長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

ピアノ戦争 ピアノと少女との葛藤と純愛ブログ連載小説2

2013年09月07日 06時37分08秒 | 日記
母の死と目の異常





  やがて、月日も過ぎて上杉涼子も武田玄も中学生になった。
 中学生といえば、一番果敢で、ませてくる年齢である。涼子もしだいに胸が目立つようになり、玄もいやらしいことにも興味を示すようになった。彼は自分を不純だと感じた。 涼子のほうはデートとかキッスとか…そういう恋に恋していた。
 涼子は髪を長くのばしていて、セーラ服もよく似合った。やせていて、手足も細く、瞳も大きく、まるで妖精のようだった。唯一、膨らみかけた大きな胸だけが現実的であった。 思春期は、成長の過程、つまりプロセスだ。
 誰でもがこの春を思う時期で、いろいろ考える。そして、異性に興味を持つ。涼子も玄のことを思い、玄も涼子のことを思っていた。ただ、恥ずかしい年頃である。ふたりはそんなにイチャイチャもしてなかったし、デートもしたことがなかった。
 …結婚を誓った仲なのに……
 とにかく、涼子は思春期を迎え、生理もきて、可愛い顔立ちのまま成長した。いっぽうの玄のほうも痩せっぽちだが、短髪で、男らしくハンサムに成長していた。
 ふたりは結婚を誓った仲なのに、キスもまだだった。
 涼子は、「玄くんったら、キスぐらいいいのに…」と思っていた。が、それは恋に恋する乙女の域を出てなかった。幼い美少女の恋なんてそんなものだろう。
  ふたりは中学の新入式を迎えた。
 武田玄の母親の貴子は参列したが、涼子の父親は商社の仕事が忙しく、母親も病気でこなかった。そのかわり叔母の石田みつ子が参列した。
 みつ子は笑顔だった。
 独身の彼女にとって、涼子はピアノの弟子でもあり、娘みたいなものだ。そんな風に考えると、石田みつ子の頬はかぎりなく緩んだ。
 儀兄さんや姉さんのかわりにあたしが涼子ちゃんを祝ってやろう
 みつ子はそう思った。
 式が終った。校舎の桜がうららかに満開になっていて、ひらひら花びらが舞い散り、まるで幻想のようだった。みつ子は涼子の手をひき、歩いた。
 すると、「おばさん」と、涼子はいった。
「なに?涼子ちゃん」
「みつ子おばさん、もう夜になったの?」
 涼子は晴天を見上げていった。涼子の視界は暗く、ぼうっとしていて、彼女から見たらもう「漆黒の夜」であった。なにもみえない訳ではないが、視界は暗かった。
「……涼子ちゃん。目が……?いつから?いつから目が具合悪いの?!」
 みつ子は狼狽し、急かせて尋ねた。
「………一週間前くらいから……よく見えないの」
 みつ子は絶句した。そして、周章狼狽しながらも、「とにかく!お医者さんに行きましょう。いいわね?!」といった。
 そして、急いでタクシーをひろい東京帝都医大に向かった。眼科に名医がいるってきいていたからだ。「あ、もしもし?姉さん?」みつ子は電話で涼子の母親に連絡をし、義兄さんにも連絡を、といった。とにかく不安で、みつ子はどうにかなりそうだったが、それは当事者の涼子の方があせっていただろう。彼女は目の異常に周章狼狽し、みつ子に抱きついて泣きそうな顔をした。「………もうすぐ診てもらうからね。涼子ちゃん」
 みつ子は必死に彼女を慰めた。「だいじょうぶだから、たいしたことないわ」

  東京帝都医大につくと、急患扱いで眼科に通されて診察をうけた。
  眼科医師はその筋で有名な豊臣吉秀という男で、けっこう若い猿顔のひとであった。しかし、このひとは顔は猿みたいだが、知恵がまわり頭も切れ、眼科医としてはエリートである。でも冷たいひとではなく、ひとなつっこく子供好きで、みんなからは”モンキー先生””モンキー先生”と、愛称で呼ばれていた。
 しかし、そうしたこととはうらはらに、上杉涼子の目の病気は深刻であった。
 診察が終わると、はぁ。と、豊臣医師は溜め息をもらした。
 これは深刻なことなんだ。診察をうけた涼子も、付き添った石田みつ子もそう直感した。そして、その勘は的中する。
 医師は、「たいへんいいにぐいごとなんじゃがね」と訛りながら、前置きしてから病状の説明をした。
 要するに、涼子の両目の角膜が病気でどんどん萎縮して、そのうち失明するだろうってことだった。薬も”慰め程度”にしかならず、数年後以内に失明する、という診断だ。
 涼子はショックで口もきけなかったが、みつ子は、「涼子ちゃんの目、治らないのですか?」としつこくきいた。
「残念ですぎゃあ、今の医学ではどうにゃも」
「そんな!」みつ子は続けた。「医学や技術の進歩は日進月歩なんでしょう?なにかいい薬とか治療法とか、ないんですか?!」
「残念ですぎゃ」医師は肩をすくめ、いった。
「そんな!」みつ子はいいかけたが、言葉をきり……絶句した。
 涼子ちゃんは失明するかも、知れない。いや、確実に失明するという。みつ子は泣きたい気分だった。目の前が真っ暗になり、頭痛がした。
 いや、もちろん涼子だって泣きたいほど絶望した。
 私は失明するかも…知れない。いや、確実に失明するという……なんてこと!
 ……この眼が……見えなくなる…
 涼子は恐怖にかられた。
  あとで娘の病気を知った上杉家は、しんと暗く落ち込んだ。涼子は絶望的な気分になった。眼が見えなくなったら、ピアノはもう弾けないかも…鍵盤が見えないんだから…。「涼子ちゃん、元気だして」武田玄が彼女を労り、慰めた。
 しかし、そんなことをいってもどうにもならない。でも、好きな彼からいわれ、涼子は無理に微笑み、「ありがと。玄くん」と、礼をいった。
 でも、不安や失明への恐怖は拭い去ることはできなかった。


  涼子の母・上杉良子は病弱な体にも関わらず、雨の日も風の日もふらふらになりながらいろいろな神社にお参りした。娘の眼が治りますように、との願いをこめて。
 妹の石田みつ子は、「姉さん! 姉さんは病気なんだから、やめて! 病気にさわるわ!」と、必死に縋り、とめたが、良子はきかなかった。
「いえ。あたしはやめないわ!」
 良子は荒い息で、ふらふらになりながらもいった。「あの子の眼が治るまで、神仏に祈るの! きっと奇跡は起きるわ!」
「姉さん!」みつ子は必死に止めたが、良子はきかずに出かけた。雨がざあざあと降る最悪の日に。そして、不幸は起こった。
 涼子の母・上杉良子は”お百度参り”の最中に心臓発作をおこし、倒れた。神社には誰もいなかった。が、やがて直江和尚が傘をさしてやってきて、雨に濡れながら倒れている彼女を発見した。和尚は驚いて、腰を抜かさんばかりだった。そして、すぐ救急車を呼んだ。しかし、時すでに遅し。病院で良子は絶命した。
 上杉景虎や涼子や武田家やみつ子は、すぐに病院に駆けつけた。
 でも、もう良子は死んでいた。
 駆けつけた病院には、彼女の亡骸があるだけだった。
「お母さん?お母さん!」涼子は霊安室の亡骸に抱きつき、号泣した。
 しかし、景虎は泣かなかった。ただ、背中は泣いていた。
 武田聡の妻・貴子は涙ながらに、そんな景虎をせめた。
「なんで泣いてやらないのですか? 泣いてやってよ! 良子さんが可哀相じゃないのですか?!」
「まあまあ。よしなさい」
 聡が妻をとめた。「上杉さんだって悲しいんだよ」
「だって」貴子は言葉をきり、泣いた。
 こうして、上杉涼子の母・良子は死んだ。

