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人類と酒の歴史。世界10の古代酒

2016年12月19日 | 世界びっくりニュース
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 人類は千年も昔からお酒を飲み続けてきた。一部の人類学者たちは、酒は狩猟から農耕に生活様式がシフトした原因のひとつであると考えている。

 お酒は社会における潤滑剤、薬、または政治的手段などさまざまな目的に使われ続けている。タバコや薬物の規制が進んでも、お酒がいまだ容認されているのは、そういった一面があるのかもしれない。

10. 世界最古の酒は紀元前7000年前の中国

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 最近、中国で考古学者が世界最古の酒の痕跡を発見した。壊れた陶器の化学分析をしたところ、中国人は紀元前7000年には酒を飲んでいたことがわかった。

 その酒は米、ハチミツ、フルーツを醸造したものであることも判明した。このjihuaが入っていた陶器には、酒石酸塩の痕跡があった。

 石酸塩はブドウやサンザシと同じ分類の化学成分。ハチミツ、ブドウ、サンザシを砂糖や酵母とあわせて発酵させ、醸造したのだろう。jihuaは中国で発見された最古の陶器の中に入っていたため、酒の醸造の伝統はさらに古くからあったものと思われる。しかし、もし古代の酒が革や木の容器に入っていたなら、現代まで残っていなかっただろう。

9. 5000年前のスコルピオン王のワイン

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 ァラオであるスコルピオン一世の墓の底から、エジプト最古のワインが発見された。この5000年前の酒には、生薬が煎じてあり、樹脂、コリアンダーやセージ、ミントなどのハーブも含まれていることがわかった。

 さらに風味をつけるためにいくつかの添加物も入れられていたが、その多くは治療のためのものだった。

 アルコールは植物のアルカロイドを分解し、生薬にとってのスムーズな運搬システムを可能にする。紀元前1850年のパピルスから、エジプトの医療カクテルの存在については知られていたが、見つかったワインはそれよりさらに1000年以上さかのぼるものだという。

 スコルピオン王のワインはとても古く、エジプトにブドウ園が現われるずっと前のものだ。ワインは、ヨルダン川の谷から輸入されていたのだ。医療用カクテル技術は、エジプト固有のものではなく、古代中国にも治療用の醸造が行われていた証拠がある。


8. 古代の抗菌ビール(アフリカ)

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 考古学者たちが、アフリカの古代ヌビア人の骨を調べていたところ、驚くべき発見があった。遺骨から抗生物質の一種であるテトラサイクリンが検出されたのだ。どうやらヌビア人はビールを飲むことでこの古代の抗生物質を摂取していたらしい。

 研究者たちは、穀物がテトラサイクリンが生み出す真正細菌ストレプトマイセスに汚染されたという仮説をたてた。

 古代ヌビア人は泥の容器で醸造した穀物を保管していたが、このストレプトマイセスは乾燥した気候では、土壌中のいたるところにいるバクテリアなのだ。

 検査した遺体の90%以上から、テトラサイクリンが検出された。まだ2歳の幼児まで、体の中にこの抗生物質があった。

 古代ヌビア人はエジプトの南(現在のスーダン)のナイル川のほとりに住んでいたが、北の隣人から医療用醸造の伝統を受け継いだようだ。古代ヌビア人の遺体には感染の痕跡がないため、テトラサイクリンビールが骨の病気を防いだのかもしれない。


7. インカ前の時代の宴会

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 2004年、シカゴのフィールド博物館の研究チームが、ペルーの高地で古代の醸造所を発見した。インカ前に存在したワリ文化では、1000年以上前にチチャ(chica)というトウモロコシビールを大規模に醸造していた。

 15ガロン(56.7リットル)の製造樽が現場から複数見つかったことから、一日に数千リットルのチチャを生産できたのではないかと思われる。

 この醸造施設は、セロ・バウルの発掘の最中に見つかった。海抜3200メートル近くの場所に一時は2000人の人が住んでいた。チチャを飲むことは、ワリの政治的手段の一環だったのではないかと専門家は考えている。

 広大な帝国のあちこちから高官たちがセロ・バウルに招かれ、盛大な宴会に参加したのではないか。共通の言語がなくても、チチャがさまざまな文化を結びつける強力な手段になったのかもしれない。


6. ティオティワカンの高栄養飲料

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 ティオティワカンの古代の陶器の破片から、乳白色のアルコール飲料の痕跡が発見された。この飲み物が、先史時代最大の定住地のひとつであるこの地域の住民に、必要なビタミンやミネラルを提供していたのではないかと研究者は考えている。

 古代メキシコでは、食糧不足が頻繁に起こっていた。ティオティワカンの壁画には、人々がリュウゼツランの樹液から抽出したプルケという乳白色のアルコールを飲む絵が描かれている。テキーラもリュウゼツランから作るが、プルケと違って、この植物の芯の部分を炙って作る。

 周囲8平方マイル、住民10万人のティオティワカンは、コロンブス前のアメリカ最大の町だった。トウモロコシは住民にとって、欠かせない作物だったが、地下水の量が限られていたり、降雨量が少なかったりすると、出来が悪くなるときがある。

 しかも、トウモロコシは重要な栄養素の割合が低い。リュウゼツランのほうがトウモロコシよりも干ばつや寒さに強いこともあり、プルケが鉄分やカルシウム、ビタミンB、はては共生細菌(体にいいバクテリア)まで住民に提供することができたのだろう。


5. ザグロス山脈エール

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 1992年、イラン、ザグロス山脈にあるシュメール人の交易所ゴディン・テペの発掘で、紀元前3500年のビールが発見された。

