消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 24 日吉神社

2006-07-14 00:00:35 | 神(福井日記)
 私は、永平寺町の兼定島という中州に住んでいる。この付近、やたらと日吉神社が多い。私のこれまでの常識は、同名の神社は地域に一つだけであるということにあった。しかし、この地域に多数の日吉神社があるはあるは。これは一体なんなのだろう。私の住んでいる吉田郡全体で15もある。兼定島から徒歩20分圏内に5つもある。隣の坂井市には12もある。足羽地区で8つ、大野地区で6つ。丹生地区で12、今立地区に3つ、南条地区に5つ、敦賀市には20もある。そこで、福井県神社誌(昭和11年)で調べた。

 日吉神社とは、比叡山の山岳信仰を源流とした地主神である。天台宗延暦寺が創建されたとき、日吉神社が鎮守神となった。天台密教が最初から鎮守という伝統的な日本古来の神様に守ってもらうのである。結構、ほほえましい。

 どうも、地元から比叡山に至る道筋に日吉神社が配置されたらしい。例えば、白山信仰の拠点である越前馬場と加賀馬場が延暦寺の傘下に入るや否や、白山から比叡山を結ぶ路に日吉神社が数多く設置された。これは、参拝者の安全を守護するための神社の配置だったのだろう。

 もし、それが正しければ、点在する日吉神社を結ぶと、比叡山に至る古道が描けることになる。例えば、丸岡から鯖江に至る路が『越前若狭地誌叢書』上「越藩拾遺録」に、「東は丸岡より鳴鹿へ至り、この川を越えて松岡に出、下吉野を経て小幡坂を越え、阿波が原より成願寺、渡村にて川を越え東郷へ出、榎木坂を越え粟田部・五箇へかかり、牧谷坂を越えて新河原の渡しより、鯖波に出る」とある。この名前の出ている地名に日吉神社が配置されているのである。

 山中温泉からは、上武田・山竹田を経由して鳴鹿で九頭竜川を渡るとある。
 仏教伝来前の古代日本では、神の降臨する聖地と見なす信仰が存在していた。自然には霊が存在する。その霊が人格化して神になる。神は、本来、空中を浮遊する存在である。そして、時々、地上に降臨する。神々が好んで降臨する地は、円錐形に尖った山の山頂である。神々が降臨する山頂を神奈備という。その場に神木や磐座が設置され、それが民衆の信仰の対象となる。

 さらに進んで、山そのものが神体であるという信仰が生まれる。日本最古の神社は大和の大神神社と言われている。この神社には拝殿はあっても本殿がなかった。三輪山全体がご神体だからである。人々は山に登るのではなく、遠くから拝殿で山というご神体を拝んでいた。

 白山などのような2000メートル級の雪山については、民衆はその神を恵みを与えてくれるが荒ぶる神として恐れおののいていた。山は人間が立ち入ってはならない恐ろしい聖地であると人々には意識されていた。したがって、この段階では、人々は峻厳な山を仰ぎ見ることのできる場所に社を設置し、そこから遙拝するという形式を取っていた。この点については、下出積輿「山岳信仰と仏教」(『古代日本の庶民と信仰』)がある。

 ここに、仏教と道教が到来する。これら宗教は、険しい山だからこそ、そこに近づけば神仙の高揚を得ることができ、常人にはない神秘的な力を聖地から得ることができるとした山を修行の場とする考え方を打ち出した。古来からの山の神性と外来宗教とが融合した。これが日吉神社のもつ意味ではなかろうか。

 密教の世界では、教義の世界を「純密」、山岳修行の世界を「雑密」と呼んでいた。最長の比叡山入山が日本の仏教の姿を変えてしまった。かぎりなく山岳仏教、神仏混交に傾斜したのである。

 国家が保護した仏教に対立する形で、民間には道教が広まった。仙人を理想とするように、道教は、深山幽谷での生活を理想とする神仙思想に彩られていた。祖役小角は8世紀、葛城山での修行の成果として空を飛べるようになったとされた。これは、『続日本紀』に記されている。

 天台真言密教が隆盛するにつれた、修験道が確立してきた。山こそは、古代神道、道教、密教とが融合する修験道という日本独特に修行継体を生み出したのである。
 神宮寺(神様が住むお寺!)が建てられるようになった。仏教の側は、神は仏典に説かれている「護法善神」であると位置づけた。そして、神は仏が化身したものとする「本地垂迹」説が出てきた。いずれも、山岳信仰がもたらしたものである。

 街道に配置されている多くの日吉神社が、それこそ多くのことを私たちに語りかけてくれる。日本という国は、要するに折衷につぐ折衷を繰り返した国である。いいではないかと。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。