昨日の朝日新聞に、「墜落直前 耳に残る悲鳴 25年前 日航機と交信の管制官」という記事がありました。
御巣鷹の尾根に墜落したJAL123便と交信した管制官が、25年を経て、初めて交信の内容を明かにしたのだそうです。
日航123便墜落事故で、通信を担当した男性は、当時29歳でした。
東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)に勤務していました。
管制官になって8年目、先輩らとともに、「東京南セクター」空域を夕方から担当しました。
夕方は、羽田への到着便が増える時間帯で、「そろそろ忙しくなる」と思っていました。
【午後6時24分】
「ブーッ」というブザー音が管制室内に響き、JAL123便の機影に「EMG」(エマージェンシー、緊急事態)の文字が点滅し始めました。
上司が近づいてきました。
【午後6時25分】
JAL123便の機長から、英語で「日航123便、トラブル発生、羽田への帰還を求める。2万2千フィートに降下したい」と連絡が来ました。
「了解」
答えながら、「おかしいな」と感じたそうです。
普通なら、「エンジン出力が低下した」「客室内の気圧が下がった」など、トラブルの中身を伝えるのですが、機長は何も言ってきません。
JAL123便の機影は、旋回せず、伊豆半島上空をふらふらと西へ向かっています。
【午後6時27分】
「123便、確認しますが、緊急事態を宣言しますね」
「その通り」
「どういった事態ですか」
やはり応答がなく、大変なことが起きているのではと感じます。
【午後6時28分】
「レーダー誘導のため、90度(東)へ飛んでください」
「しかし、現在、アンコントロール(操縦不能)」
衝撃的な言葉でした。
普段はオフのスピーカーがオンになり、管制室全体にJAL123便との交信が放送されるようになりました。
【6時31分】
「降下できますか」
「今、降下しています」
「名古屋に降りますか」
「いや、羽田に戻りたい」
何とかしたいと思い、とっさに、「これから日本語で話していただいて結構ですから」と伝えました。
パイロットと管制官の交信は、近くを飛ぶ航空機も聞きとれるように通常は英語を使います。
この場合は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かくやり取りしたいと考えました。
他の飛行機が、JAL123便に近づかないよう、航路から退ける指示を続けました。
【6時47分】
「現在、コントロールできますか」
「アンコントーラブルです」
ヘッドフォンからは、「ああっ」という声が聞こえてきました。
機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことを、後から知ります。
【6時53分】
機長「えーアンコントロール、ジャパンエア123、アンコントロール」
管制官「了解しました」
これが最後の交信になりました。
3分後、糸が切れたたこのように画面上を点滅しながら移動していた機影が止まり、その場で10秒間点滅した後、消えました。
薄暗い管制室は、静まりかえりました。
背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていました。
30秒ほどして、上司に促され、「ジャパンエア123、ジャパンエア123」と呼びかけてみましたが、応答はありませんでした。
ヘッドフォンを外し、席を立ち、別の部屋で報告書を書きました。
妻に電話し、「いつ帰れるか分からない」と伝えました。
朝方に帰宅し、テレビで墜落した機体を見ます。
上司が、ショックを気遣い、数日の休みを与えられました。
その後も管制官の仕事を続け、最近までいた部署では、事故防止の対策づくりに取り組んできました。
今は管理職として、空港事務所で管制管理業務に携わっています。
JAL123便と交信したことは、家族と一部の同僚しか知りません。
事故から数年後に、御巣鷹の尾根に行き、その後も遺族や報道陣が多い8月を避けて、家族や仲間とたびたび登ってきました。
尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたびに、「自分が何とかできなかったか」という思いがし、表に出て話す気持ちにはなれずにいました。
最近になって、「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」と思うようになったということです。
------------------------
生々しい報告に、心が動かされました。
JAL123便の事故は、その7年前に伊丹空港で起こしたしりもち事故の修理が不適切で、隔壁が傷ついたまま使用され続けたことが原因と記事にありました。
御巣鷹の尾根に墜落したJAL123便と交信した管制官が、25年を経て、初めて交信の内容を明かにしたのだそうです。
日航123便墜落事故で、通信を担当した男性は、当時29歳でした。
東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)に勤務していました。
管制官になって8年目、先輩らとともに、「東京南セクター」空域を夕方から担当しました。
夕方は、羽田への到着便が増える時間帯で、「そろそろ忙しくなる」と思っていました。
【午後6時24分】
「ブーッ」というブザー音が管制室内に響き、JAL123便の機影に「EMG」(エマージェンシー、緊急事態)の文字が点滅し始めました。
