長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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大久保利通「翔ぶが如く 明治維新の頭脳」ブログ連載小説1

2011年05月29日 01時30分46秒 | 日記
小説
              大久保利道

                とその時代

                 okubo toshimith ~the last samurai ~
               ~英雄の決断! 大久保利道の「明治維新」。
                 「維新成功」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

 大久保利道は名を一蔵という。薩摩藩士である。この男は明治維新の英雄そして西郷や木戸とともに維新三傑としてあまりにも有名だ。大久保は薩摩の中心的人物・西郷隆盛の親友である。薩英戦争、禁門の変のあと、長州と連合をつくり、朝廷と提携して錦の御旗をたてて官軍となる。西郷は勝海舟との会談で「江戸無血開城」をなしとげる。
  その後、明治新政府をつくるが、征韓論でやぶれて、西郷は野に下る。
 鹿児島にもどった西郷は私塾をつくる。その塾生は二万人にものぼった。諸国の士族たち(元・侍、藩士)は西郷がなんとかしてくれるだろうと期待し、西郷は思わず御輿にのせられて西南戦争を始めてしまう。しかし、薩摩軍に勝ち目はない。西郷は城山からでたところを狙撃され、部下に首をはねられて自決…これにより明治維新は本当におわったのである。大久保も悲惨だった。明治維新から数年とたたずに暗殺されてしまうのだ。
 そして、西郷や木戸や大久保の維新三傑は新政府発足わずか10年でこの世から消える。 こうして、維新はおわった。                おわり
         1 西郷野に下る





  その日の午前、東京はどしゃぶりの雨であった。
 明治三年四月十一日、西郷隆盛は『征韓論』にやぶれた。
 大久保利道(一蔵、前まで正助)は参議の執務室で頭を抱えてしまった。
「なにごてでごわす? 西郷どん……なにごて?!」
 大久保には西郷の気が知れなかった。「なにごて朝鮮にこだわるのでごわすか……とにかく西郷どんを連れ戻すしかなかばい! しんどいど!」
  大久保の命令で、明治政府の軍人兵士たちは西郷隆盛を探しまわった。
「西郷先生はどこじゃ?! 西郷先生はどこじゃ?!」足にゲートルをまき、黒い服に黄色い縁帽子をかぶった官軍(明治政府軍)兵士たちは雨でずぶ濡れになりながら、駆けた。                     
 当の西郷吉之助(隆盛)は麻の羽織りをきて、傘をさして陰にいる。
 兵士たちは彼には気付かなかった。
 西郷は神妙な面持ちで、暗い顔をしていた。今にも世界が破滅するような感覚を西郷隆盛は覚えた。……おいの負けじゃっどん。
 実はこのとき、西郷吉之助は参議(明治政府の内閣)に辞表を提出し、野に下ったのである。西郷は維新後の薩長政府の腐敗ぶりをなげく。
”人民が「あんなに一生懸命働いては、お気の毒だ」というほどに国事をつかさどる者が働きぬかなくては、よい政治はおこなえない。理想的な政治家なら、薩摩も長州もないはずだ。しかるに、草創のはじめにたちながら、政治家も官僚も色食や銭にまみれている。 働く場所をうしなった侍(士族)たちの不満が爆発しそうだ。「そいを、わしゃ最もおそれる」”
 辞表をうけとった親友でもある参議・大久保利通(一蔵)は悔しさに顔をゆがませた。「わかりもはん。なぜごて、西郷どんは辞めるのでごわすか?」
 大久保は耳元から顎までのびる黒髭を指でなでた。「朝鮮などどうでもよかとに」                           
 伊藤博文は「西郷先生は何故に朝鮮にこだわるのでしょう?」と大久保にきいた。
「西郷どんは思いきりがよすぎとる。困り申した。あの頑固さは昔から禅をやっていたせいでごわそ」
 西郷隆盛の弟の西郷従道(慎吾)がやってきて「兄さんが辞めとうたとは本当でごわすか?」ときいた。子供のときから西郷隆盛と過ごした大久保は残念がった。
 吉之助は山岡鉄太郎(鉄舟)の屋敷にころがりこんだ。山岡鉄太郎は、清河八郎とともに『新選組』の発足に尽力したひとである。
「どうしました? 西郷先生?」鉄太郎はゆっくりと尋ねた。
「………やぶれもうした」
 力なく、呟くように吉之助はいった。
「それは、『征韓論』ですか?」
「そいでごわそ。死に場所をなくし申した」西郷はうなった。
 山岡鉄太郎は「なぜ西郷先生は朝鮮にこだわり、攻めようとするのです?」ときいた。「攻める訳ではござりもはん」西郷は続けた。「ただ、朝鮮においがいき、友好関係をば築くのでごわす」
「…では『征韓論』ではなく『親韓論』ですな?」
「そうでごわす」西郷は頷いた。「おいの考えがいつの間にか朝鮮を征伐する……などとごて変えられたのでごわす。何とも情けなく思っちょる」
 こうして、西郷隆盛は野に下った。
 そして、明治十年二月、『西南戦争』が勃発する。

