サッカーW杯の昨日の試合は残念だった。残念だったけれど、日本チームもパラグアイチームも力の差がないことを証明してくれた。1点も取れなかったけれど、1点も取られなかったのだから、まさに互角だろう。「PK戦で負けたのはもっと悔しいよ」と、高1の孫娘は言うけれど、点を取られなかったのだから、どちらが次に行ってもおかしくない。今回はパラグアイに譲ったと思えばいいのではないだろうか。
それに、パソコンでW杯を見ていたら、美人サポーターを紹介するコーナーがあったけれど、「パラグアイの美しすぎるサポーター」が残らないのは寂しい気がする。よくまあ、そんなイヤラシイと非難されそうだけれど、男たちが見ているのはサッカーの試合だけではないということだろう。甲子園大会でも応援席の「美しい女子高生」が特集されたこともある。非常識ということからか、近頃ではそうした特集はなくなったけれど。
そんなことはどうでもいい。青少年健全育成運動とかで、「悪書追放」が叫ばれていたが、こういう運動が行なわれないとなかなか表から消えないことは事実だろう。人の心の中には昔から、善と悪とが存在し、その葛藤が人をよりよいものへと導くと言われてきた。でも、本当にそうなのだろうか。人の心には相反するものが存在するのだろうか。もし、そうであるなら、どうして神様は善を創ったのに悪も創ったのだろう。
テレビで「素数の謎」をやっていた。2とか3とかいうあの割れない数のことだ。4は2で割れるけれど、5は割れないが次の6は2でも3でも割れる。7は割れないが次の8、9、10は割れる数だ。次は11、13、17、19と割れない数は続く。私は知識がなかったので、3桁の数ならほとんどが割れるだろうと思っていた。ところが、割れない数はもっと先まで続くようだ。
それはそれで面白いとは思うけれど、いったいそれを追求することで何が明らかになるのだろうかと思ってしまう。ところが数学者は、2、3、5、7、11と続く数に、法則が隠されているのではないかと躍起になっているそうだ。それはそうだろうと私も思う。何か、法則が存在しても不思議ではない。私たちが住むこの世界はいろんなことがある。神様が私たち人間を試してみえるような不思議が存在する。
私たち人間が、神に近づくことは不可能だと思うけれど、神様は人間が神に近づくことを喜んでおられる。だから、人間がこの地球の謎に迫ったことを許されているのだろう。どんなに人間が、神様が創った法則に迫ったところで、1センチの半分を極めていくようなもので、決して対岸と一緒になることはないのだ。人間には、ものごとを数で表すことで、そこに何らかの法則とか数式を見出そうとするタイプと、これとは全く対照的な数が飲み込めないタイプが存在するようだ。
今日は朝早くから、瀬戸の丘陵地に開かれた墓地の井戸を見に出かけた。立派な墓地であったけれど、檀家は少ないようで、井戸の管理もままなら無い現実にあった。ここには数の不思議さなどは問題にされないようなドンとした落ち着きがある。
それに、パソコンでW杯を見ていたら、美人サポーターを紹介するコーナーがあったけれど、「パラグアイの美しすぎるサポーター」が残らないのは寂しい気がする。よくまあ、そんなイヤラシイと非難されそうだけれど、男たちが見ているのはサッカーの試合だけではないということだろう。甲子園大会でも応援席の「美しい女子高生」が特集されたこともある。非常識ということからか、近頃ではそうした特集はなくなったけれど。
そんなことはどうでもいい。青少年健全育成運動とかで、「悪書追放」が叫ばれていたが、こういう運動が行なわれないとなかなか表から消えないことは事実だろう。人の心の中には昔から、善と悪とが存在し、その葛藤が人をよりよいものへと導くと言われてきた。でも、本当にそうなのだろうか。人の心には相反するものが存在するのだろうか。もし、そうであるなら、どうして神様は善を創ったのに悪も創ったのだろう。
テレビで「素数の謎」をやっていた。2とか3とかいうあの割れない数のことだ。4は2で割れるけれど、5は割れないが次の6は2でも3でも割れる。7は割れないが次の8、9、10は割れる数だ。次は11、13、17、19と割れない数は続く。私は知識がなかったので、3桁の数ならほとんどが割れるだろうと思っていた。ところが、割れない数はもっと先まで続くようだ。
それはそれで面白いとは思うけれど、いったいそれを追求することで何が明らかになるのだろうかと思ってしまう。ところが数学者は、2、3、5、7、11と続く数に、法則が隠されているのではないかと躍起になっているそうだ。それはそうだろうと私も思う。何か、法則が存在しても不思議ではない。私たちが住むこの世界はいろんなことがある。神様が私たち人間を試してみえるような不思議が存在する。
私たち人間が、神に近づくことは不可能だと思うけれど、神様は人間が神に近づくことを喜んでおられる。だから、人間がこの地球の謎に迫ったことを許されているのだろう。どんなに人間が、神様が創った法則に迫ったところで、1センチの半分を極めていくようなもので、決して対岸と一緒になることはないのだ。人間には、ものごとを数で表すことで、そこに何らかの法則とか数式を見出そうとするタイプと、これとは全く対照的な数が飲み込めないタイプが存在するようだ。
今日は朝早くから、瀬戸の丘陵地に開かれた墓地の井戸を見に出かけた。立派な墓地であったけれど、檀家は少ないようで、井戸の管理もままなら無い現実にあった。ここには数の不思議さなどは問題にされないようなドンとした落ち着きがある。