友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『麦の歌』No3が見つかった

2013年11月15日 17時44分38秒 | Weblog

 今、風はなく陽が注ぎ、暖かくなってきた。午前中は雨が降っていたので、家の中で片づけをした。もう使わないものは捨て、少しでも減らしておきたい、そう思って整理をしていると思いがけないものが見つかった。父が整理していたアルバムで、1つは父の教員時代の記念写真を貼ったもの、もう1つは母の教員時代の記念写真と、家で裁縫学校を開いていた時の生徒さんたちとの写真だ。よく見ると、初めの頃は年代順に整理していたのに途中から適当に貼っている。

 父がこのアルバムを整理していたのは、母が死んで間もなくというよりも、父が死ぬ直前だったように思う。今、アルバムを見ても誰だか分からない人ばかりである。父は何のためにアルバムを作ろうとしたのだろう。そして、金属製のあられの箱を開けてみると、手作りで製本した『青い実の紀行文』と題した中学の修学旅行の作文、それに中学のクラス誌『麦の歌』No3が入っていた。表紙の絵はあの子のもので、今見ても斬新だ。中学3年の担任がガリバン刷りで作ってくれたものだ。発行年月日は昭和42年1月25日である。

 私は21歳、大学を卒業するための絵を描いていた。12月までは東京にいて美術の教科書を制作している会社で働いていた。帰る場所がなかったので、姉のところで居候をしていた。大学4年は東京で暮らしていたが、学科試験のためと教員採用試験のために2度帰った。卒業制作は砂漠のような大地と青い空、そこに何を置くかで迷ったが、いずれの絵にも蝶を描いた。卒論は「シュールリアリズム試論」で、卒業制作も写実的なシュールだった。あの作品は誰かが持って行った。

 卒業は慌しかったし、就職も落ち着かなかった。作品を保管する場所がなかった。3年の時にやっていた絵画教室は仲の良かった友だちに譲っていたが、この時は教室にも顔を出していた。教員試験を受けた人たちは皆、次々と赴任先が決まっていったのに私には連絡が来なかった。やはり不採用か、そう諦めかけていた3月末、工業高校に行くようにとの連絡が来た。まだ半信半疑で工業高校の校長に、「それで私はどちらの学校に行くのでしょうか?」と聞いてしまった。

 『麦の歌』No3の復刻版を作れないかと思う。考えてみよう、それでやるべきことが出来、元気が湧いてくるならもっといい。『麦の歌』No1とNo2は誰か持っていないか。それから、昨日は名演があり、ブログを休みました。

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