道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

07/31 「満漢全席」と「道東盆」

2013年07月31日 | 食・レシピ

【満漢全席】
「満漢全席」とは、清朝の乾隆帝の時代から始まった満州族の料理と漢族の料理のうち、山東料理の中から選りすぐったメニューを取りそろえて宴席に出す宴会様式。後に広東料理など漢族の他の地方料理も加えるようになり、西太后の時代になるとさらに洗練されたものとなった。
盛大な宴の例では途中で出し物を見たりしながら、数日間かけて100種類を超える料理を順に食べる場合もあったとされる。
しかし、清朝が滅亡するとこのような贅を尽くしたことは無くなり、宮廷内の料理人は四散して料理の伝統が途絶えたとされる。
満漢全席の中でも一部の料理については宮廷内の料理人が伝え一般的になっているものもあるが、現在、中華料理店で出される満漢全席と言われるものの多くは宮廷と無縁の料理人が資料に基づいて、あるいは想像を膨らませて調理したものが多
いとされる。
満漢全席には山・陸・海などから珍味を集めて「32珍」と定義したものがある。
その一例としては、「山8珍」は、駝峰・熊掌・猪頭・豹胎・鹿筋など。「陸8珍」は、玉米珍・付蟆・沙豊鶏など。「海8珍」は、魚骨・鮑魚皮・大鳥参・燕巣など。

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【道東盆】
「道東盆」は、琉球王国の宮廷料理「五段のお取持」の料理の一つ。また、それを盛り付ける漆塗の蓋付きの盆のこと。

『道東盆の器』
琉球漆器製の、上から見た形は六角形の盆状の器で、料理の乾燥を防ぐための共蓋が付いている。中は中心に盆をそのまま小さくした六角形のスペースがあり、周囲に器の辺に応じた6つの仕切りがあり、合計7区画に分かれている。
宴会料理の器であるため豪華な装飾が施されるのが通例。

『道東盆の料理』
「五段のお取持」は中国からの答礼使である「御冠船」の接待料理に、薩摩藩の影響下で導入された本膳料理の影響を受けて発達した料理であるが、道東盆は「五段のお取持」の二の膳と三の膳の間に泡盛のつまみとして出された料理で、オードブルに相当する。

『献立』
■ミヌダル:豚ロース肉をすり胡麻や味醂で作ったタレに漬け込み、蒸し焼きにしたもの。
■ポーポー:味噌餡を中心にしてクルクルと巻いて仕上げたクレープ状の料理で中華料理から伝来した料理と言われている
■チギアギー:「つけ揚げ」ともう。本土で言う薩摩揚げのこと。
■クーブマチ:昆布巻き。見た目は本土の物と同じだが、芯に豚肉を使う場合がある。
■花イカ:コウイカを飾り切りし、周囲を食紅などで染めた物。
■田芋の唐揚げ:「田芋」を輪切りにしてから揚げし、醤油と砂糖を混ぜた付けダレにくぐらせる。
■ゴーヤフクミー:ニガウリの天麩羅。

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07/30 「京料理」と「加賀料理」

2013年07月30日 | 食・レシピ

【京料理】
「京料理」は、日本料理として供される料理におけるジャンルあるいはブランドとしての名称である。
野菜や乾物、大豆加工食品を中心とした素材の味を活かす、洗練された薄味料理で、味だけでなく、見た目や雰囲気を含めて五感で楽しむ料理であるといったようなイメージが一般に持たれている。
京都は、地理的背景から大阪のような新鮮な海産資源に乏しかったこともあり、質素な食材を活かすような料理技術の発展が見れた。
中国料理を元にした大饗料理に始まり精進料理、懐石料理を経て、西洋料理に出会うまでの日本の料理文化の中心地として京料理は様々な料理手法の特徴を取り入れてきたものである。そのため、京料理が日本料理と同義と捉えられる場合もある。
日本において「料理屋」が最初に出現したのは京都であるが、その年代や詳細な場所は特定できておらず、確認できるものとしては1403年頃の東大寺南門付近に登場した「一服一銭」がある。
組立式の簡易な店構え、参内客に対して安価な茶を立飲みで振る舞っていたが、これが人気を博して門前茶屋へと発展し、料理屋の原型となった。
江戸時代初期、八坂神社の鳥居内にあった中村屋、藤谷という茶屋が参拝客に茶を振る舞っていたが、やがて軽い食事として豆腐を提供するようになり、豆腐茶屋と呼ばれた。
こうした豆腐を提供する茶屋は祇園にその版図を広げて行き、祇園豆腐に代表されるような豆腐料理の多様化を見せた。
江戸時代中期に入ると現代のような、座敷に客を上げて料理を食べるという形式が誕生し、料理の種類も様々へと発展をみせた。
1831年に出版された『商人買物独案内』には高瀬川や加茂川を中心として川魚料理、湯豆腐料理、即席料理、茶懐石などを振る舞う多数の料理屋が紹介されている。一方で丸山近辺の時宗の寺院を中心として精進料理を提供するような店も見え始めた。さらに、1927年に開業した「浜作」を期に大坂生まれの板前割烹の文化が浸透し、京料理屋の提供スタイルにも大きく影響を与えた。
現在の京都には西洋料理の名店が多数存在し、日本の西洋料理をリードしている。

