母の死と目の異常
やがて、月日も過ぎて上杉涼子も武田玄も中学生になった。
中学生といえば、一番果敢で、ませてくる年齢である。涼子もしだいに胸が目立つようになり、玄もいやらしいことにも興味を示すようになった。彼は自分を不純だと感じた。 涼子のほうはデートとかキッスとか…そういう恋に恋していた。
涼子は髪を長くのばしていて、セーラ服もよく似合った。やせていて、手足も細く、瞳も大きく、まるで妖精のようだった。唯一、膨らみかけた大きな胸だけが現実的であった。 思春期は、成長の過程、つまりプロセスだ。
誰でもがこの春を思う時期で、いろいろ考える。そして、異性に興味を持つ。涼子も玄のことを思い、玄も涼子のことを思っていた。ただ、恥ずかしい年頃である。ふたりはそんなにイチャイチャもしてなかったし、デートもしたことがなかった。
…結婚を誓った仲なのに……
とにかく、涼子は思春期を迎え、生理もきて、可愛い顔立ちのまま成長した。いっぽうの玄のほうも痩せっぽちだが、短髪で、男らしくハンサムに成長していた。
ふたりは結婚を誓った仲なのに、キスもまだだった。
涼子は、「玄くんったら、キスぐらいいいのに…」と思っていた。が、それは恋に恋する乙女の域を出てなかった。幼い美少女の恋なんてそんなものだろう。
ふたりは中学の新入式を迎えた。
武田玄の母親の貴子は参列したが、涼子の父親は商社の仕事が忙しく、母親も病気でこなかった。そのかわり叔母の石田みつ子が参列した。
みつ子は笑顔だった。
独身の彼女にとって、涼子はピアノの弟子でもあり、娘みたいなものだ。そんな風に考えると、石田みつ子の頬はかぎりなく緩んだ。
儀兄さんや姉さんのかわりにあたしが涼子ちゃんを祝ってやろう
みつ子はそう思った。
式が終った。校舎の桜がうららかに満開になっていて、ひらひら花びらが舞い散り、まるで幻想のようだった。みつ子は涼子の手をひき、歩いた。
すると、「おばさん」と、涼子はいった。
「なに?涼子ちゃん」
「みつ子おばさん、もう夜になったの?」
涼子は晴天を見上げていった。涼子の視界は暗く、ぼうっとしていて、彼女から見たらもう「漆黒の夜」であった。なにもみえない訳ではないが、視界は暗かった。
「……涼子ちゃん。目が……?いつから?いつから目が具合悪いの?!」
みつ子は狼狽し、急かせて尋ねた。
「………一週間前くらいから……よく見えないの」
みつ子は絶句した。そして、周章狼狽しながらも、「とにかく!お医者さんに行きましょう。いいわね?!」といった。
そして、急いでタクシーをひろい東京帝都医大に向かった。眼科に名医がいるってきいていたからだ。「あ、もしもし?姉さん?」みつ子は電話で涼子の母親に連絡をし、義兄さんにも連絡を、といった。とにかく不安で、みつ子はどうにかなりそうだったが、それは当事者の涼子の方があせっていただろう。彼女は目の異常に周章狼狽し、みつ子に抱きついて泣きそうな顔をした。「………もうすぐ診てもらうからね。涼子ちゃん」
みつ子は必死に彼女を慰めた。「だいじょうぶだから、たいしたことないわ」
東京帝都医大につくと、急患扱いで眼科に通されて診察をうけた。
眼科医師はその筋で有名な豊臣吉秀という男で、けっこう若い猿顔のひとであった。しかし、このひとは顔は猿みたいだが、知恵がまわり頭も切れ、眼科医としてはエリートである。でも冷たいひとではなく、ひとなつっこく子供好きで、みんなからは”モンキー先生””モンキー先生”と、愛称で呼ばれていた。
