長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

至誠の魂 勝海舟・龍馬の師・勝麟太郎の日本再生論アンコールブログ小説連載1

2013年07月15日 02時11分02秒 | 日記
小説 至誠の魂
     勝海舟
                           戦わずして勝つ

                 KATSUKAISHU~the last samurai ~開国せよ! 龍馬の師・勝海舟の「日本再生論」。
                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、勝海舟(勝麟太郎)は幕府の軍艦奉行に抜擢された。それまでは年五十石の貧乏武士であり、そのため奮起して咸臨丸という船にのってメリケン(アメリカ)に留学して知識を得た。麟太郎の弟子はあの坂本龍馬である。先進国を視察した勝海舟にとって当時の日本はいびつにみえた。勝は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 勝海舟は官軍と徳川の間をかけもちしながら生き抜く。そして新政府の”知恵袋”として一生を終える。墓には勝海舟とだけ掘られたという。           おわり





         1 立志



  勝麟太郎(勝海舟)にももちろん父親がいた。
  麟太郎の父・小吉の実家は男谷家といい、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。 いきおい内職することになる。虫かごを作ったり、傘を張ったり、小鳥を飼って売ったりしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。
 男谷家で、小吉は腕白に過ごした。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、小吉の父・男谷平蔵は年百石のほかに勘定組頭の役料が入る。それに小吉の兄彦四郎は勘定役の信濃の代官であったという。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。                     
 平蔵は米山検校から巨額な遺産をもらったという幸運が成った。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに小吉は腕白に育った。本所亀沢町へいよいよ仮屋敷を構え、男谷が引っ越すと、離れていたばばあ殿と小吉は一緒になった。はばあ殿は毎日、孫娘の許嫁である小吉に嫌がらせばかりしていたという。
 小吉はそれが嫌で、ばばあ殿が早く死んでくれたら、などと思った。憂さ晴らしに剣術の稽古に励んだ。
  稽古場で小普請組頭の石川という師匠の息子が「こいつの家は年四十石だ」と馬鹿にするので、小吉は頭にきて木刀でその息子をボコボコに叩きのめした。痣だらけにした。
 当然、翌日、師匠に叱られた。

  兄・林大学頭により、小吉は十二歳で学問所に足を運んだ。麟太郎は林大学頭という叔父をもつことになる。小吉は学問よりも馬に乗るのが好きで『大学』を五、六冊ほど覚えたところで追放された。小吉は、運がいい、と自分で思った。
  しかし、小普請組頭や徒士組の家の子が出世するには、人脈がなければ勉強以外にない。 ある日、彼は意地悪するばばあ殿が嫌で嫌で、とうとう家の金を持ち出して家出をした。 江戸の町をぶらぶらしていると侍がいた。
「お侍さん。上方は知ってるかい?」小吉は刀と脇差しを腰に差しながらきいた。
「知ってるさ。京のことならなんでもな。これからいくんだ」
「拙者も一緒でいいかい?」
 小吉は家出をし、京まで辿り着く頃までは所持金もなくなった。わらじもすりきれ、何日も風呂に入ってないから垢まみれの臭い体で乞食しながら歩いた。
 小吉は後悔していた。
 これじゃあ只の乞食だ。
 京で声をかける町人がいた。「おい乞食! どこからきよった?」   
「江戸からだ。俺は乞食じゃねぇ。小普請組頭の武士だ」
 初老の町人は笑った。「そうかそうか。まぁ、風呂に入っていけ。飯も食わしてやる」  小吉は風呂にいれてもらい、たまった垢を落とした。気持ちがよかった。
 江戸に帰ってきたのは半年後だった。途中、箱根で落石にあい、男性のシンボルを怪我したが、治った。そこで狼に食われなかったのは幸運だった……とのちに言われたという。 家出して心を入れ替えて就職活動に勤しんだがやはりうまくいかない。
 小吉は正直すぎて世間の俗物には受け入れられなかったのだという。
 そんな小吉も結婚し、子が生まれた。勝麟太郎(のちの勝海舟)である。文政六年(一八二三)正月三十日が誕生日であった。小吉二十二歳、妻お信二十歳のことである。
 夫婦は喧嘩が絶えなかったという。
 世間でも評判になるくらい喧嘩をした。麟太郎を身籠もったのも、檻の中だったともいわれる。小吉もお信も檻に入れられ、夫婦は「夜」にふけり、身籠もったのだ。
  小吉は檻の中で書を読みふけり、妻となにをして、過ごした。麟太郎は三歳まで檻の中で母親と暮らした。
 いろいろと騒ぎを起こす小吉の元で、麟太郎は順調に育った。お信も息子を可愛がった。  麟太郎には徳川幕府の大奥に勤める女がふたりいたという。ひとりは小吉の姉の亀田という女性。もうひとりは遠縁の阿茶の局という女性だった。
 阿茶の局との縁で、麟太郎は六歳の頃、江戸城のお座敷の縁側まで歩み寄った。      奥座敷から見ていた大御所の家斉(十一代将軍)が「あれは誰であるか?」
 と、尋ねる。小姓は「阿茶の局の縁者にござりまする」と答えた。
「左様か。わが息子(十二代将軍・家慶)の遊び相手にちょうど良い」
「しかし、只の小普請組頭の息子……卑しい身分のものです」
「かまわん! かまわん!」
 家斉のこの言葉で、麟太郎は阿茶の局の部屋で寝起きすることになる。
 悪戯好きだった麟太郎は、女中たちに捕まってはお灸をすえられたが、十三代将軍・家定の生母おみつの方(本寿院)は麟太郎を可愛がって菓子を与えるのだった。
 麟太郎は衣服や食事などなに不自由なく育った。
 彼は志を抱く。
 ………この徳川幕府の中で出世して公僕さまのために働きたい!