  故・上杉良子の葬儀はすぐにおこなわれた。
 その日はどしゃぶりの雨で、天の神も彼女の死を悼んでいるかのようだった。もう季節は初夏だった。みんみんと蝉の鳴く声をきこえるが、雨のざあざあという音にかき消されて、まるで梅雨のようだった。ショパンの『雨だれ』が暗く響くかのようだった。
 葬儀は常安寺でおこなわれ、大勢の参列者があつまった。
 直江和尚や弟子たちが経を読む。
(……如是我聞一時仏在舎衛国………)
 阿弥陀仏経である。
 ”抹香”臭い寺に、意味不明の念仏が響く。そして、涼子はいつまでも泣き、つられて玄も泣いた。貴子も聡も目にうっすらと涙を浮かべた。
 しかし、景虎だけは気丈にも泣かなかった。
 彼にとっても愛妻の死は悲しいはずである。しかし、景虎は泣かなかった。どこまでも弱味を見せない男で、そこが彼の良さでもあり”弱さ”でもある。彼は、新潟から上京して東大に入って大手商社に就るまで”弱さ”を見せなかった。けして弱さを他人に見せなかった。それは蒸発した父親への抵抗でもあった。                 
 上杉景虎の父・為景は景虎が小学生の時、女をつくった。
 景虎の母(つまり為景の妻)はすでに亡く、父は女をつくった。幼い息子は「美人のひとじゃないか。ぼく、あのひと、好きだよ。一緒にやっていけるよ」と、父親(為景)に言った。
 すべて嘘だった。
 本当はブルドックみたいな顔をしたブサイクな若いだけの女だった。でも、息子(景虎)は捨てられるのが怖くて、そのブス女を褒めちぎった。
 でも、父は、「そうかい?お前があのひとのことを好きでも、あのひとはお前のことを嫌いなようだよ」
「な、なんで?! ぼく、なにかあのひとに悪いことした?」
「いや。お前はなにもしてない。あのひとは”子供嫌い”なんだよ」
 景虎は絶句した。
 そして、”捨てられる”のが怖くて身震いした。
「お父さん! ぼくあのひとに好かれるようになんでもするよ!」
 父は無言だった。
  そして、その数日後、景虎の父・為景は女と蒸発した。息子を捨てて。
 幼い景虎は親戚の家をたらい回しにされ、毎日膝を抱えるような日々を送った。でも、馬鹿にした連中を見返したくて勉強は誰よりもやった。蒸発した父が「勉強だけはしっかりしなきゃダメだぞ」といっていたからだ。そして、東大に入り、商社に就ったのだ。
「ねえ、おばちゃん。立教の長嶋は来年ジャイアンツに入るって本当かなぁ?」
「さぁ、おばちゃんわかんないよ。帰ったらおじちゃんにきいてみな」
 幼い景虎は、捨てられ、親戚に愛想をつかった。でも、彼は、その捨てられたときから”弱さ”を見せなくなった。”弱さを見せたら負けだ”……と、そう捨てられた時に感じたからだ。だから、彼は泣かなかった。



  葬儀も終り、日々が経ち、悲しい気持ちはやわらいだ。
 しかし、上杉涼子はショックから抜けだせず、学校をサボって常安寺の墓にお参りした。そして、めそめそと泣いた。悲しくて仕方なかった。
 お母さん。お母さん
 すると、直江和尚が笑顔でやってきて、「これはこれは涼子ちゃん。今日は学校は?」と尋ねた。涼子は黙りこくって下を向き、下唇を噛んだ。
「ははん。サボりだねぇ?」和尚は笑った。
 そして、「わしものう、よく勉強が嫌いで学校さぼったもんさ。だから大学にもいけず、戦争で兵隊にとられて辛い思いもした。でもそれは自業自得かのう。で、いまや生ぐさ坊主よ」と、いった。
「和尚さん、お母さん………なんで死んだの?」
「なんで?」和尚は優しく「人間にはのう、それぞれ寿命があっての。このひとは十歳で死ぬ…とか、このひとは九〇まで生きるって仏様があらかじめ決めてこの世に生まれる」「…お母さんも…?」
「そうじゃ」うなずいた。
「私も?」
「無論。しかしのう、人間っていうのは肉体は死んでも魂は死なないのだよ」
「魂?」
「うむ。魂。涼子ちゃんのお母さんは死んだけど、魂は生きてる」
「でも」
「ほらごらん。この空を。空の上から涼子ちゃんのお母さんは君を見守ってらっしゃる」 和尚は優しくいった。「そうじゃ。だから元気だしなさい。天国のお母さんを心配させちゃあいかんな」
 涼子は目の涙を拭い、とにかく答えた。「わかりました」
 不安や焦りや葛藤はあるけれど、とにかく頑張ろう、そう思った。

  上杉家の自宅では、夜、石田みつ子と義祖々母(つまり景虎の祖母)のたえがふたりきりで話していた。おばあちゃんは仏壇に手をあわせ、線香をつけ、念じた。
 たえはこの時すでに百歳近い。「これだけ祈れば、だいじょうぶじゃないかえ?」
「涼子ちゃんの眼もよくなりますわ」
「そうねぇ。良子さんがあれだけ祈って願掛けしたんだから、涼子ちゃんの眼もきっとよくなるわねぇ」おばあちゃんはほんわり笑った。
 石田みつ子もつられて、「きっとよくなります!」と笑顔をつくった。
「ところで?」
「はい?」
「景虎の後妻のことなのだけれども」
 おばあちゃんは心臓が二回打ってから続けた。「わたしは、みつ子さん。あなたがいいと思ってるの」
「あたしですか?でも」ためらった。
「いやなの?」
「いえ、とんでもない。でも、義兄さんがどう思っているか」
「大丈夫よ。景虎はあなたのことを愛してるはずだから」
「でも……」
「不満?」
「いえ、そんな」みつ子はいったが、まんざらでもなかった。
 実は、石田みつ子は景虎のことが好きだった。ほのかに愛していた。だから、まんざらでもない気持ちだった。体中が火照ってくるようだった。
 …義兄さんと結婚……? そう考えるだけで、心が浮かれた。
 ある夜、みつ子は景虎に部屋にくるようにいわれた。石田みつ子はまんざらでもなく、”素敵な関係”のことも考えてまずシャワーを浴びて全身を磨いた。とにかく、お互い愛し愛される仲になれる、そう思うと顔が笑顔になった。しかし、期待はみごとに裏切られる。 景虎はみつ子に「暇を与える」といった。
「え?」と、聞き返すと、「若い後妻をもらうので、この家から出てってくれ」というのだった。「ちゃんと引っ越しの費用も今までの感謝の気持ちも出すから…まぁ、そういう訳で、すぐでなくていいが、ここから出ていってくれ」みつ子はショックをうけて、しばらく茫然としたが、仕方ないと諦めた。


  石田みつ子は空虚な落ちこんだ気分だった。いま彼女のポケットにはなにもない。心のなかにも、愛も金も安らぎもなにもない。ひどく憂欝だった。「他人にはいえない胸のうちね」思わずつぶやいた。無理につくった微笑が消え去り、みつ子のはしばみ色の目に奇妙な表情が浮かんだ。「あたしはもう…」弱々しくいった。「必要ない」
 不意に疲労が襲いかかってきて、石田みつ子は自分がおしつぶされそうに感じた。目尻に涙がにじんだ。自分の部屋の鏡に向かい、自分の顔をしげしげみた。この何年、みつ子は自分の力で人生を切りひらき、生きのびてきた。しかし、多くのものを失った………家庭、恋人、愛、親友、ピアニストの魂の指の感覚。それに悪いことには孤独でもある。そう、孤独なんだわ! それに義兄さんにも……いらないって……
 そして、石田みつ子は失意のまま、この上杉家を去ることを決めた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贖罪・あゆみ 歌姫・浜坂あゆみの波乱の半生アンコールブログ小説5

2013年09月06日 04時24分47秒 | 日記
         雨だれ




  しとしととグレーの雲から降りだし、やがて雨が強くなっていった。
 ついこの前日まで、”小春日和”であったはずなのに、天気はまことに気紛れである。 まるで、ショパンの「雨だれ」が響いてくるかのような不気味な天気だった。
  亮一は会社にいき、純也も学校にいき、お手伝いの秀子ちゃんは買い物にいき、春子は豪邸にひとりっきりであった。
「まぁ、雨だわ」
 春子は当たり前のことをひとりでいった。
 そう雨だ。見ればわかる。
 洗濯物はすでに秀子ちゃんが取り込んでいた。
 秀子は機転の利く女の子なのである。
 あるいは、ラジオかTVで雨の情報を得ていたのかも知れない。
「亮一さんと純也は傘をもっていったかしら?」
 春子は不安になった。
 なにせ、この頃の春子ときたら”有閑マダム”のようにだらしない生活をしていた。ついこの前まできびきび働いていたが、最近は起きるのは九時頃である。
 春子はしょうがないな
 亮一は思ったが、口には出さなかった。
 精神がまだ安定してないのかも知れない、と思ったからだ。
 旦那や息子が出掛けていく時間は寝ていたため、
「亮一さんと純也は傘をもっていったかしら?」
 と、春子は不安に思った次第である。