しかし、そうしたこととはうらはらに、上杉涼子の目の病気は深刻であった。
診察が終わると、はぁ。と、豊臣医師は溜め息をもらした。
これは深刻なことなんだ。診察をうけた涼子も、付き添った石田みつ子もそう直感した。そして、その勘は的中する。
医師は、「たいへんいいにぐいごとなんじゃがね」と訛りながら、前置きしてから病状の説明をした。
要するに、涼子の両目の角膜が病気でどんどん萎縮して、そのうち失明するだろうってことだった。薬も”慰め程度”にしかならず、数年後以内に失明する、という診断だ。
涼子はショックで口もきけなかったが、みつ子は、「涼子ちゃんの目、治らないのですか?」としつこくきいた。
「残念ですぎゃあ、今の医学ではどうにゃも」
「そんな!」みつ子は続けた。「医学や技術の進歩は日進月歩なんでしょう?なにかいい薬とか治療法とか、ないんですか?!」
「残念ですぎゃ」医師は肩をすくめ、いった。
「そんな!」みつ子はいいかけたが、言葉をきり……絶句した。
涼子ちゃんは失明するかも、知れない。いや、確実に失明するという。みつ子は泣きたい気分だった。目の前が真っ暗になり、頭痛がした。
いや、もちろん涼子だって泣きたいほど絶望した。
私は失明するかも…知れない。いや、確実に失明するという……なんてこと!
……この眼が……見えなくなる…
涼子は恐怖にかられた。
あとで娘の病気を知った上杉家は、しんと暗く落ち込んだ。涼子は絶望的な気分になった。眼が見えなくなったら、ピアノはもう弾けないかも…鍵盤が見えないんだから…。「涼子ちゃん、元気だして」武田玄が彼女を労り、慰めた。
しかし、そんなことをいってもどうにもならない。でも、好きな彼からいわれ、涼子は無理に微笑み、「ありがと。玄くん」と、礼をいった。
でも、不安や失明への恐怖は拭い去ることはできなかった。
涼子の母・上杉良子は病弱な体にも関わらず、雨の日も風の日もふらふらになりながらいろいろな神社にお参りした。娘の眼が治りますように、との願いをこめて。
妹の石田みつ子は、「姉さん! 姉さんは病気なんだから、やめて! 病気にさわるわ!」と、必死に縋り、とめたが、良子はきかなかった。
「いえ。あたしはやめないわ!」
良子は荒い息で、ふらふらになりながらもいった。「あの子の眼が治るまで、神仏に祈るの! きっと奇跡は起きるわ!」
「姉さん!」みつ子は必死に止めたが、良子はきかずに出かけた。雨がざあざあと降る最悪の日に。そして、不幸は起こった。
涼子の母・上杉良子は”お百度参り”の最中に心臓発作をおこし、倒れた。神社には誰もいなかった。が、やがて直江和尚が傘をさしてやってきて、雨に濡れながら倒れている彼女を発見した。和尚は驚いて、腰を抜かさんばかりだった。そして、すぐ救急車を呼んだ。しかし、時すでに遅し。病院で良子は絶命した。
上杉景虎や涼子や武田家やみつ子は、すぐに病院に駆けつけた。
でも、もう良子は死んでいた。
駆けつけた病院には、彼女の亡骸があるだけだった。
「お母さん?お母さん!」涼子は霊安室の亡骸に抱きつき、号泣した。
しかし、景虎は泣かなかった。ただ、背中は泣いていた。
武田聡の妻・貴子は涙ながらに、そんな景虎をせめた。
「なんで泣いてやらないのですか? 泣いてやってよ! 良子さんが可哀相じゃないのですか?!」
「まあまあ。よしなさい」
聡が妻をとめた。「上杉さんだって悲しいんだよ」
「だって」貴子は言葉をきり、泣いた。
こうして、上杉涼子の母・良子は死んだ。
