消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 29 泰澄

2006-07-29 14:50:09 | 神(福井日記)
白山信仰の具現者、泰澄にまつわる伝記が、越前には数多くある。しかし、いずれも、後世になって作成されたものなので、正しい伝記はないと言ってよい。しかし、伝記を追うと日本の宗教の原型が浮き彫りになる。正中2年(1325年)書写された金沢文庫『泰澄和尚伝記』が、数多くある伝記の中ではもっとも権威を獲得している。

 それによると、泰澄は越の大徳と言われていた。天武天皇時代の白鳳22年(682年)に越前国麻生津に生まれた。福井市三十八社町に泰澄寺がある。泰澄産湯の井戸がある。


持統天皇7年(693年)にこの地を訪れた道照によって、神童であると見抜かれる。道明は白雉3年(653年)入唐し、日本に法相宗を伝えた高僧で実存の人である。14歳の時、十一面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋で修行。丹生郡朝日町にこの山はある(613メートル)。越知峰は明治初年の神仏分離までは修験の行場として栄えた。越知神社となった。白山の遙拝所である。またこの別当寺であった朝日町の大谷寺(天台宗)は、泰澄入定の地とされ、15世紀には白山中宮平泉寺に対して本宮と称され、11院32坊を擁していた。また、国の重要文化財である石造九重塔がある。元享3年(1323年)作られた。泰澄の廟とされる。十一面観音座像もある。

 大宝2年(702年)能登島より小沙弥が訪れ、以後、泰澄の身の回りの世話をする。この島は二と半島の東、七尾湾に浮かぶ島である。ここには須曽蝦夷穴古墳という高句麗形式の古墳が現存する。白山信仰は高句麗から来たという説の傍証にもなっている。この年、泰澄は鎮護国家法師になる。霊亀2年(716年)に白山神(貴女=農業の女神))の夢告を受け、養老元年(717年)母のゆかり地、大野隈苔川東伊野腹で庵を結んだ。この苔側は九頭竜川のことであるらしい。現在の勝山市猪野であると思われる。泰澄の母の供養塔がある。さらにこの地の林泉に貴女が現れ、自らを伊弉冉尊であると語った。林泉は、越前馬場として栄えた中宮平泉寺の地で、神仏分離後は白山神社となっている。林泉とは文字通り泉で、現在の御手洗池のことである。平泉寺は平安時代から中世にかけて北陸屈指の勢力をもった天台宗の大寺院で、6000もの坊があった。天正2年(1574年)一向一揆の焼き討ちを受け、灰燼に帰した。白山信仰の中心であり、ここから白山に至る禅定(霊山の頂点)道が続いている。

 さらに、和尚が白山天嶺の頂上に登ると、緑碧池の側で九頭竜王が、次いで白山神の本地仏である十一面観音が現れた。荒ぶる神、豊饒の女神、そして観音、ここに、しかるべき神仏が出揃う。これらの出現の順番は、白山信仰の序列であると理解できる。恐ろしい竜神、やさしい女神、そして観音に収斂させられていく。

 左孤峰で聖観音の現身である別山、右孤峰で阿弥陀如来の現身である大己貴を感得し、この峰に居を定める。白山は3つの山からなる。最高峰が御前峰(2702メートル)、左孤峰が別山(2399メートル)、右孤峰が大汝峰(2684メートル)である。最高峰が十一面観音、そして、聖観音、阿弥陀如来という本地垂迹そのままである。これらを総称して三所権現という。以後、都で天皇の病を治したり、行基に会ったり、僧の玄から十一面経を授けられたという様々のエピソードで飾り立てられた後、大谷寺で86歳で死んだとされている。

 泰澄は、天台宗延暦寺の末寺となったこの平泉寺の他、先の大谷寺、今立郡の大滝寺、坂井郡の豊原寺、千手寺をも開いたとされている。平安末期の源平の争乱時、平泉寺は木曾義仲についたが、すぐに平氏に寝返っている。しかし、一向一揆までは、したたかに生き延びて行った。土着の神、渡来人の神、そして渡来した仏、そうした変遷を経て軍事力と経済力をもつ大名的寺院にこの寺も突き進んだのである。