長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

大谷吉継 打倒家康! 謀略の蒼い炎 大谷吉継とその時代 ブログ連載小説1

2015年02月03日 07時39分49秒 | 日記










小説「打倒家康! 謀略の蒼い炎 大谷吉継伝とその時代」

    炎の仁将伝説
―関ヶ原の陣に散ったバサラ武者―
              
               ~天才仁将、大谷吉継公…
                 「吉継の武功」はいかにしてなったか。~
                 大谷吉継の生涯
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



Inspered by a true story.
故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』を参考文献としている作品です。「文章や話の流れが似ている」=「盗作」ではなく、「盗作」ではなくあくまで「引用」です。
       この物語を故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』製作に関わったすべての漢たちに捧げる。
       緑川鷲羽 2014年度初冬執筆より
  <参考文献>『歴史読本』編集部<奥村徹也『大谷刑部の家族・一族』新人物文庫社田中誠三郎『真田幸村と真田昌幸』新人物文庫社><奥村徹也著作本><鈴木輝一郎(きいちろう)著作本><諏訪勝則(すわ・まさのり)著作本><武谷和彦(たけたに)著作本><土山公仁(つちやま・くにひと)著作本><外岡慎一郎(とのおか)著作本><羽生道英(はぶ・みちひで)著作本><原遼平(はら・りょうへい)著作本><堀和久(ほり・かずひさ)著作本><『闘将 大谷刑部』(一九九七年)、『炎の仁将 大谷吉継の生涯』(二〇〇九年)、『炎の仁将 大谷吉継のすべて』(二〇一二年)歴史人物文庫社>

          あらすじ

  大谷刑部少輔吉継。石田三成との友情に殉じ、味方の裏切りが相次ぐ関ヶ原の合戦で不運の死を遂げた名将、仁将として、戦国時代の武将の中でも抜群の人気を誇る武将である。だが、これだけ有名でも関ヶ原合戦までのプロセスや出自等「謎の多い武将」でもある。本書は参考文献を『炎の仁将 大谷吉継のすべて』、歴史読本編集部編、親人物文庫社(二〇一二年)よりデータやマテリアルを拝借して、何とか小説っぽい感じの書物をものしたい。いつの日にか大河ドラマ化、を目指して執筆(ワードへの打ち込み)を頑張ろうと思う。
大河ドラマの参考文献としてお読みくだされ。
                                おわり