  西郷吉之助は、文政十年(一八二七)十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、    鹿児島加治屋町に生まれた。大久保一蔵(利通)は同じ加治屋町の西郷家より二町ほどはなれた猫薬小路で生まれたという。父は利世、母はフクという。大名はどこでもそうだが、この時代、上級、下級藩士の区別がやかましかった。西郷・大久保の父は小姓組という家柄で、藩士の身分は下から二番目だ。 長男の吉之助の後に、お琴、吉次郎、おたか、おやす、慎吾(西郷従道)、小兵衛とたてつづけに生まれ、貧乏がさらに貧乏になった。
 吉之助は後年、六尺近い体躯をして、巨眼な堂々たる英雄らしい体型になる。無口だが、すもう好きで、相手をまかした。力は強い。しかし、読み書きは苦手であったという。
 ちなみに述べると、西郷は大久保の父・次右衛門からも学徳を受けている。大久保の父は町医者から昇格して士分になったほどの人物であった。
 吉之助の風貌は英雄たるものだが、人格も徳をつんだ男である。西郷隆盛といえば、例の肖像画と銅像だけだが、それ以外には彼の顔を知ることは出来ない。写真嫌いであったため、西郷隆盛といえば「上野の西郷どん」という銅像のイメージが強い。
 西郷が動けば薩摩も動くとさえいわれたのも、その風貌と島津斉彬との仲でのことである。西郷は巨眼な堂々たる英雄であった。

   大久保利通は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。利通にはもちろん父親がいた。大久保利通は名を一蔵という。父は利世であり、彼は息子・一蔵だけでなく息子の竹馬の友の西郷吉之助(隆盛)のひととなりを愛し、ひまがあれば一蔵や吉之助少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新でごわす」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の肉親は母方の祖父・皆吉鳳徳である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな爺さんで、一蔵や吉之助は学ぶことが多かった。
 大久保利通家は御小姓与(おこしょうぐみ)であったが、父・利世が琉球館附役で収入はある。意外とお金持ちである。だが、いわゆる「お由羅騒動」ではまいった。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあい、大久保利通は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金でごわすか! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い大久保一蔵(利通)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・西郷吉之助(隆盛)、伊地知正治、吉井友実(ともざね)、海江田信夫(有村俊斎)との勉強会であった。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは島津斉彬公である。西郷隆盛、大久保利通ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、吉之助、一蔵」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする」
 なるほどな、と一蔵と吉之助はおもった。さもありなん、である。この島津斉彬(なりあきら)公は愚かではない。
  そんなとき、大久保一蔵(利通)は結婚した。相手は同藩士・早崎七郎右衛門の次女・満寿(ます)である。だがなんということだろう。知略に富んだ薩摩の大大名ともでいわれた島津斉彬公が病死した。大久保利通も西郷隆盛も「成彬公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。後釜はあのお由羅の子・久光である。最低じゃっどん、何故にじゃ?何故に神仏は成彬公の命を奪ったのでごわすか?無能の久光では薩摩もおわりじゃっどんなあ。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。