  しばらくすると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
 春子が玄関に向かう。すると、男の声がした。
 それは、緑川鷲男であった。
「まぁ!緑川さん!」
「こんにちは、春子さん」緑川は笑顔を見せた。
 ずいぶんと痩せているのは病気のせいかも知れない。もっとも緑川鷲男はふだんから痩せていて、スマートな男ではあった。しかし、病気痩せは深刻のようで体力を奪うのである。だから、緑川はふらふらしながら玄関に立っていた。
「緑川さん!病気だと」
「そうですよ」緑川は続けた。「癌でした。しかし、もう大丈夫です」
「でも」
「もう手術も終わりましてね。もう大丈夫ですよ」
「大丈夫そうには見えませんわ」
「それはね、春子さん」
「はい?」
「それはね」緑川は皮肉に笑って「とにかく中に入れて貰えませんか? 旦那さんも息子さんもいないんでしょ?」
「…え…ええ……でも…」春子は動揺した。
「秀子ちゃんは?」
「おりません。買い物にいっております」
「なら」緑川は笑った。「別に何の問題もないでしょう?」
「でも、わたしたち、いけませんわ」
「だいじょうぶですよ、春子さん。ぼくは何もしません。だって、先輩の奥さんですよ」「そんないいかたって」
「え?」
「わたしは、只の”奥さん”ではないですわ」
 春子はいった。
「ははは」緑川はふたたび笑って「その通り!」といった。
 そして、「とにかく、中に入れて下さい」といった。


  緑川を家にいれると、春子は彼とふたりっきりになった。
 しばらく珈琲を飲んで見つめあっていたが、雰囲気は重いものになった。
  春子は無言だったし、緑川は彼女に愚痴をいうだけだったからだ。
「癌なんて驚きましたよ」
 緑川はいった。
「そうでしょうね。で?」
 春子はいった。「もうよろしんでしょう?」
「はい。おかげさまで。でも、転移の可能性もあるし、まぁね、しばらくは静養って訳ですよ」
「静養?でも……執筆活動は?よろしんですの?」
「まあ、そうですね。しばらく休みでもいいんです。どうせ年に4冊出版できればいいんですから」
「音楽のほうは?」
「それもしばらく休止です。プロデュースもね」
「でも、生活費はどうなさるんですの?」
 緑川は笑って「まぁ、今までの蓄えもありますから」といった。
「そうですの」
 春子がそういって微笑んだ。
 ふたりは知らなかった。
 亮一が家に帰ってきて、忍び足でやってきたことを。
 亮一は緑川の車を家の前でみつけ、忍び足でやってきていた。なにもふたりの密会を知っていた訳ではない。自分にしか取り扱えない重要書類を取りにもどってきて発見したのだ。彼は、扉の隙間からふたりを覗きみた。
「春子さん」ふいに、緑川が座椅子から立ちあがり、春子に近付いた。
「あら、いけませんわ」
「いいじゃありませんか」
 緑川は春子の肩を抱き、そして口付けをした。
 ふたりのキス・シーンを覗き見て、亮一は驚愕した。
 そして、今のは避けようとすけば避けられたはずだ。と強く嫉妬した。
 ふたりは離れ、春子は頬を赤くした。
 緑川は「春子さん、ぼくはあなたが好きだ」といった。
「で、でも、わたくし結婚して主人も子供もいますのよ」
「かまわない! それでも好きなんです!」
「いけませんわ」
 亮一は呆れて、忍び足で書斎へと去った。
 なんということだ!緑川め!
 春子も春子だ!キスなど
 しばらくすると、お手伝いの秀子ちゃんが帰ってきた。で、緑川は、春子に別れをいい急いで車で消えた。亮一は隠れていた。
 そして、時間がだいぶ過ぎてから出てきた。
「いや~あ。書類を忘れた」
 亮一は明るい演技をした。
 すると春子は動揺しながら、「そ、そうですの?」といった。
 緑川め!よくも妻をたぶらかしやがって
 あのキスは避けようと思えば避けられた筈だ
 それを……
 亮一は心の中で腹をたて、嫉妬した。
 そして、
 奈々子の娘をひきとってみようか、と思った。
 妻に内緒で、出生に秘密を明かさず、奈々子の娘をひきとってみようか…亮一は妻への怒りと嫉妬から、不遜なことを考えていた。
 ひきとった子供が、俺と奈々子の子だとあとで知れば春子は狼狽する
 いい気味だ。そうなれば、緑川なんかにかまっていられぬのだぞ!
 いい考えだ




  癌転移がみつかって、緑川は静養地出発がダメになりふたたび入院した。浜坂家に情報が入ったのは、数週間後のことであった。
 春子は心を痛めたが、亮一は、ざまぁみろ!天誅が下ったんだ!などと不遜なことを考えていた。
 そして、更に、緑川とキスしやがって! 俺が大学生の頃なんてキスどころか腕組みだって、と嫉妬した。
  亮一は、春子との学生キャンパスでのデートのことを回想していた。
 浜坂亮一は大学のキャンパスで、美貌の女性を見かけた。
 本当に息をのむほどの美貌の女で、髪がさらさらで長く、瞳も大きくて、全身が小さく細くて、まるで妖精のような女学生である。
 それが、春子であった。
 旧姓は織田春子、亮一と同じ大学の文芸科の学生だった。武田は別学科だった。
 亮一は春子に一目惚れした。しかし、
 自分と彼女では釣り合わないとも感じていた。
 しかし、女は顔、男は生活力、という考えが当時の一般論であり、亮一は覚悟を決めた。告白しようときめた。恋人にし、いずれは結婚するのだ、と。
 亮一は、高嶺の花の春子をみて、この女は俺と結婚するために生まれてきたのだとさえ考えた。
 今でこそ、亮一は春子に倦怠感をもっているものの若いうちは春子にぞっこんであった。ちなみに、のちの愛人・松崎奈々子も同じ大学であった。
「すいません」
 亮一は座席に座る春子に声をかけた。
「なんでしょう?」
 春子の声は、薔薇色の声であった。
「俺と……付き合ってください」
「まぁ!」春子は真っ赤になった。
 しかし、それでも彼女は嫌な顔ではなかった。亮一はブ男ではない。ハンサムな方だ。だから、春子もまんざらではなかった。
「……だめですか? 俺…」
「いいえ、あの、よろこんで」
 こうしてふたりは付き合い、やがて学生結婚した。
 ふたりはよくキャンパスでデートしたという。まだふたりの仲が”甘い季節”の頃の話だ。今は倦怠期である。まだ若いふたりではあったが、ひさしくセックスはなかった。
 若い頃は、何日もぶっつづけで愛し合ったものなのに。
  ひとりの妻がいる。
 名は春子で、今は家内だ。
  もうひとりの愛した女がいた。
 名は奈々子で、愛人だったが光田に殺された。
 亮一は今はどちらを愛しているのか



  浜坂亮一はとうとう決心する。
 妻に内緒で、出生に秘密を明かさず、奈々子の娘をひきとってみようか  その考えを実行しようと考えたのだ。
 下手な考え休むに似たりといえばいいのか。
 とにかく、亮一は妻に腹を立てていた。憤慨していた。
 俺という夫がありながら他の男とキスなど
 彼は自分の不倫を棚にあげて憤慨していた。
 そして、ひきとった子供が、俺と奈々子の子だとあとで知れば春子は狼狽する
 と、にやりとした。
 天誅だ!


「本気か?」
 武田医師は亮一に尋ねた。
「本気さ。奈々子の子を引き取る」亮一は、武田の勤める産婦人科病院に出向いていた。そして、そう答えたのだ。
「奥さんは?承知したのか?」
「いや。でも、妻は養女がほしいそうだよ」
「愛人の子を引き取って奥さん文句いわんのか?」
「いうさ。だから内緒で引き取る」
 武田医師は唖然としてから、「お前が父親だって内緒で引き取るのか?」
「あぁ!」
「しかし、どうせいずれバレるぞ」
「かまわんさ。どうせ俺の子だ」
「いいのか?」
「ん?」
「悲惨なことになるぞ」
「かまわんさ!」
「子供がかわいそうだと思わんのか?」
「思う。だから引き取るんだ。このままなら孤児院行きだろ?」
「まあな」武田は訝しげにいった。そして「だからって」といおうとした。
 だが、亮一は、「頼む!妻には内緒で引き取るから、出生はふたりだけの秘密にしてくれ!」といって頭を下げるだけだった。
「子供に罪はないんだぞ」
「あぁ。わかってる」
「いや、お前はわかってない」
 武田玄信医師はいった。が、亮一の気迫に押され、それからは無言になった。
 亮一が、「頼む!」と、土下座まがいのことまでしたからである。
 いくら部屋の中で、ふたりしかいないといっても土下座はやり過ぎだ。武田は思った。
         赤ん坊





