michi のひとりごと

日々のつぶやき、あれこれ。

老々介護で 100歳になった母を見送りました。
こちらは重度の難聴。

「受けとめられる人」になりたい。それはそれで良いけどネ   〔関わりあい〕

2011-10-31 07:41:27 | Weblog

今日は、ホントに『つぶやき日記』になりそうです。 

 

きのう ナンたらカンたら書いた内容を思い出してみると、

自分の中に「人のことを、ありのまま受けられるのが良い」

「大らかに受けとめられる人になりたい

 みたいなのがあるみたい。

  それはそれで間違ってないとは思うけどね。。

 

 

ゆうべ『ダーウィンが来た』を見た。

これ、字幕放送が見れるようになってからチョクチョク見るようになった。

 

まず、オープニング曲。

これ、以前はどんなに集中して推測働かせても

「ボクたちは…」と「宇宙~」しか聴き取れなかった。

ほかの部分は「△△って言ってるのかなぁ?」「##って言ったの??」

って感じのところもあったり、

日本語か英語かも分からなかったり。

それが歌詞全部、字幕で出るようになり、ゆったり安心して聴けるようになった。

  イェ~イ

 

ナレーションは、字幕なかった時、大まかには聴き取れたけれど、

ひげじいのような声は難しく、

いつも最後にダジャレのようなことを言ってるらしいことは分かるけど、

ナニ言ってるのか いつも全然分からなかった。

 

「おもしろいこと言ってるらしい」とまで分かっているにもかかわらず、

言ってる内容が分からない。

――これほどつまらないことは無いのです。

  (分からなくても一緒に、それなりに楽しめたら良いんでしょうけど

 

 

身近な話合いで、よく筆記してもらってたけど、

雑談・談笑の部分は、書いてもらえないことが多い。

みんなが楽しそうにドッと笑ってるとき、ナニ言ってるのかワカラナイ。

そういう時って、寂しくなったり。

筆記してくれる人は手を止めて笑ってる。

そりゃ、ずっと書いてたら疲れるし、そういう時くらい

ちょっと一休みして笑っていたいよね、、と

その人の気持ちが分かって、受けとめてしまう。

  そんな風になる場面が多かった。

 

 結局どっちつかずなのよね…。

そうして、なんとか自分の心の中で納めてしまう。

  そんなクセがついちゃったのかな。。

 

 

 

 

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合わせどころがハッキリしてない?    〔関わりあい〕

2011-10-30 06:52:16 | Weblog

自分はいろんな仕事してきましたが、

どれも「橋渡し」みたいな感じに見えるんです。

自分の役割は、大きなつながりの中の、ひとつなんだよね、って。

 

たとえば、職場メンバーの洗濯の仕事をしていた時だったら、

  (分業でやってました。)

洗う時には、干す時のことを想い、

 自動洗濯機から取り出した洗濯物を、

 すぐに一枚一枚バラして、シワにならぬよう、充分に さばく。

干すときには、取り込む人が、ムダな動作は一つもない作業になるように

 常に頭において。

取り込む時には、畳む人がやりやすいよう、向きなど考え、揃えて……。

 

 心を寄せて、毎日その細かい打ち合わせや連絡をしあって、

 そういう気風の中で (身体は疲れても)充実感を覚える日々でした。

 「やっぱり聞いてみないと分からないんだねぇ~」なんて気付いたりね。

 

どの仕事に就くようになっても、

あの味わいは私に中に残っていて、ベースにあるようです。

未熟ながら、方向性としては、目指していきたい、って。

          

日常、仕事していて、ときどき

「こういうことは、一声かけてくれたら、こんなにあれこれ考えたり調べたり、

ムダな手間ひまかけることなかったのに…」なんて思うことが。

でもすぐに

「でもまぁ、自分が勘を働かせたら分かったんじゃない?」とか、

「そんでも、大した時間じゃなかったでしょ」なんて思って、

自分の中で納めていくことが多い。

「そのうち気付いてくれるかも――」とか

「みんなは、私よりずっと忙しいんだもんね」とか。 

 

  自分は、言われ弱かったり、

  ミスしたらショック受けて、

  それ以後しばらく緊張してしまうこともあるんです。

  ということもあってか、人には なるべく言わない方にいく傾向、という現状。

 

明らかな間違いについても、

「これは、困る」となったら率直に伝えるけれど、

自分ですぐ処理できることは、それで済ましてしまうことが多いと思う。

 

