破門されることは、誰も助けてくれはしないことなのである。ここに、宗教のもつ古今東西を問わない恐ろしさがある。

 天文元年(1532年)から、越前・加賀では、農民の自発的な一揆が、本願寺から派遣された下間兄弟の指導する一揆(自然発生的農民一揆の撲滅と本願寺の画策する他者からの田畑の奪取を目指す武力行動)によって殲滅されようとしていた。下間兄弟から追討された加賀農民一揆勢は、越前に逃れてきた。彼らは加賀牢人と呼ばれていた。加賀牢人たちは、越前から加賀に帰還するために、繰り返し、本願寺派遣の下間勢と衝突を繰り返していた。

 天文3年(1534年)5月、本願寺と細川晴元との和平が破れた。本願寺は、石山本願寺を要塞化して、守りを固めた。しかし、同年6月、下間兄弟が畠山勢に敗れ、石山に逃げ込んだ。再度、本願寺は細川晴元の力に頼るしかなかった。本願寺は再度の和睦の地ならしとして、こともあろうに、子飼いの下間兄弟を追放した。兄弟は逐電した。本願寺は各地に書状を出し、下間兄弟を発見した時には、彼らを誅殺せよとの檄を飛ばしたのである。それだけではない。刺客が派遣された。3年後、兄・頼秀が摂津の一揆指導中に(今度は本能寺に刃向かうために)刺殺された。翌年、弟の頼盛も堺で殺された。兄弟を刺殺することに成功した刺客たちは、本願寺から一人当たり千疋の褒美を得た。

 天文3年(1534年)11月、青蓮院尊鎮法親王の仲介で本願寺は晴元と再度和平した。本願寺側が近江門徒を破門することで、室町政権との和睦を図ったのである。

 本願寺は、かつて、越前・加賀の一向一揆を下間兄弟を派遣して叩き潰し、今度は、近江の一揆勢をも破門してしまったのである。つまり、加賀・越前・近江を「一揆もちの国」から「本願寺もちの国」に切り替えたのである。

 法華衆は、京都支配を維持していた。これに反発したのは、一向一揆勢だけではなかった。比叡山天台宗が日蓮宗への憎悪をむき出しにしたのである。

 天文5年(1536年)、比叡山は、全国の大寺と大名に呼び掛けて、日蓮宗撲滅の武力行使を呼び掛けた。元来が、京都を地盤として繁栄してきた天台宗にとって、京都の利権を日蓮宗に奪われることには耐えられなかったのであろう。この呼び掛けに応じたのは、越前では平泉寺であった。興福寺、日光山、粉河寺、根来寺、それに山科本願寺を日蓮宗によって焼かれた本願寺、大名では近江の佐々木六角も呼応した。

 それに対抗する日蓮宗側の主勢力は、妙覚寺、本能寺であった。町衆としては、西陣の織物商、本阿弥家であった。

 戦闘は1536年7月22日に開始された。日蓮宗側の3万5000人に対して比叡山側は12万人を超えていた。圧倒的な兵力の格差の前に、たった5日間で日蓮宗側は敗北した。日蓮宗は京都に21もの本山をもっていた(これも、日蓮宗がまとまっていなかったことを示す、すごい数値である)が、そのことごとくが焼かれてしまった。京都の大半が灰燼に帰し、法華衆たちは堺に逃げた。これが「天文法難」と言われるものである。

 戦が終わっても比叡山側は法華衆の残党狩りをしていた。幕府も法華衆の洛中俳諧を禁じ、日蓮宗の寺院の再建を許さなかった。それが解かれたのは5年以上も経った天文11年(1542年)の後奈良天皇の勅許が出されてからである。その条件として、日蓮宗側は比叡山に1千貫の銭を寄進しなければならなかった。このときから、宗門は武家と権力争いを行うべく僧兵を強化して行った。それとともに、越前と加賀の一向一揆勢は、明確に本願寺側から見捨てられた。

 その頃、つまり、天文3年(1534年)、織田信長が生誕した。それから27年後(永禄14年、1571年)比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされた。民衆が戦乱の世に、もっとも衷心から仏を求めていた時に、宗門は堕落の道を疾走していたのである。

 本日の日記は、「坂東千年王国、一向一揆が行く」のウエビサイトの資料に依存した

本山美彦 福井日記 21 徳川幕府の寺院統制令――永平寺の文書に見る

2006-07-11 01:22:26 | 路(みち)(福井日記)
 徳川幕府は、体制確立の重要な要素として、京都を本拠とした宗教勢力を押さえ込むことを重視した。京都には、皇族を中心にした各種宗教団体があった。全国に散る大宗教団体もまた京都に本拠を置いていた。こうした宗教団体が改組される対象となった。もちろん、日本の既存の権力を認めないキリスト教は禁圧された。要するに、徳川幕府は、宗教統制を徹底的に行おうとしたのである。

 幕府と宗派との関係については「寺院統制令」が、本寺と末寺については「寺請証文」が、寺院と檀家との関係は「宗門人別改張」が、威力を発揮した。以前のこの日記で、宗門人別改張が浄土真宗のみに委ねられていた業務であるかのような印象を与える記述をしてしまったので、ここで訂正させていただきたい。「改張」はすべての宗門に義務づけられていた。

 日本人全員がいずれかの宗門に入る義務を負わされた。つまり、檀家制度がここに確立したのである。人々は、生者だけでなく死者まで人別帳で管理されることになった。

 ただし、当時の寺院が信仰だけの集団であったと見なすことは歴史を見誤ることになる。中世荘園制度の崩壊過程では、農地は暴力による収奪の対象であった。膨大な寄進地を所有していた寺院もまた暴力でもって、下克上でのし上がってくる武士集団から自分の領土を守らねばならなかった。それだけでなく、寺院までもが他の宗門、他の領主から新たに田畑を奪おうとしていた。一向一揆につては、また後に詳述するが、「単純に百姓の支配する極楽浄土」とは言い切れない生々しい要素をもっている。本願寺と越前・加賀の地元寺院との領土分捕り合戦すら日常茶飯事で見られたのである。戦国領主と異なり、一向一揆側は、仏の意志という御旗を立てることができたが、実際に行ったことは、寺院に武装集団を召し抱えただけのことであった。宗門の多くもまた下克上の戦国暴力集団以外の何者でもなかった。もちろん、兵隊として命を投げ出した農民たちは、自分が帰依する宗門の指導者たちを生き仏様として尊敬していたのであるが。宗門といえども、れっきとした権力であり、そうした権力が無辜の人たちの真心を利用しただけに、ひとしお、忌まわしさを拭うことができない。

 家康は、関ヶ原の合戦(慶長5年、1600年)の翌年(慶長6年、1601年)から直ちに、寺院の経済力と軍事力を削ぎ落とす政策を推し進めた。「寺院法度」と呼ばれる寺院統制令は、この1601年から1615年(元和元年)にかけて相次いですべての宗門宛に出された。寺院法度は、宗教一般に関するものではなく、宗門ごとにきめ細かい指示を幕府は与えたのである。

 法度が宗門毎に異なると言ったが、共通点があった。京都の本山としての地位を各宗門から剥奪したのである。それは、「一宗二分政策」と言われるものである。つまり、関東に新しい中枢部を作り、行政的機能の多くを関東に移させたのである。しかも、関東の行政的機能は、過去の京都の本山がもっていた機能よりもはるかに重かった。中央集権、宗門の学問化=教義の体系化、朝廷の無力化という三原則が、いずれの法度にも貫かれていた。