 シュウ酸カルシウムが存在していたことから、大麦のビールが醸造されていたことがわかる。近くに大麦が入った容器も見つかっている。大量の保存壺からは、ゴディン・テペがかつて交易で栄えた町で、のちにシルクロードになったルートの前哨基地だったことがうかがえる。

 シュメール人は、交易と灌漑農業で財力を蓄え、複合文字社会を発達させた最初の人たちだった。ビールは彼らのお気に入りの飲み物だった。シュメール人のアートには、ビールが入った大きな鉢のまわりに集まって、長いストローで飲んでいる場面が描かれていることが多い。シュメールの遺跡では、ビールを表わす絵文字がよく見られる。


4. ヨーロッパ最古のワイン

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 2013年、ギリシャでヨーロッパ最古の酒が発掘された。6200年前のワインの残滓が、ディキリ・タッシュの先史時代の居住跡にあった陶器から発見されたのだ。

 容器の分析から、発酵の副産物である酒石酸が検出された。これまで知られている最古のワインは、アルメニアから発掘された6100年前のものだ。

 ディキリ・タッシュの住民については、ほとんど知られていないが、最新の発掘で初めて、考古学者は居住区の最深部にまで調査の手を伸ばすことができた。この先史時代の社会を作るのに酒がどのような重要な役割を果たしたのか、今はまだはっきりわかっていないが、古代のワインの残滓を発見した同じチームが、古代にワインが作られていた証拠も発見したことになるのかもしれない。

 紀元前4500年の新石器時代の住居の発掘で、皮のついた炭化したブドウの種が見つかった。これはブドウが搾られていた確かな証拠だ。


3. スカンディナビアのスピリッツ

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 最近、3500年前のスカンディナビアの女性の遺体が発掘された。彼女はブロンズのアルコール濾過器をしっかりと握って埋葬されていた。化学分析をしてみると、大麦、ハチミツ、クランベリー、ハーブからできた古代のビールだとわかった。

 ワインは南から輸入されていた。以前に古代スカンディナビアの飲み物の容器を調べたときは、花粉があったことから彼らがハチミツをベースにしたミード酒を飲んでいたことがうかがえた。しかし、最近までその成分についてははっきりわかっていなかった。

 この発見で、研究者たちはすぐに昔の発見を最新のテクノロジーで分析した。すると、戦士の墓から発掘された壺から、最古のアルコールの痕跡が出てきた。この壺にはハチミツの名残しかなかので、これはかつて混じりけのないミード酒が入っていたことを示している。

 1920年代に、古代の女司祭のミイラが発見され、エクトヴィズガールと名づけられた。彼女の足元にはグロッグ(リキュール)の壺が置いてあった。南ヨーロッパからもたらされたワイン道具は、女性の墓からしか見つかっていない。つまり、これは北欧の女性は醸造を任されていたことを示しているという。


2. 鉄器時代のビール

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 古代シュヴァーベンの墓地で、2500年前の酒の残りが入ったブロンズの大釜が発見された。14リットル入るこの大釜は、黄泉の国で飲むための飲み物用とされた。

 考古学者たちは、この釜は死者が神の前で自分の身をたてるために使われたのではないかと考えた。分析の結果、鉄器時代のビールには、大麦、酵母、ハチミツ、シモツケソウ、ミントが含まれていたことがわかった。

 釜のそばには遺体は見つかっていないが、研究者たちは酸性土壌が有機物を分解してしまったとしている。鉄の剣、鉄の兜、2本の鉄の槍といった副葬品は、墓がかなり名のある兵士のものであることを示している。この古代ビールの調査は、ミルウォーキーのレイクフロント・ブリュワリーで継続していて、醸造マイスターがレシピを再現するのに協力している。

 結局、約8パーセントのアルコール分が含まれていて、辛口のポートワインに似ていることがわかったが、残念ながら、市販できる味にはならなかった。


1. カナン人のワインセラー

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 中東でもっとも古いワインセラーは、現在のイスラエルにある。その貯蔵施設には、40の巨大な陶器の壺があって、大量の酒が保存されていた。

 この施設は16フィート(4.8メートル)×26フィート(7.9メートル)の広さがあり、500ガロンのワインを貯蔵する
ことができた。研究者によると、この古代のワインは現代のワインとは似てもにつかないという。樹脂やミント、ギンバイカ、ビャクシンなどのハーブで味つけされていて、その配合は、ギリシャのレツィーナというワインに咳止めシロップを加えたものに似ているらしい。

 この古代のワインセラーは、イスラエル北部のテル・カブリで発見された。紀元前1700年にさかのぼる広大な宮殿は、かつてイスラエルやレバノンを支配していたカナン人によって占領された。古代の文献からは、スパイシーなハーブワインがあったことがうかがえるが、今まで実物が発見されたことはなかった。

 紀元前1600年頃の巨大地震のせいで、テル・カブリが壊滅状態になり、このワインセラーも押しつぶされて1000年の間、地中に埋もれていたのだ。


☆度数はどのくらいあったのだろうか?

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遺体防腐処理。エンバーミングに関する驚くべき10の歴史的事実

2016年12月16日 | 世界びっくりニュース
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 エンバーミングは、遺体に防腐処置を施して生きていたときのままの姿で長期保存するために行われる技術だ。遺体保存の理由宗教上、教育上公開葬儀など様々だ。土葬が基本の地域では、遺体から感染症が蔓延するのを防止する目的もある。

 これまで歴史の中で行なわれてきたエンバーミングには、込み入った事情が絡んでいるものもあり、それが現代のエンバーミング技術の発展につながることもあった。ここでは歴史的なエンバーミングに関する10の事実を見ていこう。

10. レオナルド・ダ・ヴィンチが取り組んだエンバーミング


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 15世紀、人体を解剖学的にとことん理解したいという欲望が高じて、遺体の保存という新たな試行錯誤の技術がもたらされた。この挑戦に取り組んだもっとも有名な人物のひとりが、レオナルド・ダ・ヴィンチである。

