アレキサンダーが滅ぼした古代ペルシアの首都が「ペルセポリス」と呼ばれている。これは、ギリシャ語である。ギリシャ人たちは、「ペルシア人の都市」を「ペルサイ・ポリス」と表現していた。これが短縮されて、「ペルセポリス」になった。
ペルシア人たちは、自分たちの首都を「パールサ」と呼んでいた。漢字表現の「波斯」はそうした言語の発音に忠実である。他の国の首都をギリシャ風に言い換えている点に、当時のギリシャ人の傲慢さが現れている。
ギリシャが東方からの文化を積極的に取り入れていたアテネ・ポリス確立以前の時代には、異邦人である「バルバロイ」には、まだ野蛮人の意味はなかった。しかし、アテネ的市民精神が確立するに至って、優秀で文明的なギリシャ人と、ギリシャ人より劣る野蛮人という二分法が時代精神を支配するようになった。この時代精神をアレキサンダーが破ろうとしたのである。
そもそも、「ヘレニズム」という用語を作り出したのは、ドイツの歴史学者、J.G.ドロイゼンである。その著、『アレキサンドロス大王』は、「19世紀に現れたもっとも力強い歴史論の1つである」とまで賞賛された(ドロイゼンの原著のフランス語訳、1935年、序文、J.ブノワ・メシャンの言葉)。V.ジスカールディスタン元フランス大統領は、1979年3月4日の『ル・モンド』紙でドロイゼンの本を褒め、歴史的構想をもつ政治家として最初の人は、ヨーロッパとアジアとを結びつけようとしたアレキサンダーであったと語った。
エジプト、ギリシャ、マケドニア、地中海世界、インダス河流域に至る広大な版図を打ち立てたアレキサンダーがマケドニア王になったのは、父フィリッポス2世が暗殺された前336年、アレキサンダー20歳の時であった。なんと若いことか!彼こそが、師アリストテレスのポリス観をはるかに超えた世界国家の構想を実現させようとした人であった。
プルタルコス『対比列伝』は、アレキサンダー支配下では、すべての民族が過去の怨念を忘れて1つになろうとしていたと賞賛した。
P.ガニョール神父『古代史』(1902年)では、アレキサンダーはすべての民族の融合を夢見ていた。すべての民族の伝統的文化への敬意を払った。異邦人の宗教をも尊重した。民族の記念碑的遺跡を尊重した。征服後、直ちに大規模な公共事業、つまり、都市建設、港湾の整備、運河掘削を行った。商業や産業を奨励した、等々のアレキサンダーへの賛辞が散りばめられている。ギリシャのポリス世界では、アレキサンダーの偉業を達成できなかったであろうとまでガニョールは言い切っている。
そのアレキサンダーが、ペルシャの首都に火を放ち炎上させた。40日間滞在し、いまからさらに東征に赴こうとした当日にである。民族の融和を図ることを最終目標にしていた彼としては、ペルシア人たちの心のよりどころである首都を焼き払うのは、自殺行為のはずである。なぜなのかはいまだに分かってはいない。
アレキサンダーは、きっぱりと、プラトン、および自らの師アリストテレスと袂を分かった。プラトンの『国家』では、バルバロイは我々の「生まれながらの敵」であり、戦争をしかけて彼らを滅ぼしたいという感情をギリシャ人がもつのは「当然」だとした。師のアリストテレスは、戦場のアレキサンダーに宛てた手紙の中で、ペルシア人など、どこかに移住させてしまえ、バルバロイに対しては、アレキサンダーは、「主人」として振る舞え、ギリシャ人に対するような「友人」として接触するな。バルバロイに対しては、植物か動物として扱え、とアドバイスしている。
あのヘロドトスですら、アテネ人からは、「バルバロイびいき」として軽蔑されていたのである。そして、アレキサンダーは、征服者ではあるが、ギリシャ人にとってはバルバロイのマケドニア人であった。彼は、自らが征服した民族の長に跪き、ペルシア人の多くを自らの軍に加えて重用した。自らの親衛隊にすら彼らを加えようとした。ここに、ギリシャ人ばかりでなく、マケドニア人たちも憤慨して、アレキサンダーを暗殺しようとした背景があった。
アレキサンダーが、マケドニアの老兵を故郷に帰還させ、新たにペルシア人の精鋭を軍に加えたことから、マケドニア人兵士はアレキサンダーを見捨てようとした。当然、アレキサンダーは激怒した。プルタルコスによれば、「ディオニソス神のほか誰一人渡ったことのないインダス河を渡った」自分を見捨てて、私の身をバルバロイに委ねるというのか、そうすれば、「人間の間で褒められ」、「神を喜ばすことになろう」、「立ち去れ」と怒鳴りつけた。「人間」とはギリシャ人とギリシャ化したマケドニア人であり、「神」とはオリンポスの神である。
プルタルコスによれば、アレキサンダーはギリシャ人の服装ではなく、ペルシア人の衣服を身につけていた。しかし、ペルシアの衣服の派手さを抑え、マケドニアの服を折衷した。アレキサンダーは、自らをバルバロイに位置づけたのである。そこに、プラトンやアリストテレスとの決定的違いがあった。その理念はついに、ギリシャ人には理解されなかった。