 曹洞宗関係では、越前国吉田郡志比にある従来からの本山の永平寺に加えて、新たな本山に、能登国鳳至郡櫛比庄にある總持寺が指定された。両本山では、ひたすら修行に勤しむこと、修行年数に応じて法衣の色を変えること、紫の法衣がもっとも高位のものであるが、それを着るのは勅許の時だけで、寺院の外での着用は禁止された。宗教者らしからぬ行いをした僧は直ちに流罪となるとされた。つまり、幕府の指示に従い、ひたすら仏教を興隆させる努力を行うことが命じられたのである。

 本山を学問修行の場として位置づけた上で、曹洞宗の行政的機能は関三刹と現在の静岡県の可睡齋に委譲された。関三刹とは、現在の千葉県の總寧寺、埼玉県の龍穏寺、栃木県の大中寺のことである。見られるように、行政的機能はすべて関東に移転させられた。

 寛永15年(1638年)に各寺に「寺請証文」が義務づけられた。そのデータを基に、責任を任された大きな寺院が、「宗門人別改帳」を、村・町単位でまとめた。これが江戸時代の戸籍である。つまり、江戸時代の戸籍とは寺院が作成したのである。

 さらに島原の乱の鎮圧(寛永15年、1638年)後の寛永17年(1640年)、幕府直轄地に宗門改役が置かれた。そして、寛文4年(1664年)全国的に宗門改制度が実施された。

 人別帳には、菩提寺の名と印鑑が捺されていた。この戸籍は、キリシタン取り締まりだけではなく、年貢計算の基礎にもなっていた。原則として毎年作成されていた。これで檀家と菩提寺との関係が固定されたのだが、檀家を変えることは禁止されていた(離檀の禁止)。

 宗門の中央集権化をも幕府側は画策した。曹洞宗は、主として授戒会を通じて布教し、安土・桃山時代に隆盛し、中世末期には各寺院を中心とした信者集団が自然発生的に成立していた。しかし、江戸幕府は寺院の新規設立を制限するようになった。元和8年(1622年)より数回法度が出され、新寺建立は全面禁止にされた。そして、寛永10年(1633年)、各宗派に本山の保証で、「諸宗寺院本末帳」を提出させた。この本末帳に掲載された寺院のみに寺請証文を作成させた。つまり、本末帳で本寺・末寺の支配従属関係が明記され、寺請証文で菩提寺による檀家支配が確定したのである。

 檀家支配の内容は、もはや自主的な宗教的信仰は二の次であった。各宗派に対して、「御条目宗門檀那請合之掟」が幕府から頻繁に出された。

 それによると、祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖の命日に菩提寺に参詣することを怠れば、人別帳から外し、処罰する。菩提寺をさしおいて、他の寺から葬儀を出せば罰する。檀家は菩提寺の維持・新たな建設費用を負担しなければならない。等々であった。これで、寺院による檀家の管理は完璧になった。

 幕府は、150戸から200戸について1か寺の設立を認めた。つまり、現代に下って配給時代の米屋や酒屋のような扱い方をして寺院の経営の安定を図ったのである。
 曹洞宗については、延享2年(1745年)の本末帳が總持寺に残されている。それによれば、全国の約1万7500か寺が登録されていた。

 幕府権力はこのように、宗教を通じて、民衆を管理したのである。

 仏教側は、このような権力の横暴に対して抵抗をしなかったのだろうか。各宗派は、競争することなく、安定化させられると、唯々諾々と権力の統制に従う。そして、教義はいたずらに民衆感覚から離れて、高遠な哲学的体系として推し進められたのである。

 この文章は、曹洞宗宗務庁『曹洞宗人権学習基礎テキスト・これだけは知っておきたおQ&A』(2002年9月20日)を参照にした。永平寺関係の人たちが自戒を込めて書かれたものである。この文書に接しただけでも、私は、つくづく福井に来てよかったとの思いを強くした。読者諸氏もその点について頷いていただけるのではないだろうか。

本山美彦 福井日記 20 「お水取り」とは

2006-07-10 01:44:43 | 水(福井日記)

奈良東大寺のお水取りについては、誰しも知っている、春を呼ぶ伝統的行事である。しかし、主役の水は、若狭からきた水であるとされていることを知る人はそれほど多くはないのではないか。地形的に見て、そのようなことはあり得ないことである。でも、中央政権の権力の権化である東大寺が、なぜ、遠い若狭の水を神聖視しなければならないのだろうか。越前・若狭の地が、奈良の大寺院の荘園として開かれたことはすでにこの日記で見た。しかし、自己の支配地の水が、神事に使われるほど神聖ななものであるとされた事情は、なんだろうか。奈良の権力者たちの出自が、越前・若狭にあったと見なす方が自然であろう。

 私たちが、「お水取り」といっている東大寺の行事は、正式には「修二会」という行法である。毎年、2月20日から3月15日まで行われる。関西地方では、お水取りが済まなければ本格的な暖かさは来ないという合い言葉がある。不思議なほどこの合い言葉は当たっている。三寒四温であった天候が、お水取りが終わるや否や、しっかりと暖かくなる。修二会のクライマックスは、3月12日に二月堂で行われる松明の儀式である。毎年、テレビがその模様を日本中に放映する。

 この修二会は、天平勝宝4年(752年)に始まった。千数百年続いている行法である。この業法に使われる水のことを「香水」という。その香水は若狭の国の遠敷川の水であるとされる。遠敷川の神水が、地下を通って奈良の都まで運ばれると信じられている。

 修二会の行法は、一日を6分割して行われる。これを「六時行法」という。そして6分割する道具が「香時計」である。現在でも、香時計が修二会で使用されている。写真がその香時計である。


 福井県大飯郡おおい町名田庄納田終111-7に暦会館という資料館がある。安倍晴明の陰陽道を中心とする天文学を解説する資料が集められた会館である。香時計がこの会館に展示されている。現在は大飯郡おおい町と地名変更してしまったが、どうしてこの地区は、歴史的な名前を捨ててしまったのだろう。ものすごい勢いで市町村合併が昨年に進行したが、単純なコスト・ベネフィット効果の算出だけで合併が強行された。どの地域も歴史的遺産を踏みにじり、町名は単なる記号になってしまった。もったいないことである。大飯郡に変更される前は、福井県遠敷郡だったのである。



  この名田納田終には、「天社土御門神道本庁」という陰陽道の本庁がある。現在は、藤田義仁氏が司官を務められている。同氏は、今月の7月6日のNHKテレビで七夕祭りの元祖としての陰陽道の天文学について解説しておられた。ただし、私は、福井でその番組を見たので、全国放送ではなく、福井だけのローカル番組であったのかも知れない。藤田氏が、七夕祭りの短冊の五色は陰陽道の五行から来ていると解説されたことに強烈な示唆を私は受けた。

 天社土御門神道本庁の入り口には、星のマーク、五芒星が描かれた提灯が掲げられている。床の間には松明をかざす式神と安倍晴明の画像が掛けられている。

 ここは、土御門家(安倍一族)の旧所領地で陰陽道祭祀の地である。応仁の乱の戦火を逃れて土御門家が、自己の知行地であった名田庄に分霊を遷宮し祀った。安倍家が関わる神社は、この地以外に、善積川上神社がある。この神社が安倍家の御霊社である。

 賀茂神社貴船神社のような格式の高い神社ですら安倍家由来のものである。鬼門封じとしてこれら神社を安部家が天皇に勧請して、いまの地に配置されたものである。
 これは非常に面白い。日本の官幣神社の多くが、安倍家のような陰陽道を基盤として成立していたらしいことは、日本の神道の対民衆対策として軽視していいものではない。日本の神道の神官のみならず、仏教までもが、民衆の敬意を得るべく、陰陽道の天文学的占いを大きな武器にしてきたと副島隆彦氏が最近強調されるようになった。氏の着想が非常に貴重なので、後日、稿を改めて紹介したい。