「君は養女が欲しいっていってたじゃないか」
 亮一は夜、自宅で、ふたりっきりのときにいった。
「えぇ。いいましたわ」
 春子は答えた。そして「見つかりましたの?」と尋ねた。
「あぁ!」
「本当ですの?」
 亮一は笑顔で、「みつかった。武田のところに七ケ月の女の赤ちゃんがいる」
「まぁ!武田さんの病院に?」
「そうだ!」亮一は笑顔でいった。
 しかし、心の中では、俺と奈々子との子だ、どうだ! あとで子供の出生の秘密を知って苦しむがいい 天誅だ!
 などと思っていた。
「じゃあ」
 春子は至福の顔で、「早めに引き取らなければなりませんわね」といった。
「急がなくてもいいだろう」
「いいえ」春子は首を降り「善は急げっていいますでしょ?」
「引き取るのが善かい?」
 亮一が怪訝な顔をすると、春子は「えぇ!」と答えた。
「どんな顔なんですの?可愛い女の子ですの?」
「知らないよ、まだ見てないから」
「そう」春子はそういってから、うきうきと「とにかく早めに引き取らなければなりませんわね」といった。
「だが」
「え?」
「純也には何ていう?」
 亮一はきいた。すると春子は、「わたしが産んだっていいますわ」と笑った。
「そんな嘘信じるもんかい?」
「まだ純也は子供です。出産のこととかなんて知るはずありませんわ」
「しかし、周りのひとには?」
「近所のひとには内緒です。でも、武田さんとかはしょうがありませんわね」
 春子は微笑み、至福の顔をした。「あぁ!わたしの赤ちゃん! はやく会いたいわ」 亮一は口をつぐんだ。
 そして、俺と奈々子との子だ、あとで苦しむがいい! 緑川と不倫しやがって! などと不遜なことを考えるのだった。




  武田医師が勤める産婦人科医院に亮一と春子がついたのは、午後三時頃だった。
 当たり前の話だが、産婦人科だけあってお腹の大きい妊婦が多い。
 みんな、幸せいっぱいの顔だ。
 もちろん、みんな「やりまくった」訳で、ときおり高校生くらいの少女までいる。こちらの方は計算違いで”できちゃった”訳で、墜しにきたのだ。だから、保護者らしいオバさんが側で泣きそうな顔をしている。
 うちの娘に限って というところか。
 亮一はそんな妊婦たちを見ながら廊下を進んだ。
 そして、ハッとなった。
 死んだ筈の松崎奈々子に似の妊婦がいたからだ。
 亮一は思わず、「奈々子!奈々子!」と声をかけそうになった。
 が、やめた。松崎奈々子は死んだのだ。いや……光田利二に殺された…
「どうなさいましたの?あなた」
 春子は不思議な顔で、亮一の側まで歩いてきて尋ねた。
「……いや……なんでも…ない」
「そうはみえませんけど」
「なんでもない」
 亮一はいった。
「そうですの?まぁ、いいですわ」
 春子は微笑んで、「それより……わたしたちの赤ちゃん……」
「え?」
「わたしたちの赤ちゃんを早くもらいましょう」
 春子は至福の顔になった。
 亮一は、俺と奈々子の子なんだぞ!とまた心の中で不遜に思った。
「やぁ!浜坂!それに奥さんも」
 武田玄信医師が、ふたりに気付いて声をかけた。
 彼は白衣で、眼鏡をかけていた。
「武田、元気か?」亮一はいった。
「あぁ、浜坂は?」
「まあまあだ」
「奥さんはどうです?」
「元気ですわ」
「そう。それはよかった」武田は笑った。
「それより…」
 春子は続けた。「わたしたちの赤ちゃんを早くみたいですわ」
「ははは…わかりました」
 武田は笑い、ふたりを新生児室へと案内した。ふたりは無言で歩いた。しかし、春子だけはにやにやと至福の顔をするのであった。
 やがて、ガラス張りの新生児室に着くと、武田が「あの子です」
 と指差した。
 それは、生後七ケ月の女の赤ん坊で、未熟児のためか細い嬰児であった。
「まぁ、可愛い女の子」
 春子はにこりといった。そして、「両親はどうしてあの子を手放したのですの?」
 と武田医師にきいた。
「両親はどんな方なのですの?」
「いえ。奥さん。そういうことはふせることになってました。規則です」
「まぁ。規則?」
「はい」
 武田はそういって、無言の亮一の顔をみた。亮一は複雑な顔をしている。無理もない。この赤子はもしかすると、いや多分間違いなく自分と奈々子の子なのだ。
「でも、あの子の両親のことを知りたいですわ」
 春子がいうと、武田は、「なら、教えてあげましょう」といった。
 亮一の顔がひきつった。
 武田はにやりと笑い、「父親は浜坂亮一。母親は浜坂春子です。そうでしょ? 引き取るんだから」
「まぁ!」
 春子は喜んだ。「そう、わたしが母親ですわ」
 しかし、亮一は眉間に皺をよせ、ふくざつな顔をするだけだった。
「あなた、ほら、わたしたちの娘ですわ!」
 春子は大ハシャギで、亮一に腕組した。
「よさないか!」亮一は暗い顔のままいった。
 春子は、「わたし、今からここに入院することにしますわ」といった。
「え?なんで?」
 亮一は動揺した。春子は「あの子は私が産んだってことにするためです」
「でも、子供はもう七ケ月だぞ」
 亮一がいうと、春子は「一年前から妊娠してて、お腹が大きくならなかったので誰も気付かなかったけど……最近出産しました…って近所や友人なんかに説明すればいいわ」
「でも、子供はもう七ケ月だぞ。すぐバレるぞ。産んだ子がもう大きいなんて」
「未熟児でしょ?わからないわ」
「しかし」亮一が動揺し狼狽すると、武田が、「まぁ、それもいいじゃないの」といった。
「あゆみはわたしが産んだ娘になるの」
「あゆみ?」亮一は春子にききかえした。
「そう。あゆみ。浜坂あゆみ。いい名でしょ?とにかくあゆみはわたしが産んだのです!そう工作して下さいな」
 春子はいった。亮一は呆れてから、俺と奈々子の子なんだぞ!とまた心の中で不遜に思った。
 こうして、春子は赤子を愛し、「あゆみ」と名付け、しばらくホテル住まいになった。その間ずっと隠れ、ひそかに病院で赤子とスキンシップを交わした。近所には、出産のため入院中と言ってあった。
 とにかく、こうして浜坂亮一の復讐は始まった。


「赤ちゃん産まれた?」
 夜。自宅の居間でテレビをみていたとき、純也が亮一にきいた。
 亮一は一瞬、ハッとなってから「あぁ」といった。
 赤ちゃん、春子が産んだことになっている赤子
 でも、実は自分と奈々子の子
 そう思うと、亮一は風呂あがりのビールもマズかった。
「じゃあ、お母さん帰ってくる?」
「あぁ」亮一は生返事をした。
 そして、「でも、もう少し入院だ」と横顔のままいった。
「ふ~ん。男?女?」
「女の子だ」
「ふ~ん」
 純也はいって、それからテレビの画面をみて、「お父さん」と声をかけた。
「ん?」
「テレビみてないんでしょう?ぼんやりして…」
「あぁ」
「じゃあ、チャンネルかえていい? ガンダムみたいんだ」
「ガンダム? あぁ。みなさい」
「わ~い!」純也は嬉しくなって、テレビのチャンネルをかえた。ガンダムがやっている。アニメ番組で、当時の男の子たちの人気番組、『機動戦士ガンダム』である。
 亮一は体調もすぐれず、寝室にむかった。
 あたり前だが、誰もいない。
 亮一は疲れてしまい、ベットに横になると死んだように眠りこけてしまった。



  翌日は日曜日であった。
 亮一は疲れてはいたが、元々生真面目な男である。体調改善のため、早朝に散歩にでかけた。今なら、ウォーキング、という訳だ。
 しばらく人通りのない道を歩いていくと、亮一はハッとなった。
 なんと秘書の鈴木杏子が歩いてくるではないか。
 彼女は亮一の顔をみかけると、満天の笑顔になり、
「浜坂社長!」と近付いてきた。
「杏子くん」
 亮一がおどおどしていると、彼女は、「社長も散歩ですか?」ときいた。
「あぁ」
 亮一がいうと、鈴木杏子は亮一に腕組して抱きつかんばかりに密着した。彼女は美女で若い。亮一も悪い気はしない。相手がブス女であれば「離れろ!」と殴るところだ。
 その点、鈴木杏子は美貌なので、どんな男だって「離れろ!」と殴りはしまい。
 杏子は何しろひとなつっこい性格なのである。
 だから、亮一に抱きつかんばかりに腕組みしてくる。
 あるいは、彼女は亮一のことが好きなのかも知れない。
「社長、奥さん今いないんでしょう?」
 杏子は甘い声できいてきた。
「あぁ」
「じゃあ…私…その…」
「なんだい?」
「あの……今夜」
 杏子がなにかいいかけたとき、「よう!旦那!若い娘と浮気かい?」と声がした。
 それは、小室みつ代だった。
 亮一が背後を慌ててみると、小室みつ代がにやにや笑ってたっていた。
「小室さん!」
 亮一は狼狽して、杏子の腕をほどいた。すると小室が「わははは」と豪快にわらった。「浮気はいかんぞえ!」
「……う…浮気なんて…そんな…こっちの娘は秘書です」
 亮一は慌てながら釈明した。
「そうかい。そりゃあつまらん」小室がいうと、杏子が「わたしはこれで」と去ろうとした。その際、「わたし緑川さんにあいまして…」といいかけた。
「え?」
「失礼します!」杏子は足速に場を去った。
 すると、小室は「旦那、あの子、旦那にホの字だねえ」といった。
「ま、まさか!」
 亮一は苦笑した。

  その深夜、鈴木杏子は亮一を訪ねて豪邸にきた。夜ばいにきたのだ。密かに部屋に通した亮一だったが、狼狽していた。
 しかし、ずいぶんと「夜の生活」もごぶさただったので、亮一は鈴木杏子を抱いた。
 愛情があった訳ではない。学生のときと同じで、綺麗な女なら誰でもよかったのだ。
 とにかく、亮一は深夜、彼女を抱いたのだった。                 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贖罪・あゆみ 歌姫・浜坂あゆみの波乱の半生アンコールブログ小説4

2013年09月04日 05時59分30秒 | 日記
 私生児?