  麟太郎が九歳のときに事件はおきた。麟太郎は江戸の屋敷に引っ越し、旗本の家から塾にかよっていた。その道すがら、狂犬が麟太郎の金玉に噛み付いた。
 ぎゃあっ! 叩いてもはたいても犬は離れない。噛み付いたままだ。それに気付いた鳶職が犬を蹴飛ばして、麟太郎を抱えて家に連れて帰って介抱した。
 小吉は知らせを受けて駆けつけた。
「てめぇがぼんやりしてるからこんなことになるんでい! この馬鹿!」
 小吉は息子を散々叱りつけ、駕籠にのせて家に連れてかえった。「痛むか?」
 麟太郎は気絶寸前である。
 医者がきた。傷は深かった。金玉はぶらさがっているが出血がひどくやぶれていた。
 医者は麻酔もせず、傷口を縫った。麟太郎は気絶した。
「家の息子はどうですか? 先生」
「危ない。今晩が山だろう」医者は辛辣だった。しかし、嘘をいう訳にもいかない。
 小吉は愕然とした。俺の息子が……死ぬかも知れぬ。口をぽかんと開け、よだれを垂らしそうになった。世界の終りだ。家族は声をあげて泣く。小吉は「やかましい! 泣くな! 泣いて麟太郎が助かる訳じゃねぇ!」と叱り付けた。
 小吉は神仏に祈った。その晩から井戸端で水垢離をやって、近所の金比羅神社で裸参りにいった。帰ると小吉は息子を一晩中寝ないで自分の肌で抱きしめて、耳元で「しっかりしろ! しっかりしろ!」と囁き続けた。
 近所では「勝という剣術使いは子供の怪我で狂った」と噂になった。
 幸運なことに麟太郎は死ななかった。
 次の日に目を覚ますと粥をすすった。十日ほど療養するうちに起きられるようになった。  麟太郎は再び家斉の嫡男の小姓役を務め、その後三年を大奥で過ごし、天保五年(一八三四)、麟太郎は十二歳のとき御殿を下がった。
  天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように麟太郎は召し抱えられ、内示がきた。
  一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。麟太郎は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。                                 
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。麟太郎は残念がった。勝麟太郎は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは勝麟太郎にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「麟さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた勝麟太郎は剣術に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように剣術鍛練に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 直心影流の宗家となった従兄弟の男谷精一郎信友の影響で、その流派を習うことになる。 勝麟太郎は後年こういっている。
「俺がほんとうに修行したのは剣術だけだ。俺の家は剣術の家筋だから、親父もなんとか俺を一人前にしようと思い、当時江戸で評判の島田虎之助という人の弟子につけた。この人は世間並みの剣術家ではなくて、いまどき皆がやる剣術は型ばかりだ。あんたは本当の剣術をやりなさい、と言ってくれた」
 麟太郎は島田虎之助(九歳ほど年上。文政十一年(一八一四)九州豊前中津生まれの剣客)の道場に泊まり込んで、掃除洗濯煮炊きまでやり剣術を習った。道場と実家は距離があり、麟太郎が家に帰るときは何時間も歩いたという。
 道場では互いに打ち合い、転んでもすぐたちあがり木刀で殴りあうという荒っぽい稽古がおこなわれていた。そこで麟太郎は心身を鍛えた。
 弘化三年(一八四六)二十四歳の頃、麟太郎と、お民との間に長女夢子をもうけ、嘉永二年(一八四九)十月に次女孝子をもうけた。
 麟太郎の父・小吉は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、嘉永三年九月四日四十九歳で死んだ。
 小吉はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが麟太郎の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」麟太郎は頭を下げ続けた。プライドの高い勝麟太郎にとっては屈辱だったことだろう。
 麟太郎は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。麟太郎は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 彼が結婚したのは弘化二年(一八四五)二十三歳の頃で、ふたりの幼い娘の父となっていた。しかし、禄高はたったの四十一石、妻も病で寝たきりになり……
 貧乏のどん底にいた。しかも、亡父の借金もある。直心影流の免許皆伝となったが、道場で剣術を教えてもたかが知れている。次第に麟太郎は剣術を離れ、蘭学にはまるようになっていく。本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」麟太郎は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで麟太郎は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら麟太郎はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 麟太郎は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると麟太郎は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、麟太郎は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い勝海舟でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  麟太郎は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 麟太郎の住んでいるのは本所錦糸堀で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、麟太郎は写本に通った。 あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。麟太郎は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。麟太郎は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  麟太郎は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により麟太郎の名声は世に知られるようになっていく。勝麟太郎はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 天保六年から七年にかけて大飢饉で、勝海舟も大変な思いをしたという。しかも四十一石と小禄で病妻と幼い妻をかかえている。勝麟太郎の身分は小譜請組頭で、せいぜい四十~五十石がいいところである。出世するためには上役の御機嫌をとったりワイロを配ったりしなければならない。プライドの高い勝海舟(勝麟太郎)にはそれがなかなかできない。 麟太郎には祖父明敏と父小吉からの反骨の気質がある。
(勝海舟の家系はもともとは幕臣ではなく、越後の小大名の家来出身である)
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 勝海舟はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、麟太郎も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。

