わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

2009年をリフレクションする

2009-12-31 02:13:35 | コトバ・ニッキ
せっかく中原先生のおっかけを始めたんですから、そこはちゃんとやっておかないとね
ってことで、今年を振り返って「意味付け」をしてみようと思います。



じゃすふぉーの今年、いろんな意味で転機だったような気がします。
金井先生曰く、普段は流されていてもキャリアの節目は決断せい、クランボルツ先生曰く、計画された偶発性がキャリア形成には大きな影響を与えている、ってことですが、たぶん、今年のあたしの状態は後から振り返ってみたらきっと『節目』になっているような気がします。


論文と中原先生と晃司に明け暮れた2009年でした。


晃司くん方面は、まぁ、キッカワさんが動けば、それに合わせてあたしも活動するので、これと言って目新しいこともなく。でも、論文の追い込みと25周年ツアーが重なって、絶対どっちか取りこぼす、と思っていましたが、今んとこ完走
仕事を片手間にやればいいか、くらい思っていたら、こちらも同僚が急に退職したり、巨大なプロジェクトが降って湧いたり、インフルエンザが流行ったり(当社は基礎疾患者が多いので対応が必要以上にナーバスなんです)と、とても片手間にできる状態ではなく・・・11月の連休の頃はホントに死にかけてました。


論文と中原先生。
論文を書くにあたっては苦難の連続。
もともとが「組織の課題を解決する」が前提なので、あたしも周りも仕事に生かす、という大命題を持って進学していたわけです。キャリアアップ、ステップアップというわかりやすい目標ではなく、学んだことを仕事に生かすってことをするための大学院なのでね。
最初はあたしもそのつもりだった。授業を受けていても、もちろん単位のこともあるけど、どこかで「お、これは仕事で使える」とか「うちのカイシャに応用するとなると?」なんてことを考えていた。


今は、そういう気持ちが全然ない。シンプルに学びたいから学んでいる。
こう言うと大抵「どこに行こうとしているの?」と言われるし、「偉いねー、勉強家だねー」と言われる。


うーん
それには違和感。


長岡先生の授業を通じて、学ぶということを学び、中原先生や上田先生に出会った。そして、これらの先生方のお話を聴いて、本を読んでエナジャイズされてきた。
だから、もっと話を聴きたい、もっと理解したいって思った。これってあたしにとっては自然なことで、向上心とか向学心というのとも違う。好きだからもっと知りたい、っていう感情。晃司くんやichiroさんをおっかけるのと同じ。


好きだからたくさん観たい、たくさん聴きたい。


そんなシンプルな動機で学習しちゃならんのかね?
2009年は学ぶことに対する色気(仕事に生かせる、とか、キャリアに箔が付く、とか)が消えた年でもありました。
シンプルに、純粋に学ぶ、ってことを学んだ。これ、あたしにとっての収穫。


この先も学びたいとは思っているけど、「大学院」という錦の御旗がなくなっちゃって、そして「人材育成担当」という役割がもしもなくなったら(あと2年くらいはだいじょうぶそうですが)、ここまで自由に学ぶことはできないだろうな。あたし自身が学び続けられる環境を作るってことをしていかないといけないようです。



仕事はまさに転機、な気がする。
もともと今のカイシャに入ったのって、組織運営がしたい、っていう動機からで、別に障害者雇用に興味があったわけでもないし、ましてや福祉政策なんてまったく門外漢。
今でも、あたしの志向はそっち(組織運営)にあるんだけど、与えられる役割はちょっと違ってきている。


広報の担当になったこと。
見学にいらした方への対応では”何かにとりつかれたんじゃないか?”ってくらい、当社のことを魅力的に語っている。もちろん、そう思っているから言っているわけでもあるけど、どこかで醒めているあたしもいます。
そして、語ることであたしはカイシャのことについて内省している。それはあたしにとっては非常に有用なことではあるんだけど、いつもいつも、あたしが「カイシャの顔」として応接していていいんだろうか?・・・あたしが喋ることがカイシャのすべてになってしまうことに恐怖を感じている。


役員向けに障害者雇用に関する勉強会をやったり、退職する方からの引き継ぎで障害者の雇用に関する勉強会(その方面では名のある方々が集まっている)に参加することになったりと、うまく言えないんだけど、あたしのキャリアが「特例子会社」「障害者雇用」にシフトしているような感じすらする。


もともとやりたかったこと、自分自身の志向とは合っていない。もちろん、やりがいのあることではあるし、仕事自体は嫌いではない。それに社外の勉強会なんかに出て名刺交換するときにも自己紹介しやすい、なんてメリットもある。
このまま流されていくと、あたしのキャリア、コンピタンスが「特例子会社」「障害者雇用」になっていくのかなぁ。これは流されて行けってことなのかな?それとも、あんたがやりたかった組織運営にシフトチェンジした方がいいよってことなのかな?