 彼は静脈にさまざまに調合した溶液を注入する方法を残している。ダ・ヴィンチが研究によって編み出した防腐保存液は、ラベンダーオイル、ロジン、ワイン、テレビン油、硝酸ナトリウム、硝酸カリウム、樟脳それに蝋だった。それから2世紀後、ピョートル大帝は、フレデリクス・ルイシの解剖人体の標本などのコレクション「驚異の部屋」“repository of curiosities”を手に入れた。

 注入されていた秘密の薬液(liquor balsamicum)の成分は、凝固したブタの血、紺青、酸化水銀だった。ピ
ョートル大帝は、ルイシのこの薬液の効力に驚いて、「余は4歳の少年少女たちの血管がよみがえり、目を開き、滑らかな体になっているのを見た。彼らはアルコール浸けにすらなっていないというのに」と驚きの声をあげたという。


9. 戦死した遺体を持ち帰るために発達したエンバーミング


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 アメリカでは南北戦争(1861年 - 1865年)のとき、戦死した兵士を遠路はるばる家に送り届けなくてはならない状況から、エンバーミングの必要性が急に高まった。

 リンカーン大統領の親友、エルマー・E・エルズワース大佐の戦死後、外科医のトーマス・ホームズがエルズワースの遺体のエンバーミングを任された。その後、ホームズの仕事はその特殊性ゆえに需要が増し、リンカーン夫人からも称賛された。

 ホームズは、独自の秘密の防腐保存液を1ガロン3ドルで売り始め、医療部隊の隊長の任命を引き受けた。将校ひとりにつき50ドル(当時の値段)、下士官は25ドルでエンバーミングを請け負ったが、その金額は80ドルと30ドルにそれぞれ値上がりしている。

 エンバーミングは儲かるという噂が広まり、外科医や薬剤師を始め猫も杓子も戦場にこぞって集まり、死んだ兵士の遺体を探し回った。遺族がありがたがって金を払うことがわかっていたからだ。エンバーミングが専門の軍人ではなく日和見主義の市民によって行われていたことに当惑するが、未来のエンバーミングのためには前進となった。


8. 166年間公開された歯科医の妻の遺体


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 マルティン・ヴァン・バッチェルはエキセントリックな歯医者だった。彼はしきたりにとらわれない型破りな生活を送った男で、立派な専門職に就いていたにもかかわらず、その社会的、職業的な作法は受け入れられないことが多かった。

 バッチェルの妻メアリーが死去したのは1775年。バッチェルは、クイーン・シャルロットの分娩を扱ったこともある、解剖学者として評判の高い友人のウィリアム・ハンターの助けをかりて、亡くなった妻の遺体を防腐処置した。

 さらにその遺体を自分の仕事場の窓辺に展示して一般に公開したのだ。モーニングポストは、エンバーミング工程の複雑さを説明し、生々しい詳細まで余すところなく伝えた。やがて、エアリーの保存された遺体はロンドンの王立外科医師会で展示されるようになり、1941年5月にドイツ軍の爆撃で破壊されるまで、166年間公開されていた。


7. 14世紀の人間の心臓


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 14世紀のフランスの修道院の地下から、保存状態のいい人間の心臓が5つ発掘された。興味深かったのはある騎士の心臓で、やはり保存状態のいい妻の遺体と共に埋められていた。

 当時心臓は魂のシンボルと考えられていた。中世後期、ヨーロッパの王族は、古代エジプトの技術を使って医師によってエンバーミング施された。16世紀になると、遺体は洗浄の後、ラベンダーやタイムのようなハーブやスパイスに浸して、パウダーや軟膏で水分を抜かれた。体全体または部分は、蝋のついた布で何重にも巻かれ、蜜蝋で封印されて、鉛の棺か壺の中に納められた。防腐処理のこうした手の込んだ工程が、死後は必ず腐敗する有機物を扱う異例な処置だとすれば、考古学者の夢でもある。


6. ブランデー漬けか?ラム漬けか?ホレーショ・ネルソンの遺体


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 イギリスでもっとも尊敬される英雄といえば、ホレーショ・ネルソン提督だろう。1805年10月、ナポレオン戦争のトラファルガー海戦で致命傷を負い亡くなった。

 ネルソンの船に同行していた外科医のウィリアム・ビーティは、イギリスに戻る長い航海のためにネルソンの遺体をエンバーミングすることに決めた。

 1800年初期の防腐処置はまったく今とは違っていた。ネルソンの遺体はブランデーを満たしたドラム缶の中に安置されたのだ。遺体にどれだけアルコールが浸み込んだかに応じて、頻繁にブランデーが補充されたという。

 船がイギリスに到着したとき、ビーティはラムではなくブランデーを使ったことをこっぴどく批判された。ラムのほうが保存力が優れていると考えられていたからだ。しかし、ネルソンの遺体が死後2ヶ月たっても腐敗していなかったことをその目で確認した船員たちによってビーティの正当性が認められた。

5. 19世紀、遺体は遺族の目の前で処理されていた


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 19世紀になると、エンバーミングはたびたび行われるようになった。だが専門家が店をかまえるようなことはなく、エンバーミングのほとんどは死者が住んでいた個人宅で行われた。当然のことながら、処置の間にそばにいる遺族にとって、過酷なシーンを目の当たりにすることになった。

 エンバーマーは、携帯用のさまざまな道具や装置を運ばなくてはならなかった。遺体を寝かせる冷却テーブル(冷蔵機能はない)、口を閉じるためのマウスクランプ、外科用メス、排液チューブ、ガラスのシリンダー、防腐保存液の入った大型の壺、冷却テーブルを覆う掛け布、化粧品、カール用アイロン、カミソリ、砥石などだ。