  嘉永三年十月、高野長英という男が牢をやぶって麟太郎の元にたずねてきた。
「かくまってほしい」という。
 麟太郎は「私めは幕臣であるため義においてかくまうことはできません」と断った。そして続けて「しかし、あなたがきたことは誰にもいいません」ともいった。
 長英は了解した。長英は何時間にも渡って麟太郎と蘭学について口論したが、やがて萩生氏著作『軍法不審』をくれて帰った。
 勝麟太郎二十八歳、高野長英四十七歳であった。
 高野長英はやがて偽名を使い医者になるが、その名声が高まり町奉行の知るところとなった。逮捕の危機がせまっていたので、長英は江戸の蕎麦屋で家族と夕食を食べ、逃げた。が、すぐ追っ手に襲われ、ひとりを殺し、短刀で喉を突いて自殺した。
 麟太郎は長英の死を嘆いた。……いい人物が次々といなくなっちまう。残念なことだ。「高野さんはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りなかった。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 麟太郎は参禅を二十三、四歳までをやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは島田虎之助の勧めだった。剣術だけではなく、これから学問が必要になる。というのである。麟太郎が蘭学を習ったのは幕府の馬医者、都甲斧太郎で、高野長英は彼の師匠であった。だから長英は麟太郎の元に助けを求めてきたのだ。
 小吉が亡くなってしばらくしてから、麟太郎は赤坂田町に塾を開いた。氷解塾という蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であったという。
 客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が麟太郎の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を小吉の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。麟太郎はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! 俺の名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 麟太郎の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。

    
 この頃、麟太郎は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、麟太郎が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 麟太郎は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  麟太郎が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。


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