         1 関ヶ原の役・信州上田城VS徳川秀忠

 大きく天下が動き始めた。
太閤秀吉の死(一五九八年)、盟友・前田利家の死(一五九九年)から時代は、慶長五年(一六〇〇)陰暦八月、いよいよもって大人物・徳川家康が『会津の上杉征伐』と称して福島正則、黒田長政など豊臣恩顧の大名団隊数十万の兵を率いて動いた。信州(現在の長野県)上田城の真田安房守昌幸(さなだ・あわのかみ・まさゆき)、真田左衛門佐幸村(さなだ・さえもんのすけ・ゆきむら(信繁・のぶしげ))父子の手元に、生々しい情報が次々ともたらされた。幸村の眸(ひとみ)が輝いて心が躍った。かねて放っていた物見たちが、まるで白い風のように秋風に吹き寄せられるように、一人、またひとりと城に舞い戻っていく。それにつれて次第に徳川方の情勢が明らかになっていった。
 彼ら物見衆は、琵琶を背負った語り法師、一管の尺八を腰にした梵論字(ぼろんじ・虚無僧・こむそう)などに姿を変えているが、いずれも安房守昌幸の鑑識(めがね)にかなった心利いた者ばかりであり、その情報収集能力は高く、情報の精度も高いのである。
さすがにフィクションの真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵など)は存在しないし、漫画やアニメや映画のように空を飛んだり、木々の枝間を駆けることは出来ない。
忍びといえど所詮人間である。漫画と一緒にしないでください。
「そうか。うむ、成程、成程…」
安房守昌幸は忍びから情報を得て分析し、戦略を練るのである。戦国時代にはこうした情報収集と要人警護、要人暗殺を職とした忍びの者(いわゆる間者)が存在した。
だが、現在の日本政府にはこの間者のような(つまりCIAやモサドのようなスパイ)組織がない。内調(内閣調査室)やNSC(国家安全保障会議)があるではないか、というひともいるかも知れない。だが、内調にしても日本のNSCメンバーにしても全員顔はバレバレで、只の高学歴のお坊ちゃんお嬢ちゃんなだけで、戦略どころかまともに行動も出来ない。
私緑川鷲羽の出来る事の半分も出来ない『学歴エリート』なだけの、残念なひとたちだ。
情報がなければ戦略の立てようがない。プロ野球やサッカーでもまめに情報収集や情報分析をやっているのに、彼らは、高学歴なら何でも出来る、と勘違いしている。馬鹿だ。
話がそれた。去る七月。豊臣政権の大老徳川家康は、奥州会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、野州小山宿(やしゅう・おやましゅく・栃木県小山市)まで北上着陣した。
 実は昌幸、幸村父子もこの時、動員に応じ将兵八百余を率いて、上田から野州犬伏宿(いぬふししゅく・佐野市)へと着陣、長男の伊豆守信幸(のちに信之と改名)も、居城の上州沼田城に、一足先に着陣していた。
 そこに石田三成からの密書が届いて、真田家の運命が思わぬところへと急旋回した。すなわち、三成は家康討伐の挙兵への参加をもとめたものであった。
(やはり三成殿が動くか!)
安房守昌幸は、ただちに、長男の伊豆守信幸(いずのかみ・のぶゆき)を呼びつけ、人払いした密談にて、
「わしと幸村は、石田治部少輔(じぶしょうゆう)の挙兵に応ずるつもりだが、そなたはどうする?思う所をのべるがよい!」
「父上、狂されたか!?」
訊いていた信幸は顔色を変えた。そして、もはや世の中は徳川家康の天下で、石田治部などは人望もなく、豊臣家ももはやこれまでで確実に世の中は徳川家康が天下人だ、と天下の形勢を述べて、
「父上ともあろうお方が、それをお読みになれぬとは情けなや」と厳しく反対した。
信幸の判断は正確でよく分析されていた。だが、議論の末、結局、安房守昌幸と幸村は石田方(豊臣方)へ、伊豆守信幸は徳川方に残る事に決した。
「相分かった。それぞれ、おのれが思う様に生きるがよろしい」
この父子の行動は迅速である。
昌幸と幸村は、ただちに兵を引き連れて犬伏宿を発し、信州上田へと向かい、一方の長男の伊豆守信幸は本堂へ馬を走らせ、家康に父と弟の離反と、石田三成挙兵を伝えた。
この親子の離反には当然ながらどちらに転んでも真田家が安泰なように双方に離反しての安全策ということである。また、決断の背景には安房守昌幸の妻「山手殿」が、宇多下野守頼忠(うだしもつけのかみよりただ)の娘であり、石田三成の妻もまた、頼忠の娘という関係性が影響していた。しかも次男の幸村の妻は、三成の盟友にして、挙兵の片腕とされる、敦賀(つるが)の城主大谷刑部吉継の娘なのだ。
だが、長男の伊豆守信幸の妻は、徳川家の重臣本多平八郎忠勝(ほんたへいはちろうただかつ)の娘を、家康が養女とした上で伊豆守信幸に娶らせた。すなわち、真田家は、すでに分裂を運命づけられていたようなものだったのだ。
情報網を張り巡らせていた家康は、伊豆守信幸の報告によって、石田三成挙兵を知ると、形ばかりのパフォーマンスである『会津の上杉討伐』を中止し、急遽、大軍を江戸へ、関ヶ原へと反転させた。上杉家の追撃の為には家康の次男の結城秀康を配置、豊臣恩顧の大名たちに毛利輝元、宇喜多秀家、豊臣家、小早川秀秋らの参戦を伏せて、みんなの嫌われ者・石田治部少輔三成討伐と称して、福島正則や黒田長政、加藤清正らを東軍につくよう説得した。家康は東海道を西上、三男秀忠に兵三万八千を授けて中山道を西進させることにした。