今回も「いいだもも」の恩恵を受けている。
ペルシア人たちは、自分たちの首都を「パールサ」と呼んでいた。漢字表現の「波斯」はそうした言語の発音に忠実である。他の国の首都をギリシャ風に言い換えている点に、当時のギリシャ人の傲慢さが現れている。
ギリシャが東方からの文化を積極的に取り入れていたアテネ・ポリス確立以前の時代には、異邦人である「バルバロイ」には、まだ野蛮人の意味はなかった。しかし、アテネ的市民精神が確立するに至って、優秀で文明的なギリシャ人と、ギリシャ人より劣る野蛮人という二分法が時代精神を支配するようになった。この時代精神をアレキサンダーが破ろうとしたのである。
そもそも、「ヘレニズム」という用語を作り出したのは、ドイツの歴史学者、J.G.ドロイゼンである。その著、『アレキサンドロス大王』は、「19世紀に現れたもっとも力強い歴史論の1つである」とまで賞賛された(ドロイゼンの原著のフランス語訳、1935年、序文、J.ブノワ・メシャンの言葉)。V.ジスカールディスタン元フランス大統領は、1979年3月4日の『ル・モンド』紙でドロイゼンの本を褒め、歴史的構想をもつ政治家として最初の人は、ヨーロッパとアジアとを結びつけようとしたアレキサンダーであったと語った。
エジプト、ギリシャ、マケドニア、地中海世界、インダス河流域に至る広大な版図を打ち立てたアレキサンダーがマケドニア王になったのは、父フィリッポス2世が暗殺された前336年、アレキサンダー20歳の時であった。なんと若いことか!彼こそが、師アリストテレスのポリス観をはるかに超えた世界国家の構想を実現させようとした人であった。
プルタルコス『対比列伝』は、アレキサンダー支配下では、すべての民族が過去の怨念を忘れて1つになろうとしていたと賞賛した。
P.ガニョール神父『古代史』(1902年)では、アレキサンダーはすべての民族の融合を夢見ていた。すべての民族の伝統的文化への敬意を払った。異邦人の宗教をも尊重した。民族の記念碑的遺跡を尊重した。征服後、直ちに大規模な公共事業、つまり、都市建設、港湾の整備、運河掘削を行った。商業や産業を奨励した、等々のアレキサンダーへの賛辞が散りばめられている。ギリシャのポリス世界では、アレキサンダーの偉業を達成できなかったであろうとまでガニョールは言い切っている。
そのアレキサンダーが、ペルシャの首都に火を放ち炎上させた。40日間滞在し、いまからさらに東征に赴こうとした当日にである。民族の融和を図ることを最終目標にしていた彼としては、ペルシア人たちの心のよりどころである首都を焼き払うのは、自殺行為のはずである。なぜなのかはいまだに分かってはいない。
アレキサンダーは、きっぱりと、プラトン、および自らの師アリストテレスと袂を分かった。プラトンの『国家』では、バルバロイは我々の「生まれながらの敵」であり、戦争をしかけて彼らを滅ぼしたいという感情をギリシャ人がもつのは「当然」だとした。師のアリストテレスは、戦場のアレキサンダーに宛てた手紙の中で、ペルシア人など、どこかに移住させてしまえ、バルバロイに対しては、アレキサンダーは、「主人」として振る舞え、ギリシャ人に対するような「友人」として接触するな。バルバロイに対しては、植物か動物として扱え、とアドバイスしている。
あのヘロドトスですら、アテネ人からは、「バルバロイびいき」として軽蔑されていたのである。そして、アレキサンダーは、征服者ではあるが、ギリシャ人にとってはバルバロイのマケドニア人であった。彼は、自らが征服した民族の長に跪き、ペルシア人の多くを自らの軍に加えて重用した。自らの親衛隊にすら彼らを加えようとした。ここに、ギリシャ人ばかりでなく、マケドニア人たちも憤慨して、アレキサンダーを暗殺しようとした背景があった。
アレキサンダーが、マケドニアの老兵を故郷に帰還させ、新たにペルシア人の精鋭を軍に加えたことから、マケドニア人兵士はアレキサンダーを見捨てようとした。当然、アレキサンダーは激怒した。プルタルコスによれば、「ディオニソス神のほか誰一人渡ったことのないインダス河を渡った」自分を見捨てて、私の身をバルバロイに委ねるというのか、そうすれば、「人間の間で褒められ」、「神を喜ばすことになろう」、「立ち去れ」と怒鳴りつけた。「人間」とはギリシャ人とギリシャ化したマケドニア人であり、「神」とはオリンポスの神である。
プルタルコスによれば、アレキサンダーはギリシャ人の服装ではなく、ペルシア人の衣服を身につけていた。しかし、ペルシアの衣服の派手さを抑え、マケドニアの服を折衷した。アレキサンダーは、自らをバルバロイに位置づけたのである。そこに、プラトンやアリストテレスとの決定的違いがあった。その理念はついに、ギリシャ人には理解されなかった。
今回も「いいだもも」の恩恵を受けている。