故・上杉良子の葬儀はすぐにおこなわれた。
その日はどしゃぶりの雨で、天の神も彼女の死を悼んでいるかのようだった。もう季節は初夏だった。みんみんと蝉の鳴く声をきこえるが、雨のざあざあという音にかき消されて、まるで梅雨のようだった。ショパンの『雨だれ』が暗く響くかのようだった。
葬儀は常安寺でおこなわれ、大勢の参列者があつまった。
直江和尚や弟子たちが経を読む。
(……如是我聞一時仏在舎衛国………)
阿弥陀仏経である。
”抹香”臭い寺に、意味不明の念仏が響く。そして、涼子はいつまでも泣き、つられて玄も泣いた。貴子も聡も目にうっすらと涙を浮かべた。
しかし、景虎だけは気丈にも泣かなかった。
彼にとっても愛妻の死は悲しいはずである。しかし、景虎は泣かなかった。どこまでも弱味を見せない男で、そこが彼の良さでもあり”弱さ”でもある。彼は、新潟から上京して東大に入って大手商社に就るまで”弱さ”を見せなかった。けして弱さを他人に見せなかった。それは蒸発した父親への抵抗でもあった。
上杉景虎の父・為景は景虎が小学生の時、女をつくった。
景虎の母(つまり為景の妻)はすでに亡く、父は女をつくった。幼い息子は「美人のひとじゃないか。ぼく、あのひと、好きだよ。一緒にやっていけるよ」と、父親(為景)に言った。
すべて嘘だった。
本当はブルドックみたいな顔をしたブサイクな若いだけの女だった。でも、息子(景虎)は捨てられるのが怖くて、そのブス女を褒めちぎった。
でも、父は、「そうかい?お前があのひとのことを好きでも、あのひとはお前のことを嫌いなようだよ」
「な、なんで?! ぼく、なにかあのひとに悪いことした?」
「いや。お前はなにもしてない。あのひとは”子供嫌い”なんだよ」
景虎は絶句した。
そして、”捨てられる”のが怖くて身震いした。
「お父さん! ぼくあのひとに好かれるようになんでもするよ!」
父は無言だった。
そして、その数日後、景虎の父・為景は女と蒸発した。息子を捨てて。
幼い景虎は親戚の家をたらい回しにされ、毎日膝を抱えるような日々を送った。でも、馬鹿にした連中を見返したくて勉強は誰よりもやった。蒸発した父が「勉強だけはしっかりしなきゃダメだぞ」といっていたからだ。そして、東大に入り、商社に就ったのだ。
「ねえ、おばちゃん。立教の長嶋は来年ジャイアンツに入るって本当かなぁ?」
「さぁ、おばちゃんわかんないよ。帰ったらおじちゃんにきいてみな」
幼い景虎は、捨てられ、親戚に愛想をつかった。でも、彼は、その捨てられたときから”弱さ”を見せなくなった。”弱さを見せたら負けだ”……と、そう捨てられた時に感じたからだ。だから、彼は泣かなかった。
葬儀も終り、日々が経ち、悲しい気持ちはやわらいだ。
しかし、上杉涼子はショックから抜けだせず、学校をサボって常安寺の墓にお参りした。そして、めそめそと泣いた。悲しくて仕方なかった。
お母さん。お母さん
すると、直江和尚が笑顔でやってきて、「これはこれは涼子ちゃん。今日は学校は?」と尋ねた。涼子は黙りこくって下を向き、下唇を噛んだ。
「ははん。サボりだねぇ?」和尚は笑った。
そして、「わしものう、よく勉強が嫌いで学校さぼったもんさ。だから大学にもいけず、戦争で兵隊にとられて辛い思いもした。でもそれは自業自得かのう。で、いまや生ぐさ坊主よ」と、いった。
「和尚さん、お母さん………なんで死んだの?」