  なんか、つらつら書き綴ってしまいましたが、

  合わせどころがハッキリしてないみたい、

    ってことがハッキリ見えてきちゃいました。。

 

 

時々メモに、ひとこと書き添えてあったりして、

「michiに、すぐ分かるように」っていう心遣いが感じられて、

その、ほんのひと言が有り難く、

心があったかくなったりしてます。

 

 

 

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自分なりのやり方とか、役割とか    〔関わりあい〕

2011-10-29 07:52:15 | Weblog

  なんか、このブログは『きのう日記』みたいだけど、、

  またこんな書き出しになっちゃう――。

         

きのうは、同僚2人に、それぞれ

些細なことだけど、多少のお役に立てた。みたい。

それは、

私は気が行ってて、ふだんから自然にやってることだったり、

その人は まだ習得してなくて、自分は出来ることだったり。

 喜んでもらえて、こちらも嬉しい~。

 

別のことですが、特に最近、

内々のグループメールや掲示板で、

自分なりに思うことがあって反応したくなっても、

ただ「お言葉ですが」みたいな固い雰囲気にしちゃいそうだったりして

躊躇してることがよくあるんです。

  ユーモアを交えたりして、大らかに やんわりと話せたら良いんですけどねぇ。

 

きのう、そのまとめ役の人が たまたま用事で来たので話してみたら、

 その人は、全部筆談してくれて――

それぞれ思うあたりを出し、ポイントを整理しながら 話合いが出来て、

一応の充実感が残りました。

 

  まったく未熟な自分だけれど、今の時点で、

  それなりの 役割があったり、自分なりの やり方がある、ってことですかね。

 

 

 

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『ピーナツ入りせんべい』に「アレルギー物質、落花生が入ってます」     〔思うこと〕

2011-10-28 07:45:15 | Weblog

きのうの朝は「よう冷えるわねぇ」と思っていたら、

最低気温は4.6度だったそうな。

  どうりで――。

 

これまでは、こんな風に秋が深まってくると、

ビスケットやクッキーなど食べたくなってました。

でも、このごろは、和風の「ピーナツ入りせんべい」のようなものも美味しく感じられます。

 

ふとパッケージを見ると、

『アレルギー物質』として「落花生」も入っている。

 

「ピーナツ入りせんべい」なんだから、当たり前じゃない~?

でも、

こんな風に表示しなければならない理由があるのでしょうか。

 

他のいろんな食品にも「アレルギー物質」が表記されてますよね。

あの表記の仕方って、どうして・・・?

 

なんだか自分が食べるとき、

「アレルギー物質」を口に入れてるんかなぁ、

なんて思っちゃったり。

 

アレルギーの方は、本当にタイヘンだと思います。お辛いでしょうね。。

でも、パッケージで

落花生や卵・小麦粉などを「アレルギー物質」と呼ぶのは、どうして?

 

ちょっと考えたらね、

『アレルギーをお持ちの方へ』として、

「この食品には、##・△△が含まれています」などと表記しては?

なんて思うんですが。

 

それとも、現状のような表記で バッチリ「明記」しておかないと、

訴えられたりするんでしょうか。

 

そういえば、例えば お湯を使う食品に

「熱湯にお気をつけください」などと書いてあったりして

  はぁ・・・? 当たり前でしょ?

なんて思ってしまうんですが、

そういう表示が、「必要」な社会になってしまったんでしょうかね。。

 

 

 

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『話をする』――なんのために?  〔関わりあい〕

2011-10-27 07:40:26 | Weblog

このごろ思うんですが 

会話でとか、話し合いで『話をする』っていっても、

色々あるんですねぇ。

  わたしは、

  「お互いを分かり合いたい。深く理解し合いたい」

   そんな気持ちで話をしたい、って思うときにも、

   そんな風でもないような人がいる。

 

例えば。

自説や、いま思ってることをしゃべりたい。

 人が聞いて(求めて)いることとズレてても気付かないらしい。

 我田引水、というのも含めて。

自分がこんなによく知っている・考えられる・取り組んでいる、

 といったことを認めてほしい。微妙にそんな臭いが感じられる。

 (ほんの小さな断片から、全体を把握したかのように結論づけたり。)

 

聞いてくるのも、興味・関心から。

 (そういう話は、うわっつらの うわさ話としてすぐに広まるようで。。)

 

かく言う私も、このつたないブログで、まぁベラベラ喋ること喋ること・・・。

その都度、目的は違いますが――、

 