  春子は退院後、きびきびと働いた。
 まるで、入院中やれなかったことを消化するように働いた。洗濯、掃除、食事作り、生け花、編み物。春子はとても楽しそうに活動した。
 あるいは、活動することで精神の安定を保とうとしていたのかも知れない。
「春子、よく働くなぁ」
 亮一が呆れた顔でいう。と、妻の春子は、
「だって、いままで入院して寝てばかりいたんだもの。その分も取り戻さなければね」「そうか」
 亮一は笑った。
「で?もう病気はいいのか?」
「えぇ。もう精神安定剤も飲まなくていいし、もう大丈夫よ。ただ」
「うん?」
「精神を病んだこと…」春子は続けた。「誰にもいわないでほしいの」
「なんで?」
「だって……恥かしいもの。おかしいと思われたら」
 亮一は笑った。
「笑いごとではありませんわ」
 春子がむくれると、彼女の旦那は「誰にもいってないよ」といった。
「そうですの。それはありがたいですわ」
「でも、小室さんだけは知ってる」
「みつ代?まぁ、みつ代なら大丈夫よね」
「まあね。あのひとはいいひとだから」
「えぇ」
 春子は微笑んだ。亮一も微笑んだ。

  しばらくすると、春子が、「あのね」と、何かいいかけた。
「なんだい?」
 亮一が尋ねる。春子は、「もうひとり子供が欲しいですわ。わたし」といった。
「え?でも」
「だめですの?」
「いや」亮一はいった。「でも、君は子宮癌で手術して、もう子供が産めないじゃないか」
「そうですけど、子供を産めないなら、もらってきたらいいんですわ」
「もらう? もらうっていったって、子犬をもらうような訳にもいかんよ。人間の子なら」
「そうですけど、養女がほしいのです」
「養女?女の子かい?」
「えぇ。女の子を、可愛い女の子が欲しいですわ。そして、頭もいい。とっても可愛い子を」
「しかし、育てるのは君だよ。大変だよ」
「わかってますわ」
 春子は強く頷いた。
「本当にわかってるのか?」
「えぇ!」
「自分の腹から産まれた子じゃない。血もつながってない子供だぞ」
「えぇ!わかってます!私、一生懸命可愛がります!」
 春子は強くいった。
 何をいいだすかと思えば、養女か
 亮一は困惑した。
 女の子をもらう?子犬をもらうように簡単にいうじゃないか
 女の子?
 確か、奈々子の子も、女の子。しかし、
「お願いします!女の子、もらってきて下さいな」
 春子は嘆願した。
 亮一は何と答えたらいいかわからず、沈黙するのだった。
  しばらくしてから、亮一は、「そうだ」と思い出したようにいった。
「なんですの?」
「緑川が会社にきてね」
「……はい」
「なんでも入院するそうだよ」
「え?」春子は驚いた声でいった。「どこが悪いんですの?」
「癌らしい」
「癌?!まぁ…」
「でも。初期癌らしいよ。すぐ手術して、どこかで静養するらしい」
 春子は同情の顔をした。
 ふん。同情か、ざまあみろ
 亮一は妻の顔をみて、そう不遜に思った。



  季節はもう秋だった。
 夏のぎらぎらした陽射しは弱まり、なんとも清々しい風が心地好い。街路樹はもう赤や黄色で、都会にも秋がきているんだなぁと感じる。
 ふたりはもくもくと歩いていた。散歩である。
 亮一らは女子高生と擦れ違った。
 彼女らはなにかおしゃべりしながらへらへら笑っていた。箸が転んでもおかしい年頃である。何がおかしかったのか。
  亮一は昔のことを思い出していた。
 彼が高校生のときのこと。
 浜坂亮一は学級委員長で、進学校の高校二年生だった。もちろん勉強もしていたが、いやらしいことにも興味があった。
 一番、やりたい年頃である。
 亮一は当時、彼女がいなかった。それより勉強、と考えていたからである。
 しかし、つい、いやらしいことを考えてしまっていた。
 彼が妄想をふくらまして歩いているとき、近所の中学生の女の子をみかけた。
 けっこう可愛い女の子で、髪はみつ編みだった。
 亮一はむらむらして、その女の子に声をかけると公園に強引に連れていった。
 そして、「由美ちゃん!」といって、椅子にすわらせると無理やりキスをした。初めてのぎこちないキスは数秒つづき、そして彼は彼女の唇からはなれた。
 女の子は頭が真っ白になり、驚愕した。
 と、今度は亮一は彼女のふくらみはじめた胸に手を触れ、はあはあと息もあらく揉んだ。「いやっ!」そういうと、女の子は立ち上がり逃げ去った。
 亮一は当時、その女の子が好きだった訳ではない。女なら誰でもよかったのだ。
 彼は、胸を揉んだ手をみつめ、匂いをゆっくり嗅いだ。
 女の子は警察にも両親にも、亮一にされたことを喋らなかった。
 そのため、亮一は悲惨なことにはならなかった。
 だが、女の子は亮一をゆすってきた。亮一のみぞおちに占めていた漠然たる不安が脅威的な形をとりはじめ、全身に警告の赤ランプがともっていた。ちくしょう! 罠にかけられた! 由美が短いスカートで、ふとももを、色気のあるふとももを俺にみせつけ、意味あり気な微笑をおくってきたから、強引に唇を重ね、胸を揉んだのに…。金を要求とは! 由美は「口止め料」として一万円要求してきた。
 当時の一万円は大金である。しかし、少女は要求してきた。
 亮一は脅迫に屈し、ひそかに金を払った。
 たったひとつの過ちのために大金をとられた
 それから、少女は亮一の顔をみる度ににやにや嘲笑するようになった。
 亮一は、あの少女を殺してしまいたい あの少女とのことをなかったことにしたい  と、後悔し、強くねがったものだ。
  当時のことを思い出し、後悔の念にかられた。
 そして、奈々子を殺した光田利二と俺と、どこが違うっていうんだ?
 と、慙愧した。
 恥かしい昔の出来事だ。
 しかし、過去のことは消すことは出来ない。
 奈々子を殺した光田利二と……俺と……どこが違うっていうんだ?
 自分だって女にいやらしいことをしたではないか
 光田は殺したが、俺は殺してない
 ただ、その差だけだ
 そう思っていると、息子の純也が、「どうしたの?お父さん、怖い顔して」と心配げに声をかけてきた。
「ん?」
「なにかあったの?」
「い、いや。何もないよ」亮一は歩きながら、無理に口元に笑みをつくった。
 そうしながらも、奈々子を殺した光田利二と、俺と、どこが違うっていうんだ?
 と、自分の胸の中で自問するのだった。




 奈々子を殺したのはホームレス。なんで彼女がそんな男に?
 ふいに、家にひとりとなった春子は思った。
 私が緑川さんに浮気心をもっている間に、彼女は殺された
 私のせい?
 犯人の光田利二という男が憎いわ
 春子はそう思った。
 春子は、自分の旦那が、松崎奈々子と浮気をしていたことなど露ほどにも知らない。
 しかも、緑川さんは癌だなんて 私は精神を病んだ
 天罰だわ
 奈々子からの天罰よ
 春子は思わず泣きそうになると、天井を向いて涙を堪えた。
「すいません!誰かいますか?!」
 そんな時、玄関から男の声がした。
「は~い」
 春子は玄関に向かった。ん    
 訪問客は武田玄信だった。
「まぁ、武田さん」
「おひさしぶりです。奥さん」
 武田は笑った。
 武田玄信は、春子の夫・亮一と大学の同期で、産婦人科医で、春子は結婚式のときにあったきりだった。だが、春子は、この温厚な顔のひとを忘れてはいなかった。
 武田は亮一の親友とかで、大学時代はよく「馬鹿」をやったという。
 酒豪でもあり、グルメでもあるという。
「武田さん、お元気そうね」
「いやあ、奥さんこそ。こんなに綺麗な奥さんをもらって、浜坂のヤツがうらやましいですなぁ」
「まぁ、お上手ですこと」
「いえいえ、お世辞ではないですよ。本当に思ってるんですから」
 ふたりは笑った。
「ところで、何のご用で?」
 春子がきくと、武田は、「いやなに。ちょっと浜坂に用があるといわれて、きてほしいと」
「まぁ。主人が? !わかったわ!養女のことですのね?」
「え?」
 春子はうきうきといった。「主人が私の願いを叶えて下さろうとして」
 武田は無言になった。まさか、奥さんは松崎奈々子の忘れ形見のことを知ってるのか。まさか!そんな。「ご存じでしたか」
「はい」
 春子はいった。「女の子が欲しいのですわ、わたくし。可愛い女の子が」
「そうですか」
 武田は暗くいった。
「そんな女の子の赤ちゃん、おりますかしら?」
「そうですね、探してみます」
「まぁ!お願いします」
 春子は至福の顔をした。