4. 故人の遺志に反してエンバーミングの練習台に


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 信仰に従って、マデリーン・ポストは自分の遺体は火葬にするよう指示していた。ところが2000年11月、ポストはガンで亡くなったが、その遺体はフロリダのフォートローダーデールの火葬場ではなく、リン大学のエンバーミングを学ぶ学生の実習のために"貸し出された"。

 さんざん練習台にされてから、ポストの遺体はやっと荼毘に付された。ポストの夫ジェフリーが妻の遺体の扱いを知ったのは4ヶ月もたってからだった。当然、ジェフリーは遺体の運搬会社とリン大学と葬儀場を訴えた。大学と葬儀場は最終的に示談で和解した。

 アメリカでは経済的に苦しい家庭が、愛する故人を大学に貸し出すケースが年間600件以上あると言われている。


3. 墓地から流れ出すエンバーミング用のホルムアルデヒド


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 研究によってホルムアルデヒドに発ガン性の影響があることがわかり、エンバーマーはガンや心臓疾患、肺炎になりやすいと結論づけられた。

 その後エンバーマーが毒素にさらされるのを減らすための基準が定められたが、南北戦争時代の墓地や、1800年代から1900年代始めの墓地の近くに住む人は、飲料水が汚染されている可能性があるという恐ろしい事実に直面している。

 1900年より前の時代は、エンバーミング用の液には分解しない毒素である砒素がおもに含まれていた。2002年、アイオワシティの水には、法定制限レベルの3倍の砒素が含まれていることが判明した。研究者たちは、この毒素は墓から土壌に漏れ出していて、雨水や洪水で飲料水に入り込んでいる可能性があると主張している。人間がこの水を飲めば、皮膚、肺、肝臓、膀胱などのガンといった深刻な健康被害が出る可能性がある。


2. ついに正義がなされた


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 遺体がどれだけしっかりとエンバーミングされているかでその保存期間が決まる。例えば、防腐処置を強化すれば、従来のエンバーミングよりもそれだけ遺体のもちは長くなる。

 アフリカ系アメリカ人の人権活動家メドガー・エヴァーズの遺体は、完全にエンバーミングされていたので、暗殺されてから30年たっても、解剖を行うことができた。

 1991年、エヴァーズの遺体がアーリントン国立墓地から掘り起こされた。暗殺の重要な証拠が隠蔽されたという非難の嵐の中、ミシシッピ州の検察が捜査を再開したのだ。検察側はこの重要な証拠が出てくれば、白人至上主義者バイロン・デ・ラ・ベックウィズを有罪にできると信じていた。

 ベックウィズはエヴァーズ殺しの罪で1964年に2度裁判にかけられていたが、2度とも陪審員は全員白人男性で、事件は行き詰っていた。検察が4年の歳月をかけて立件した結果、ベックウィズは有罪となり、エヴァーズの暗殺後31年がたった1994年に終身刑を言い渡された。ベックウィズは2001年に80歳で獄死した。


1. 見世物にされた法王ピウス12世


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 1958年のローマ法王ピウス12世の死は、無神経なやり方でひどい見世物にされて、その尊厳がひどく損なわれてしまった。節操のない医師が、法王が死の床でひどく苦しむ姿を撮影してその写真を公開してしまい、それがイタリアの各新聞の一面に載ってしまったのだ。さらに事態を悪くしたのは、死後施されたお粗末なエンバーミング。このせいで、埋葬までに"エメラルドグリーンに変わるほど"法王の遺体はかなり腐敗が進んでしまった。

 日にちがたつにつれ、腐敗はひどくなり、法王の鼻がもげてしまった。遺体の放つあまりの悪臭に、警護にあたっていたスイス衛兵のひとりが気を失うほどだったという。次の法王ヨハネ23世は、皆に愛され1963年に亡くなったが、幸いなことにこのような運命はふりかからなかった。

via:Historically Riveting Facts About Embalming

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権力の暴力。割とヤバイ警察が存在する世界15の国

2016年12月14日 | 世界びっくりニュース
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 警察とは、実力をもって社会の治安を維持する組織である。社会の法を守り、正義を行い、善良な市民を守り、犯罪者を捕まえ被害者を助けるために存在するはずだ。

 しかし残念なことに、必ずしもそうとは限らない場合もある。警官だって人間なので、道を踏み外してしまうこともあるのである。だが世界の一部の地域では、権力を振りかざし、それがあたりまえのようなってしまっている国もある。

 ここでは実際に起きた事件を踏まえながら、その国の警察と接触するときは細心の注意を払わなければならない15の国をあげてみよう。


15. スーダン、南スーダン

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 昔から不安定な状態が続いているスーダンから2011年、南スーダンが分離独立した。いまだ治安は悪化しており、警察の蛮行も多いと言われている。

 最近の事件のひとつは、燃料の高騰に不満を爆発させた抗議者と警察の衝突で、抗争はたちまち泥沼化していった。わずか数日の間に大勢の人が殺され、少なくとも50人は警察の発砲によって命を落としたことがわかっている。

 犠牲者たちは胸や頭を撃たれていて、意図的に殺されたと考えられている。他にも警察官が通りで盗みの疑いをかけられた人々を殴りつけている動画がネットに流出したが、これはほんの一例だ。多くの人々が警官を怖れているという。


14. 中国

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 中国でも警察の理不尽な権力行使がたびたび繰り返されることに非難が集まっている。2016年5月には、ふたりの男性がソーシャルメディアでショッキングな話をシェアした。

 公安省の人間がひとりの男性を蹴り、その友人が携帯で証拠としてその場面を撮影した。すると、ふたりは動画を拡散しないことを約束するまで警察からこっぴどく殴られたというのだ。