「なんで?」和尚は優しく「人間にはのう、それぞれ寿命があっての。このひとは十歳で死ぬ…とか、このひとは九〇まで生きるって仏様があらかじめ決めてこの世に生まれる」「…お母さんも…?」
「そうじゃ」うなずいた。
「私も?」
「無論。しかしのう、人間っていうのは肉体は死んでも魂は死なないのだよ」
「魂?」
「うむ。魂。涼子ちゃんのお母さんは死んだけど、魂は生きてる」
「でも」
「ほらごらん。この空を。空の上から涼子ちゃんのお母さんは君を見守ってらっしゃる」 和尚は優しくいった。「そうじゃ。だから元気だしなさい。天国のお母さんを心配させちゃあいかんな」
涼子は目の涙を拭い、とにかく答えた。「わかりました」
不安や焦りや葛藤はあるけれど、とにかく頑張ろう、そう思った。
上杉家の自宅では、夜、石田みつ子と義祖々母(つまり景虎の祖母)のたえがふたりきりで話していた。おばあちゃんは仏壇に手をあわせ、線香をつけ、念じた。
たえはこの時すでに百歳近い。「これだけ祈れば、だいじょうぶじゃないかえ?」
「涼子ちゃんの眼もよくなりますわ」
「そうねぇ。良子さんがあれだけ祈って願掛けしたんだから、涼子ちゃんの眼もきっとよくなるわねぇ」おばあちゃんはほんわり笑った。
石田みつ子もつられて、「きっとよくなります!」と笑顔をつくった。
「ところで?」
「はい?」
「景虎の後妻のことなのだけれども」
おばあちゃんは心臓が二回打ってから続けた。「わたしは、みつ子さん。あなたがいいと思ってるの」
「あたしですか?でも」ためらった。
「いやなの?」
「いえ、とんでもない。でも、義兄さんがどう思っているか」
「大丈夫よ。景虎はあなたのことを愛してるはずだから」
「でも……」
「不満?」
「いえ、そんな」みつ子はいったが、まんざらでもなかった。
実は、石田みつ子は景虎のことが好きだった。ほのかに愛していた。だから、まんざらでもない気持ちだった。体中が火照ってくるようだった。
…義兄さんと結婚……? そう考えるだけで、心が浮かれた。
ある夜、みつ子は景虎に部屋にくるようにいわれた。石田みつ子はまんざらでもなく、”素敵な関係”のことも考えてまずシャワーを浴びて全身を磨いた。とにかく、お互い愛し愛される仲になれる、そう思うと顔が笑顔になった。しかし、期待はみごとに裏切られる。 景虎はみつ子に「暇を与える」といった。
「え?」と、聞き返すと、「若い後妻をもらうので、この家から出てってくれ」というのだった。「ちゃんと引っ越しの費用も今までの感謝の気持ちも出すから…まぁ、そういう訳で、すぐでなくていいが、ここから出ていってくれ」みつ子はショックをうけて、しばらく茫然としたが、仕方ないと諦めた。
石田みつ子は空虚な落ちこんだ気分だった。いま彼女のポケットにはなにもない。心のなかにも、愛も金も安らぎもなにもない。ひどく憂欝だった。「他人にはいえない胸のうちね」思わずつぶやいた。無理につくった微笑が消え去り、みつ子のはしばみ色の目に奇妙な表情が浮かんだ。「あたしはもう…」弱々しくいった。「必要ない」
不意に疲労が襲いかかってきて、石田みつ子は自分がおしつぶされそうに感じた。目尻に涙がにじんだ。自分の部屋の鏡に向かい、自分の顔をしげしげみた。この何年、みつ子は自分の力で人生を切りひらき、生きのびてきた。しかし、多くのものを失った………家庭、恋人、愛、親友、ピアニストの魂の指の感覚。それに悪いことには孤独でもある。そう、孤独なんだわ! それに義兄さんにも……いらないって……
そして、石田みつ子は失意のまま、この上杉家を去ることを決めた。