「ということだ」
  病院を訪ねてきた亮一に、武田はいった。日曜の午後だった。晴れで、もう冬だ。
 東北や北海道や北陸はもう雪景色だという。しかし、東京にはめったに雪は降らない。 降っても、数センチぐらいしか積もらない。でも、その程度でも、雪がふると必ず東京人の中で滑って転倒して死ぬ人間が出てくる。
 わずか数センチで死者が出るくらいなら、東北や北海道では何万人も死ななければならない。東京は雪に弱すぎる気がする。
「そうか」
 亮一はいった。病院の応接室で、ふたりは珈琲をのんだ。
「春子は養女がほしいと君にいったか」
「あぁ。まぁ、適当な女の赤ちゃんがいないこともないんだが」
「松崎奈々子の子かい?」
 亮一は平然といった。
「知っていたのか?!」
 武田が思わずもっていたカップの中身をこぼしそうになると、亮一は、「まあな」といった。
「松崎奈々子の子をもらってみようか」
「父親はわからんのだぞ。母親は殺害され、天涯孤独の赤子だ」
「父親は、俺かも知れん」
「え?」武田はハッとした顔をした。「お前が? まさか!」
「いや、実は、俺は松崎奈々子と密かに付き合っていた。男と女の関係もあった」
「しかし」
「俺はその子の父親かも知れん。引き取りたい」
 亮一はいった。
「奥さんは?どうするんだ?バレたら、大変なことになるぞ」
「俺と奈々子のことは内緒だ。秘密にして”他人の子”として引き取りたい」
「おいおい」武田は唖然として、「本気でいってるのか?」ときいた。
 それにたいして亮一は、
「俺は本気だ」というだけであった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贖罪・あゆみ 歌姫・浜坂あゆみの波乱の半生アンコールブログ小説3

2013年09月02日 07時00分39秒 | 日記
 怒り




  光田利二は死んでしまった。
 自殺したのだ。
 そして、松崎奈々子も死んでしまった。
 光田利二に犯され、殺されたのだ。
  休日の早朝、亮一は珈琲を飲みながら、新聞を読んでいた。場所は自宅…。
 皮肉にも、鬼畜・光田利二の古巣、M新聞である。
 朝日が眩しいほどで、陽の光りが差し込んで、辺りに反射してハレーションを起こしていた。それは、しんとした風景だ。

”東京都在住のOL、松崎奈々子(32)さん殺害される。
  犯人は、元・M新聞社員、光田利二容疑者(54)。同容疑者は警察に自首し、拘留中  に自殺。犯人死亡のまま送検される。
   松崎奈々子(32)さんは大手商社・四菱商事の事務員で、独身。近所のひとにも評  判もよく、温厚な人柄であったという。”

  何日か前の新聞だった。
 記事がそんな感じで書いてある。亮一は記事を何度も何度も読み返した。そして、ひとりで泣いた。誰もいないのが幸し、亮一は情ない顔をみられずに済んだ。
 妻の春子はショックで入院したままだ。
 休日の早朝なので、長男の純也はまだねんねである。
 奈々子。奈々子!
 亮一は、胸がきつくしめつけられるような感触を感じた。妻よりも、殺された松崎奈々子のほうが愛しかった。彼はしゅんとした顔をした。
 そして、松崎奈々子は死んだんだ、と心の中で何度も唱えた。
 それにしても、奈々子を殺した光田利二という男は、リストラされてホームレスか、 亮一はふっと思った。
 そして怒りもこみあげ、奈々子を殺す前に光田利二が自殺してれば、一瞬だけ憤慨した。 それにしても、
 奈々子を殺した光田利二という男は、リストラされてホームレスか
 しかも、リストラの理由は少女買春で、クビか
 自業自得ではないか!
 だが、そのたったひとつの過ちで、仕事をクビになり妻子は利二を見限って出ていったのだ。少女買春で、クビか……末路はホームレスで人殺しで自殺か…
 亮一は光田利二に少しだけ同情もした。
 この御時世にリストラか。
 だが、自業自得ではないか!
 奈々子。奈々子!
 亮一は、胸がきつくしめつけられるような感触を感じた。妻よりも、殺された松崎奈々子のほうが愛しかった。彼はしゅんとした顔をした。
 そうしてると、やがて長男の純也が起きてきた。
「おはよう、お父さん」純也はいった。
「おはよう」
 亮一は平静をよそおっていった。
「ねぇ」純也は寝ぼけ眼のまま続けた。「お母さん、まだ退院しないの?」
「あぁ。まだだ」
「いつまで?」
「さぁな。まだかかるだろうな。治るまで」
「そんなに風邪が酷いの?」
 亮一は押し黙った。息子には「風邪で入院」といってあったのだ。
 まさか、精神を病んで、などとはいえまい。
 いや、いったとしてもまだ小学校低学年の少年だ。理解できまい。
「ねぇ?」
「……お母さんもそのうちケロッとして帰ってくるさ。風邪が治ってね」
「本当?!」
「あぁ」
「やった!」純也は笑顔になった。
「顔洗って、歯を磨いてきなさい。秀子ちゃんは今日いないから、お父さんが朝食つくってあげるから」
「うん!」純也は笑顔でいった。
 秀子ちゃんとは、お手伝いの十七歳の少女のことである。今日は、母親の親族が死んだとかで葬儀に参列していていないのだ。秀子はいかないといったが、「家のことはいいから葬式にいきなさい」と亮一が説得した。
 無論、秀子ちゃんのためを思ってだが、別の理由もあった。
 亮一は”ひとり”になりたかったのだ。
 暗闇の中で膝を抱えて、殺された奈々子のことを考え、泣きたかったのだ。

  純也がいなくなってから、亮一はキッチンに向かった。
 キッチンにいって冷蔵庫を開ける。が、食料はいっぱいあるものの何をつくっていいかわからなかった。ハッキリというと、亮一は料理なんてしたことがない。
「さて、と」
 亮一は溜息をつき、続けて「なにをつくればいいのやら」と落ち込んだ。
 秀子ちゃんや春子は毎日キッチンにたって食事をつくっていたのだ。いろいろなものを。あるいはカロリー計算ぐらいだってしたのかも知れない。
 考えると、亮一は溜息がでた。
 彼は、自分のほうが女より偉いと思っていた。主婦なんて食事つくって、掃除して、あとはテレビでもみているだけだ、そう思っていた。
 でも、女だって大変なのだ。
 亮一は胸が痛んだ。
 そんなとき、「おはようさん!」と玄関から女の声がした。
 亮一が玄関に出ると、女はにやりと笑った。
「みつ代さん」
 亮一もにやりとなった。訪問した女は、小室みつ代という三十代の体格のいい女である。春子の親友とかで、結婚式のとき初めて会った。
 なんでも、ゴスペルの教室を近所のキリスト教会で開いている才覚の持ち主でもある。体が大きくて太っていて、歌がうまい。というよりプロのゴスペル歌手だ。
 亮一は、小室が結婚式でゴスペルを歌ってふたりを祝福してくれたことを今も忘れない。 なんといい歌だったことか
「春子の旦那さん。ひさしぶりじゃね。いや、奈々子の葬儀にあったか」
「そうだね」
 ふたりは笑った。
「……春子、大変なんだって?」
「まぁ」
「なんでも、死んだ奈々子を見たとか」
「あいつも」亮一は続けた。「ショックだったんだろうね。それで気がふれたんだ」
「そうか」
 小室はそう頷いた。
 そして、「春子の旦那。朝メシ食べたかい?」と亮一に尋ねた。
「いや、何をつくっていいやら…料理なんてしたことないから」
 小室は笑った。「朝メシなんざパンと牛乳とバナナでもありゃあいいのさ」
「そんなもんかい?」
「あぁ!そうとも!それとも旦那は金持ちだから朝からステーキかい?」
 ふたりは笑った。
 いい女だな。まぁ女として意識できないな、ハッキリいうと、でもいいひとだ  亮一がほんわりすると、小室は、「じゃあ、この小室さんが朝メシつくってやるさ!」といって家に上がり込んだ。
「あ!おばさん!」
 純也が歯を磨きながら笑顔をみせた。
「やぁ、純也ちゃん。おばさんが朝メシつくってやるからな」
「おばさんが?」
「あぁ!」
 小室はキッチンに向かった。そして、「旦那。冷蔵庫開けっ放しだよ」と呆れた。
「あ、そうか。みつ代さんがきたんで閉めるの忘れてたよ」
「旦那は、頭がいいんだか悪いんだかわからんね」
 小室は笑った。


