ももすけの日記

黙祷して平和を願ふ終戦忌
ああ面白かったと言って死ねたらいいな

2007年11月02日 10時45分00秒 | 日記
健康なとき、自分がいつか死ぬことさえあり得ないことのように思っている。いや、そんな「死」という言葉さえ忘れてしまっている。

Cafe友のFちゃんのご主人が末期癌とわかって一年。
絶対、誰にでも来る「死」をどうやって受け入れるのか。

平均寿命というのがよくない。
なんで自分が平均より早く死ななくてはならないのかと感じる。

ちょっとしたことで入院。きっと、元気になって退院できると思っていたのに、まさかそのまま帰らぬ人となるなんて、という口惜しい思いもあるだろう。
手を尽くせば、まだ、なにか他の方法があったのでは、と心を悶々とすることもあるだろう。

近いうちに必ずと宣告されて、残された日を自宅で過ごしたいと決めていた姉が、姉妹での最後の温泉旅行で風邪をひき、結果、肺炎になって急遽入院したのが10年前の今ごろだった。
その入院を機に、もう一度という一縷の望みで苦しい治療を受けたけれど、お医者の最初の余命宣告はぴたりと当たった。

この10年で病院側の姿勢も変わっているようだ。治療方法もどんどん進化している。
病院に入ると治療しなければならない(それはたいていの場合苦痛を伴う)という考え方だけでなく、苦痛をとりのぞく終末医療も受け入れられてきた。

「死」と対峙して過ごされてきたこの一年。Fちゃんの日記はむしろ、ぼくを励まし勇気さえ与えてくれる。

辛くて悲しいのに、人に会うと笑ってしまうのよ、というFちゃんの笑顔、昨年お会いした時よりきれいだった。先月の末、おかあさんは黒豆の枝豆買いと称してFちゃんに会いに行ってきました。

「父が入院しました」とFちゃんの日記に息子さんが書いているのを昨夜読む。
ご本人もそして、ご家族も痛みが少しでも少ないことを、ただぼくはおかあさんのひざの上で祈るしかない。

夏の間、全く咲かなかったハイビスカスが小ぶりだけれどしっかりとした形で深紅の色をたたえて一つ咲いているのが窓から見える。
しゃっくりが止まらないのだ。。*(ラブリー)*