朝日新聞の週末beに、「キミの名は 中村屋 パン屋買い取り、屋号は変えず」という記事がありました。
おもしろい名前の企業に、その由来を聞くコーナーです。
現在は「新宿中村屋」として有名な「中村屋」は、本郷にあったパン屋さんを、新婚の素人夫婦がまるごと買ったのだそうです。
創始者の相馬愛蔵と黒光(こっこう)は、東京の学校を卒業して結婚しました。
素人が商売を始めるには、なじみの薄いものをと、パン(西洋風で、当時はインテリ層に定着しつつあった)に着目しました。
毎日1日2食、3か月間パンを食べて研究しました。
「パン屋譲り受けたし」と新聞広告を出したところ、2人がずっと通っていたパン屋さんが居抜きで譲ってくれました。
東京大学(本郷)前にあったパン屋「中村屋」です。
道具、従業員込みで売ってくれたそうです。
1901年(明治34年)に創業し、
1904年(明治37年)には、日本初の「クリームパン」を発売
1909年(明治42年)には、新宿に本店を移す
など、工夫を重ねてきたということです。
-------------------------
「新宿中村屋」が、もとは本郷にあったパン屋さんだったとは初めて知りました。
地方にいた頃は、月餅がデパートのお菓子売り場にあり、日本のおまんじゅうとは違う餡や木の実餡が好きでした。
「新宿中村屋」のホームページを見てみると、
(http://www.nakamuraya.co.jp/index.html参照)
水羊羹の写真が最初に出てきて、今は母の日や初夏向けのギフトに力を入れているのが分かります。
「中村屋の歩み」のページをクリックすると、
1915年 日本に亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを匿う
1916年 ロシアの盲目の詩人エロシェンコ、中村屋に身を寄せる
という記述もあり、その後、カレーやロシア菓子、ボルシチも出すようになっています。
日本ではじめて、水羊羹の缶詰化に成功したのも、中村屋だったのですね。
「株主優待」のページには、1000株以上持っていると、自社製品、株主優待券(15%OFF)などもあります。
「採用情報」には、毎年20人前後を、大卒、大学院卒で採用し、初任給は20~22万円と書かれていました。
創業者の「相馬愛蔵」さんは、長野県出身と記事にはありました。
「相馬愛蔵」さんで見てみると、「中村屋」という項目がウィキペディアにあり、ファンの多さが分かります。
寺山修司さんが、自殺志望の青年の葉書に対し、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ」と人生相談で返事したというエピソードも書かれていました。
(ウィキペディア「中村屋」参照)
「相馬愛蔵」によると、早稲田の前身の東京専門学校を卒業後、札幌農学校で養蚕学を学び、養蚕を行っていました。
たまたま訪れた仙台で仙台藩士の娘・星良に出会い、結婚、奥さんの健康のため、東京に行ったとあります。
中村屋を始めてからも、外国人を雇って新しい技術を学んだり、画家を保護したり、社会活動をしている人を援助したり、新しいことに積極的に学ぼうとする方であったようです。
(ウィキペディア「相馬愛蔵」参照)
「中村屋」のホームページの「中村屋サロン」のページには、相馬夫妻には、「己の生業を通じて文化国家に貢献したい」という気持ちがあったとありました。
ウィキペディア「相馬愛蔵」には、昭和金融恐慌で安田銀行に人がつめかけパニックになりそうだったときに、わざと金庫のお金を部下に持って行かせ、「中村屋ですがお預け!」と大声で言わせて、パニックを収めたとあります。
一経営者以上の考えや行動をされた方だったようです。
おもしろい名前の企業に、その由来を聞くコーナーです。
現在は「新宿中村屋」として有名な「中村屋」は、本郷にあったパン屋さんを、新婚の素人夫婦がまるごと買ったのだそうです。
創始者の相馬愛蔵と黒光(こっこう)は、東京の学校を卒業して結婚しました。
素人が商売を始めるには、なじみの薄いものをと、パン(西洋風で、当時はインテリ層に定着しつつあった)に着目しました。
毎日1日2食、3か月間パンを食べて研究しました。
「パン屋譲り受けたし」と新聞広告を出したところ、2人がずっと通っていたパン屋さんが居抜きで譲ってくれました。
東京大学(本郷)前にあったパン屋「中村屋」です。
道具、従業員込みで売ってくれたそうです。
1901年(明治34年)に創業し、
1904年(明治37年)には、日本初の「クリームパン」を発売
1909年(明治42年)には、新宿に本店を移す
など、工夫を重ねてきたということです。
-------------------------
「新宿中村屋」が、もとは本郷にあったパン屋さんだったとは初めて知りました。
地方にいた頃は、月餅がデパートのお菓子売り場にあり、日本のおまんじゅうとは違う餡や木の実餡が好きでした。
「新宿中村屋」のホームページを見てみると、
(http://www.nakamuraya.co.jp/index.html参照)
水羊羹の写真が最初に出てきて、今は母の日や初夏向けのギフトに力を入れているのが分かります。
「中村屋の歩み」のページをクリックすると、
1915年 日本に亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを匿う
1916年 ロシアの盲目の詩人エロシェンコ、中村屋に身を寄せる
という記述もあり、その後、カレーやロシア菓子、ボルシチも出すようになっています。
日本ではじめて、水羊羹の缶詰化に成功したのも、中村屋だったのですね。
「株主優待」のページには、1000株以上持っていると、自社製品、株主優待券(15%OFF)などもあります。
「採用情報」には、毎年20人前後を、大卒、大学院卒で採用し、初任給は20~22万円と書かれていました。
創業者の「相馬愛蔵」さんは、長野県出身と記事にはありました。
「相馬愛蔵」さんで見てみると、「中村屋」という項目がウィキペディアにあり、ファンの多さが分かります。
寺山修司さんが、自殺志望の青年の葉書に対し、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ」と人生相談で返事したというエピソードも書かれていました。
(ウィキペディア「中村屋」参照)
「相馬愛蔵」によると、早稲田の前身の東京専門学校を卒業後、札幌農学校で養蚕学を学び、養蚕を行っていました。
たまたま訪れた仙台で仙台藩士の娘・星良に出会い、結婚、奥さんの健康のため、東京に行ったとあります。
中村屋を始めてからも、外国人を雇って新しい技術を学んだり、画家を保護したり、社会活動をしている人を援助したり、新しいことに積極的に学ぼうとする方であったようです。
(ウィキペディア「相馬愛蔵」参照)
「中村屋」のホームページの「中村屋サロン」のページには、相馬夫妻には、「己の生業を通じて文化国家に貢献したい」という気持ちがあったとありました。
ウィキペディア「相馬愛蔵」には、昭和金融恐慌で安田銀行に人がつめかけパニックになりそうだったときに、わざと金庫のお金を部下に持って行かせ、「中村屋ですがお預け!」と大声で言わせて、パニックを収めたとあります。
一経営者以上の考えや行動をされた方だったようです。
木村屋のあんぱんも、桜の花の塩漬けが乗っていて、おいしいですね。
意外と、苗字がそのまま店名(そのまま企業名)になったものは多そうです。
外国のレストランも〇〇'sとか名前がありますね、マクドナルドもたしかそうだったと思います。
ポチッ
新宿中村屋って、銀座4丁目にある店でしたっけ?
と書いて、「あれは木村屋だった」と思い出しました。(笑)
甘いアンパンを食べたくなりました~。
ポチッ