 安倍晴明は延喜21年(921年)に生まれ、寛弘2年(1005年)9月26日に逝去している。85歳まで生きたとされる(真相は不明、晴明死後、数百年経過して作成された『土御門家記録』による)。

 晴明の出自にもいろいろな説明がある。『臥雲日件録』では、父母はなく、「化生之者」と記されている。晴明が信田明神である狐の子であったという伝承はかなり古くからある。浄瑠璃では、晴明(清明と表記される)の母は「葛の葉」という白狐であったが、晴明に狐である姿を見られたので、「恋しくば尋ねてきてみよ和泉なる信太の森野うらみ葛の葉」と書き残して信太の森(大阪府和泉市信太山付近)に隠遁した。恋しくて尋ねてきた晴明に、母の白狐は霊力を授けた。晴明は、大唐の白道上人から『金烏玉兎集』(きんうんぎょくとしゅう)を授与された。その後、天皇の病を治したので五位に叙され、「晴明」と名乗ることを許されたとある。

 その反対に、そもそも貴族であったという説明もある。『尊卑分脈』では、右大臣・安倍御主人(みうし)から数えて9代目の安倍益材(ますき、大膳大夫)の子として紹介されている。同書は、晴明を天文博士、従四位下であると記し、大善大夫、左京権大夫、穀倉院別当、等々を歴任したとされる。

 「あべ」という表記は、二種類ある。「安倍」と「阿部」である。有名な『竹取物語』の中でかぐや姫に求愛した貴公子の一人が「右大臣・阿部御主人」とされている。これは、安倍御主人と同一人物と見なしてもいいものと思われる。

 『公卿補任』(くぎょうぶにん)、「大宝3年(703年)閏4月1日」の項では、右大臣・阿部御主人を「安倍氏陰陽先祖也」と紹介されている。
 出生地については、讃岐ではないかとされている。『讃陽簪筆録』(さんようしんぴつろく)では、讃岐国香東(こうとう)郡井原庄に生まれたと記されている。『西讃府志』(せいさんふし)では讃岐国香川郡由佐の人とされている。

 私の知人に、高松の名家、「安倍」姓の某氏がいる。機を見て、おずおずと話を聞いてみようと思っている。

 安倍家は、住居を定めた土御門の名を取って土御門家と言われる。平安京を悪霊から守護するという役割を与えられていた。

 安倍晴明が活躍した頃の平安京は、今の京都の中心地よりもかなり西寄りに位置していた。都の中心となる南北の大通りである朱雀大路は現在の千本通りである。平安京の中心部は、今の千本丸太町であった。朱雀大路の北の門である朱雀門は、現在の二条城付近にあった。朱雀大路の南端が羅生門であった。都の北端は一条大路、南端は九条大路であった。朱雀大路の両脇が東大宮大路と西大宮大路であり、もっとも外側が東京極(ひがしきょうごく)大路と西京極大路であった。朱雀大路の南端の羅生門の近くには東寺(いまのもの)と西寺(せいじ)があった。東寺は朱雀大路の東、朱雀大路を挟むその反対側(西側)に西寺があった。現在、東寺だけが残されている。

 安倍晴明の屋敷は、土御門にあった。平安京の表鬼門(北東北)を守る意味があってそこを屋敷にしたのである。土御門は、現在の上京区の、上長者町と西洞院が交錯する地点にある。これは、東寺の陰陽寮の近くであった。この寮は、暦を作る任務を負っていたのであるが、宮中で陰陽道が正式に認められていたことがここからも分かる。

 安倍晴明は、真如堂で死亡したとされる。嵯峨野に葬られた。晴明墓所という。
 平安京の時代、それこそ無数の死者や動物の死骸が嵯峨野に捨て去られていた。そのために、京の人々は、嵯峨野を悪霊や怨霊の渦巻く地として恐れていた。東寺の弘法大師がこれら無数の骸を集めて埋葬し、供養したのが、「化野(あだしの)の念仏寺」である。

 陰陽道につては、簡単に述べることができないほど、複雑なものであるが、陰と陽、五行(水・金・土・火・木)を組み合わせて、自然現象と運勢を占うものである。とくに、天文学の知識が基本になっている。陰陽寮で、地相、天文、暦、占い、等々が研究されていたのである。この陰陽寮の研究生として晴明は修行していた。陰陽師になったのは、やっと40歳代後半であった。50歳を過ぎて陰陽頭に昇進した。陰陽道を修得するにはそれほどの時間がかかったのであろう。天文博士の最高位が陰陽頭であるが、それでも最高位は従五位程度であった。しかし、晴明はさらに昇進し、従四位の中級貴族になった。

 晴明は家紋に晴明桔梗を使用した。これは、いわゆる五芒星である。私たちが子供の頃からよく書いていた五角形の星のマークである。

 五芒星というのは、ギリシャではビーナス(金星)、あるいはペンタゴンである。平和の女神ビーナスが米国防省のシンボルになっているのは異様な光景である。

 それはさておき、晴明桔梗の五芒星は北極星を意味している。土御門家が北極星を主神として祀っていたのは、中国の陰陽道を受け継いだものとして不思議でもなんでもないが、日本のもっとも基礎の位置にある伊勢神宮でも「太一信仰」が密かに存在していたとされる。北国星はそこでは、「太一(たいち)星」と呼ばれていた。私ごとで申し訳ないが、私も長男に「たいち」という名を着けた。名前が大きすぎたといささか反省してはいる。

 五芒星の頂点はから左に回った最初の頂点は「水星」を指す。後、左回りに、それぞれの頂点が、「金星」、「土星」、「火星」、そしてもっとも上の頂点は「木星」である。この頂点の並びについては覚えやすくて、左上の頂点から「水・金・地・火・木」(すいきんちかもく)という昔、覚えた順序で唱え、地球の「地」に代えて、土(ど)星を挿入すればよいのである。

 土御門家の人々は、の名田庄に移住した後も、朝廷における陰陽寮の長官として、都と名田庄を頻繁に往来し、朝廷や将軍家のための占術、伊勢神宮・斎宮斎女(サイグウサイジョ)に関わる天文占いなども行ってきた。

 土御門家の記録は、度重なる戦火にあい焼失したものも多いが、宮内庁書陵部(ショリョウブ)や東京大学、京都資料館に数多く保管されている。他にも各地に未整理のまま散乱している資料も多い。

 そこでこういった資料を集め、名田庄に保存されていた古暦、文書、史蹟の保存をし、展示すべく、暦の資料館が名田庄にできたのである。写真にある、当時用いられていた「香時計」などの作暦・天文観測用具などが、保管展示がなされている。貴重な資料館である。

本山美彦 福井日記 19 大安禅寺

2006-07-09 23:15:39 | 花(福井日記)


 福井市街地の西方に、「花しょうぶの寺」として有名な臨済宗妙心寺派の萬松山・大安禅寺がある。この寺を創建した第4代福井藩主・松平光通の座像が、平成18年7月6日(木)、330年ぶりに外に運び出されるというニュースに接して、どんなところだろうと見学に行った。福井市立郷土歴史博物館で平成18年7月22日(土)から9月3日(日)まで、「越前松平家と大安禅寺」展が開催され、その目玉として松平光通座像がこの博物館に搬入されるというのである。


 寺が創建される場合、僧から見た創建のことを「開山」という。大安禅寺の開山は、大愚宗築である。実際に資金を出した人から見れば、寺の創建は「開基」ということになる。開基は藩主・松平光通である。