 私は、口で喋るとき、頭の中でうまく組み立てられないことがよくあるし、

 大勢(10人くらいでも、私にとっては『大勢』)の前で喋ろうとするだけで

 心臓がドキドキしてきちゃう。

 (過去には30人40人の車座の話合いでも平気でしゃべっていた時期もあるので、

 慣れ、だとは思うんですが。)

というようなこともあって、ブログや自分のノートなどは、

自分の頭や心を整理しようとしながら書いて(打って)ることが多いです。

で 後日、そのポイントや、探し出した表現など思い出しながら、人と会話したり。

       

でも、ただ とにかく出し合う ということが必要な場合もありますしね。

 ま、イロイロあるけど、

  未熟なお互い。

それぞれ成長過程なんですよね。

  (――って自分に言い聞かせてます

 

 

 

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この違いは、どこから…?    〔聴こえ〕

2011-10-26 07:38:13 | Weblog

夕べ見た2つの番組で、「方言て やっぱ良いなァ~」って思ったんです。

この頃よく思うんですが、

とくに東北ではフツウに方言が使われてて、とっても味わい深い。

 

私は、家の事情などで引越しが多く、

小学校は2度転校(3つの小学校へ通った)。

そのうちの一回は、関西から東京へ。

方言に悩みました。

 

例えば、「髪をとかす」は、「毛ぇをとく」

「転ぶ」は「こける」など、

標準語は知ってはいたけど、私の口から出てくるのは、完全な方言。。

その都度、笑われました。「ナニそれ!」って感じで。

私は、、萎縮し、

標準語が話せるようになるまで、自信をなくしてました。

    

           

以前いた職場に、難聴の女性(50代くらい)がいました。

彼女は、いつも明るく陽気。

よく聞き違って話が食い違たりするけど、そんな時、

「あら、私はまた△△かと思ったわぁ アッハッハ~」。

あまり聞こえないことすら、笑のタネにしてしちゃって、

みんなで盛り上がる

いつもそんな調子でした。

 その頃、私はまだ彼女よりも軽度だったけど、

   毎日タイヘンだった。。

 

                

 

これらは、どう見たら良いのかしら。

ただ性格が明るいかどうか、前向きになれるかどうか、

だけなのかしら・・・?

 

 

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芽を出したよ♪ちゃんと根付いてたんだね   〔自然〕

2011-10-25 07:51:57 | Weblog

7月末に、子株を移植したときのオリヅルラン。

この3ヶ月、少しずつ伸びてはいたけど、

特に変化はなくって、

ホントに根付いたのかなぁ…、と心配でした。

移植の前に、水につけて、根を出させたけれど、

あんまり勢いが良い感じでもなかったからねぇ。。

 

 

それが、数日前から、新たな芽が。

真ん中の2枚です。よく分からないでしょうけど、

も、ピンピン、元気元気

私は、「ワァ~」 って。

この生命力。

こういうので励まされるんです。

元気もらえるんです。

 

 

 

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「支援する/される」という関係じゃなくって、   〔福祉〕

2011-10-23 06:26:50 | Weblog

きのうのことに関連して、っていうか、

いろんな角度から いろんな風に思うような現状なんですが――。

 

会報が送られてきました。
『日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)』 (http://jcf.ne.jp/
長年に亘って心あたたかく、そして事実に即して、力強く取り組んでおられる。
この会報の中で、宮尾彰さんという方の随筆に惹かれました。

(宮尾さんは長野県教委 発達障害 支援専門員だそうです。)

それによると――(要旨です)。


ある子育て支援センターをお訪ねすると、音楽療法士による「音楽遊び」がゆったりと行われていました。
そのスタッフからお聴きした話です。

重症心身障害児と呼ばれる子どもたちには、微弱な動きで音の出るような楽器が配慮されています。
自分で自覚して動ける子、介添えでわずかに身体の一部を動かすだけの子。
全員でひとつの音楽を奏でます。
そんな時、音の流れの中で、重度のお子さんの出す音がまったく無作為かつ唐突に大きく響くことがある。
そしてその音こそが、演奏全体の「通奏低音」を成しているというのです。

このセッションのように、最も力の弱い存在を真ん中にして成り立っている市民の輪があります。
それが、各地に広がりを見せている『ぷれジョブ』という活動です。
障害を持つ子どもたちに週1回1時間、職業体験の機会が提供されます。
 主役は 希望する子どもたち。
 家から送り出すのは 家族。
 現場に付き添うのは 地域住民。
 彼らを受け容れるのは 地元の企業。
 彼らと仕事を組み合わせるのは 学校の先生。