やがて、月日も過ぎて上杉涼子も武田玄も中学生になった。
中学生といえば、一番果敢で、ませてくる年齢である。涼子もしだいに胸が目立つようになり、玄もいやらしいことにも興味を示すようになった。彼は自分を不純だと感じた。 涼子のほうはデートとかキッスとか…そういう恋に恋していた。
涼子は髪を長くのばしていて、セーラ服もよく似合った。やせていて、手足も細く、瞳も大きく、まるで妖精のようだった。唯一、膨らみかけた大きな胸だけが現実的であった。 思春期は、成長の過程、つまりプロセスだ。
誰でもがこの春を思う時期で、いろいろ考える。そして、異性に興味を持つ。涼子も玄のことを思い、玄も涼子のことを思っていた。ただ、恥ずかしい年頃である。ふたりはそんなにイチャイチャもしてなかったし、デートもしたことがなかった。
…結婚を誓った仲なのに……
とにかく、涼子は思春期を迎え、生理もきて、可愛い顔立ちのまま成長した。いっぽうの玄のほうも痩せっぽちだが、短髪で、男らしくハンサムに成長していた。
ふたりは結婚を誓った仲なのに、キスもまだだった。
涼子は、「玄くんったら、キスぐらいいいのに…」と思っていた。が、それは恋に恋する乙女の域を出てなかった。幼い美少女の恋なんてそんなものだろう。
ふたりは中学の新入式を迎えた。
武田玄の母親の貴子は参列したが、涼子の父親は商社の仕事が忙しく、母親も病気でこなかった。そのかわり叔母の石田みつ子が参列した。
みつ子は笑顔だった。
独身の彼女にとって、涼子はピアノの弟子でもあり、娘みたいなものだ。そんな風に考えると、石田みつ子の頬はかぎりなく緩んだ。
儀兄さんや姉さんのかわりにあたしが涼子ちゃんを祝ってやろう
みつ子はそう思った。
式が終った。校舎の桜がうららかに満開になっていて、ひらひら花びらが舞い散り、まるで幻想のようだった。みつ子は涼子の手をひき、歩いた。
すると、「おばさん」と、涼子はいった。
「なに?涼子ちゃん」
「みつ子おばさん、もう夜になったの?」
涼子は晴天を見上げていった。涼子の視界は暗く、ぼうっとしていて、彼女から見たらもう「漆黒の夜」であった。なにもみえない訳ではないが、視界は暗かった。
「……涼子ちゃん。目が……?いつから?いつから目が具合悪いの?!」
みつ子は狼狽し、急かせて尋ねた。
「………一週間前くらいから……よく見えないの」
みつ子は絶句した。そして、周章狼狽しながらも、「とにかく!お医者さんに行きましょう。いいわね?!」といった。
そして、急いでタクシーをひろい東京帝都医大に向かった。眼科に名医がいるってきいていたからだ。「あ、もしもし?姉さん?」みつ子は電話で涼子の母親に連絡をし、義兄さんにも連絡を、といった。とにかく不安で、みつ子はどうにかなりそうだったが、それは当事者の涼子の方があせっていただろう。彼女は目の異常に周章狼狽し、みつ子に抱きついて泣きそうな顔をした。「………もうすぐ診てもらうからね。涼子ちゃん」
みつ子は必死に彼女を慰めた。「だいじょうぶだから、たいしたことないわ」
東京帝都医大につくと、急患扱いで眼科に通されて診察をうけた。
眼科医師はその筋で有名な豊臣吉秀という男で、けっこう若い猿顔のひとであった。しかし、このひとは顔は猿みたいだが、知恵がまわり頭も切れ、眼科医としてはエリートである。でも冷たいひとではなく、ひとなつっこく子供好きで、みんなからは”モンキー先生””モンキー先生”と、愛称で呼ばれていた。
