友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

明日は立春

2009年02月03日 21時57分53秒 | Weblog
 明日は立春である。今晩は豆まきをして新しい春を迎える。昔で言うなら、今日は大晦日で明日は元旦ということになる。新しい年のはじめになるわけだから、新しい決意があってもおかしくない。節分に豆まきをして鬼を追い払い、清くなって新しい年を迎えるということはわかるけれど、なぜ節分に太巻き寿司を食べるようになったのだろう。

 昔なら立春とはいえ、2月の初めは寒くて震えていたのに、今年は寒い日が少ないように思う。本格的な雪降りもなく、このまま春を迎えるのだろうか。友人が話していたが、確かに今の子どもたちで股引など履いている子は見かけない。女子高校生などはミニスカートのまま、素足の太ももがむき出しだ。私たちの子どもの頃、着ているものが寒さに耐えるものでなかったのか、下着やセーターの重ね着や綿入れを羽織ったりしていたことが嘘のようだ。

 この地方の冬は何と言っても伊吹おろしが吹き荒れ、空っ風が肌を刺すように痛かった。畑には霜柱が立ち、水溜りは凍っていた。今はそんな寒さを感じる時が滅多にないように思う。寒さ対策と言えば、火鉢が暖を取る方法だったけれど、我が家は祖父の隣に火鉢が置かれていたから、寒いからといって手を出そうものなら「子どものくせに」と叱られた。

 寒い時はなぜか心まで暗くなる。高校3年の時、中学の時からずっーと好きだった女の子に振られたのもこんな寒い時だった。突然、その女の子から「あなたが好きなのは私ではなくて、あなたが作りあげている私なのよ。あなたにふさわしい人を探してね」と言われた。私が彼女を好きだということはわかってくれていると思い込んでいた。私は彼女の全てを受け入れ好きになっている、それは彼女もわかっていると勝手に解釈していた。

 どう答えていいのかわからないまま、声も出ず身体も動かなかった。彼女は踏み切りを越えて駆けていった。後を追わなくちゃーと思ったが遮断機は下りたままだ。遮断機が上がり、一目散に追いかけたがどこにも彼女の姿を見つけられなかった。「あなたは本当の私を見ていない」と、映画『エデンの東』で兄の婚約者が言うセリフがある。男は少なくとも私は、女をよく見ていなかったのかと今でもあの踏み切りの場面を思い出す。

 恋に恋していて、彼女が何を望み、自分がどう立ち振る舞うのか、見えていなかったのだろう。恋することに酔っていたのだ。今の子どもたちから見たらおかしいようなことであるけれど、雨の日に一つの傘で相手を気遣いながら他愛もない話をしながら下校したり、花がいっぱい咲いている野原に寝そべって好きな小説の話をしたり、何気なく差し出した手に彼女の手が触れたり、そういう場面を夢見ていたのだろう。それが恋愛だと思っていたのだ。

 歳を重ねればそんな子どもじみた思い込みから卒業するものと思っていたが、なかなか人は変わらないこともわかった。さて、今晩は節分なのに誰もまだ帰ってこない。昨日・今日と一人で食事をしているが、昼間はいいとしても夜間は寂しいね。おーい、豆まきはいつするの?
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