「利益によらないつながり」です。
彼らを福祉サービスの対象としないがゆえに、あの「支援する/支援される」という二項対置の枠組みにとらわれることもありません。
子どもたちを囲んで定例会を重ねるうちに、周りの大人が変えられてゆくそうです。

こうした大らかな信頼関係が――。

 とメッセージは続いていきます。
 
 ……なんだか読んでいるだけで、心がゆるんできてあったかくなってきました。

私の場合は、「聾・難聴者と 健聴者」というような認識の仕方になってしまうことが多いようです。

 実際的なところで、「やっぱり聴こえる人を中心にした社会なんだよね…」とか、

 「どこも 聴こえることを前提にしてるんだよね――」となったり。

 「私は あんまり聴こえないのだから」と引いてしまうことも よくある。

でも、このお話のように響きあい、味わいながら自然に育ちあう、網の目のような かかわり方。

こころ豊かな社会を 目指していきたい。

 少なくとも、自分の心の中で、境みたいなもの作ったりしちゃいけないですね。

 

 


 

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『聴覚障がい者が 救急法研修を』    〔聴こえ〕

2011-10-22 08:14:37 | Weblog

 こんな、笑えない話があります。

 

ある聾の人が、体調悪くなって街なかで倒れてしまった。

すぐに救急隊員が駆けつけてくれたのは良いんだけれど、

何度もなにか言ってくれるのが聴き取れなかった。

たぶん「聞こえますか!?」みたいなこと言って

意識があるか確かめようとしてたんじゃないかと思うけど・・・、

っていうんです。

意識はあって、相手の口が動いているので、話しかけられているのは分かるけれど、

何と言っているのかが分からない。。

 

   自分も、ありそうです。。

 

日常生活では、その人ごとに、

「あ、この人だったら、大きな声で言ってもらえたら」

「この場合は、ゆっくり言ってもらったら聴き取れそう」

など、状況に応じてお願いするんですが、

朦朧とした頭で、あるいは、激痛のさなか などに、

そういうこと判断して言えるかしら?って思う。

ま、心配しても仕方ないですけどね。

  (バックには、常に障がい者手帳を入れてますが。)

 

                  

 

こないだTVでローカルニュースを何気なく見ていたら、

『聴覚障がい者がAEDの講習を受けました』という話題が。

聴覚障害の人7~8人が、専門の人から手話で伝えてもらい、

実地研修を受けたというもの。

 

具体的方法としては、

〇周りの人との必要な会話は、床に指で書くと良い。

〇自動音声が聴こえなければ、指を折って何秒か数えて。

といったようなことでした。

 

私は――、

不安です。

そんな重要な、ひとの命に関わること・・・。

 

  こんな消極的なことではあかんかなぁ、とも思うんですが。

 

 

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なんと、『鯨の過去帳』まで    〔TV〕

2011-10-21 07:28:52 | Weblog

ということで、

19日の歴史ヒストリア』、テーマは、

金子みすヾさんでした(わたしは10数年来のファンなんです)。

 

    大漁

  朝やけ小やけだ

  大漁だ

  大ばいわしの

  大漁だ。

 

  はまは祭りの

  ようだけど

  海のなかでは

  何万の

  いわしのとむらい

  するだろう。

 

みすヾさんの生まれ故郷、山口県仙崎では

なんと、鯨の胎児のお墓があるそうです。

生きるためにやむを得ず捕獲した鯨、その体内にいた胎児を、

人々は大切に葬って、今でも日常的にお参りしているとか。

 そして、『鯨の過去帳』というものまである。

一頭一頭に立派な戒名を付け 記録として守り残しているんです。

  ――これには驚きました。

  (ウチの方では、畜産が盛んで、

   あちこちに牛の鎮魂の石碑がありますけどね。)

  私たちは魚を含め動物や、野菜や果物など、

  たいせつな命を戴いて、生をつないできたんですよね。 

 

みすヾさんは、そういう風土の中で育って、

あんなに限りなく優しい詩が生まれたんですねぇ~。

   (と、渡邊あゆみキャスターの口調になったりして  )

 

           