 大愚宗築は、天正12年(1584年)に生まれ、江戸谷中の南泉寺を開山するなど、臨済宗の高僧としてすでに著名であった。彼が治療のために山中温泉に滞在中に松平光通と親しくなり、同藩主に招かれて大安禅寺を開山したのである。万治2年(1659年)のことであった。以後、同寺は、歴代藩主の墓所となった。地元で、墓所は千畳敷と言われ、福井足羽地域の特産石・笏谷石(しゃくだにいし)が敷き詰められている。

 しかし、この寺は、信長によって炎上させられた竜王山・田谷寺の跡地に創建されたものである。この田谷寺は真言宗であったらしい。創建は越前の泰澄大師であった。766年前後の年であった。この大師は、平泉寺(へいせんじ)、豊原寺大谷寺も創建している。いずれも、庶民信仰の大道場であった。信長がこの寺を焼き払ったのは、天正3年(1574年)である。創建後、850年も続いた伝統ある寺が信長の越前攻めで廃墟にさせられたのである。田谷寺は福井の田ノ谷地区に建てられたものである。奈良時代の元正天皇の治下、養老年間、この寺は48坊をもち、賑やかな門前市が開かれていたという。しかし、1574年から1659年までの84年間、敷地は荒れ放題であった。

 今度、330年ぶりに外に出ることになった松平光通座像は、光通没後、延宝5年(1677年)制作されたものである。その年、第5代藩主・松平昌親によって、開基堂が(福井県指定有形文化財)が建立され、光通のお抱え絵師であった狩野元昭の手になる肖像画を基に、当時の一流仏師・康乗が作成した光通座像が開基堂の厨子に安置されたのである。 座像が運び出された後、私は同寺に到着したのだが、非常に多くの寺関係者の方々が忙しく動いておられた。

 この大安禅寺で、今年の4月12日、大変な発見がなされた。裏山から越前焼の甕(かめ)が発掘されたのである。甕からは木簡と古銭が入れられていた。古銭は、100枚前後の銭を1束として、紐で通していた。それには通し番号が着けられ、全部で1100束であった。つまり、約10万枚の通貨が出てきたのである。このお金は、おそらくは賽銭であったろうと思われる。甕が埋められた年が明応9年(1500年)7月吉日であったことが、木簡によって記されている。古銭は永楽通宝や洪武通宝などいずれも明銭で、数種類ある。現在価値に直せば800万円程度になると思われる。年代が確定できる中世の備蓄銭は福井県内では初めてであり、全国的にも珍しいという。年代が確定できるので、備前焼の歴史を知る上でも貴重な発見であったらしい。木簡は上の部分が三角形になっている祈願札である可能性が高い。

 甕の中に備蓄金が入れられていたこと、甕が裏山に埋められていたこと、それも、信長の焼き討ちのはるか以前のことであったこと、真言宗らしいが、信長の憎悪を掻き立てる一大反抗勢力であったこと、浄土真宗ではないのに、一向一揆との関係があったらしいこと、そして、15~16世紀の日本で流通していた銭は、明銭であったこと、おうしたことをひとつひとつ検討して行けば、日本でも、マルク・ブロックに匹敵する古銭学が可能となるのかも知れない。写真は、甕の発見現場を示したものである。

ギリシャ哲学 12 苦行

2006-07-08 19:25:36 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
なぜ、宗教家たちは苦行をするのだろうか。私は永平寺の近くに住んでいて、パッション(気力)がなくなったなと感じる時には、早朝から永平寺の読経を聴きに行く。そう言えば、パッションとは「受苦」のことだった。腹の底から沸き出る僧たちが読経する低い和声は、魂を洗い清めてくれる。

しかし、読経だけでも、十分、心が安まるのに、ここ永平寺の僧だけでなく、世界中の僧が、自らの肉体を痛めつけて、魂の浄化を図るのはなぜなのだろうか。昔から不思議なことだと思いながら、その答えを見出せないでいた。インドの僧は、実際、わが肉体を剣で刺し貫く。ただし、大道芸人よろしく民衆の前でそれを行うヒロイズムはいただけないが、苦痛を通じて、魂から邪念を振り払おうとする行為であることは確かである。肉体を痛めつけることによって、ある種のエクスタシーを得ることができると、その道の好事家の本には書いてあるが、その行為は、まるで肉体を憎み、肉体を抹殺したいかのように、外部からは見えるものである。

私たちが、もっぱら性的興奮状態を表現する言葉として使用する「エクスタシー」という言葉は、ギリシャ語の「エクスターシス」から来ている。我を忘れ、魂が自分から去ってしまうという意味での「忘我脱魂」が、エクスターシスである。狂気と熱狂によって、憧れる神との一体感を味わうために、宗教界では、このエクスタシーが多用された

 古代ギリシャ時代には、トラキアの詩人・オルペウスが広めた新しい宗教運動が、次第にギリシャ人の心を捉えるようになっていた。この宗教は、肉体から魂を離脱させることを目指して、肉体をいじめたり、狂気や熱狂によって、エクスターシスを得ることを、神(ディオニソス)との合一を達成できる手段と見ていた。

 プラトンは、それを毛嫌いしていた。狂気と熱狂で自己を失った集団がオルペウス教信者たちであると、一刀両断で切り捨てたのである(『饗宴(シュンポジオン)』)。オルペウス教の神髄は、肉体を、魂が閉じ込められている墓場と見なし、その墓場から魂を解放すべく苦行をするという点にある。

 それは、転生の思想である。魂は、本来、神の許にあった。それが、人間の肉体の中に閉じ込められるようになってしまった。折角、肉体が滅びても、魂は、解放されず、また別の肉体の中に再生する。それを繰り返す。魂は、忌まわしい現世の肉体に綴じ込まれれることによって、現世のあらゆる苦しみを味わってしまう。肉体(ソーマ)こそ、魂(プシケー)の墓場(セーマ)である。

 戒律を守り、禁欲生活を送り、秘儀に参入して供え物を捧げ、浄め(カサルモス)に与(あずか)らなければならない。そして、肉体に苦しみを与えなければならない。そうすることによって、魂は、転生を繰り返しながら現世に留まる苦しみから解放される。魂は肉体を去って、永遠の幸福を味わえる「浄福の者たちの島々」に行くことができる。そうした秘儀ぶりをディオニソスが認めてくれて、その神が私たちを永遠の幸せな島に連れて行ってくれるというのである。このように、戒律、浄め、禁欲の生活を送ることによって救済されるとしたのがオルペウス教であり、それは、ピタゴラス派の観念でもあった(岩崎允胤『ギリシャ・ポリス社会の哲学』西洋古代哲学史(1)未来社、1994年、補論)。

 出隆『出隆著作集・別巻1・ギリシャ人の霊魂観と人間観』(勁草書房、1962年)は言う。

 「(この考え方は)今は、神々の天から堕ち来たって、この我々の肉に宿っているが、本来は神的存在であり、したがって、いつかは再び肉の束縛を脱して、神々の許に還り得るものとみるプシケー観である。このプシケー観の由来は、東方や北方からの種々の儀礼信仰の混淆として複雑に説明されるべきであり、しかも多くの不明な点を残すほかないであろうが、おそらくはディオニソス神の祭りがダニューブを越え、トラキアを経て、ギリシャ本土に伝播したことに由来する」。

 出隆によれば、前6世紀にはディオニソス神はオリンポスの神々の列に加えられた。さらに、主神ゼウスと並び称される重要な神となった。そのためには、原始的熱狂の中で踊り騒ぐ粗暴な祭りの主神としての神ではなく、ギリシャに醇化された平和な神として、葡萄などの、植物をもたらす神、植物だけでなく、すべての生命を育くむ神、生命の喜びを与えてくれる神としての役割を、ディオニソスは、ギリシャの宗教界から新たに与えられなければならなかった。