 ”朝メシ”を食べおわり、純也が出かけると、小室みつ代が、「そうだ、旦那」といった。「あのな。ほら……あの…」
「え?」
「産婦人科医の…た…け…なんだったかな?」
「武田ですか?武田玄信」
「そう!」小室みつ代が大声でいった。「その、武田玄信っていう産婦人科医が…なんでも奈々子の赤子を預かってるって話だよ」
「え?! まさか!」
「そのまさかなんだよ。あたししか知らないことだけどね」
「しかし」
「その武田って、旦那、知ってるんだろ?」
「えぇ」亮一はいった。「大学で同期でした」
「その同期の桜が、奈々子の赤子を預かってるって話だよ」
「まさか!」
「まさか、ってこともないだろう? 奈々子だって女なんだから妊娠くらいするわな」 亮一は無言になった。
 まさか、俺の子?まさか!
 赤ん坊がいるなんて知らなかった。まさか、俺の…子…?!
「どうしたんだい?旦那」
「い……いや…なんでも」
「でさ」小室は続けた。「その子は奈々子の忘れ形見って訳さ」
「でも、いつ産んだんだい?」
「さぁ」
 小室みつ代は考えが浮かんだ。「そうか!奈々子、仕事で前に何年間かアメリカに出張してたから……そのときか…」
 亮一は何もいえなかった。
 そして、そうか!アメリカで、じゃあ俺の子か外人の子か?どっちにしても子が不憫だ。母親は死んで、父親はわからない。だが、俺の子のような気がする…
 俺の子か
「どうしたんだい?旦那」
「い……いや…なんでも」
 亮一はそういうと、眉間を細めて煙草をふかした。
 ひきとってみようか




  大手ゼネコン・浜坂建設本社は東京千代田区にある。
 けっこう大きなビルで、しょうしゃな感じもする建物である。
 亮一は浜坂建設の社長で、二代目である。会社はこの当時は業績もよくて、建設事業も拡大していた。おりからの『日本列島改造』景気で、公共事業がどんどん入ってきて、会社は嬉しい悲鳴をあげるのだった。
 亮一は「このまま好景気が続いてくれたら」と願った。

「奥さん退院されたそうで」
 社長室で、椅子に座り向かい合った緑川が亮一にいった。
 奥さん?このまえは「春子さん」などといっていたくせに
 亮一は思わず癇癪をぶつけそうになったが、それはしなかった。
 ただ、「あぁ。もう元気だ。毎日忙しく働いているよ」といった。
「それはよかったですね」
「ああ」亮一は続けた「ところで君の仕事のほうは?なんでも作家…え~と」
「総合プロデュースです」
「そうか。それはどうなんだい?」
「まあまあです。作家としての執筆活動は順調ですし、本も売れてますよ。プロデュースのほうも映画とか音楽とかテレビドラマとか……まあまあです」
「へえ~つ。映画かい? それはいいじゃないか。で、相談とは?」
「はい」緑川は暗い顔になり、「実は」と口ごもった。
「ん?」
「先輩に相談にのっていただきたくて。実はぼくは癌なんです」
「え?!」亮一は驚いたような顔をした。
 しかし、心の中で、ざまぁみろと思った。
「癌かい?だいぶ悪いの?」
「いえ。まぁ、初期癌で、しばらく入院して、しばらく避暑地で静養しようかと」
「そうか」
 亮一は顔に同情の表情をつくった。
 しかし、心の中では、ありがたい、これで妻もおとなしくなるだろう、と思った。
「失礼します」
 秘書の鈴木杏子がお茶をもってきて、テーブルに置いた。杏子は若い二十代の美女で、頭はあまりよくないが気のきく女性である。
 亮一はこの若い女が気にいっていた。
「どうも」
 緑川がいって茶をのむ。亮一は、「がんばれよ緑川。癌なんかに負けるな」と言った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贖罪・あゆみ 歌姫・浜坂あゆみの波乱の半生アンコールブログ小説2

2013年09月01日 07時29分31秒 | 日記
奈々子の死



「奈々子、バレないかな?」
 ふいに、ベットの横で亮一はいった。
 愛人・松崎奈々子のマンションである。浜坂亮一はYシャツと背広をきて、ネクタイをしめながら、裸の愛人にいったのである。
 妻・春子に浮気がバレないか、と。
 亮一の愛人の松崎奈々子は独身の美貌の女で、妻・春子の親友でもある。
 なんでも大学時代からの親友で、春子と同じ歳で、春子との結婚式で亮一は初めて彼女と出会った。当時は亮一は春子にぞっこんだったため、松崎奈々子のことなどどうでもよかった。華奢な身体に艶のある長い髪をもち、大きなふしめがちな瞳の松崎奈々子は、亮一にとってまさに「砂漠の中のオアシス」「啖壺の中の鶴」であった。
 だけど、そのうち、亮一は奈々子のことをおもうようになっていった。
 妻・春子は、……わたしは愛されてない気がする……といっていたが、亮一の方でも、……俺は妻に愛されてない気がする……そう思っていた。
 そんな隙間に、松崎奈々子は入り込んできたのだ。
  浜坂亮一はなにもかも狡猾である。
 今まで、坊っちゃん育ちではあったが、狡猾さを披露して、嫌なやつとでも握手を交わし、どんなに憎まれても行動をおこし、ときに芝居で涙までみせた。
 食えぬといえば彼ほど食えぬ男はいまい。
 しかし、亮一とて、そんな権謀術数にも飽き飽きし、夫婦生活の停滞を感じていた頃に、松崎奈々子は入り込んできたのだ。
 奈々子のマンションはあまり広くないが、独特の雰囲気の部屋である。
 彼女は大手の商社に勤めているキャリア・ガールである。
 だが、それだけで都心のマンションが買える訳がない。半分以上は亮一が金を出したのだ。愛人へのご褒美として……
 しかし、松崎奈々子は賢い女である。
 けして、亮一に結婚を迫らない。
 奈々子は最近まで外国に長期出張していて、愛し会うのはひさしぶりのことであった。なんにしても、ふたりは愛をかわした。それが真実であったかはわからない。
 だが、亮一は、春子と別れてまで松崎奈々子と一緒になる気はない。
 しかし、亮一は彼女と一緒だと素直な気持ちになれるのだった。
  松崎奈々子は、「だいしょうぶよ。春子にはバレないわ」と笑顔でいった。
 ふたりの関係のことがである。
「しかし、奈々子は春子の親友だろ? 気の会う女仲間だろ?」
「それが?」
「女の勘ってあるだろ?」
「うふふ」松崎奈々子はふくみ笑いして、「亮一さん。心配症ね。春子なら大丈夫よ。春子は鈍いんだから」
「そうかい?ならいい、ふたりの仲はバレてはならない。春子が傷つくし、純也だって」「へえ~っ」
 奈々子はそういってから「亮一さん。家族思いなんだ」とからかった。
「よせよ」
「なら、私とセックスしなくてもいいんじゃない? 家族がそんなに大事なら」
「それとこれとは別だよ」
「なにが?」
「セックスさ」亮一は真面目にいった。
「いやあねえ、亮一さんったら……イヤラシイ」
「先にいったのは君じゃないか」
「セックス?」
「そうさ」
 ふたりは笑った。
 松崎奈々子はそして、「ねぇ、もう一回やりましょ?」といった。

  夏の銀座通り。
 むしむしとする暑さの中、浜坂春子は薄い洋服で日傘をさし、ひとりで歩いていた。
 清楚ではあったが、いかんせん子供を産んだ女だ。腰のあたりの肉は隠せない。それでも、春子は美貌で人目をひいた。
 通り過ぎる若い男、中年男は、目が彼女に釘づけになった。
 可愛い女だな
 そんな感じなのだ。
 性欲の強い男なら、春子のボディラインを見ただけで射精してしまうかも知れない。それくらい春子は美貌の女であった。
 彼女とて自分の美貌はわかっている。
 だからこそ自信が漲り、亮一との夫婦仲のギクシャクしたものを一瞬でも忘れることができた。私はまだ男に注目される女だ、春子は自信をもった。
 日曜日のためか、人通りは多い。
 もっとも東京は平日でも人通りは多いのだが。
 しばらく歩くと、春子は松崎奈々子を発見した。彼女はひとりで歩いていた。
「奈々子!奈々子!」
 春子は女学生のようにハシャいだ声で、彼女に声をかけた。
 松崎奈々子は足をとめ、少し怪訝な顔をしてからにこりと笑い、「春子!」といった。そして「……買い物?」ときいた。
「そうよ。今日はブランドの服を買うの」
 春子は笑顔だった。
「へえ~っ」
「奈々子は? 奈々子も買い物?」
「あぁ!」松崎奈々子はそういい、「まぁ、そうよ」といった。
「じゃあさ。お茶でもどう?」
「お茶? 今から? いいわよ」
 奈々子は頷き、ふたりは喫茶店にはいった。