こないだ、友だちとこんな会話が。

友「このごろ蝿が多いねぇ

michi「そ。そんでしつこい

友「動きが鈍いよね」

  ――季節が変わって、反応も鈍くなり、

  学習能力が衰えてきたんじゃないでしょうかね。

  『ここへ来たら追い払われる』ということを、

  何度繰り返しても、学習する力が鈍くなってる感じ。

友「ニンゲンは、あったかいから寄ってくるのかなぁ

mi「あぁ、、気持ちはわかるけど…、

  同情ばかりしてられないわ」

友「ブーッ」 (ふき出してました 

               

 

 

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「カモシカ被害」から次々と思いが…   〔共存〕

2011-10-20 06:55:23 | Weblog

きのう、新聞の投書で、

『日本カモシカの被害』についてのものがありました。

要旨は、こういうこと。

「日本カモシカは、特別天然記念物に指定されており、捕獲が禁止されているが、保護されていることで生息数が増え、畑を荒らされとても困っている。保護も実情に合わせて、地域によって指定してはどうか。」

う~ん、、そうですね。。

困っておられるのはとても良くわかるんですが…。

他の動物でも、時々聞きますよね、絶滅が心配される状態になって、

保護したら増えすぎて困るようになった、とか、

被害に困って、対策として天敵を入れたら、その天敵が増えすぎて、、とか。

結局、ニンゲンが操作しようなんておこがましいのでは、と思ってしまったり。

 

また、「アリエッティ」に戻るんですが、

彼女たち小人は、ニンゲンに見つかったら引っ越さねばならないんですよね。

翔が、良かれと思ってしたことが、

逆に、全くの「おせっかい」になってしまった――。

 

『風の谷のナウシカ』のことを、なにかにつけて思い出すんです。

結局ニンゲンは、「森」にさわることすら ほとんど出来なくなってしまったんですよね、

虫たちが怒って猛攻撃してくるから。

  これまでずっとニンゲンが幅りすぎたから……。

 

これらは、アニメという「お話」の世界だけではないと思うんです。

 

話はドンドン飛躍してしまうんですが、

ゆうべNHKで金子みすヾの番組があって――、

    ああ、その話は、また明日にでも。

 

 

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『字幕が浮かび上がって見えるメガネ』ですって♪  〔字幕放送〕

2011-10-19 07:32:05 | Weblog

ゆうべの『クロ現』は、、

良い内容みたいだったけど、

眠かった・・・。

字幕を読むのに必死、ついてこうとするだけで精一杯。

…グッと内容に入り込むまでいけなかった。

 

専門家の方のお話の時、字幕は出るけれど、

1行出たらパッと1秒もしないうちに消えてしまう。。

 (全部ではなかったけれど)

それも、語彙が途切れて次の画面とまたがるような状態。

  こういうことって、生番組では、常にあるんですよね。。

 

「同時通訳」なので、数秒遅れる(かなりズレる)し、

漢字変換ミスもあるし。

(作ってくださってる方は、本当に大変でしょうね――。)

 

なので、やっぱり、きのうのような テーマのときは、

何時間か前に録画・編集して番組を作製し、

チャンと日本語として普通に読めるような字幕が 出せるようにする、

ということじゃダメなのかなぁ、、

って また思ってしまいました。

   (NHKさんに提案しなくちゃね

 

  字幕放送は、ありがたいけれど、

   まだまだ充分ではないんですよね。

           

「字幕が浮かび上がって見えるメガネ」というのが開発されたそうですね。↓

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111017-OYT1T00896.htm

  (Mちゃん、教えてくれて ありがとう~

これは映画のためのものらしいけど、

TVでも出来たら良いナ。

今は、字幕が 画面の風景などや テロップと重なってしまい、

とても観にくくなることがよくあるんですよね。

『スクリーンの前の空間に字幕が浮かび上がって見える』のなら

そんなことには なりにくいはず。

聴こえる人とも一緒に観れる。

 

   関係者の方々、どうかどうか、よろしくお願いします

 

 

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『自給力』――町全体の取り組みになって☆    〔TV〕

2011-10-18 07:10:58 | Weblog

ゆうべの『クローズアップ現代』、

テーマは

「“自給力” ~食とエネルギーを自給する暮らしの可能性~」

特に、

埼玉県の小川町の事例が素晴らしかった。

町ぐるみの取り組みで、いくつものNPOや活動家などが

網の目のようにつがなりあって、成果を上げているようです。

有機農場循環型エネルギー

それに直売店や、その大豆を使ったお豆腐屋さん、等など。

(あ、熊本の取り組みと私の頭の中でゴッチャになってるかも

 スミマセン…。

 