 しかし、ギリシャの民衆の間では、本来のディオニソスの荒々しい祭りが踏襲された。

 「ディオニソスは、ギリシャ人の間でも、その祭りに加わる人間を、現在のみじめな自分とは別のものに生まれ変わらせる不思議な力を有するものと信じられ、この神の祭りに加わって、踊り狂い、陶酔忘我の境地に入ることをもって、神に憑かれた状態(エンソウシアスモス)だとする旧来の意味は忘れられないで、なお諸地方にこの忘我脱魂(エクスタシス)に入る熱狂的な祭りの形式が残っていた」(同上)。

 祭りそのものは抑圧されていた農民の一時的な精神的解放をもたらす熱狂的な酒と踊りを内容とするものであったが、そうした行為の裏に流れる転生の観念は、ギリシャ人に魂(プシケー)と神、プシケーと肉体との関連についての初めての思考を促すものであった。

 タイタンの死骸の灰と、タイタンに食われたディオニソスの肉の灰から生まれてきたとされる人間には、その肉体にタイタン的忌まわしい要素を宿している。しかし、魂は、ディオニソスの神的な要素を受け継いでいる。ただ、受け継いでいるといっても、ディオニソスの心臓は女神アテナの手によって、ゼウスの許に届けられ、ゼウスはそれを嚥下してしまったのだから、人間の魂が受け継いだのは心臓のないディオニソスであった。だから、失った心臓を求めて人間は、心臓を備える本当のディオニソスに憧れ、ディオニソスに「救いの神」(ディオニソリセウス)を期待するのである。ディオニソス自身も、自分を敬い、祀ってくれる信者の魂を、悪と不運から救うことを念願しているものとされる。人間は、盲目的であり、無思慮であるために、自力で魂の解放を遂げることはできない。救いは、ただ、恵みの神であるディオニソスの慈愛を通してでしか可能ではないのである。

 ここまで説明した出隆の次の結論は強烈である。

 「ここに、我々は、あのホメロス的に朗らかなギリシャに、早くもその黄昏(たそがれ)の迫ってくるのを認める。すなわち、本来の、あるいは、少なくともホメロス以前の、自力的現世主義の一角が壊されて、他力本願の彼岸主義が、これに変わろうとしているのを認める」(同上)。

 強大な影響力をもっていたピタゴラス派は、オルペウス教を流布していたがゆえに、徹底的な迫害を受け、二度にわたって権力側からの攻撃にあった。宗派は雲散霧消させられ、歴史の舞台から文献的にも抹殺された。権力の攻撃に対して、プラトンは学問を」弾圧する権力側を諫めるのではなく、逆に、権力による弾圧への援護射撃を行った。

 マグナ・グライキアで大きな勢力になっていたピタゴラス派は、クロトンの権力者・キュロスによって追放された。ピタゴラスはクロトンの北方のメタポンティオンへと難を逃れ、その地で哀しく生涯を閉じた。これが第1回目の迫害。

 2回目の迫害は、同じくキュロスを首領とする武装兵によって、会合を開いていたピタゴラス派の人々が、虐殺されたことである。虐殺が挙行された場所は、クロトンの有名な競技場であるミロンの屋敷であった。集まっていた人々はほとんど皆殺しにされ、わずか、2名が現場から逃走できたにすぎなかった(ヤンブリコス『ピタゴラスの生涯』)。

 生き残った2人のうち、リュシスは、ペロポネソス半島のアカイア、さらに、テバイへと逃れた。テバイではその地の指導者たちによって暖かく迎えられた。リュシスの弟子の一人にピロラオスがいた。彼は、ソクラテスと同時代人であり、「中期ピタゴラス派」を主宰した人である。彼はクロトン生まれであった。このピロラオスの弟子の一人が、プラトンの『パイドン』に出てくるケベスである。さらに、タラハには、「後期ピタゴラス派」の指導者・アルキュタスが出た。彼は、生涯で7回も将軍に選出されたほどの人望の高い哲学者であり、学問と宗教との関連を問題にした人であった。このアルキュタスは、シチリア旅行後のプラトンに大きな影響を与えた人であると言われている。

 そして、ピタゴラス派の文献は廃棄され、ピタゴラス派は、ギリシャ哲学の歴史から抹殺されてしまったのである。 

 ここまで、説明すれば、ディオニソスを復権させようとしたニーチェが、衆愚政治の犠牲になったとはいえ、潜主権力の一角を担っていたソクラテス、ディオニソス的オルペウス教、および、その教義をを民衆に広めていたピタゴラス派を、徹底的に排除したプラトン、そしてポリスを踏みつぶしたアレキサンダーに仕えたアリストテレスに対して、口を極めて罵ったことの意味が理解できるだろう。民衆の怒りは、たとえ理路整然とした理論武装をしていても、時の権力の庇護下で学派を伸ばす正統に対しては、本能的に敵視し、反乱を起こすものである。自力本願ではなく、他力本願の宗派こそが、つねに時の権力と戦ってきたという史実を私たちは軽視してはならない。福井の地にいると余計そのことを感じる。一向一揆は、権力者によって抹殺されたが、権力者が使ったのも浄土真宗に対抗する宗派であった。福井は、宗教が権力者によって使われ、ねじ曲げられた歴史の証言の地である。 

ギリシャ哲学 11 仮面(ペルソナ)と生贄

2006-07-07 22:20:43 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

ユングの心理学では、仮面をペルソナとして重視するらしい。仮面をペルソナと表現したのが、ユングを嚆矢とするのか否かは、いまの私には不明である。しかし、ペルソナには、「人間というイメージ」を欺くというニュアンスが込められているのではなかろうか。本当は、人間であるのに、仮面を着けてしまうと、本来の人間の姿が隠され、人間以外の存在、例えば神にもなれる。


 そこまで言わなくても、変身願望を人はもつために、舞踏会では、そうした願望を込めて仮面を被る。本当の自分は石部金吉*なのに、舞踏会ではドンファンを気取る。本来の自分を隠して別次元の世界に浸りたくて仮面を被る。仮面とは、古今東西を問わず、現世の鬱陶しさからの一時的離脱を望む人たちが、舞踏に託して、集団的に盛り上げる劇の小道具であるといっても間違いはないであろう。

*(いしべきんきち)石と金と二つの硬いものを並べて人名めかしたもの。きわめて物堅い人。融通のきかない人

 仮面が、人類社会でいつから使用されてきたのか私は知らない。しかし、ギリシャ文明に流れ込む古代世界の文化の爪痕を探し求めるカール・ケシーニーが、ミノア期より以前の古代に、ディオニソス的宗教に関わる石壁の文様を、ファイストス近郊の墓から発見したことを興奮した筆致で説明していることは重要である(ケレーニー、カール『ディオニソス―破壊されざる生の起源像』白水社、1999年、原著、1976年)。そこには、仮面を被った人間と山羊が描かれていた。仮面を被った人間はディオニソスであり、山羊はディオニソスに捧げられた生け贄なのだろう。

 しかし、祭りごとには、なぜ、仮面が必要なのであろうか。なぜ、人間は神に生きた家畜の生け贄を捧げるのだろうか。このことは、宗教学者の間では、とっくに解決された問題なのかも分からない。しかし、寡聞にして私はそのことに関してのきちんとした解答を聞いたことはない。仮面と生け贄にこそ、人間の救済の原始的な手法が表現されているのではなかろうか。まだある。前稿で書いたように、異国の荒ぶる神がアテネの最高府のデルフォイ神殿にアポロンと並んで祭られた。これは、なんなのだろうか。