しかし、そうしたこととはうらはらに、上杉涼子の目の病気は深刻であった。
診察が終わると、はぁ。と、豊臣医師は溜め息をもらした。
これは深刻なことなんだ。診察をうけた涼子も、付き添った石田みつ子もそう直感した。そして、その勘は的中する。
医師は、「たいへんいいにぐいごとなんじゃがね」と訛りながら、前置きしてから病状の説明をした。
要するに、涼子の両目の角膜が病気でどんどん萎縮して、そのうち失明するだろうってことだった。薬も”慰め程度”にしかならず、数年後以内に失明する、という診断だ。
涼子はショックで口もきけなかったが、みつ子は、「涼子ちゃんの目、治らないのですか?」としつこくきいた。
「残念ですぎゃあ、今の医学ではどうにゃも」
「そんな!」みつ子は続けた。「医学や技術の進歩は日進月歩なんでしょう?なにかいい薬とか治療法とか、ないんですか?!」
「残念ですぎゃ」医師は肩をすくめ、いった。
「そんな!」みつ子はいいかけたが、言葉をきり……絶句した。
涼子ちゃんは失明するかも、知れない。いや、確実に失明するという。みつ子は泣きたい気分だった。目の前が真っ暗になり、頭痛がした。
いや、もちろん涼子だって泣きたいほど絶望した。
私は失明するかも…知れない。いや、確実に失明するという……なんてこと!
……この眼が……見えなくなる…
涼子は恐怖にかられた。
あとで娘の病気を知った上杉家は、しんと暗く落ち込んだ。涼子は絶望的な気分になった。眼が見えなくなったら、ピアノはもう弾けないかも…鍵盤が見えないんだから…。「涼子ちゃん、元気だして」武田玄が彼女を労り、慰めた。
しかし、そんなことをいってもどうにもならない。でも、好きな彼からいわれ、涼子は無理に微笑み、「ありがと。玄くん」と、礼をいった。
でも、不安や失明への恐怖は拭い去ることはできなかった。
涼子の母・上杉良子は病弱な体にも関わらず、雨の日も風の日もふらふらになりながらいろいろな神社にお参りした。娘の眼が治りますように、との願いをこめて。
妹の石田みつ子は、「姉さん! 姉さんは病気なんだから、やめて! 病気にさわるわ!」と、必死に縋り、とめたが、良子はきかなかった。
「いえ。あたしはやめないわ!」
良子は荒い息で、ふらふらになりながらもいった。「あの子の眼が治るまで、神仏に祈るの! きっと奇跡は起きるわ!」
「姉さん!」みつ子は必死に止めたが、良子はきかずに出かけた。雨がざあざあと降る最悪の日に。そして、不幸は起こった。
涼子の母・上杉良子は”お百度参り”の最中に心臓発作をおこし、倒れた。神社には誰もいなかった。が、やがて直江和尚が傘をさしてやってきて、雨に濡れながら倒れている彼女を発見した。和尚は驚いて、腰を抜かさんばかりだった。そして、すぐ救急車を呼んだ。しかし、時すでに遅し。病院で良子は絶命した。
上杉景虎や涼子や武田家やみつ子は、すぐに病院に駆けつけた。
でも、もう良子は死んでいた。
駆けつけた病院には、彼女の亡骸があるだけだった。
「お母さん?お母さん!」涼子は霊安室の亡骸に抱きつき、号泣した。
しかし、景虎は泣かなかった。ただ、背中は泣いていた。
武田聡の妻・貴子は涙ながらに、そんな景虎をせめた。
「なんで泣いてやらないのですか? 泣いてやってよ! 良子さんが可哀相じゃないのですか?!」
「まあまあ。よしなさい」
聡が妻をとめた。「上杉さんだって悲しいんだよ」
「だって」貴子は言葉をきり、泣いた。
こうして、上杉涼子の母・良子は死んだ。