 この事件は、警察で拘留中にひとりの男性が死んだすぐ後で起こった。その男性はフットマッサージの店で急に逮捕され、警官に殴られて独房で死んだのだ。

 このスキャンダルは市民の怒りをかったが、警察権力によるこうした暴力の再発を防ぐためになにか具体的な対策がとられたわけではなかった。


13. パキスタン

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 警官による殴打はあまりにも日常茶飯事なので、そのことについてふれてもあまり意味がないかもしれない。2011年にカロタバードで起こった事件は悲惨だ。5人の外国人が、国境の検問所で自爆テロの疑いをかけられて、警官に射殺されたのだ。更には警察の公式見解に反する証言をした警察医が二度襲撃され、二度目に射殺された。

 2015年には、検問所で制止しなかった二人の兄弟がやはり射殺された。両方のケースとも、犠牲者はただそこを通ろうとしていただけでまったくの丸腰だった。

 アフガニスタン難民もまた、この国の警察の横暴をずっと証言していて、結局国を追い出された。逮捕や嫌がらせ、殴打は日課のようなもので、彼らが屈して退去に同意するまで毎日続けられたという。


12. ミャンマー

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 2015年、学生、僧侶、ジャーナリストが団結して、学問の自由を求めて抗議した。信じられないことに、それに対する答えは警察による暴力だった。200人の学生のデモ行進が500人の警官に阻止されたのだ。騒ぎがおさまったとき、学生の半分は牢に入れられた。

 警察は学生たちに発砲し、大統領は武力を使ったことを正当化して、警察を擁護する声明を出さざるをえなくなった。政府はアメリカのファーガソン暴動事件(黒人少年射殺事件)を引き合いに出して、こうした抗議や不穏の兆候に対して断固として対処するためと言い訳した。

 政府のメッセージは明らかだ。ミャンマーにおいて誰ひとりとして、反政府的な考えをもつことは許されない。反抗するなら、暴力と逮捕が待っているということなのだ。


11. 北朝鮮

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 情報が厳しく統制されているため、この国の中でなにが起こっているのかは本当のところはわからない。実際、わたしたちが知っていることは、ほとんど韓国など外国へ亡命した市民からの情報なのだ。声をあげている亡命者たちは、北朝鮮に残してきた友人や家族を危険にさらしていることがわかっている。

 ラオスに逃げようとした9人の子どもたちは、中国国境警備隊に暴力をふるわれ、結局本国に送還された。その後、そのほとんどが処刑されたと言われている。

 北朝鮮の刑務所に関する国連のショッキングな報告によると、囚人たちは意図的に飢えさせられ、強制的に労働させられ、拷問、暴行されるという。もちろん処刑されることもある。町の状態も良くなく、警察は最高指導者を喜ばせるために、その意向にかなうように行動しするという。


10. ブラジル

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 2015年、ブラジルはシリアよりも暴力による死者数が多かったことが判明している。それに一役買っているのは警察による蛮行だ。実際、2015年のリオデジャネイロでの殺人の5分の1は、警官によるものだ。。ファベーラなどスラム街を一掃するために、警察は社会から排除すべきとみなした人間を処刑する自由権限が与えられていて、ほぼすべての殺人が正当防衛と報告されている。

 これが本当のことなのかどうか、現時点では不明だが、いつでも引き金を引きたがる警察の横暴は、町のギャングにひけをとらない。この国では今だ警察が目撃者を暴力で脅し、証拠をでっちあげる。


9. アフガニスタン

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 最近でこそ、警察がタリバンの脅威にいかに対応しているかが注目されるようになってきているが、容疑者をすぐに裁判にかけるというより、ほとんどを最初から有罪扱いして、さんざん殴りつけるという体質は抜けていないようだ。

 2016年始めに出回った動画には、自爆テロ容疑をかけられた男性が後ろ手に縛られてパトカーにくくりつけられ、30メートルも引きずられて、警官に殴る蹴るされている様子が映っていた。警察署長のアブドゥル・ラジクは過去に拷問や殺人で糾弾された人物なので、カンダハル南部ではこんなことは珍しいことではないという。


8. イラン

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 2009年、アシュラの抗議デモのことに触れよう。これは暴力は禁止され、正義が行われるはずの神聖なアシュラの日に起こった。抗議デモに参加した人たちは治安部隊の武力によって迎えられ、私服警官は人々に直接発砲し、トラックが人々をなぎ倒した。

 選挙に対する抗議の間これがずっと繰り返されたのだ。警官は警棒や棍棒、唐辛子スプレーや火器を使って、平和的なデモも暴動も一緒くたに封じ込めた。政府は公式な死亡者数は36名と発表したが、反対勢力はその数はもっと多いと主張している。

 2015年は、イランはアメリカの黒人に対する警察の暴力についての会議を開催したが、これはこの国の警察権力についての真実を知っている人たちの怒りをかった。


7. ハイチ

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 ハイチの暴力は日常的なもので、この10年は虐殺や事件がかなり横行していて、先進国から相当な批判を浴びている。そのひとつの例に、ア・バッシュ島での事件がある。

 この島を娯楽の場に変えようと目論んだ政府の職員が入り込んできて、正式な手続きもとらず、住民に告知することもなく、いきなりブルドーザーで家を壊し始めた。

 住民が平和的な抗議デモを行って説明を求めると、新しい警察署長は話し合うどころか、住民を武力で黙らせる方針に出た。人権団体が現地に向かって話し合おうとしたが、一ヶ月の間に17人の男女や聖職者が棍棒で殴られ、踏んだり蹴ったりの暴力をふるわれた。

