消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 27 土着宗教から大和朝廷へ――屈服か簒奪か?

2006-07-20 01:16:16 | 神(福井日記)
気比神社については、かつて、この日記で書いたが、外来宗教である気比の神が、その地位を上げることで、大和朝廷を支配するようのなった可能性が高いことを示すエピソードと、その反対に、気比神社が大和朝廷の国策神道の軍門に下ったというシナリオが、気比伝説に見られるので、ここで、気比神社について再論したい。

 『古事記』の「仲哀天皇段」や『日本書紀』の「神功皇后殺生十三年条」、「応神天皇即位前紀」の記述には、大和朝廷と気比神社との間に何らかの取引があり、気比側が大和政権を簒奪してしまったのではないだろうかとの想像を掻き立てるものがある。

 神功皇后が新羅を侵略しに赴いたとき、皇子・品陀和気命(ほんだわけ、誉田別王?)を九州の地で生んだ。皇子が大和に引き揚げてきた時、香坂王や忍熊王の襲撃に遭い、非常に苦戦した。これを皇子側は「穢れ」と受け取り、「禊ぎ」をするために、角鹿(つぬが、今の敦賀)にやってきた。伴なったのは、建内宿禰(たけのうちのすくね)であった。角鹿で参拝したのが、今の気比神社で、当時、伊奢沙和気(いざさわけ)大神であった。

しかし、禊(みそ)ぎをするのに、どうしてわざわざ若狭くんだりまで皇子たちが来たのかは記されていない。ここで、皇子は、不可思議な行動を取った。皇子は、この大神と名前を交換したのである。つまり、神社側が「ほんだわけ」となり、皇子側が「いざさわけ」となったのである。これはなぜなんだろう。「ほんだわけ」皇子が「いざさわけ」皇子になり、その「いさざわけ」皇子が、後の応神天皇になる。応神天皇の幼名が「ほんだわけ」であったことは何を意味するのだろうか。少なくとも、この行為は大和朝廷が行ったこととされているので、いかに、気比神社が大和朝廷ゆかりの神社であるかを、内外にアピールしたのであろう。

 さらに、皇子は、新たに「ほんだわけ」大神となった神に、朝廷に食料を供給するという任務を与え、「御食津神」とも読んだ。ここで、敦賀・若狭は「贅」(にえ)の国になった。この意味するところも重大である。朝廷に食料を供給する義務というのは、地方豪族が大和朝廷に服属することを意味していた。とすれば、気比の豪族、つまり、渤海人であろうと想像される角鹿氏が、朝廷に服属したと理解できるのだが、わざわざ名前を交換したというのはどう理解すればよいのだろうか。

 参考になるのは、岸俊男『日本古代政治史研究』である。同氏は、ここで登場する大和朝廷側の人物はすべて架空の者で、『記』『紀』の編者たちの創作であると断じている。推古天皇の後の7世紀の女帝たちの地位を高めるために、創作されたのが神功皇后であり、大化の改新の巧臣・藤原鎌足を顕彰する意図があって、7世紀後半に建内宿禰が創り上げられたのであり、応神天皇を挟む、それ以前の崇神天皇の系統と、以後の仁徳天皇の系統とをつなぐために、これも創作された天皇が応神天皇であるとされる。したがって、応神天皇には実体がない。「万世一系」とは、かなり強引に創り上げられた壮大な神話でしかないのかも知れない。疑えば切りがない。渡来人の地方豪族からはい上がってきた大和朝廷の正統性を謳い上げるには、大和朝廷側に都合のよい、あらゆる伝承が動員されたと見るのが、素直な神話の理解の仕方であるだろう。

 門脇禎二『出雲の古代史』によれば、出雲の地方豪族の神であった出雲の神々の祭祀権が大和朝廷に献上されたのは、7世紀の後半であった。気比の神も同じことであったろう。地元豪族の祭祀権が大和朝廷に献上されたのである。これを角鹿の屈服と見るか、大和朝廷の嫡出子の中に自らの血統を食い込ませた行為として見るかの、いずれが正しいかは、神話を検討するだけでは不明である。しかし、東アジア情勢が緊迫化する度に気比神社の地位が上がったという史実を私たちはどのように理解すればいいのだろうか。

 ただ、「ほんだわけ」皇子が、応神天皇であるという説には、結構、多くの異論が出されている。そもそも、「ほんだわけ」を「誉田別」としたことから、そうした誤解が生まれたという説もある。応神天皇の和風諱号が誉田別神であったのは確かだが、それが「ほんだわけ」皇子であるとするのは、混同であるという意見がそれである。

 気比神社が「けひ」と呼ばれるようになったのは、先の御食津神を大和朝廷が「笥飯」(けひ)神と呼ぶようになったからである。食料を折り箱(笥)で包むという意味である。『古事記』の「仲哀天皇段」に朝廷が笥飯神に封戸20戸を贈封したという記述がある(692年)その後、宝亀元年(770年)7月、気比神に奉幣があったことが記され、宝亀7年9月に従八位官に準じる気比神宮司が設置された。大和朝廷が包摂する前のこの神社は海の守り神であったと言われている。地方の神に中央権力の官位が与えられたのである。

 天平3年(731年)には、従三位に昇格している。神の位としては最高位であった。そして、遣唐使問題で大和朝廷に内紛が生じ、最後の遣唐使が帰朝した年、承和6年(839年)、気比神社は、従2位にまで上昇した。

 それとともに、気比神社の周辺にあった土着の神々までもが、気比神社に包摂されることになった。気比社7座、天利劔神、天比女若御子神・伊佐奈彦神が、気比大神の御子神(子供の神)に位置づけられるようになった。寛平5年(893年)には、正一位勲一等と、最高の地位にまで上り詰めたのである。

 単なる地方豪族の守護神であった一地域の無名の神が、最高官位にまで引き上げられ、国家の守護神になっただけでなく、気比神社の周辺の神々までもがそれに引き摺られて序列化され、気比神の下に「神の子供」として従属させられた。大和朝廷による国家的祭祀体制はここに完成したのである。しかし、そこには、巧妙な血の混淆が伺われる。以上は、『敦賀市史』通史編上、編411、編451を参照にした。 

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