故・上杉良子の葬儀はすぐにおこなわれた。
その日はどしゃぶりの雨で、天の神も彼女の死を悼んでいるかのようだった。もう季節は初夏だった。みんみんと蝉の鳴く声をきこえるが、雨のざあざあという音にかき消されて、まるで梅雨のようだった。ショパンの『雨だれ』が暗く響くかのようだった。
葬儀は常安寺でおこなわれ、大勢の参列者があつまった。
直江和尚や弟子たちが経を読む。
(……如是我聞一時仏在舎衛国………)
阿弥陀仏経である。
”抹香”臭い寺に、意味不明の念仏が響く。そして、涼子はいつまでも泣き、つられて玄も泣いた。貴子も聡も目にうっすらと涙を浮かべた。
しかし、景虎だけは気丈にも泣かなかった。
彼にとっても愛妻の死は悲しいはずである。しかし、景虎は泣かなかった。どこまでも弱味を見せない男で、そこが彼の良さでもあり”弱さ”でもある。彼は、新潟から上京して東大に入って大手商社に就るまで”弱さ”を見せなかった。けして弱さを他人に見せなかった。それは蒸発した父親への抵抗でもあった。
上杉景虎の父・為景は景虎が小学生の時、女をつくった。
景虎の母(つまり為景の妻)はすでに亡く、父は女をつくった。幼い息子は「美人のひとじゃないか。ぼく、あのひと、好きだよ。一緒にやっていけるよ」と、父親(為景)に言った。
すべて嘘だった。
本当はブルドックみたいな顔をしたブサイクな若いだけの女だった。でも、息子(景虎)は捨てられるのが怖くて、そのブス女を褒めちぎった。
でも、父は、「そうかい?お前があのひとのことを好きでも、あのひとはお前のことを嫌いなようだよ」
「な、なんで?! ぼく、なにかあのひとに悪いことした?」
「いや。お前はなにもしてない。あのひとは”子供嫌い”なんだよ」
景虎は絶句した。
そして、”捨てられる”のが怖くて身震いした。
「お父さん! ぼくあのひとに好かれるようになんでもするよ!」
父は無言だった。
そして、その数日後、景虎の父・為景は女と蒸発した。息子を捨てて。
幼い景虎は親戚の家をたらい回しにされ、毎日膝を抱えるような日々を送った。でも、馬鹿にした連中を見返したくて勉強は誰よりもやった。蒸発した父が「勉強だけはしっかりしなきゃダメだぞ」といっていたからだ。そして、東大に入り、商社に就ったのだ。
「ねえ、おばちゃん。立教の長嶋は来年ジャイアンツに入るって本当かなぁ?」
「さぁ、おばちゃんわかんないよ。帰ったらおじちゃんにきいてみな」
幼い景虎は、捨てられ、親戚に愛想をつかった。でも、彼は、その捨てられたときから”弱さ”を見せなくなった。”弱さを見せたら負けだ”……と、そう捨てられた時に感じたからだ。だから、彼は泣かなかった。
葬儀も終り、日々が経ち、悲しい気持ちはやわらいだ。
しかし、上杉涼子はショックから抜けだせず、学校をサボって常安寺の墓にお参りした。そして、めそめそと泣いた。悲しくて仕方なかった。
お母さん。お母さん
すると、直江和尚が笑顔でやってきて、「これはこれは涼子ちゃん。今日は学校は?」と尋ねた。涼子は黙りこくって下を向き、下唇を噛んだ。
「ははん。サボりだねぇ?」和尚は笑った。
そして、「わしものう、よく勉強が嫌いで学校さぼったもんさ。だから大学にもいけず、戦争で兵隊にとられて辛い思いもした。でもそれは自業自得かのう。で、いまや生ぐさ坊主よ」と、いった。
「和尚さん、お母さん………なんで死んだの?」
