友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「やられたら、やりかえせ」という考えを無くす

2018年06月01日 18時40分50秒 | Weblog

  誰に聞いても、「ケンカはいかん。暴力を振るってはダメ」と言う。それでも何人かは、「やられたら、やりかえしてこい」と言う。子どもにそんなことを言って、本気でやり返したら、殴られたら殴り返すだけでなく、鉄棒とかナイフを使ったら、もうそれは修羅場である。「ケンカのルールを教えればいい」と言うが、恐怖と興奮にあればルールは無いのと同じだ。

 「やられっぱなしでは相手はますます図に乗るから、ルールの下でやらせればいい」とまで言う。ルールの下で行われるスポーツでも、勝つためには手段を選ばない事だってある。「ケンカはいかん。暴力はダメ」が社会の価値観であれば、「やられる」ことはない。「やられたら、やりかえせ」という考えこそ無くさなくてはいけないことだ。

 「ケンカはいかん」と言う人の中にも、「防衛は必要」と言う人がいる。「攻めてきたら困るが、強力な防備が整っていれば攻めてこない」と専守防衛の軍隊を持つべきだと主張する。それなら、北朝鮮の核ミサイル開発を非難できない。北朝鮮は戦争状態にあるアメリカからの「攻撃を抑止するため、核ミサイルを持っている。攻撃されない保証があれば、核は放棄してもいい」と言う。

 今日の中日新聞に、私が好きな小説家の諏訪哲史さんが「銃には銃を」という愚かさを説いていた。トランプ大統領が「『彼(殺人者)以外の皆も銃を持てば平和』というのは臆病や無知以前に、人格・品性の問題です。生き方の問題です」と。そして、「自衛とは、終わりなき復讐合戦を相手のせいにし続けるために、自陣本位の言いわけです」とも。

 諏訪哲史さんが言うように、銃がなければ殺人は起きないし、武器がなければ戦争もない。ルールを決めることではなく、銃などの武器をこの社会から無くすことが指導者の努めである。そのためには、ひとりでも多くの人が、「ケンカはいかん。暴力はダメ。戦争は絶対しない」と声をあげることだと思う。

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