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【加賀料理】
「加賀料理」は、海と山と大地の恵みに支えられ、城下の人々に受け継がれてきた加賀百万石の食文化である。
加賀百万石の伝統が育んできた金沢の食文化。四季折々の豊かな自然に恵まれたこの地だからこそ「加賀料理」として独特の進化をとげている。
「加賀料理」とは、地元で採れた食材を日常的に美味しく食べるために工夫されてきた郷土料理と言える。「治部煮」や「かぶら寿司」など素朴で庶民的な加賀料理も、九谷焼や金沢漆器などの華やかな器に盛り付けられることで、華麗な「加賀料理」として演出されてきた。
器によって目で味わい、舌で味わう、この絶妙な関係が「加賀料理」の魅力なのである。

『地の利が育んだ食文化』
日本の伝統文化は大陸の文化を基盤としている。それは現在の日本料理も同様である。主食である米はもちろん、懐石料理を生み出した茶も大陸から伝わっている。奈良・平安時代には勃海と律令国家の交流が盛んに行われ、加賀や能登は大陸の食文化の玄関口となった。
また、中世から近世にかけて、石川県は北前船の拠点となり、これによって全国各地の物品が運び込まれてきた。
大陸から伝来した食文化、全国各地から集まる物品、地元の恵まれた食材。そんな三つの「地の利」が歴史的基盤となって、金沢独特の食文化が育てられ、加賀料理につながって行った。

『京風と江戸風の融合』
金沢が歴史の表舞台に登場したのは戦国時代。一向宗の総本山である本願寺が加賀支配の拠点として、金沢御堂を現在の金沢城公園に設置した時である。そこには関西からの移住もあり、それに伴って関西の食文化が伝わってきた。当時の本願寺の影響力は絶大であったことからも、金沢の生活全般が京風になった。
その後、豊臣秀吉の時代になり、秀吉と親交のあった金沢城主・前田利家は、能や茶を愛好し、秀吉をもてなす宴では、京風の料理で接待したと言われている。
一方、江戸時代には、儀礼的なことに関しては徳川幕府に準じていたため、江戸の武家風の習慣も入り込んできた。そのため、京風と江戸風の食文化が次第に融合していった。

『水に恵まれた金沢』
富士山、立山ととに日本三大名山とされる霊峰・白山を源とする水は、加賀料理の根底を支えている。白山から湧き出る水は全国屈指の清流であり、穀倉地帯である加賀平野を潤して、様々な農作物に命を与えてきた。白山から流れる手取川の伏流水は、まさに「天然の濾過器」を通った水であり、そんな美味しい水があったからこそ、加賀料理は発展することが出来た。

『実り豊かな加賀平野』
穀倉地帯である加賀平野では、農作物の栽培も盛である。さつまいもや加賀れんこん、加賀太きゅうり、ヘタ紫なす、金時草、加賀つるまめ、打木赤皮、甘栗かぼちゃ、源助大根、金沢一本太ねぎ、二塚からしな、赤ずいき、くわい、金沢春菊などといった「加賀野菜」と呼ばれる金沢ならではの野菜も作られており、特徴的な食材として「加賀料理」に使われている。

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07/29 「卓袱料理」と「袱紗料理」

2013年07月29日 | 食・レシピ

【卓袱料理】
「卓袱料理」とは、中国料理や西欧料理が日本化した宴会料理の一種。長崎市を発祥の地とし、大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式である。

和食、中華、洋食の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理とも評される。日本料理で用いられる膳てはなく、テーブルに料理を乗せて食事を行う点に特徴がある。献立には中国料理特有の薬膳思想が組み込まれていると考えられている。
中国料理同様に、円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各々が自由に取り分けて食べるのが「卓袱料理」の基本形である。現在では料亭や割烹料理店で味わうのが主流で、結婚披露宴で卓袱料理形式の献立が組まれたり、冠婚葬祭などで卓袱料理の仕出し料理をとる家庭もある。
大皿に盛り付けるなど手間が省け、人数に増減があっても対応しやすいという合理性があり、「急ぎの来客向け料理」「家庭的なもてなし料理」という側面もあったとみられている。
中国料理の宴会と異なり取り箸は用いず、各自の自箸と呑水と呼ばれる陶器用いて、各自の取り皿に取り分けて食べる。
「卓袱」の語原は不詳だが、中国語で「卓」はテーブル、「袱」はクロスの意味を持つ。「卓袱料理」は料理の種類ではなく、卓やテーブルを使った食べ方を意味するとの考えがあるが明快ではない。また「卓袱うどん」のような名称は「たくさの具」を意味すると考えられている。

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【袱紗料理】
「袱紗料理」とは、本膳料理を略式にした形の料理である。七五三などの式正の料理の形式主義に対する批判と反省に基づいて、煩瑣な儀礼と過剰な装飾を排し、実質的な味覚を楽しむたのもとして成立した。
伊勢貞丈の「貞丈雑記」が「本式にあらざる物にはふくさと伝事を付けていふなり」と言ってるように、略式の物を呼ぶのに「ふくさ」を冠したことによる呼称である。
やがて酒と料理を楽しもうという時代の要請に応えて会席料理と発展して、現在の日本料理の中核を形づくるようになった。
この料理の基本形は「鯉の活け作り」、「鍋焼き(魚と野菜を主にした現在のすき焼き)」、平たい蓋付きの大きな椀に汁の多い煮物や焼き物などを盛り込む「太平椀」、など味本位に作る。
「袱紗料理」は「ふさねて略す」の簡略の意味もあり、「袱紗」は「柔らかい」の意もあるので、柔らかい料理にも用いた。

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07/28 「皿鉢料理」と「有職料理」

2013年07月28日 | 食・レシピ

【皿鉢料理】
「皿鉢料理」は、高知県の郷土料理である。また近年では、大ぶりの皿に刺身などを盛り合わせた宴会料理を指して「皿鉢料理」と言う場合もある。
農耕儀礼として行われていた五穀豊穣の祈願祭や収穫を感謝する収穫祭には、神前に様々な食材が供えられた。神事の後それら供えられた食材をおろし、御厨などで神饌として調進した。出来上がった料理は神に供えられるだけでなく、神事に参加した者も共に分かち合って食べた。この神と人とが共有する酒宴を直来(なおらい)と言い、神と人とが共に賞め合う神事の一つであり、重要な儀式とされていた。こういった伝統を受け継ぐ料理は、明治の中頃まで鉢盛り料理や盛り鉢料理とも言われ、日本中に残っていった。
現代の皿鉢の源流である器は室町時代から作られていた。当時の器は比較的深みのある高杯で、浅鉢、深鉢、大皿、大鉢など器に合った呼称で呼ばれていた。それらの器が「皿鉢」と総称され始めたのは江戸時代だと考えられている。現在の形状は様々であり、料理に合わせた皿鉢になっている。
土佐の郷土料理として庶民の中に定着していったのは、明治期以降から昭和にかけてである。同じ行事食ながら形式を重んじる本膳料理ではなく、皿鉢料理が受け継がれてきた理由として、共に食事を作る事で互いへの慰労を示し、一つの皿の料理を分け合って食べる事により連帯意識や仲間意識が養われるなど、地域や集落が共同生活を営む上でも極めて有用な「晴れ食」であった事が挙げられている。
高知では刺身を生(なま)と言い、生を盛った皿鉢と「組み物」の皿鉢、さらに「すし」の皿鉢を加え三枚の皿鉢料理の一応の基本とされる。

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【有職料理】
「有職料理」とは、平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した大饗料理が、公家風の料理形式として残ったものである。但し、現在「有職料理」と言われている物は、本膳料理などの影響も受け、平安時代当時のそのままの様式ではない。また、本膳料理を有職料理に含める定義もある。
『大饗料理』
長屋王邸出土木簡などから、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたことが伺えるが、その具体的な形式は不詳である。
それが発達したものが「延喜式」に出てくる「神饌」と思われ、春日大社の神饌や、談山神社の「百味御食」などにその形式を残していると考えられている。
平安中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列は動かしがたい物となり、その接待の形式として「大饗」が定められている。