  喫茶店で珈琲か紅茶を飲んでも、ふたりの会話は噛み合わなかった。無二の親友がきいて呆れる。しかし、それは、ふたりの秘密の情事が影響してのことだ。
 松崎奈々子は紅茶を喉に流し込みながら、亮一さんとのことがバレてない、と思っていた。
 一方の浜坂春子は、親友だった女がそう不遜に考えていることなど知るよしもない。
 だからこそ、余計、松崎奈々子は気まずいのであった。
「あのね」
「なに?」
「主人が愛してくれないのよ」
 春子は溜め息とともにいった。
「セックスのこと?」
「いやだわ。奈々子ったらいやらしいこといって」
「じゃあなんなの?」松崎奈々子はきいた。
「まあ」春子は続けた。「そういう肉体関係じゃなくて、心の問題ね。主人はわたしといてもどこか上の空なのよ」
「ふう~ん」
「でね。浮気でもしてるんじゃないか?って」
 春子は自分のことを棚にあげていった。
 すると、松崎奈々子は動揺し、自分と亮一とのことがバレやしないかと冷や冷やした。しかし、態度は平静をよそおい、「そ……そんなことないわよ。亮一さんって……真面目じゃないの」と口ではそういった。
「そう?」
「そ………そう…よ。あんな堅物が浮気だなんて…」
「堅物?」
 ふたりは笑った。
 それからふたりはいろいろな話をしたが、どれも取るに足りぬことであった。
 松崎奈々子は、「じゃあ、でましょう」といった。
 喫茶店を出ると、外気がむっと暑くてむせりそうなほどだった。
 ふたりはそして別れた。
 春子は、親友の奈々子と亮一との関係など、知るよしもなかった。


  春子が帰宅すると、亮一も帰宅した。
 海外視察を終えて、成田空港から帰ってきたのだ。亮一は出発前より幾分、頬がふっくらとしていた。だが、そんなことは他人にはわかるまい。
 だが、春子は気付いた。
 そして、やっぱり浮気してるんじゃあ、と自分のことを棚にあげて不遜に思った。 そういう自分の感情に、春子はハッとして思わず持っていた雑誌を床に落としそうになった。亮一はさいわい、妻の動揺には気付かなかった。
 春子は、松崎奈々子と偶然会ったことを話した。が、亮一は動揺するだけでろくに答えもしなかった。ただ、松崎奈々子とのことがバレないか…とこちらも不遜に思った。「……それでね」
 春子は話つづけたが、亮一は上の空であった。
 そんな時、電話が鳴った。
 近くにいた亮一は電話の受話器をとった。すると、
「春子さん」と男の声がした。それは緑川鷲男であった。
 亮一は不快に思った。いつもの彼に似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。若いときに父の会社を継いでからというもの、亮一は自分のことは自分で処理してきた。そうヘタな生き方ではなかった。だが、最近は不安だらけだ。 ………奥さんっていうならわかるが、春子さん、はないだろう。亮一は憤慨し、やはり妻の浮気相手は緑川か?…と疑った。
「春子さん?」
 緑川はもう一度たずねた。
 亮一は咳払いを二度してから、「妻じゃない。俺だ」といった。
「あ! 先輩……すいません」緑川は慌てた声になった。
「春子ならいるけど、かわるか?」
「い、いえ。たいした用ではないので……失礼します」
 電話は切れた。
 やはり怪しい
 奥さんっていうならわかるが、春子さん、はないだろう。亮一は憤慨し、やはり妻の浮気相手は緑川か?と疑った。武田なら許せるが……緑川ではダメだ…
 俺というものがありながら、浮気とは、しかし、自分とて
「ただいま!」
 そういって帰宅したのは長男の純也だった。
 純也はもちろん、両親が浮気していることなど露ほども知らない。
 いや、年端もいかぬ子供が、大人の浮気など知るよしもないではないか。
「おかえり」
 亮一は息子にいった。
 すると、長男の純也は、「どうしたの?お父さん」と尋ねた。
「え?」
「こわい顔して」
 亮一が思わずハッとすると、妻・春子も、「どうなさったんですの?」ときいた。「いや、な、なんでもない」
 亮一が答える。と、「電話は、どなたからでしたの?」と春子がきいてきた。
 お前の浮気相手の緑川鷲男からだ!
 亮一は怒りにまかせていいそうになったが、いわなかった。
 ただ、「間違い電話さ」というだけであった。

  それからは悲惨であった。
 松崎奈々子が行方不明になったのだ。彼女は、緑川からの電話の数日後、突然、神隠しにあったように存在を忽然と消した。
 会社も無断欠勤……マンションにもいない。
 こんなことは一度としてなかったことだ。
 亮一は焦った。
 しかし、ヘタに騒ぐと不倫がバレる……とも思った。
 だが、どこに姿を消したんだ?!松崎奈々子は天涯孤独で、身をよせる場所などないはずだ。
 まさか自殺?
 いや、そんな女ではない。奈々子は強い女だ。
 では、どこにいった?
 亮一は、松崎奈々子のマンションの部屋でひとりで途方に暮れた。
 新しい男でも出来たのか?
 そんな馬鹿な……
 部屋は新しく、服も揃っていて、急に出掛けた様子もない。では、どこにいった?  数日経って、松崎奈々子は河原で遺体となって発見された。
 人通りのない河原の茂みの中で、彼女は遺体で発見された。釣りにきていたひとがみつけたのだ。着衣に乱れがあり、あきらかにレイプ(強姦)されて殺されたようだった。
 首に締めた痣がある。絞殺である。
 警察がすぐにかけつけ、辺りはやじ馬とTV局とでごったがえした。
 そのニュースは、亮一の元へすぐ知らされた。
 遺体の親友・春子にもすぐに知らされたはずである。
 ふたりは連絡をとりあい、不安にかられた。春子などは泣きだす有様であった。
 犯人はすぐに捕まった。
 いや、捕まった、というより、警察署に自首してきたのだ。
 松崎奈々子を殺したのは、中年男のホームレスで、名を光田利二といった。なんでも、一流新聞社に勤めていたが、リストラでクビになり、妻子に逃げられ、アパートを追われホームレスとなったという。そして、何年もやってなくてムラムラしていたところに、深夜、松崎奈々子が人通りのない道を歩いているのを発見。すぐに河原まで強引につれていき、犯し、騒ぐので首を両手で締めたら死んだ……という。
 そして、怖くなって自首してきたのだ。
 容疑者・光田利二のことをマスコミは大々的に報道した。かつてのジャーナリストの転落といった報道だ。しかし、古巣のM新聞だけは、”同情”の報道であった。
 当然、亮一も春子も怒りをもった。
「なんてやつなんだ!」
 亮一は自宅で怒りを隠さなかった。
 そして、俺がついていたら、こんなことには、と悔いた。
 春子は座椅子に座り、外の庭のほうを眺めて泣いていた。
 親友の死がショックだったのだ。
 しばらくして、「あら……奈々子…奈々子じゃない?」
 春子は誰もいない昼の庭にむかっていった。
 松崎奈々子が庭にいるといったのだ。
「? どうした? 春子」
 亮一がきくと、妻は、「ほら……奈々子…奈々子じゃない?」と誰もいない庭を指差していった。その瞳はうつろで、遠くを見るようなはかない瞳であった。
「春子、狂ったか?」
 亮一はぞっとした。
「奈々子!奈々子!」
「春子……奈々子…さん…は死んだんだ…」
「嘘よ!奈々子!奈々子!」

  春子は神経衰弱で精神病院に入院してしまった。
 そして、松崎奈々子を殺した犯人・光田利二はというと、留置所でシャツをつかって首を吊り自殺したという。鬼畜にふさわしい死か?
 しかし、奈々子を殺す前に自殺しててくれたら……
 亮一は光田利二を恨んだ。
 春子は入院してしまうし、愛人は死ぬし、いいことない。ついてない。
 妻には愛人がいる。大学の後輩の緑川鷲男だ!
 緑川か?武田玄信なら許せるが、緑川ではダメだ
 浜坂亮一はひとり、そう思うので、あった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする