2 維新前夜
伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
尊皇攘夷など荒唐無稽である。
若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
しかし、いくらやっても強くならない。
桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
……俺は詩人にでもなりたい。
……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
と、玄瑞にきいたことがある。
久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
久坂は正直にいった。
「なに?!」
晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
晋作は興味をもった。
しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
晋作はにやにやしている。
……俺の才能を知るがいい。
吉田松陰は「わかりました」
といってかなりの時間をかけて読んでいく。
晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
といった。
高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
……審美眼がないのではないか?
人間とは、自分中心に考えるものだ。
自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。
長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
しかし、感覚と学問は相反するものではない。
きみには才能がある」
……この人は神人か。
後年、晋作はそう述懐しているという。
松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…
高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
安政五年、晋作は十九歳になった。
そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
松陰は思う。
……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
松陰もまた高杉に甘えきった。
かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
晋作は官僚の息子である。
そういう環境からは革命はできない。
晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
松陰は晋作に期待していなかった。
幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
晋作は反発した。
回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
……しかし、まだ嫁はいらぬ。
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
話を少し戻す。
「萩軍艦教授所に入学を命ず」
そういう藩命が晋作に下った。
幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
松島は帆をかかげて、船を動かした。
航海中、船は揺れに揺れた。
晋作は船酔いで吐きつづけた。
品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
……俺は船乗りにもなれん。
晋作の人生は暗澹たるものになった。
品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
かゆ
粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
……疲れているからいい。
と、晋作は断ったが、おきんは服を脱ぎ、丸裸となって晋作を誘惑する。
晋作も男である。
こんぱい
疲労困憊ながらも、”一物”だけはビンビンになっている。
「まぁ! どこがつかれてますの?」
おきんは笑った。
晋作はおきんを抱くことにした。
愛の行為は今までにないほどすばらしいものになった。晋作の疲れがひどすぎて、丁寧にゆっくりやるしかなかったためか、それはわからない。
ふたりは丸裸のままふとんにぐったりと横になった。
……また藩にもどらねば。
晋作には快感に酔っている暇はなかった。
この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。
勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
老中の罵声が背後からきこえた。
勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。
井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
しかし、何の返答もない。
大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
一同の目が勝海舟に集まった。
”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。
長州藩の「このひとあり」という男がいた。
長井雅楽である。
長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
と、長井は説く。
江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多(のちの馨)、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのである。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。
伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
尊皇攘夷など荒唐無稽である。
若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
しかし、いくらやっても強くならない。
桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
……俺は詩人にでもなりたい。
……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
と、玄瑞にきいたことがある。
久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
久坂は正直にいった。
「なに?!」
晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
晋作は興味をもった。
しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
晋作はにやにやしている。
……俺の才能を知るがいい。
吉田松陰は「わかりました」
といってかなりの時間をかけて読んでいく。
晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
といった。
高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
……審美眼がないのではないか?
人間とは、自分中心に考えるものだ。
自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。
長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
しかし、感覚と学問は相反するものではない。
きみには才能がある」
……この人は神人か。
後年、晋作はそう述懐しているという。
松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…
高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
安政五年、晋作は十九歳になった。
そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
松陰は思う。
……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
松陰もまた高杉に甘えきった。
かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
晋作は官僚の息子である。
そういう環境からは革命はできない。
晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
松陰は晋作に期待していなかった。
幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
晋作は反発した。
回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
……しかし、まだ嫁はいらぬ。
坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
話を少し戻す。
「萩軍艦教授所に入学を命ず」
そういう藩命が晋作に下った。
幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
松島は帆をかかげて、船を動かした。
航海中、船は揺れに揺れた。
晋作は船酔いで吐きつづけた。
品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
……俺は船乗りにもなれん。
晋作の人生は暗澹たるものになった。
品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
かゆ
粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
……疲れているからいい。
と、晋作は断ったが、おきんは服を脱ぎ、丸裸となって晋作を誘惑する。
晋作も男である。
こんぱい
疲労困憊ながらも、”一物”だけはビンビンになっている。
「まぁ! どこがつかれてますの?」
おきんは笑った。
晋作はおきんを抱くことにした。
愛の行為は今までにないほどすばらしいものになった。晋作の疲れがひどすぎて、丁寧にゆっくりやるしかなかったためか、それはわからない。
ふたりは丸裸のままふとんにぐったりと横になった。
……また藩にもどらねば。
晋作には快感に酔っている暇はなかった。
この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。
嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
………「黒船来航」である。
三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
二、海防の軍艦を至急に新造すること。
三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
五、火薬、武器を大量に製造する。
勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
幕府はオランダから軍艦を献上された。
献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。
勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
老中の罵声が背後からきこえた。
勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。
井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
しかし、何の返答もない。
大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
一同の目が勝海舟に集まった。
”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。
長州藩の「このひとあり」という男がいた。
長井雅楽である。
長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
と、長井は説く。
江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多(のちの馨)、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのである。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。