友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

劇団民芸『白バラの祈り』

2012年09月13日 21時21分01秒 | Weblog

 9月の名演は劇団民芸の『白バラの祈り』だった。第2次世界大戦のドイツではゲシュタポが政府の方針に反対する人々を弾圧していた。そんな中で、ミュンヘン大学の学生が反戦を呼びかけるビラを撒いた。ゲシュタポは犯人を見つけ出し、尋問を行なう。演劇は逮捕から裁判までの5日間を尋問する役人と学生とのやり取りを通して、流される大衆と抗する学生の、その生き方や価値観を次第に鮮明にしていった。

 学生たちが発行したビラには「白バラ」と記されていた。白バラは一日で色褪せてしまうはかない花だが、何事にも染まらない意志の強さを表している。私がミュンヘン大学の反戦組織「白バラ」を知ったのは、大学1年の時だった。大学自治会は共産党系の学生組織の民青だった。民青のやり方に不満を持つ学生たちが中心になって、アメリカの原子力潜水艦の寄港に反対する運動をやろうというので集まった時に、名前をどうするかとなり、誰かがミュンヘン大学の学生たちの運動に学ぼうと「白バラ反戦学生会議」を提案した。

 余りにロマンチックな名前だと思ったけれど、その幼さが逆にアピールしたようだった。しかし今思えば、私たちの反戦運動は甘ったれたものだった。もちろん公安警察は学生たちをマークしていたかも知れないし、自治会役員となった者は就職できないこともあった。けれども、ミュンヘン大学の学生たちは「国家反逆罪」で死刑である。日本でも政府の方針に反対する人々を特高警察が捕らえていたけれど、組織をあげて反戦運動を展開した例を私は知らないが、日本にも彼らのような学生はいたのだろうか。

 戦争は嫌だと誰もが思っているのに、そこに戦争の大義が大手を振って歩き出すと、人々は口を閉ざす。ましてや反対の意志を示せば、直ちに独房に押し込められるとなると、ますます閉じ篭るようになっていく。誰かが自分を見ていないか、落とし穴に落とされるのではないか、災難が降りかからないようにとばかり気を使うようになる。さらには物言わぬ大衆に留まらず、積極的に政府の方針に賛成し、言動することで我が身を守ろうとする。

 流れに逆らわず、じっと時の過ぎるのを待ち、ささやかな幸せを求めるのが、最も多い人々の生き方だとゲシュタポの尋問官は言う。「なぜ、そうした生き方が出来ないのか」と彼はまだ若い女学生に問う。「分からないままについてきたと調書に書いておいたから、サインすれば命は助かる」と尋問官は女学生に助け舟を出すが、彼女は拒否してしまう。彼女が大切にしたいのは、命ではなくどのように生きるかということだ。

 日本の学生も「天皇陛下バンザイ」ではなく、「お母さん、さようなら」と言って、敵艦に体当たりしていったと聞く。「自分のために死を選ぶというのは個人主義だ」と尋問官は彼女を諌めるが、人は皆、自分のために生きていることは尋問官自身も承知している。自分がどのような生き方をするのか、そこに価値の違いがあるということだろう。

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