 この暴力事件以来、住民には難聴や大量出血などの障害が出ている。地元の警察官などの地位のある抗議者は、ただ逮捕され追放された。

6. ケニア

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 2016年5月、ケニア警察は市民との衝突について激しい批判にさらされた。抗議デモの列に武力で対応したのだ。もちろんこれがはじめてのことではない。

 あるジャーナリストの証言によると、ひとりの男性が通りの向こうまで追いかけられて、引き倒された。彼は動けなくなっていたのに、追いかけていた警官が棍棒が半分に折れるほど激しく殴り、何度も蹴った。そこにふたりの警官が加わったという。

 警官たちは抗議者たちや野次馬を路地まで執拗に追いかけて、警棒で殴っていた。人々が近くの建物の中に逃げ込むと、そこにも警官が入り込んで彼らを追い立て、外で待っていた仲間の警官が逃げようとする人たちにまた殴る蹴るの暴行を加えた。

 抵抗する者たちは政府によって骨抜きにされたのだ。彼らは、たとえ自分の命を危険にさらしても街頭で声をあげ続ける。この国に広くはびこる不満があるからだ。


5. ロシア

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 この国の警察の暴力はあまりにも日常茶飯事なので、特に報道もされない。とロシア市民自身が言っている。ロシアの警察は好きなときに暴力を行使すると諦め顔だ。

 刑務所の状況は特にひどく、最近ニュースになったケースでは、1970年代にそこそこ成功したバンドのドラマーだったセルゲイ・ペストフの事件がある。2015年9月、ペストフがモスクワ近くの自宅のガレージでドラムを叩いていたところ、いきなり警察がなだれ込んできて逮捕された。

 仲間のミュージシャンのエカテリーナ・シェルビナによると、警官はガレージに入ってくるなり、ペストフを殴り始め、ひとりが後頭部を殴ったので、彼の鼻から血が噴き出したという。それからペストフは自分のベルトで縛り上げられ、ドラッグ売買の疑いで警察に拘留された。

 翌朝、セルゲイの妻は病院のベッドの上で冷たくなった夫と対面しなくてはならなくなった。警察は真夜中にペストフを釈放したと言っているが、家に戻ってきたときにはすでに彼は具合が悪くなっていた。人権団体はこ
の話を鵜呑みにはしないだろう。


4. ソマリア

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 世界でもっとも腐敗した警察のひとつとして知られる。警察組織はほとんど機能していないといってよく、犯罪が行われても、警官は賄賂を受け取って、ほとんど見て見ぬふりをする。警官の給料は安く、彼らは市民を金ヅルだとみなしているそうだ。取り調べの最中に、無実の市民を虐待するのはもちろん盗みもいとわず、警察の暴力は手に負えない。

 さらに、2009年にはドイツ政府による警察訓練の後、1000人ものソマリアの警官が突然姿を消した。彼らは逃亡してISに加入したと考えられている。こうした蛮行を一掃しようという努力もなされているが、いまだに腐敗と暴力は健在で、市民にとってもっとも危険な国のひとつになっている。


3. エジプト

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 2004年、元CIA工作員ロバート・ベアは、エジプトはこの世から抹殺したい人間を送り込むのに最適な国だと言った。それから、アラブの春が起こり、事態はさらに悪くなるばかりになった。この国の警察の暴力件数はうなぎのぼりで、留まる兆しもない。

 2015年には1250人の人が消されたと言われている。267人が捜査や裁判もなく警察によって殺され、4万人が政治犯として拘留された。この数字は人権団体がまとめたものだが、実際にはもっと多いと考えられている。

 暴力被害者のリハビリのための組織ナディーム・センターは、この年に起こった600件以上の拷問の報告書をまとめたが、そのために許可なしに海外から資金提供を受けたとして取り調べを受けた。残念なことに、これまで警察の暴力を止める有効な解決策はない。特に、追放されたムバラク前大統領が抗議者や反対勢力に甘かったせいで、こういう事態を招いたと考えている現政権下では厳しい。


2. 南アフリカ

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 この国で警察による殺人は2014年よりも2015年のほうが増えている。殺人のみならず、制服警官の蛮行事件は増える一方だ。これには拷問や暴行も含まれる。警察に対する市民による責任訴訟がすべてが認められたら、警察の予算はすべて吹っ飛んでしまうくらいだ。

 2015年には警察の拘留中の死亡者は244人、警官が絡んだ暴行事件は124件、勤務中の暴行は42件、拷問は145件で、前年よりも50%近く増加している。抗議してもゴム弾などの武器で対抗してくる警察の蛮行は、アパルトヘイト以来ずっと続いている問題なのは明らかだ。


1. アメリカ

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 アメリカでの警察の蛮行は、市民が情報を発し、大々的に報道されることからよく聞くことだろう。特に911以降、警官が少しでも容疑者が危険かもしれないと思ったら、射殺しても咎められないという風潮がはびこってきた。

 警察での拘留中の死を含め、問題のある発砲は数えきれないくらいあり、これが暴動や非難の広がりのき
っかけになっている。最近の例では、2014年のファーガスンでの黒人少年マイケル・ブラウンの射殺事件、アルトン・スターリング、フィランド・キャスティル、グレゴリー・ガンの殺害事件などだ。こうした蛮行が全国的な抗議につながり、ブラック・ライブス・マター運動は、警察の蛮行の多くは人種差別が動機だとはばかることなく言っている。

15 Countries With The Most Police Brutality

☆アメリカが一番やばいんかいな!