 …………十年前。
 安政三年(一八五七)七月二十日。薩摩藩主・島津斉彬が死んだ。薩摩の名君とよばれたこの人物の死は、大久保一蔵にとって絶大なショック(衝撃)とうつった。
 後釜は、最低の島津久光である。只でさえ、藩が困窮し、腐敗していく中で、名君・島津斉彬が急逝したのは痛かった。
「なんという……なんということでごわすか」一蔵は屋敷の部屋で、落胆した。目頭に涙が潤んだ。
 吉井友供も「なんてごてことじゃ…」と泣いた。
「あの女だ」吉之助(隆盛)はふいに憎しみを、大きなる憎しみを込めていった。「お由良じゃ」
「西郷どん!」
 吉井が咎めると、吉之助は巨体を動かしながら、「あの女子が悪いのでごわす」といった。薩摩藩は『お由良くずれ』と呼ばれる御家騒動が頂点に達していた。
 亡くなった薩摩藩主・島津斉輿は、正室との間に嫡男斉彬、次男斉敏をもうけ、側室       
由良に三男久光を生ませていた。
 お由良は、江戸の三田四国町に住む大工の娘といわれたが、斉輿の寵愛をほしいままにして久光を生むや、「なんとしても自分の腹を痛めて産んだ子を薩摩藩主にしたい」という野望を抱くようになった。
 次男の斉敏は、因州・鳥取藩三十五万五千石を継いだから、あとは斉彬が死ねば次の薩摩藩主は久光しかいない。島津斉彬は薩摩藩主として誰がみてもふさわしい人物だった。 だから、いかにお由良が謀殺したくてもできなかった。父・斉輿も久光がかわいいのだ                
が、斉彬をしりぞける理由もない。当然、斉彬派(精忠組)とお由良派ができる。
 殿さまの斉輿がお由良派の意見をききいれ、精忠組を弾圧しだす。島津壱岐、近藤隆右衛門(町奉行)、高崎五郎右衛門ら十四名が切腹させられ、遠島の刑になったものが九名にものぼった。大久保の父も鬼界ケ島へ流刑にされ、大久保も役目をとりあげられている。 西郷吉之助もまた精忠組のひとりであった。
 のちにお由良騒動と呼ばれるその事件から八年目の年に、斉彬は死んだ。
 吉之助は亡き薩摩藩主・島津斉彬の供をして江戸にいったことを忘れない。その当時ペリー提督率いる黒船をみて唖然としたものだ。ときの十三代将軍・徳川家定にも謁見した。病弱のうえに子もなく……将軍はそんなひとだった。
 また島津斉彬は尊皇壤夷の志をもったひとで、西郷はそれを知って、
「おいにとって斉彬公は神のごときひとでごわすが、殿の異臭紛々たるには困りもす」
 と顔をしかめている。
 また、吉之助は斉彬が自分を重用してくれた恩も忘れてはいない。公は小役人から見出だしてくれ、右大臣・近衛家に娘を養女に迎えさせる使者にまでしてくれた。
「何事で、ござりもそ?」
「吉之助よ。いささか重い任務なれど引き受けてくれぬか?」公は笑顔でいったものだ。「ただひとつ、まごころであたれ」
 吉之助は島津家の娘・篤子(篤姫)を近衛家の養女にすることに成功した。そして安政                         
五年、井伊直弼が大老になると、斉彬は「いよいよ決起のときがきた」といったのだ。
「いよいよ出兵でござりもそ?」
「そうだ。吉之助、はげめ!」斉彬はいった。薩摩に西郷あり、吉之助は名を知られるようになる。すべては公のおかげだった。大久保もよく西郷を補佐した。      
 ……そんな斉彬も死んでしまった。ときの十三代将軍・徳川家定も死んだという。
「あの女だ! おの女が殺したのんじゃ!」西郷は切腹しようとした。                   
「やめなはん!」とめたのは勤王僧・月照だった。「月照どん! 死なせとうせ!」
「吉之助殿! やめなはん! 死んではならん……どうせ死ぬなら天下に命を捧げよ!」 月照はさとした。
 こののち井伊大老による『安政の大獄』が始まる。これは尊皇壤夷派の大弾圧で、長州の吉田松陰らが次々と捕らえられ処刑されていった。すべては幕府の延命のためだったが、諸藩の反発はますます高まった。                 
 幕府の敵は薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)といっても過言ではなかった。
 当然、薩摩の壤夷派・西郷吉之助(隆盛)と月照も狙われた。

  その日の天気は快晴だった。
 馬関(下関)に吉之助と月照たちの姿があった。前面に海が広がる。
「西郷どん。あんさたちは狙われもんそ」付き添っていた有馬はいった。
 吉之助は「有馬どん……心配かけもうす」
「西郷どんは薩摩の英雄じゃっどん、死んではなかとぞ」
 西郷吉之助(隆盛)と月照は、弾圧の手を逃れ舟にのり鹿児島へ帰郷した。               
 また大久保一蔵(利道)も追っ手を逃れ、鹿児島へ戻った。
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
  西郷吉之助は一度結婚に失敗している。貧乏で、家族五人でボロ屋敷に住み、そんな生活に嫌気がさしていた当時の妻は、吉之助が江戸に出張したときに実家に逃げ帰ってしまったのだ。