上司が近づいてきました。
【午後6時25分】
JAL123便の機長から、英語で「日航123便、トラブル発生、羽田への帰還を求める。2万2千フィートに降下したい」と連絡が来ました。
「了解」
答えながら、「おかしいな」と感じたそうです。
普通なら、「エンジン出力が低下した」「客室内の気圧が下がった」など、トラブルの中身を伝えるのですが、機長は何も言ってきません。
JAL123便の機影は、旋回せず、伊豆半島上空をふらふらと西へ向かっています。
【午後6時27分】
「123便、確認しますが、緊急事態を宣言しますね」
「その通り」
「どういった事態ですか」
やはり応答がなく、大変なことが起きているのではと感じます。
【午後6時28分】
「レーダー誘導のため、90度(東)へ飛んでください」
「しかし、現在、アンコントロール(操縦不能)」
衝撃的な言葉でした。
普段はオフのスピーカーがオンになり、管制室全体にJAL123便との交信が放送されるようになりました。
【6時31分】
「降下できますか」
「今、降下しています」
「名古屋に降りますか」
「いや、羽田に戻りたい」
何とかしたいと思い、とっさに、「これから日本語で話していただいて結構ですから」と伝えました。
パイロットと管制官の交信は、近くを飛ぶ航空機も聞きとれるように通常は英語を使います。
この場合は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かくやり取りしたいと考えました。
他の飛行機が、JAL123便に近づかないよう、航路から退ける指示を続けました。
【6時47分】
「現在、コントロールできますか」
「アンコントーラブルです」
ヘッドフォンからは、「ああっ」という声が聞こえてきました。
機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことを、後から知ります。
【6時53分】
機長「えーアンコントロール、ジャパンエア123、アンコントロール」
管制官「了解しました」
これが最後の交信になりました。
3分後、糸が切れたたこのように画面上を点滅しながら移動していた機影が止まり、その場で10秒間点滅した後、消えました。
薄暗い管制室は、静まりかえりました。
背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていました。
30秒ほどして、上司に促され、「ジャパンエア123、ジャパンエア123」と呼びかけてみましたが、応答はありませんでした。
ヘッドフォンを外し、席を立ち、別の部屋で報告書を書きました。
妻に電話し、「いつ帰れるか分からない」と伝えました。
朝方に帰宅し、テレビで墜落した機体を見ます。
上司が、ショックを気遣い、数日の休みを与えられました。
その後も管制官の仕事を続け、最近までいた部署では、事故防止の対策づくりに取り組んできました。
今は管理職として、空港事務所で管制管理業務に携わっています。
JAL123便と交信したことは、家族と一部の同僚しか知りません。
事故から数年後に、御巣鷹の尾根に行き、その後も遺族や報道陣が多い8月を避けて、家族や仲間とたびたび登ってきました。
尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたびに、「自分が何とかできなかったか」という思いがし、表に出て話す気持ちにはなれずにいました。
最近になって、「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」と思うようになったということです。
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生々しい報告に、心が動かされました。
JAL123便の事故は、その7年前に伊丹空港で起こしたしりもち事故の修理が不適切で、隔壁が傷ついたまま使用され続けたことが原因と記事にありました。
管制塔で働かれた方のどうにもできない気持ちを感じ、私も心が動かされました。重い気持ちを背負って生きてこられたのでしょうね。
命を預かる仕事。風化させてはならない事故だと私も思っています。
重い気持ちで25年間を過ごされたのでしょうね。
命に直接関わる仕事をなさっていらっしゃる方は、毎日、集中を必要とされているのだと思いました。
昭和天皇もご搭乗されているJAL123便が不時着し、全員 問題なく生存していたので救助を待っていたところ、日本の埼玉県警の警察官らを中心とした一団が襲いかかり、乗客乗員天皇陛下を虐殺した点が遺憾な状況と言えます。
木にくくりつけて焼き殺すなど、埼玉県警察らしい残忍な犯行で、大変いたましい事態が おすたか にて発生したのでした。
日航ジャンボ123を御巣鷹に不時着させるとともに日本人を中心とした乗客乗員天皇陛下の救援に最大限の尽力を行ったのは米国のみであります
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した。木にくくりつけて焼き殺すなど埼玉県警らしい残忍な犯行であった。
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
なお、御巣鷹の尾根の報道写真でも散見される74と尾翼にかかれたU2の残骸は、8月15日に横田から改めて8月12日へ時空ワープで米軍が救助に入ったものの日露により撃墜されたものである