安倍前首相の「国葬儀」を、「5時間もテレビで見続けた」と先輩は言う。安部氏を評価する先輩は早すぎる死去を惜しむようだったが、安倍政権が進めてきた「強い国造り」に反対の私と話すのは得策ではないと、用件だけ話して帰っていった。
安倍氏は「統一教会」の信者では無かったとしても、「統一教会」と深く関わり合っていた。私は「統一教会」の教えを、ウソとか間違っていると否定するつもりは無い。何を信じるかは人の自由だと思っている。
少しばかりキリスト教を学んだ私には、「統一教会」も「エホバの証人」も受け入れられない。しかし、信じた人が「信仰」の為に熱心に活動することを妨げる気は無い。献金で家族を犠牲にしてしまったことは、家族や親族が解決する以外に無い。
安倍氏の「美しい国」がどういうものなのか分からないが、「統一教会」の主張と重複するのだろう。「互いに利用し合っていた」と評論する人もいるが、安倍氏が、そして「統一教会」が、理想に燃え共鳴し合ったと考える方が「美しい」気がする。
「国葬儀」では友人代表の菅前首相の弔辞に拍手が沸いた。安倍氏との友情が色濃く語られ、ふたりの関係を伊藤博文と山県有朋になぞらえ、山県の歌「かたりあひて 尽くしし人は先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」を読んだ。
「総理官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした」と、涙を誘うラブレターだった。安倍氏が周りに気遣う人だったとか、笑顔を絶やさなかったとか、安倍氏の人柄が「天の神」のように見える。
私が死んだら、遺骨は拾わず、知人に死亡ハガキを送ってくれと頼んである。葬儀をする必要は無いと思うが、どういう形にするかは家族で決めればいい。人は死んでしまえば誰も同じ、この世に発言権は無い。