消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシャ哲学 06 蛇

2006-07-01 12:10:08 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
古代ギリシャ社会の聖地は、デルフォイ神殿である。この地は、大地の中心として意識されていた。ギリシャを主宰するゼウス神が、大地の両端からそれぞれ、一羽ずつ霊鷲を放ち、その二羽が出会ったところが、大地の中心であるデルフォイ渓谷であった。

 デルフォイ渓谷は、古くは「大蛇」(ピュートー)と呼ばれていたらしい。古代、東西を問わず、大蛇は、大地の裂け目から生まれ、天上まで届く、跳躍力をもつものとされていた。大地の裂け目からあらゆる悪霊が生まれ、人間社会に害悪をもたらす。しかも、そうした悪霊はとてつもなく強大な力をもつ。そうした悪霊を支配するのが、大蛇(ピュートー)なのである。そして、この邪悪な大蛇を撃ち殺した勇者が、人間社会の王者となる。こうした神話は、それこそ、世界各地で見られる。中国の龍もその一つである。

 ギリシャでは、大地はガイアと呼ばれていた。そのガイアを大蛇(ピュートー)が支配していた。つまり、デルフォイ渓谷は、大地の中心部の裂け目なのである。デルフォイにはテミス女神の神託所があった。そこに、ピュートーは蟠踞していた。そして、アポロンがやってくる。アポロンはピュートを殺し、その地に自らを祭る神殿を建てた。これがデルフォイ神殿である。ピュートーにちなんで、神殿で神託を授ける巫女が、ピューティアと呼ばれるようになった。つまり、デルフォイ神殿は、中級の中心地にとぐろを巻いていた大蛇を倒したアポロンが、人間社会の最大の聖地に仕立て上げた地とされる。

 エウリピデスの悲劇、『タウリケのインフィゲネイア』では、デルフォイの地に大地の女神(ガイア)と、その娘のテミス女神が神託を司り、蛇がその地を見張っていた。アポロンがやってきてその蛇を殺し、テミス女神を追放した。怒ったガイアは、アポロンから神託を告げる能力を封じてしまった。そこで、アポロンはゼウスに頼り、神託の力を取り戻し、最終的にデルフォイの支配者になったという。

 ソフォクレスの『悲しみの女神たち』によれば、デルフォイの神殿で、予言を最初に行ったのは大地母神ガイアである。その娘テミスがその予言能力を引き継ぎ、さらに、ガイアのもう一人の娘フォイベーにその能力が禅譲された。そして、そのフォイベーが、神託書をアポロンに献上したとされる。

 こうした、神話から、古代世界は母系制を基本としていた外国人の支配する社会を、男系制のギリシャ人が奪い取ったというシナリオが分かる。しかし、大地の裂け目からは、つねに現世を脅かす悪霊が繰り返し生まれ、それを阻止するために、ますますアポロン神殿が重要な地位を占めるというギリシャ人の信仰が形成されたのである。
 ホメーロスの諸神賛歌(沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神賛歌』ちくま学芸文庫、2004年)は、アポロンを以下のように賛美している。

 竪琴を奏でながら、人間に最初に神託を下す場所を探し求めて放浪していたアポロンは、ついにデルフォイの地を発見した。肥沃なペロポネソスに住む人々に、エウローペー(ヨーロッパ)に住む人々に、生みで囲まれた島々に住む人々に、神託を下そうと神殿を多くの人間の協力を得て建てた。そして、アポロンは、すべての害悪をもたらす巨大な雌蛇を弓で射殺した。この雌蛇は、ゼウスに仇なし、人間に害悪をもたらすどう猛な神テューフォーンである。この悪霊の神の母親は、ゼウスの妻ヘーラーである。ゼウスが別の女神との間に光り輝くアテナを生ましたことに激怒したヘーラーは、ゼウスと交わることなくゼウスよりも強い神を生むべく、大地に大声で頼み込んだ。大地はそれに答え、どう猛なテューフォーンをヘーラーに生ませた。このテューフォーンを雌蛇が育て、テューフォーンも雌蛇になった。


 アポロンは、太陽の力でもって、雌蛇を朽ち果てさせた。この朽ち果てさすというギリシャ語が、「ピューティン」である。その語から、この地は「ピュートー」と呼ばれ、アポロンも「ピューテイオス」と呼ばれるようになったとされる。
 この神話は、ギリシャ人による異民族支配の経過を雄弁に物語るものである。アポロンは、竪琴を奏でる優美さと、銀の強弓をもつ武芸をあわせもつ征服者としてデルフォイ神殿に乗り込んだのである。すさまじい神話である。

 私は、まだ、いいだもも氏の世界から離脱できないでいる。しばらく、同氏の世界に沈静したい。