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07/27 「精進料理」と「普茶料理」

2013年07月27日 | 食・レシピ

【精進料理】
「精進料理」とは、仏教では僧は戒律五戒で殺生を禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されていたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理である。

『仏教と精進料理』
インドの初期仏教においては、部派仏教の律による十種肉禁を除いた三種の浄肉であれば食べることが出来、釈迦も牛乳で作った粥の布施を受け大悟したどなど、乳製品の摂取も禁止されていなかった。
これに対して大乗仏教では、後に肉食そのものが禁止されたため、中国、朝鮮、日本等の大乗仏教圏では菜食料理が普及した。

『日本の精進料理』
仏教が大陸から流入してきた頃から既に精進料理は存在したと考えられるが、古代におれる「精進」という言葉は粗末なものという意味で用いられたもので、魚肉を禁じたとするのは仏教における解釈に過ぎないとする説もある。
また、神道の場合においては仏教よりも肉食への規制は緩かったものの、信仰する神と縁のある動物の肉は禁忌とされた肉のみ除外した料理も一種の精進料理だった(春日大社の鹿肉、八幡神宮の鳥肉)。
精進料理が本格的に発達したのは鎌倉時代以降とれる。鎌倉時代以降の禅宗の渡来は、特に精進料理の発達に寄与した。禅宗の精進料理は菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。
味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理法は、日本料理そのものに取り入れれることになる。
江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなった。
精進料理は日本料理にも影響を与え成長を促してきた。永平寺の精進料理は、室町時代か江戸時代前期にかけて普及した「本膳料理」に通じる。また、懐石料理は精進料理から派生したものである。

献立は宗派によって異なるが、京都にある臨済宗の禅寺・天龍寺の精進料理の献立は、1・御飯、2・汁(白味噌)、3・平(湯葉・麩・椎茸の炊き合わせ)、4・木皿(胡麻豆腐)、5・木皿(紅生姜・こんにゃく・栗・ごぼう等)、6・壺(しめじと青菜のおしたし)、7・香の物

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【普茶料理】
「普茶料理」は、江戸時代初期に中国から日本にもたされた料理。日本の精進料理とは異なり、葛と植物油むを多く使った濃厚な味、一つの卓を4人で囲む形式が特徴である。代表的な普茶料理に胡麻豆腐、精進うなぎがある。
江戸時代初期の1654年、中国の禅僧・隠元隆が来日。1661年には山城国宇治に萬福寺を開いて、開祖となった。隠元は中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲン豆、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本にもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(中国式の精進料理)が「普茶料理」である。
「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、煎茶などを飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。
基本的に一つの長方形の座卓を4人で囲み、一品ずつ大皿料理を分け合って食べるという様式が非常に珍しいがられた。料理においても中国風ののが多く、巻織(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、油磁(下味を付けた野菜などを唐揚げにしたもの)や雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理)などがある。

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07/26 「会席料理」と「懐石料理」

2013年07月26日 | 食・レシピ

【会席料理】
「会席料理」は、和食の料理形式の一つで、宴会に供される料理である。本膳料理が廃れた現在、日本料理に於いては、儀式などで出される最も正統な料理形式である。
「会席」はもともと連歌や俳詣の席のことであり、呼称の似た「懐石料理」と混同されがちだが、ルーツは同じであるものの、近世以降は明確に区別されている。
懐石料理は茶を楽しむためのものだが、会席料理は酒を楽しむたのものである。江戸時代には会席が料理茶屋で行われるようになり、酒席向けの料理が工夫されるようになった。
会席料理の献立は、一汁三菜が基本である。さらに、お通し・揚げ物・蒸し物・和え物・酢の物などの酒肴が加えられ、最後に飯・味噌汁・香の物・水菓子となる。
伝統的な例としては、1・先付けー前菜、2・椀物ー吸い物、3・向付ー刺身、4・鉢肴ー焼き物、5・強肴ー煮物、6・止め肴ー原則として酢肴または和え物、7・食事ーご飯・味噌汁香の物、8・水菓子ー果物。
明治時代以降は肉も出される。シチューなどの洋食の皿が交えられたり、デザートとして洋菓子が供されたり、ご飯の代わりに蕎麦やうどんが出されることもあり、上記のような献立の流れに必ずしもとらわれるものではない。