「内府(家康)は、江戸から東海道を西上、先鋒は福島左衛門尉(さえもんのじょう)正則が買って出たようにございます」
との間者の報告に、昌幸は、
「何たることぞ、福島正則といえば常日頃、口を開けば、豊臣こそ天下、わしは豊臣恩顧の大名じゃ、といっていたのに豊臣家滅亡の片棒を担ぐとは!」
「秀忠軍の三万八千余は、八月二十五日に、宇都宮城を発進して候」
との報告には、にやりと、
「内府で無うて残念だが、………息子の秀忠めに、一泡吹かせてやろうとするか……」
「父上、何分にも敵は大軍、なんぞ撃退の妙手がございましょうか?」
「まあ、見ているがよい」
「ははは、父上、楽しげでありますなあ」
 幸村は、父安房守昌幸が、十五年前の徳川勢と一戦を交えた神川(かんがわ)合戦(第一次上田合戦)の再現をもくろみ、闘志を燃やしていると感じた。
真田家は歴史好きの方ならご存じの通り武田信玄勝頼の家来の家柄である。それが、織田方による武田滅亡に際して、上杉景勝(謙信の義理の息子・上杉氏二代目)を頼るという奇策をきりだした。そこで家康方と戦いになったのだ。その際、次男の幸村を人質として春日山城に送ったが、それを知った家康は、
「あの横着者めが!」
と激怒し、鳥居元忠、大久保忠世(ただよ)ら七千余もの大軍勢をもって、信州上田城攻略戦を開始した。これが意外な結果に終わった。たかが、これほどの小城、一気に攻め落とせると思ったが、柵をもって城下を迷路状にするなど、二重三重に工作した昌幸の知略に翻弄され多大な死傷者を出した挙句に、撤退を余儀なくされたのである。ために「東海一の弓取り」という家康の誇りは傷つき、逆に真田安房守昌幸の武名は天下に知れ渡った。
この武功を幸村自身は越後府内(新潟県上越市)春日山城で聴いたという。
上田城落ちず、徳川勢撤退……当たり前だ。われら真田家は知略の武家だ。
その幸村に対して、無口で知られる、上杉景勝が突然、ぶっきら棒にいった。
「屋代(やしろ)一千貫……」
「……?」
幸村は、何のことかわからず、景勝の言葉を待った。が、景勝は口を噤(つぐ)んだなり、もう何もいわぬ。極端に無口な漢なのだ。側近で家老の直江山城守兼続が、
「殿は貴公に、屋代一千貫の地を賜るとの仰せなのである」と景勝の言葉を補足した。
「えっ、人質の私に、知行地を!?」
 驚く幸村に兼続は諭すように、
「我らは、貴公を人質などと思うておらぬ。屋代近い十三屋敷の地は、往昔(おうせき)、順徳天皇の皇子広臨(ひろみ)親王が隠棲されたとの伝承のある由緒ある土地……よろしゅうござるな」
 幸村はこの瞬間「義」に篤いという、謙信以来の上杉家の家風の真実を悟った。これは祖父真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆の、「人間は利に弱いもの」とする人間観と対極にあるといってよく、幸村は強い衝撃を受けた。時に景勝三十歳、兼続二十六歳、幸村、弱冠十九歳であった。上杉での一年の生活は、幸村に多大の影響を与えた。その幸村が今、慶長五年、徳川秀忠率いる三万八千余の軍勢を、父安房守昌幸とともに迎え撃つことになり、父子は闘志に燃えたのである。
「幸村、大軍を相手の合戦とは、どのようにするものか、後学のため、よっく見ておけい」
中山道を西進した徳川秀忠率いる三万八千の大軍勢が、すでに秋色深い碓氷(うすい)峠
をこえ、軽井沢をへて、小諸(こもろ)に着陣したのは陰月九月二日のことであった。
父親の家康からは信州上田城の真田父子の軍勢とは戦わず、そのまま関ヶ原へと向かえ、という書状がきた。だが、秀忠は邁進していた。たかだか、数千の信州上田城の真田を恐れて秀忠は逃げた、といわれるのは末代までの恥である。
だが、その邁進が怪我の元であった。
実はこの徳川秀忠の大軍が、徳川家としての『本陣』なのだが、真田に散々にこっぴどくやられ(夜襲や奇襲などの謀略戦)、歴史に詳しい人ならご存知のことだが、『関ヶ原の合戦』に遅参することになる。
家康に内通していた小早川秀秋が徳川東軍に寝返り、西軍が大敗し、石田三成が滅んだからよかったようなものの、もしも東軍(家康連合軍)が敗北していたら、歴史はどうなっていたかわからない、と、多くの歴史家は口をそろえる。徳川家康だからこその対石田三成対豊臣家であり、家康と秀忠では、そもそも人間の格が違い過ぎる。
豊臣家大坂方を滅ぼすのに、家康が、十数年も辛抱強く戦略を巡らしたのも「秀忠では豊臣家を滅亡できない」、と冷静に分析した結果であり、七十六歳の、当時としては長陽も、家康の執念であったことだろう。
話を戻そう。
秀忠が信州上田城などたかだか城兵三千余ほど、わが十倍の三万八千の軍勢をもってすれば、一気に落としてみせる、と闘志を燃やすと、彼の、上田討伐を知った謀臣本多佐渡守正信から、
「真田の上田城などは枝葉のこと。関わらずに捨ておかれ、とにかく急ぎ美濃の本隊に合流することこそ肝要でありまする」
と忠告されていたが功名心から、真田安房守昌幸が、
「もとより我らに、抵抗の意思など毛頭ありませぬ。城内を清掃したる後、開城する所存でおりますゆえ、一両日お待ち願いたい」
とのことを伝えてきたので、秀忠は頬を綻(ほころ)ばせた。