 ケレーニーは言う。ディオニソスが仮面を被るのは、本来が人間である自己を隠して神として振る舞うからであると。この理解の仕方は、刺激的である。救いは現人神からくるという民衆の帰依が正確に表現されているからである。

 実際、宗教が爆発的に民衆に広まるには、生き神、生き仏の存在が大きな力をもつ。民衆は難しい教義の世界で想像される高貴な神仏よりも、目の前の慈愛に満ちた現実に存在する人に帰依する。帰依される人間は限りなく神と仏の香りを醸し出す。その人を通じて、民衆は神の御許に身を置くことができると信じる。あるいは、民衆は、そうした雰囲気を醸し出す人が、民衆を神に導く仲介者であり、あるいは、そうした気高さをもつ人を神の化身であると思い込みたくなる。

 目の前の祭司が本当は人間なのに、仮面を被って、人間であることを隠し、神として、祭りに参加した民衆に宗教的法悦を与える。いにしえにおいて、東西を問わず、祭りで仮面が多用されたことの意味はこの点にあるのではないだろうか。

 ディオニソス神話が、ペルソナ(仮面)の意味を示唆してくれる。それが神話であるかぎり、これが正しいディオニソス像であるといったものはない。時代により、地域によっって、語られるディオニソスの姿は異なる。トラキア地方では、ディオニソスは「ザクレウス」と呼ばれていた。ザクレウスとは、ギリシャ語で「野獣を捕らえる者」という意味である。ディオニソスに帰依する者たちは、ディオニソス(ザクレウス)が捕らえた野獣を「神の体」として八つ裂きにし、その生肉を食らう。さらに、酒に酔って、夜の森を駆け回る。それが蘇生・復活の秘儀(ミステリア)であった(1999年開催された『トラキア黄金展』でのフォル、アレキサンダー「古代トラキア、文字をもたない社会」)。酒に酔って夜の森を駆け巡るのは、ディオニソスが酒を喰らい(ローマ時代ではディオニソスはバッカスと呼ばれた)、各地を放浪し、夜に姿を見せるからである。しかも、ディオニソスは様々の動物に姿を変え、本当の自分の素顔を晒さない。ディオニソス信仰の民衆が、動物、とくに、牡牛の生肉を喰らうのは、ディオニソスが、牡牛に変身していたときに、タイタン(巨人族)に八つ裂きにされ、喰われてしまったという神話に基づく。そうした神話に基づいて、信者たちは、動物を「神の体」と解釈したのである。

 さらに、酒を喰らうのは、忌まわしい墓場としてのわが肉体から魂を離脱(エクスタシー)させようとの試みである。

 ドゥティエンヌ、マルセル『ディオニソス―大空の下を行く神』(法政大学出版局、1992年、原著1986年)によれば、ディオニソスの故郷、テバイでは、ディオニソスの一族は追放され、ディオニソスも放浪を余儀なくされている。しかし、ディオニソスは、心をさらけ出してくれる人々を救済する。救済を求める信者たちは、葡萄酒を喰らい、酒に酔って踊り狂う。生肉を引き裂いて喰らう。沸き立つ血と酒が巨大なエネルギーを人々から引き出す。「殺戮の狂気、踊り狂う忘我の女たち(マイナス)、泡立つ葡萄酒、血に酔った心臓―これらは一つの行動様式である」。このエクスタシーに導かれて、人々は、再生の力をディオニソスから得るというのである。ディオニソスは、「他者を支配する」アポロン的なギリシャ正統の神々と異なり、「自らの内なる能力」を解放してくれる神なのである。ディオニソスこそ、人間が内在的にもつ狂気をしっかりと受け止めてくれる現人神である。

 高津春繁『ギリシャ・ローマ神話辞典』によれば、ディオニソスは2人いた。最初のディオニソスは、ゼウスとペルセポネとの間に生まれた子である。ペルセポネにディオニソスを生み付けた時のゼウスは蛇の姿に変身していた。ゼウスは、ディオニソスに世界の支配を託すつもりであった。これに、ゼウスの正妻ヘラが嫉妬し、タイタン(巨人族)にディオニソスの殺害を依頼した。そこで、ディオニソスは様々の姿に身を変えて、タイタンたちの追跡を逃れて、逃亡者として各地を遍歴した。ディオニソスが荒ぶる神としてエーゲ海各地を走り回るというイメージはこの神話に基づいている。また、ディオニソスが返送の名人であることも同様である。

 ディオニソスが女性の信仰を集めたのは、希代のドンファンであったこともある。例えば、セメレーという女性を死者の世界から奪い取ってきたという、身を捨ててまで女性を救ったという神話がディオニソスにはある。前回で触れたように、事実、ポンペイの壁画には、ディオニソスに救ってくれと懇願する女性たちが描かれている。


(出所)
 牡牛に変身していた時に、ディオニソスはついにタイタンたちに捕らえられた。タイタンたちによって、ディオニソスは、八つ裂きにされて、牡牛の生肉として、彼らに食われてしまった。


(出所)

 怒ったゼウスは、雷の力でタイタンたちを焼き殺してしまった。そして、焼き殺されたタイタンたちの灰の中から人間が生まれてきた。つまり、人間は、生まれながらにして、タイタンによって食われたディオニソス神の一部をもっているのである。人間は、ディオニソス的神性を体内に宿しているとされるようになった。しかし、人間の中にはタイタンの悪も同時に存在している。神的な要素と悪の要素が同時に存在しているのが、人間であるということになる。ただし、人間には、もっとも大事なディオニソスの心、つまり、心臓が移転しなかった。ディオニソスの心臓は、アテナによって救われて、ゼウスに差し出された。ゼウスはそれを飲み下した。そして、初代ディオニソスがさらってきたセメレーと交わり、二代目ディオニソスを産ませたとある。

 ディオニソスは二人いたという神話が、ディオニソスの復活信仰を生み出した老いたディオニソスと若々しいディオニソスとして再生するという、ディオニソスの二重性が民衆に強く意識されるようになった。ディオニソス自身が老人と若者の資質を合わせもち、民衆も老いたディオニソスが、豊かな肉体をもつ若者として生まれ変わると信じるようになった。そして、次第にディオニソスは神から人間に近づく現人神になった。あらゆる動物に姿を変え、人間としても、老若を行き来するというディオニソスを表現する手段が仮面であった。ディオニソスの祭りで、仮面が不可欠であったのも、こうした意味合いにおいてである。
 ディオニソス生誕の神話は、信者たちが生肉を食べ、生き血をすすることの儀式の意味を示唆するものである。タイタンに食われたディオニソスの変身である牡牛の生肉を食べることによって、自己の体内にディオニソスを蘇らせ、ディオニソスと一体となった法悦に浸るのが、肉と血を食する民衆の宗教的行為の目的であった。

 それでは、生け贄の儀式について、どのように考えたらいいのだろうか。
 オットー、ワルター.F.『ディオニソス―神話と祭儀』(論創社、1997年)によれば、狩猟文化時代の人間は、つねに死と背中合わせの生活を送らざるをえなかった。獣を殺す作業は、自分が冥府の大王から呼び寄せられ、自分も非業の死を遂げることになるのかも知れないという恐怖心にさいなまれていたことであろう。自分も狩られるかも知れないとの思いが、狩猟時代の人間に生と死の儀式を同時に行わせたのであろう。自らが野獣と一体になることで、贖罪意識をもち、冥府から誘われるであろう死の恐怖から逃れようとしたのであろう。祭壇に捧げられる生け贄は、神に食していただくために供えられたものではない。生け贄に捧げられた野獣は、神の身代わりである。野獣には神が宿っている。その野獣を生きたまま捕らえ、八つ裂きにし、その生肉を喰らうことによって、人々は神との一体感を感得しようとしていた。八つ裂きにするという行為は、人間の本性の自己分裂を意味している。それを喰らうということは、生け贄に捧げられたものも、生け贄を捧げるものも同一運命にあることが意識される。こうして、生死循環の魂理解が生み出されたのである。