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アイヌ語も?今だ謎に包まれた起源が不明確な10種の古代言語

2016年12月12日 | 世界びっくりニュース
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 言語からは、ある社会の文化、生活、進化、移住パターンなど、様々なことを知ることができる。また古代人の考え方や遠い過去の時代の物語についても教えてくれる。

 だが中にはまったく矛盾する事実を突きつけ、謎に包まれたまま煙に巻いてしまうようなものもある。ここでは海外サイトでまとめられていたそんな期限不明な10種の古代言語を見ていこう。

10. 北ピケネ語

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image credit: Corbis

 紀元前1千年紀にイタリア北東部に住んでいたとされるピケネ人の言語。南ピケネ語はよく研究されおり、オスク・ウンブリア語群に連なるイタリック語派に属するとされている。しかし北ピケネ語はそれとは大きく異なり、正確に分類することができない。
 
 イタリアのノヴィララで発見された石碑から見つかった。エトルリア文字に似ているが、子音にはギリシャ文字を含むものがある。文法にもよく分からない点が多い。


9. エトルリア語


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image credit: Wikimedia

 ローマ帝国が成立する前、イタリアのトスカーナ地方に存在したエトルリア文明の言語。エトルリア文明は強大かつ洗練された文化を有しており、地中海西部では最古の主要文明である。現在知られる古代の知識は古代ローマ語から判明したものであるため、それ以前の社会は謎めいたものとして見られることがしばしばだ。

 エトルリア語には他の言語には見られない特徴があり、孤立した言語と考えられることも多い。屈折した複雑な言語で、格を多用する。起源は不明であるが、ティレニア語族の一種とする説もある。


8. バスク語

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image credit:Wikimedia

 スペイン北部ならびにフランス南西部の一部に住むバスク人が話す言語。これまでの研究からは、世界のどの言語とも関連性が見出されていない。

 他のイベリア語が滅んでしまった中、ローマ語以前の言語として現代まで生き残った唯一の言語である。バスク語、イベリア語、アフロ・アジア語族との関連性を示した説はいくつもあるが、いずれも一般的な支持は得られていない。現存する言語としてユニークな地位にあり、かつてイベリア半島で暮らしていた古代人の言語的多様性を伝えてくれる。


7. シュメール語

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image credit: Schoy Collection

 くさび形文字で有名。紀元前2千年紀にメソポタミアで話されていた。文字は表意文字、象徴、抽象図形の組み合わせで、特定の単語や音ではなく概念を表す。解読されたものもあるが、新しい説明がその後も登場しており、文法や構文についての議論は続いている。

 他の古代言語と同じく、こう着語である。別個の語尾と接尾辞で単語を形成し、意味を伝える。起源は不明であり、その候補についてすら一貫した説はない。


6. アイヌ語

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image credit:Wikimedia

 現在、北海道島や本州島北東地域やロシア極東地域等に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。

 アイヌ民族は、大和民族と文化的・言語的に異なり、紀元前14,500年頃に日本に移住した縄文人の子孫と言われている。大和民族と地理的に近い位置で話され、古くから交流があったにも関わらず、日本語とそれほど共通点が見いだせない。
 
 一方で、アイヌ民族が日本へやってきたのは西暦1200~1300年で、朝鮮半島の北渤海あたりに住んで居たことがわかっており、縄文文化とアイヌ文化は全く異なる文化であり民族的にも別種だという説もある(コメント欄より) 。

 ただし、伝統的なアイヌ民族は文字で言葉を表す文化を持たなかった。そのため彼らの立場で書かれた歴史的記録がなく不明な点が多い。のちに日本語の仮名文字で記されるようになったが、本来であれば音だけで伝えられるアイヌ語を話す者は一握りしかおらず、消滅が懸念される危機に瀕する言語である。


5. シケル語

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image credit: BenAveling

 イタリア、シチリア島にはかつてシクリ人という民族が暮らしていた。当時のシチリア島に存在した3先住民の一つで、インド・ヨーロッパ語族の言語を話していたと言われている(ただし証拠に乏しいためはっきりと結論は出されていない)。

 シクリ人はイタリアのリグーリア地方あるいはラティウム地方に起源があると言われている。土着の信仰があり、多数の神々を奉じるなど独自の文化を有していたが、やがてギリシャ人によってもたらされたギリシャ文化に同化した。ギリシャ文化以前に記されたものが少なく、わずかな碑文しか残っていない。


4. ヴィンチャ語

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image credit:Wikimedia

古ヨーロッパ語ともいう。ヨーロッパ南東部で発掘された出土品の印に基づく、仮説上の言語である。印は世界最初期の文字と考えられており、シュメールのくさび形文字やエジプトの象形文字より数千年も古い可能性がある。

 印が発見されたのは、紀元前6,000~3,000年頃にヴィンチャ人が暮らしていた、現在のルーマニア西部のドナウ川沿いに当たる地域である。暮らしや社会については謎に包まれた文化であるが、発見された記述はいずれも短文であるため、解読されることは決してないだろう。


3. フルリ語

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image credit:Wikimedia

 ヒッタイト帝国が支配した地域で話されていた、今では死語となった古代言語。フルリ語を話す部族は元々アルメニアの山岳地帯で暮らしていたが、紀元前2千年紀にメソポタミアやアナトリアに移住してきたと考えられている。アッシリアに征服される以前は、ミタンニ王国で話されていた。

 他の言語と結びつけられる形で分類されてはいないが、アルノー・フルネとアラン・R・ボンバードは、著書の中でインド・ヨーロッパ語族の特徴が見受けられると主張している。


2. エラム語

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image credit:Wikimedia

 メソポタミアではシュメール語とアッカド語のほかにもエラム語が使用されていた。解読は不完全であるが、一部文法の理解が進んでいる。象形文字と表語文字を含む原始的な文字だったが、くさび形文字に取って代わられた。

 こう着語で、ヨーロッパや中東で話されていた他の古代語に似た文法的要素がある。名詞、動詞、代名詞には複雑なバリエーションを持つ形態素や接尾辞が付与される。語順はSOV型(インド・ヨーロッパ語族言語には見られない特徴)であり、動詞が文末に置かれるという他の言語には見られない特徴がある。