ところが、約束の日が来ても、一向に開城の気配もない。
それで溜まりかねて重ねて使者を送ると、意外にも、
「実を申しますと、籠城準備に不備な点があったので、一両日お待ち願ったが、どうやら兵糧、弾薬とも、万事、遺漏(いろう)なく整い申した。では、これより一合戦、馳走つかまつる」
という人を食った挨拶であった。
「おのれ、安房守め、たばかりおったか!」
嚇(か)っと秀忠は逆上した。その瞬間、本多正信の忠告の言葉など一気に消し飛んでしまった。
悪いことに、その本多正信は「戦費補充」のため江戸へ赴いており不在であった。
中山道を北に外れ、秀忠軍は小諸(こもろ)から上田城へと進軍した。
秀忠は激昴で冷静さをなくしていた。上田城を望む染谷台(そめやだい)に本陣を据えると、
「安房守父子を討ちとれ、断じて逃がすな!」と厳命したという。
 実りの秋である。秀忠は、豊饒な稲穂を刈り取ることで、上田城の糧道(りゅうどう)を断ち、また、城外へ城兵を誘い出そうと企てた。戦国時代の典型的な作戦であるという。
 ここに旗本大番組の五十人が抜擢され手鎌をもって稲刈りを始めると、案の定、城兵が数十人ほど出てきた。
「それ、今だ……」
大番組は手鎌を捨て、白刃(しらは)をかざして襲い掛かった。すると城兵は、きわどいところまで大番組を引き寄せてから、さっと城内へ逃げ込み、かわって弓、鉄砲が猛烈に発射されて、大番組から多数の死傷者が出た。
「何たることぞ!」
 秀忠の逆上は、頂点に達した。歯ぎしりする彼に、もはや正常な判断は失われ、ただ「おのれ、おのれ」と呻(うめ)くのみであった。
そんな秀忠をわずかに慰めたのが、真田安房守昌幸の嫡男伊豆守信幸に攻めさせた、上田城の支城戸石城が緒戦において落城したことだった。
「おお、伊豆守が、戸石城を……!」
秀忠は「伊豆守、でかした!」と賞揚(しょうしょう)した。だが、実は戸石城は幸村がいたが、攻め手が兄・伊豆守信幸と知って、いち早く城を捨てて上田城へ引き揚げて、兄に戦功を立てさせただけのことだった。戸石城は、古くより知られた要塞であり、上田城の築城以前は、真田の本拠地としていたところだ。
当然、凡人、徳川秀忠は大喜びだ。
本陣の染谷台は、千曲川断崖(ちくまがわ・だんがい)上の上田城よりも、さらに一段高みになっているから、秀忠は、
「イマニ見ておれよ!」と意気込み、総攻撃の作戦を練った。が、真田に関わる事自体が秀忠の一生の不覚であった。
突如、思いもよらぬ方向から、凄まじい勢いで本陣を襲った一隊がある。これは安房守昌幸が、かねて染谷台の北東、虚空蔵山(こくぞうさん)に潜ませていた伏兵であり、秀忠の本陣は大混乱に陥った。
武装も不揃いな奇妙な一隊は例の、首一つ百石を約束された農民町人たちだが、奇声を放って勇敢である。「おらは二百石じゃ!」「おらは三百!」
とわめいて暴れる始末の悪さだが、これには「甕割(かめわ)り典膳(てんぜん)」の異名をとる兵法者・神子上(みこがみ)典膳が立ち会向い、苦闘の末にようやく撃退した。
「さすがは典膳、ようやった」
秀忠がほっとしたのも一瞬で、それまで機をうかがっていた幸村率いる一隊が、真一文字に突入したため、本陣は総崩れとなり、秀忠も身一つになって逃げのびるという失態となった。ところが、かねて神川の流れを止めおいた上流の堰を、安房守の合図で切って落としたので、どっと濁流に、たちまち浅瀬の将兵は呑み込まれて溺死した。まさしく徳川秀忠軍の完敗であった。
「伊豆守……そなたの父親と舎弟は、何たる奴らだ!」
秀忠は悲鳴を上げ、初めて悪夢から醒めたように、上田城攻めを断念、ふたたび中山道に戻って先を急いだ。だが、すでに七日間を浪費しており、木曾妻籠(きそ・つまご)の宿まで至った時、関ヶ原での戦勝報告に接した。
すなわち、秀忠は徳川家が存亡を賭けた大戦に、遅参したのだ。
「ああ、なんたることぞ!」
秀忠の顔から血の気が失せた。彼には、真田父子の笑いが聞こえるようであった。事実、遅参した彼は、父家康から面謁を拒否されるほどの不興をかっている。
しかも秀忠にとって天敵ともいうべき真田父子――昌幸、幸村は、戦後処理をまぬがれ、紀州高野山山麓の九度山村(和歌山県九度山町)へ配流という軽い刑罰ですんでいるのだ。
「父上、わたしは承服できませぬ!真田父子の斬首を!」
秀忠は、最後の最後まで、強く真田父子の斬刑を求めたが、伊豆守信幸が、
「わが父を誅(ちゅう)されるより先に、この伊豆守に切腹を仰せつかれたい」
といって、必死に父と弟の助命を懇願したのに加えて、徳川家の重臣本多平八郎忠勝からも、娘婿伊豆守信幸のための嘆願があったからである。
これはさしもの家康も、ついに父子の助命に同意せざる得なかったのである。
「父上、わたしは、真田父子の助命など、とても承服しかねまする」
激しく反対する秀忠に、家康も、
「秀忠、腹も立とうが、本多の平八までがああ申していることだ、わが徳川家の安泰が確かとなるまでの我慢じゃと思うて、辛抱してくれい」
と慰めたのであるという。だが、秀忠の怒りは生涯にかけて残り、終生、彼は伊豆守には、笑顔を見せなかったといわれる。
参考文献(『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』永岡慶之助著作Gakken(学研)142ページ~153ページ)


つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大阪城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
 

大谷吉継(おおたによしつぐ)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年)※永禄8年(1565年)説も
死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
改名 幼名:桂松(慶松とも)、吉継
別名 通称:紀之介、平馬、別名:吉隆
戒名 渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門
墓所 福井県敦賀町永賞寺、岐阜県関ケ原町、滋賀県米原市
官位 従五位下・刑部少輔
主君 (六角氏)→豊臣秀吉→秀頼
氏族 大谷氏
父母 父:大谷吉房(大谷盛治とも)、母:東殿
兄弟 吉継、妹:徳(下間頼亮室)妹:こや(北政所侍女、御倉番)
子 吉治(吉勝)、木下頼継、泰重、娘、または姪(真田信繁室)、ほか
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされ、大谷刑部(ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。
生涯[編集]出自[編集]永禄元年(1558年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。
華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。いずれにせよ、不明な点が多く大名となるには難しい家柄である。
『兼見卿記』によると母は秀吉の正室の高台院の侍女であった東殿であるとされるが、出自は不詳である。兄弟姉妹が存在したようで、栗山林斉と祐玄の2人の甥が記録に見える。母が高台院の侍女であったことを根拠に豊臣秀吉の隠し子とする説もあるが、これは全くの俗説である。
 大谷吉継は大谷義継という本名で、人生は1558年(永禄2年)から1600年(慶長5年10月21日)までの生涯である。享年43歳……
 通称は紀之介、大谷義継。幼名は桂松。名は慶松、官位は刑部少輔。越前敦賀城主である。天下分け目の関ヶ原の乱で自刃となっている。
 自刃で、そのあといわゆる『首塚』に葬られた。小早川秀秋の裏切りにより石田三成の豊臣西軍が大敗北、自刃となっている。名字は大谷義継ともいう。養子にはいって大谷姓になり、刑部少輔と改める。
 盟友の石田三成と共に同じく羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の家臣となり指導を受けた。大谷吉継の初めての伝記を示したのは死後まもなく弥之助という文筆家で「大谷吉継公伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ元・家臣たちが「何だ! こんなものを公の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・大谷吉継」というのを江戸時代初期にものし、その伝記には吉継の元・家臣らが名を寄せ寄稿し「大谷吉継の有名なエピソード」も載っている。吉継6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう大谷吉継の歴史的意味と存在であるが、大谷吉継こと大谷義継は「大名」である前に「乱世の設計者」である。当時は義継の思想は「危険思想」とされ、秀吉も徳川家康を恐れて彼を幽閉したほどだ。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」義継は貪欲に学んでいく。
そして、この物語「打倒家康!謀略の蒼い炎大谷吉継」の主人公・大谷刑部少輔吉継(おおたに・ぎょうぶしょうゆう・よしつぐ)の13歳年下に鈴という妹がいた。ちなみに兄の義継に秀吉につくようにアドバイスしたのも鈴、「義継にいやん、秀吉公に支えるのはどげんと?」「秀吉公?わしが?」「そうや。吉にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって家臣たちを集め「皆さん兄の下で働きませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも鈴、「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの越前・近江、日本国を変える人材になるのです」。姉の陽の前に三成を好きになり「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む三成を励まし、のちに姉陽死後、三成と再婚し、最後は聚楽第の花となるのも鈴、である。
  義継は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時都で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 大谷義継は「大名」「城主」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、それだけである。この後、日本人は「南蛮人渡来」で覚醒することになる。だが、大谷義継こと吉継は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 義継はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「乱世終結」「太閤検地」「官僚政策」「五大老五奉行政策」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。石田三成の「関ヶ原合戦」は只の馬鹿、であったが、たった一日で豊臣西軍は敗北した。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば朝鮮国(現在の韓国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な戦であり、朝鮮戦争であり、関ヶ原であるわけだ。すべては「植民地化への焦り」からの劇場型政変であったのだ。
そんな日本で、戦国乱世にこの物語の主人公の大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は生まれた。あまり彼の歴史上の資料やハッキリとした似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、色男みたいだ。いや、そうであってほしい。
 であるならば十三歳歳の離れた吉継の実妹は美貌の人物の筈。「鈴よ、お前はどう生きる?」吉(よし)にい、こと吉継は妹に問う。 
この物語では、家の強い絆と、吉継の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!