 生肉が焼かれた子羊になり、さらには、麦穂になるのは、こうした荒々しい神の感得方法が、後代で、平和でおとなしい儀式に変わっただけのことであり、儀式のもつ本来の意味は祭壇への供物として生き残ったのである。

 強引な解釈であろうとは重々承知している。しかし、死の恐怖からの離脱願望が、仮面、生け贄、血をすするという行為を生み出し、そうした儀式を、なんらの違和感なく、あらゆる民族が受け入れていたと考えるのが自然ではなかろうか。

 荒ぶる神ディオニソスがオリンポスの神々に列されるようになったのは、ギリシャ人たちが、ポリス世界の没落を前にして、若々しいアポロンだけではなく、冥府の悪魔的獰猛な力を有するディオニソスを人生の不可欠な要素、つまり、明るく輝く世界と裏腹の関係にある暗い要素、を意識するようになったことの現れではないだろうか。もちろん、そうなるには、信者たちが、生肉を食するのではなくパンを食し、生血をすするのではなく葡萄酒を少しだけ飲み、ディオニソス自身も、豊饒の神に変身させられなければならなかったのである。それは、ギリシャ人に魂に関する重要な認識上の変化が生じたことを表現するものである。 

ギリシャ哲学 10 アポロンに思う

2006-07-06 00:36:30 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

最近、若さのもつ危うさを強く意識するようになった。若さのもつ傲慢(ごうまん)さが、周囲に害悪をまき散らす。多くの経験に裏付けられたものではなく、一握りの取り巻きとそこでの聖典が絶対的なものとなり、自分が経験したことのないものには、威嚇(いかく)的に圧殺しようとするのが、若さの傲慢(ごうまん)さである。自分を相対視して、老人の曖昧(あいまい)さに学ぶことを恥として、透明な科学性を主張して、人間のもつデモーニッシュ*な側面を軽蔑(けいべつ)する。現在のブッシュ政権がそうであるし、小泉政権の若き取り巻きたちがそうである。

*(【damonisch(ドイツ)】悪魔的。超自然的)

 私が、いいだもも氏のの著作に導かれて、ニーチェに辿り着き、ニーチェの複眼から古代ギリシャの哲学を学び出したのは、現代の権力を担う若者たちに身震いするほどの怖さを感じているからである。ギリシャのアポロン的明晰(めいせき)*1さに対して、ディオニソス的デモーニッシュな非合理性を対置(たいち)*2する作業が、科学の名の下に急速に自らを干からびさせている経済学を救うためにも不可欠であると信じている。

*1〔哲〕(clara(ラテン))概念の内包が一つ一つはっきりしていなくとも、それの対象を他の対象から区別するだけの明白さをもつ概念についていう語。
*2相対して、物・事をすえること。「修正案を―する」

 デルフォイ神殿は、アポロンと並んでディオニソスを祭事に組み込んでいた。冬季、ディオニソスは酒の神として歌われた。春でも、桃花嬢(ミルト)を愛する花の神として大祭の主人公であった。いまでは失われてしまったが、アポロン神殿の切妻壁画には、一方の側にアポロン、他方の側にディオニソスが描かれていたという。

 ディオニソス大祭では、人々は仮面を被って酒を飲んで踊り狂う。狂乱女(マイナス)たちが、生け贄の山羊を引き裂き、その生血をすする。そして、巨人(タイタン)たちに彼らも食われて消滅してしまう。こうした象徴的な大祭は、明晰(めいせき)な姿を誇るかのように振る舞う現実の権力者の怯(おび)えを表すものである。

 眼前の権力に反抗する生は、闇の深い所から生まれ、そして、巨大な権力の力で消し去られてしまう。反抗者を圧殺することに成功した権力といえども、しかし、民衆の反抗に絶えず覚える。民衆のデモーニッシュな反抗精神のガス抜きをするためにも、公認のデルフォイ神殿で、デルフォイではアポロンよりも先に鎮座させられていたというデモーニッシュな荒ぶる神、ディオニソスを持ち上げ、民衆のエネルギーをそこで発散させる。そうした装置を、アポロンに代表されるギリシャの明晰さは、自己の裏側に必須の要素として保持していたのである。
ウォルター. F. オットーは、言う。

 「ディオニソスは、こうして当時のギリシャ人のすべての精神世界に出現していたし、その来訪ぶりのあまりの力強さに、今日でも、私たちを震えあがらせるのである」。オットー、ウォルター. F.『ディオニソス―神話と祭儀』論創社、1997年)。

 ディオニソス神話は多数あって、どれが正しいのかを判定することは不可能である。少なくとも東方のトラキア地方を起源とするのであろう。生肉を暗い、生き血を吸う荒ぶる神である。とんでもない酒飲みであり、とんでもない女たらしである。ポンペイの遺跡にその不良ぶりが描かれている。

 それが、アテネに来ると豊饒(ほうじょう)*の神として、葡萄酒とパンをもたらすおとなしい神としてデルフォイ神殿に祭られる。しかし、ディオニソスを口実とする民衆の酒池肉林的アウトローの行動を阻止することはできなかった。むしろ、そのエネルギーが巨大にならないように注意深くガス抜きしていた。キリスト教の聖餐式はその名残なのかもしれない。

*豊かに多いこと。また、土地が肥えて作物のよくみのること。ほうにょう。

 古代ギリシャは、アポロンに象徴されるくっきりとした明瞭な形象を特徴とする。若々しさ、肉体の美しさが賛美の対象となる。よぼよぼの老人がオリンポスの山上で雪の中で薪を拾っている姿などは、想像もしたくない世界がアテネの若さである。若さだけが賞賛されていた。権力者も哲学者も若かった。


 民衆の権力への反抗は不条理である。科学に対置(たいち)して情念でもって反抗する。そうしたことが軽蔑(けいべつ)される時代に現代は再び入ってしまった。

 民衆の悲しみと恨みを知ろうとするのか、学問的文献的正当性を重視するのか、ここに、学問は重大な分岐点を用意する。

本山美彦 福井日記 18 私の下宿周辺

2006-07-05 00:14:22 | 路(みち)(福井日記)
いささか、晦渋(かいじゅう)なギリシャ哲学、しかも、論議を呼びそうな内容のものを、いいだもも氏の提示する資料を勝手に解釈して書き連ねて、読者諸氏にいささか退屈な思いをさせてしまったお詫びをかねて、今日は、私の下宿周辺(すべて徒歩圏内)の景色の美しさを宣伝させていただきたい。素直にこの美しさへの感動を私と共有していただきたい。

私の宿舎の近くには、史跡六呂瀬山古墳群がある。九頭流川中流域の鳴鹿大堰右岸(下流に向かって右手、北側)の山腹に位置する。東から西に流れている九頭竜川の対岸の南側には手繰ヶ城古墳福井平野が広がる。、そして、その奥に永平寺がある。古墳群の眺下には鳴鹿の田園地帯総合グリーンセンター(私が愛してやまないすばらしい空間。毎朝、ジョギングを楽しみ、草木の名前を覚える。一日で最高の時間帯)福井大学医学部(私はここで夕食をとる)県立大学私の勤務先(ここで昼食をとる。残念ながら学生食堂で食事をするのに、肝心の学生諸君が遠巻きにして近寄ってくれない。一人寂しく、学生たちの会話を聞いている)が鎮座している。広大な)キャンパスである。そして、福井平野が広がる。