1. ラエティア語

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image credit:Wikimedia

 現在のイタリア北部、オーストリア西部に当たる東アルプス地域で使用されていた。紀元前500年頃のアルプス先住民の言語。

 起源については、エトルリア語やリムノス語と同じティルセニア語族とする説、インド・ヨーロッパ語族から派生したとする説など、いくつか説がある。エトルリア語の影響を受けた孤立した言語という説もあるが、真実が明らかになることはないだろう。

via:10 Ancient Languages With Unknown Origins

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人間が進化したことでもたらされた6つの不都合

2016年12月09日 | 世界びっくりニュース
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 “適者生存”というフレーズは、自然選択が絶対的なものであり、人間を強く、健康な存在にしてきたと思わせがちだ。だが現実にはそう単純な話ではない。

 米デラウェア大学の古人類学者カレン・ローゼンバーグはこれについて語っている。「”適合”が酸素に適合したり、遠くまで走れるようになったりすることを意味していると思われていますが、進化生物学においての”適合”とは繁殖における成功を意味しています」。つまり遺伝子を次の世代に伝えられるだけの間生きることができればいいのだ。

 繁殖において成功するために、自然選択は妥協を強いることがある。結果として、現代の人間は健康上の問題を抱えることになった。ここではそうした進化のせいで我々が悩まされることになった6つの問題を紹介しよう。

1. 腰痛1_e4

 二足歩行の誕生は人の進化において重要な出来事であった。直立して立つことで、遠くまで移動できるようになり、また空いた手で道具を利用したり、食料を運べるようになった。

 チンパンジーなど四足歩行の親戚たちでは、脊柱が吊り橋のように機能している。しかし、そうした水平構造を垂直に傾ければ、たちまち不安定になる。

 直立した生物の背骨を構造的に健全にしておく方法は、椎骨をまっすぐ積み重ねることだろう。しかし、それでは産道を塞いでしまい、種の生存を確保できなくなる。頭の大きな子供を出産するために、人間の背骨はカーブを描くように進化せざるを得なかった。その代償が腰痛、椎間板ヘルニア、圧迫骨折といった症状である。


2. 捻挫、骨折しやすい足

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 人体は一から設計されたわけではなく、類人猿の祖先から解剖学的構造を受け継いでいる。足がその好例である。

 我々が二本足で立つようになると、祖先が木を登り、枝を掴むために必要としていた柔軟な足は要らなくなった。

 大地でより安定して立つために、進化は”クリップとガムテーム”アプローチを採用した。こうして捻ったり、回転させたりするのに都合がいい猿の足を改造したもので歩かなければいけなくなったために、足首の捻挫や骨折をしやすくなってしまった。脛に添え木を当てたり、足底に炎症を起こしたり、アキレス腱を切ったりするのもこのためだ。
 

3. 難産

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 他の類人猿と比べて人間が難産なのは、胎児の頭と肩幅の割に骨盤が非常に狭いからだ。骨盤の形状は歩行と出産の妥協の産物なのである。

 しかし人間は長く苦しい出産に対して面白い文化的な回答を用意した。ほとんどの哺乳類にとって出産とは単独で行う行為であるが、事実上ほぼすべての人間の母親は親族、助産婦、医師といった他人からの介助を求めるようになったのである。

 ある論文では、自然選択は他人の介助を好んだようであると論じている。おそらくは妊婦による意識的な決定ではない。むしろ恐怖、不安、苦痛といった要因に起因するのだろうが、長い目で見るとこれが死産率を減らす結果につながったという。


4. ジャンクフードが好き

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 ファストフードやスナック菓子を止められないことには十分な理由がある。糖質はエネルギーの基本であるが、余分な糖質は脂肪として蓄えられる。

 農業や工業化が進む以前の食料が乏しく、供給が不安定だった時代、糖質の甘みは生存に不可欠なものであった。しかし現代ではスーパーに行けば加工された糖がすぐに手に入る。こうして食べ過ぎによる肥満が蔓延し、糖尿病や高血圧が増えた。

 食品業界が大きな利益を上げることができるのは、石器時代のままの体が糖を求めるからである。だが現代は糖が安く、大量に手に入る宇宙時代。大きなボトルでの清涼飲料水の販売を禁止して、狩猟採集社会の状況を取り戻そうという意見すらある。


5. 精神病


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 自然選択は、統合失調症やうつ病のような、出生率の低下に結びつく潜在的に危険な状態を排除しなかった。一説によると、この状況は精神病を患った患者の親族であるが、症状を発症していない人に原因があるそうだ。彼らが突然変異を子供に遺伝させることで、遺伝子プールの中に病気が蓄えられる結果となった。

 また精神病の起源に着目する説もある。それによると、一見有害そうな病気であるが、進化上の利点があったのだという。例えば、うつの症状として不活発になることが挙げられるが、これは同時に思考の分析的な傾向を強め、問題解決に役立った可能性がある。さらに統合失調症に関連する遺伝子が複雑な認知を助けている可能性を指摘する専門家もいる。


6. 親知らず

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 直立歩行をするようになった人間は、別の変形も遂げることになる。脳が異常に大きくなったのだ。大きな脳を保持するために顔の形が変化し、顎は狭くなった。これによって、かつて咀嚼で大きな役割を果たしていた親知らずが生えてくる隙間がなくなってしまう。抜かずに放っておくと、ズキズキと痛み、感染症を引き起こすこともある。

 しかし自然選択は現在でも続いている。親知らずが生えることを防ぐ遺伝子の突然変異が広まり、親知らずが生まれつきない人が増えているのだ。

via:6 Downsides of Human Evolution

☆長生きが問題やと思うねんけど!

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