 話しを戻す。
 越前敦賀藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に城主・大谷義継は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。鈴にとって兵学指南役で領民からも一目置かれているという兄・大谷義継(吉継)の存在は誇らしいものであったらしい。あるとき浪人中だった義継は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」義継は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで義継は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら義継はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 義継は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると義継は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、義継は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い大谷吉継でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  義継は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 義継の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、義継は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。義継は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。義継は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  義継は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により義継の名声は世に知られるようになっていく。義継はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 鈴は幼少の頃より、兄・浪人の義継に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。大谷義継(吉継)は天才的な思想家であった。すでに十代である藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして鈴なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。というか架空の人物である。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。大谷義継のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、吉にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」鈴が笑う。と義継は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の鈴は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ戦国乱世の混迷期である。当然、当時の人は「戦国時代」等と思う訳はない。足利幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「戦国時代」「群雄割拠」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「戦国時代」等といっていない。「乱世」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が確立することによって「乱世」が「終結」した訳である。
 あるとき大谷義継は家臣の宮部平蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。義継は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「鈴よ、これがなんかわかるとか?」義継は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いオランダやイスパニアもポルトガルも日本と同じ小さい国やと。何故にオランダ……イスパニアは強いかわかると?」「わからん。何故イスパニアは強いと?」
 義継はにやりと言った。「経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?吉にいやん」「足利幕府や信長や信玄や長尾景虎や毛利は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。だが義継は、このままでいいのか?、と思っていた。「元寇の乱を忘れたのか?」
 だが、義継も「南蛮船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、「戦国時代」がはじまる。
 義継は「世界をみたい! 外国の南蛮船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「せわぁない」と笑った。
 義継は風呂につかった。五衛門風呂である。だが、南蛮船で外国に行ける時代ではなかった。信長の時代、日本からオランダに片道で二年かかった。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 義継は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。義継が蘭学を習ったのは都の馬医者である。
 大谷義継は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして義継(吉継)は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の鈴が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部平蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、大谷義継は塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か?自分の為たい!自分を、己を、人間を磨くためばい!」
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が大谷義継の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。義継はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 義継の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
やがて織田信長の家臣で猿こと羽柴秀吉に認められ、家臣となるのである。
「“兵学”の大谷(義継)、“算盤”の石田(左吉・三成)がいれば羽柴家も安泰じゃ」
 のちの鈴の二番目の旦那さんとなる小田村が、鈴の姉の陽と結婚したのはこの頃である。鈴も兄である大谷義継(吉継)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の鈴は白無垢の姉に、
「わあ、陽姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。吉継は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 

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