北側は、国道365号線から丸岡町の竹田に通じ、加賀(山中・山代温泉)へと続く山間部となっている。 山中温泉の「道の駅は私がたびたび利用する温泉である。入浴料500円也。

六呂瀬山古墳郡の遠望


六呂瀬山古墳郡の舞台(鳴鹿大堰付近上空からの航空写真)

私の下宿は、上の写真の左上部にある路を左(西)にいったところで、この写真の左外側にある。
平成元年から、地元では、地域興しとして、「越まほろば物語」という古墳群に纏わる儀式を営んでいる。平成11年からは「越の大王祭り保存会」が、越の大王祭を主催している。上久米田三ケ区神社境内の「越まほろばの舞台」 では、巫女の舞(久米田庭火)を中心にした催しが、毎年9月23日の夜に実施されている。初秋、椛(かば)の下、かがり火の中で厳かな雰囲気で行われている。

三ケ区八幡神社(越まほろばの舞台会場)

神社のまほろば舞台での巫女の舞

神社のまほろば舞台での巫女の舞
継体天皇に関わる数々の史跡が地元には存在する。

六呂瀬山古墳群より眺めた福井平野
継体天皇の擁立に貢献し、即位後も尽力をつくした大伴金村も祭られている。

式内 久米田神社(祭神/大伴金村)

式内 横山神社(祭神/継体天皇)

式内 高向神社(祭神/振媛)


式内 国神神社(祭神/椀子皇子)

天皇堂(女形谷)

椀貸山古墳(坪江)

日本人は瑞穂2000年の歴史を経た農耕民族である。ここ、福井は、九頭竜川中流域の鳴鹿大堰から一気に広がる福井平野で古代から稲作が営まれていた。今も、水と米と酒が美味しく、しかも海の幸と山の幸に恵まれた全国に数少ない農林漁業大国である。特にお米は、20年以上日本一の銘柄で君臨しているコシヒカリを福井県の農業試験場が昭和31年に育成し作った品種である。繰り返し訴えるコシヒカリは福井が発祥の地である。越の国(福井県)に光り輝くようにと「コシヒカリ」と命名されたのである。 越まほろば物語大祭保存会と地元農協が、1600年前の当時(平成19年は、継体天皇即位1600年とされている)、越の大王に捧げたであろう古代酒をまねて、酒米を栽培管理して、平成の酒づくりに取り組んでいるという。

越の大王祭保存会による御田植式(上久米田区内の宮の前献上田にて)



純米吟醸酒 越まほろば物語
720ml詰 小売価格2,000円(消費税別)
お取扱い先:JA花咲ふくい鳴鹿支店 (福井県坂井郡丸岡町楽間3-15)
TEL.0776-66-2604 FAX.0776-66-2652
※越前竹人形の里でも販売している。
(現時点で「楽天市場」等では販売されていない)

 今日の日記は、「六呂瀬山古墳群を愛する会」のホームページからとらせていただいた。


ギリシャ哲学 09 クセノポン

2006-07-04 23:30:31 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

ソクラレスの哲学が語られる時、必ず、引用される汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)は、デルフォイ神殿に入る人間に対して、アポロンが言う神託である。このデルフォイ神殿の入り口にはEという文字が刻まれている。エイと読めばいいのか、今風にエプシロンと読めばいいのかは分からないが、いまだにこのEの文字の意味が確定されていない。ピタゴラス学派は、数学好きなだけあって、「5」という意味であると主張した。古典ギリシャの5賢人は、キロン、タレス、ソロン、ピアス、ピッタコスであった。その仲間に独裁者クレオブロスとペリアンドロスが加えろと要求してきたことに対して、5賢人側がこの文字を示して拒否したからであると、プルタルコスの兄ランプリアスがプルタルコス説明した。その他、5大陸のことであるとか、アリストテレス的な5元素ではないかとか、いろいろと解釈されてきたと、プルタルコスがその『対比列伝』で紹介している。

 プルタルコス自身は、その第17節の終わりの方で、「あなたは、ある」と訪れた人間がアポロン神に対して言い掛ける言葉であると解釈している。ギリシャ語では、「ある」とは、時間を超越して存在し続ける状態を指すと言われている。「ある」(有)とは、オンと発音される。有限な人間ではなく、神は永遠の存在(オン)である。したがって、アポロン神の名前には「オン」がつくのである。つまり、人間が、アポロン神に対して、「永遠の存在たる神様」と呼びかけているのである。それとEとはどうつながるのかは釈然としないが、それこそ永遠の謎である。

 それはさておき、古代ギリシャでは公的な行事はもとより、私的な家庭の決断をする時には、必ず伝統的な宗教のまつりごとが執り行われた。個人も、共同体も神事で決定されていた。教義とされるものはなかった。そこには儀礼と神話だけが横たわっていた(フィンレイ、M.I.『民主主義―古代と現代』(刀水書房、1985年)。
 アテネ民主主義の中心は「民会」であった。清めの犠牲に豚を捧げ、香を焚いた。神への祈りによって会は始められた。500名の評議員はゼウス感謝しながら、やっと世俗の議事に入ったのである。

 リアリストのクセノポンですら、いっさいは神のみが知る。神が徴を与えるといってはばからなかったのである。

 アテネでは、「涜神行為」は犯罪であり、ポリス国家当局によって裁かれた。ソクラテスの名を永久化させた刑死も、当局がソクラテスに涜神を読み取ったからである。プラトンのイデアは、堕落した衆愚政治を憎悪し、師ソクラテスを言論の自由人としてプラトンが尊敬していたことによって、生み出されたものであることは間違いない。

 クセノポンは、青年時代にソクラテスに出会い、その弟子になったが、プラトンとクセノポンは反目しあっていたという。クセノフォンは行動派の人であった。『アナバシス』で語られているように、1万人の傭兵を率いる大将でもあった。小アジアでペルシャ王家に対して反乱を起こしたキュロスを支援したが、破れ、命からがら帰還した。が、アテネでは死罪を申し渡された(前399年)。一度は許されるが、スパルタ将軍と行動を共に、アテネから追放された。

 プラトン同様、ソクラレスの悲劇が彼の全生涯を彩ったが、行動の人であった。27年間続いたペロポネソス戦争、戦後の10余年、30人寡頭政治の堕落、続く内戦、こうしたギリシャ世界の混乱が彼を地中海世界への戦闘に彼を駆り立てたのであろう。
 ペルシャに反乱を起こしたキュロスを支援するために、行動を共にしてよいかどうかを、師ソクラテス相談したところ、ソクラテスはデルフォイ神殿のお告げに従えと言っただけであった。

 私が、ソクラテスやプラトンの賢人政治指向を批判するのは、眼前の衆愚政治への反発から無媒介に賢人政治の推奨へと論理を運んでしまう彼らの手法に対してである。せめて、ペロポネソス戦争を記録しようとしたアテネ人ツキディデスの『歴史』、そしてクセノポンのような同時代史の事実分析から、混迷からの脱出方法をプラトンが提示してくれていたらと思う。

 クセノポンは、ペルシャから脱出の後、スパルタのアゲシラス王ときわめて親密な関係をもつようになった。これでアテネから追放されたのであるが、自身の作品、『アゲシラオス』で感じられるように、衰退期に向かうアテネには見られない剛胆で人心を掌握している英雄としてクセノポンの目にアゲシオスが映じたのであろう。

 クセノポン『ギリシャ史』は、ツキディデスが中断したところから書き始められている。このリアリズムが、後のアダム・スミスを魅了する社会学を生み出したのである。