 大久保は「吉之助どん、無事でごわしたか!」と、鹿児島藩邸で再会を喜んだ。
「一蔵どんも……元気で何よりでごわす」
 吉之助は巨体を揺らして抱擁した。「何よりも無事が大事でごわす。天下乱れごっつときに死んだらつまらん」
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
「それにしても…」西郷はいった。「あのお由良……ゆるせなか」
「西郷どん!」吉之助より五歳年下の大久保は、まるで西郷の父のように諫めた。
「……おいたちはあの女に島流しにあいもうしたぞ。忘れたでごわすか?」
「忘れたばい」大久保は冷静にいった。「今は又次郎(のちの久光)さまの天下、あまり軽はずみなごていうとると足をすくわれござんそ」
「おいはかまわんでごわす」
 吉之助はどこまでも頑固だった。
  西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵は親友であり、同じ郷中の身分だった。斉彬公亡きあと、薩摩藩はお由良の子・又次郎(のちの久光)の世となっていた。
 吉之助はそれがどうにも我慢できない。
 斉彬公亡きあとの薩摩藩などないに等しい。……なにが藩制改革でごわすか?!            
「兄さん! よくご無事で!」
 まだ青年の末弟、西郷小兵衛がやってきて笑顔になり、白い歯を見せた。
「おう! 小兵衛じゃなかと」吉之助は笑顔をつくった。
 大久保もそんな兄弟の再会がほほえましい。何だかしあわせな気分になった。
  やがて藩の重鎮・柳瀬がやってきた。
 西郷たちは平伏する。
 柳瀬は「吉之助…」と声をかけたあと「わかっとっておろうな?」といった。
「は?」
「僧侶・月照のことである!」
 吉之助は緊張した声で「月照どんがどげんしたんでごわす?」と問うた。
 どうやら薩摩藩は幕府が怖くて、”壤夷派”の月照老師を”始末”するつもりらしい。……つまり「殺せ」ということだ。
「じゃっどん……なして月照どんを殺さねばならんとでごわす?」
 柳瀬は答えない。
「それで、薩摩がよくなりござそうろうや?」
 柳瀬はまた答えない。
「柳瀬どん?!」
 柳瀬はようやく「殺せ! それが幕府からの命令じゃ」と唸るようにいった。
「じゃっどん……」
「じゃっどん、はいらぬごで。始末せい西郷吉之助!」柳瀬は吐き捨てるようにいうと座を去った。一同は顔を見合わせ、深い溜め息をついた。
 ……薩摩は幕府のいいなりでごわすか?
          
「兄さん! ご無事で!」
 半年ぶりに帰宅すると、吉之助は大歓迎された。しかし、心は晴れない。
 いつも西郷吉之助の心の中には”月照上人”のことがあった。殺す? それでよかでごわすか? あの月照どんのような知恵者を殺してよかじゃろうか?
「どげんしたでごわす? 兄さん」
 親類たちは不安気にきいた。
「わかりもうさん……わかりもうさん」吉之助は頭を抱え、苦悩した。
 斉彬死後、すべてがかわってしまった。斉彬生存中は活躍していた藩士たちも粛清されていった。月照上人もそのひとりだった。

  間もなく藩の船は鹿児島湾へ漕ぎ出した。
 西郷吉之助、月照とともに、下男・重助、平野国臣と、藩がつけてよこした坂口周右衛門という上士が乗船している。
 もう夜で、屋形船からも障子を開けるとまるい月が見える。
 安政五年十一月十五日の満月は、陸も海も銀色に光らせていた。
「月がきれいどすなあ」
 月照はいった。
「まっこと」吉之助は笑顔をつくり答えた。もう覚悟はできている。
 月照は酒をうまそうに呑むと、さらさらと辞世の歌を書いて紙を西郷に渡した。

  くもりなき心の月の薩摩潟
   沖の波間にやがて入りぬ         
  大君のためには何か惜しからむ        
   薩摩の迫門に身は沈むとも

「……月照どん!」
 吉之助は涙声になった。辞世の歌を渡すや、月照は何事もないように立ち上がり、月を仰いで、海に身を投げようとした。そのとき瞬時に、吉之助が、
「月照どん! お供しまんぞ!」といって抱き合うように海に落ちた。
 ふたりがひきあげられたとき、月照は息絶えていた。享年四十六才だった。
 役所にふたりの遺体がひきあげられたと知り、大久保一蔵や吉之助の弟の慎吾や有村俊斎、大山格之助が目の色をかえて駆けつけた。
「月照どん! 西郷どん!」
 月照はすでに息がない。しかし、不思議なことに吉之助は息をふきかえした。
「……西郷どんが生きとる!」一同は喜んだ。
 当の西郷はいびきまでかいて、床に横になって藁に包まれ眠りこくっている。
 西郷吉之助はどこまでも運がいい。
 月照の死体は、西郷の菩提寺でもある南林禅寺へほうむられた。
 生き残った西郷の処置に、薩摩藩はこまった。幕府に睨まれている人物ではあるが、なにしろ故・斉彬の寵臣でもある。
 重役の中にも、吉之助を愛する者も多い。
「名をかえて、島へ流してしまえば幕府もうるさくいうまい」
 ついに薩摩藩はそういう措置をとった。
 よって、寺には月照と西郷吉之助(隆盛)の墓が建てられ、幕府には西郷は死んだこと           
になった。西郷は「菊池源吾」と名を変えられ、奄美大島へと『島流し』にされた。
 吉之助は「おいは幽霊でごわす」と苦笑したという。


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