「なんで?」和尚は優しく「人間にはのう、それぞれ寿命があっての。このひとは十歳で死ぬ…とか、このひとは九〇まで生きるって仏様があらかじめ決めてこの世に生まれる」「…お母さんも…?」
「そうじゃ」うなずいた。
「私も?」
「無論。しかしのう、人間っていうのは肉体は死んでも魂は死なないのだよ」
「魂?」
「うむ。魂。涼子ちゃんのお母さんは死んだけど、魂は生きてる」
「でも」
「ほらごらん。この空を。空の上から涼子ちゃんのお母さんは君を見守ってらっしゃる」 和尚は優しくいった。「そうじゃ。だから元気だしなさい。天国のお母さんを心配させちゃあいかんな」
涼子は目の涙を拭い、とにかく答えた。「わかりました」
不安や焦りや葛藤はあるけれど、とにかく頑張ろう、そう思った。
上杉家の自宅では、夜、石田みつ子と義祖々母(つまり景虎の祖母)のたえがふたりきりで話していた。おばあちゃんは仏壇に手をあわせ、線香をつけ、念じた。
たえはこの時すでに百歳近い。「これだけ祈れば、だいじょうぶじゃないかえ?」
「涼子ちゃんの眼もよくなりますわ」
「そうねぇ。良子さんがあれだけ祈って願掛けしたんだから、涼子ちゃんの眼もきっとよくなるわねぇ」おばあちゃんはほんわり笑った。
石田みつ子もつられて、「きっとよくなります!」と笑顔をつくった。
「ところで?」
「はい?」
「景虎の後妻のことなのだけれども」
おばあちゃんは心臓が二回打ってから続けた。「わたしは、みつ子さん。あなたがいいと思ってるの」
「あたしですか?でも」ためらった。
「いやなの?」
「いえ、とんでもない。でも、義兄さんがどう思っているか」
「大丈夫よ。景虎はあなたのことを愛してるはずだから」
「でも……」
「不満?」
「いえ、そんな」みつ子はいったが、まんざらでもなかった。
実は、石田みつ子は景虎のことが好きだった。ほのかに愛していた。だから、まんざらでもない気持ちだった。体中が火照ってくるようだった。
…義兄さんと結婚……? そう考えるだけで、心が浮かれた。
ある夜、みつ子は景虎に部屋にくるようにいわれた。石田みつ子はまんざらでもなく、”素敵な関係”のことも考えてまずシャワーを浴びて全身を磨いた。とにかく、お互い愛し愛される仲になれる、そう思うと顔が笑顔になった。しかし、期待はみごとに裏切られる。 景虎はみつ子に「暇を与える」といった。
「え?」と、聞き返すと、「若い後妻をもらうので、この家から出てってくれ」というのだった。「ちゃんと引っ越しの費用も今までの感謝の気持ちも出すから…まぁ、そういう訳で、すぐでなくていいが、ここから出ていってくれ」みつ子はショックをうけて、しばらく茫然としたが、仕方ないと諦めた。
石田みつ子は空虚な落ちこんだ気分だった。いま彼女のポケットにはなにもない。心のなかにも、愛も金も安らぎもなにもない。ひどく憂欝だった。「他人にはいえない胸のうちね」思わずつぶやいた。無理につくった微笑が消え去り、みつ子のはしばみ色の目に奇妙な表情が浮かんだ。「あたしはもう…」弱々しくいった。「必要ない」
不意に疲労が襲いかかってきて、石田みつ子は自分がおしつぶされそうに感じた。目尻に涙がにじんだ。自分の部屋の鏡に向かい、自分の顔をしげしげみた。この何年、みつ子は自分の力で人生を切りひらき、生きのびてきた。しかし、多くのものを失った………家庭、恋人、愛、親友、ピアニストの魂の指の感覚。それに悪いことには孤独でもある。そう、孤独なんだわ! それに義兄さんにも……いらないって……
そして、石田みつ子は失意のまま、この上杉家を去ることを決めた。