今の時代、

  自然の中で暮らし、

  半分くらいは自給自足で、安全安心な食品を作りたい、

  なるべく自然エネルギーで――。

そんな風に思う人が増えているようです。

 

 でも、農業って、そんなに簡単なものじゃない。

 まして、無農薬で有機栽培など・・・。

 

だけど、町ぐるみの取り組みになれば、

どんな人も、高齢者や障害者なども含めて、

なにかしら仕事や役割がもてるようになると思うんですね。

なにより、町全体が元気になる。

循環型社会を市民の力でつくっていける。

  夢が広がります。

こういった取り組み、全国に広がっていくと良いなと思いました。

 

このテーマは二夜連続で、今夜は、「コミュニティ デザイン」がテーマとか。

  これは見逃せません。

 

 

 

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『何らかの形で点がつながると信じて』    〔メルマガ〕

2011-10-17 07:33:04 | Weblog

いつも拝見しているメルマガに

心の糧・きっとよくなる!いい言葉』があります。

10/14は「 スティーブ・ジョブズ氏の伝説のスピーチ」というタイトル。

(上にリンクしました)

長いんですが、とても響いてきました。

特に、ここ。

  いまはわからないかもしれないけれど、
    「将来何らかの形で点がつながると信じなければならない」

 

「つながっていく」ということ。

色々な人が、色々な事が、

網の目のようにつながってつながって・・・。

 

それをどう見るか、どう受けとめるか、

どう生かしていくか、なんですね。

 

 

  たとえば、自分だって、

  昔、パソコンを覚え始めた頃、

  私には難しくて(教えてくれる人はキツイ人だったこともあって)

  も、泣きながら必死で覚えた。

  でも お陰で、こうして皆さんとつながっていけるんですね。

 

 

 

 

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『心づかいが つながって』そうして伝わって広がって――    〔メルマガ〕

2011-10-16 08:06:44 | Weblog

きのうの続きみたいな感じです。

かめおかゆみこさんの『今日のフォーカスチェンジ』、

10/13は、〔2903〕「こころづかいが つながって」というタイトルでした。

最後は、こんな風に結ばれています。

 

  だって、ちいさなこころづかいの
  積み重ねが、こんなふうに、

  ひととひとをつないだり、
  ひとを、しあわせな気持ちに
  してくれるのですからね!


  こころが
  ほっこりあたたかくなった、

  ふるさとからの報告です♪

 

本当に、読んでいるだけで、心があったかくなってくるんですが、

コトの起こりは、かめおかさんがアダプターを忘れちゃったことからなんですよね――。

             

自分の体験を思い出しました。

友人に、免許更新講習の送迎を頼んだときのこと。

「30分で終わるんだけど…」と言うと、

「うん、いいよ」と快諾してくれたので、その間、どこかで時間調節して

帰りも送ってくれると思ったんです。

 

ところが、その講習会場に着くと、「じゃ、帰りはバスで良いよね」と言う。

「エッ!? 送ってくれないの?」と言ったけれど、

そんなつもりは全く無かったようで、バス停の場所を伝えてくれただけでした。。

  バスって、ウチの方は2時間おき。 それに、

  難聴の私にとって、人にバスのことなど訊いて

  説明を聴き取るのは、かなりエネルギーが要るんです。

  とても不安になってきました。

 

帰り。バス停で案内を読んだら、直通のバスは無さそう。

仕方なく、近くのお店のおばさん(おばあさん)に訊いてみた。

すると、しばらく考えたけど分からないらしく、隣りのお店の人のところに行き、

こうかしら?いや、こうした方がと、相談し始めたんです。

それを私にも分かるように丁寧に伝えてくださった。

お陰でバスを乗り継ぎ、無事に帰宅できたんです。

 

田舎のおばさんたちの親切が こころに沁みたことでした。

 

なにかにつけて想い出される こういう出来ごとって、

私の中で育って、熟成していくように思うんですね。

  もし、そんなあったかい気風が伝わって広がっていくとしたら嬉しいナ 

            

ちなみに、、

その友人とのやりとりのことも思い出すんですが、

『見つめたものが拡大する』――これ、かめおかさんがいつも言ってくださっている言葉。

嬉しかった面(部分)と、イヤだった面、

どちらを、どう見つめるかで、自分の育ち方が変わってきますねぇ。

 

 

 

 



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