答えはきっと、あとからわかるんだろうね。



プライベートでは、あらためて自分のぢょし力のなさを痛感
ホント、モテないんだなーって実感。
婚活、というほど重たくはありませんが、夏から秋ごろはあたしもちょっと頑張っていました。
見た目は気に入ってくれる。でも、その先に進まない。おそらくは、あたしが自己主張しないこと。何が食べたい、何処に行きたいも含めて、主張することが苦手で相手の話を聴くことの方が100倍くらい心地よい。それを「何を考えているかわからない」と言われてしまうんだなー。
で、ちょっと主張してみたら、それはそれで嫌われる。オトコって(という括り方は差別的ではありますが)勝手だよなー
そして、もう一つはやっぱり大学院に通っていること。学歴、格差ってことももちろんなんでしょうけど、大学院に通っている生活を送っていること=充実しているふうに見える、に気おくれしている感は感じました。


でも、いずれにしても、あたし自身に魅力がない、ってことには変わりがない。
結構、凹んだし、自信もなくした。
「あんたに言われる筋合いないわ」と思えれば建設的だったのかもしれないけれど、「あぁ、あたしってやっぱりダメなんだ」と思ってしまうのは精神衛生上最悪だよね。


今は、忙しくしていることもあってちょっと浮上したけど、それでも、ひきずってるかも。
なんでみんなができるケッコン、ってものをあたしはできないんだろ?ってそんな根源的なことを考えてしまってぐるぐるぐるぐる・・・・。
それはたぶん、自己主張しない、つまりは、素を見せない、腹を割ってないってことなのかもしれない。この年までひとりでいたら、そりゃー、つっぱって生きてるところもあるし、傷つかないように本心見せない、ってこともある。


自分の弱さ、弱みがわかった年でもありました。
婚活?はもういいや。素のあたしを見てもらうしかないんだよね。素のあたしを見てもらうには、場が必要。だから、場を求めて行動しようって思う。



いちばんの後悔は、論文を言い訳に犠牲にしたものも多かったな、ってこと。
特にともだちづきあい。二の次、三の次、にしてたかも。今までだったら、ちょっとの時間でも顔を出していた集まりを、さくっと「ごめんね」と断っちゃったりもしました


ものすごい確率で出会った縁なのに、粗末にしちゃいかんよね。
今さら・・・かもしれないけれど、来年は縁を大事に、もう一度紡ぎ直そうと思います。


2009年、あたしにとってはきっと「節目」なんだと思う。
学ぶこと。働くこと。人との縁。レンアイ。
これらのことに対峙するスタンスが、今までのそれとは違っている。どっちがいい、とは言えないけど、2010年は、後悔しないように丁寧に生活する、これをもう一度しっかりやっていきたい。


今日、今年最後のヨガに行ってきました。
ヨガはいつも、胸の前で合掌して「NAMASTE(ナマステ)」と言って終わるんだけど、
最後、インストラクターの先生が


「今年もいちねん頑張ったご自分に感謝を込めて・・・NAMASTE(ナマステ)」


そうだよね。
結果がどうあれ、頑張ったことには変わりない。そして頑張れたことを褒めるのではなく、頑張れたことに感謝する。ステキなことだ。


来年もたくさん感謝できるいちねんにしよう。


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今年もみなさんには本当に励まされ、勇気づけられてきました。
バーチャルな場からリアルな場へとお付き合いが広がったり、ブログを通じていろいろな気づきを得ることができました。
本当にありがとうございます!
そして来年もこんな調子で時に強気に、時に弱音を吐きつつ書いていこうと思ってます。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。


みなさま、よいお年をお迎えくださいませ


NAMASTE(ナマステ)!
コメント (4)
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