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【懐石料理】

「懐石料理」とは、茶席で、茶の前に出す簡単な料理。
懐石料理の「懐石」は、禅宗の僧が一時的に空腹をしのぐために懐へ入れた「温石」のことである。
「温石」とは、蛇紋岩や軽石などを火で焼き、布に包んだものである。懐石が空腹をしのぐものであったことから、簡単な料理・質素な食事を意味するようになり、茶道では献立・食作法・食器などにも一定の決まりが定められるようになった。
「懐石」のみで「料理」の意味が含まれているため、「頭痛が痛い」「車に乗車する」などと同じく、「料理」を加える事は重言であるが、同じ発音の「会席料理」の影響により、現在では「懐石料理」が一般的に用いられている。
また、懐石は一汁三菜が一般的てあるが、茶席に関係なく料理店でも供されるようになり、品数も増し趣向も凝らされるようになった。

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07/25 「御節料理」と「本膳料理」

2013年07月25日 | 食・レシピ

【御節料理】

御節料理」とは、節日(節句)に作られる料理。特に正月に備えて年明けまでに用意されるお祝いの料理を指す。
「お節」の語原としては中国から伝わった五節供の行事が奈良時代の朝廷内で節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りとなったご飯などであった。
五節句の行事は江戸時代には庶民にも広まったが明治6年大政布告によって朝廷料理としては廃止された。
江戸時代、関西では「蓮菜飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」と称し歳神様に三方などで目出度い食べ物を床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振る舞ったり家族でも食べたりした。傍麻によると、天明の頃までは食べていたがそれ以降は飾るだけで食べなくなって行き、正月料理は重詰めへと変化していく。
後の「東京風俗志」によると、煮物のお膳料理を「おせち」、祝い肴を重詰めしたものを「食積」と呼んでいる。現在は重箱に詰めた正月料理を「御節」と呼ぶようになった。
御節料理の基本は、お屠蘇・雑煮・祝い肴三種・煮しめ・酢の物・焼き物である。地方により、三つ肴・雑煮・煮しめの内容は異なる。
祝い肴の内容は関東では、黒豆・数の子・田作り(ごまめ)、関西では、たたきごぼう・数の子・田作り・または黒豆となる。また関西では睨み鯛といって三が日の間は箸をつけず睨むだけの尾頭付きの鯛を焼き、重箱に詰めて供される。

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【本膳料理】
「本膳料理」とは、日本料理の正式な膳立て。「食事をとる」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴。
室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式。しかし明治以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理にその面影が残されている程度である(婚礼の際の三三九度など)。更に、肝心の料理店自体が用語の使い方を誤っている例が散見される。単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある。
鎌倉時代、武家の間には「椀飯」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式があった。当初は鯉一匹など簡単な物であったが、室町時代になり武家の経済的政治的優位が確立し、幕府政治の本拠地も公家文化の影響が深い京に移るに至って、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされようになった。
特に室町幕府の将軍を接待する「御成」が盛になってからは次第に宴会料理の形式が整えられていった。ここに「本膳料理」が成立したと考えられる。
献立としては一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあったとされる。もっとも基本的な形は、本膳には七菜、二の膳には五菜、三の膳には三菜を配膳するものであった。

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07/24 松花堂弁当

2013年07月24日 | 食・レシピ

【松花堂弁当】
「松花堂弁当」は、中に十字型の仕切りがあり、縁の高いかぶせ蓋のある弁当箱を用いた弁当。
仕切りのそれぞれに刺身、焼き物、煮物、飯などを見栄え良く配置する。盛り分様式としては、ご飯と数種類のおかずを組み合わせたものであり、幕の内弁当に似ているとも言え、しばしば混同がみられる。
しかし源流は、幕の内弁当が本膳料理の流れを汲む江戸時代に遡るものであるのに対し、松花堂弁当は懐石料理の流れを汲み昭和になってから誕生した様式であり、歴史は大きく異なる。
「松花堂」の名は、江戸時代初期の石清水八幡宮の内僧であった松花堂昭乗に因むものである。昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用してた。
その入れ物が「松花堂弁当」に発展したのは、それから数百年たってからである。昭和8年頃、貴志家の大坂邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された折、日本屈指の名料亭である大坂の「吉兆」の創始者である湯木貞一が、貴志家の当主・貴志奈良二郎よりこの器で茶懐石の弁当を作るよう命じられ、後にその事が話題となり、松花堂弁当としての名が広まった

十字形の仕切りがあることで、見た目が美しいだけてなく、互いに味や匂いが移らないと考えたためである。湯木は、当時他家から松花堂弁当の依頼を受けると、その都度貴志家の挨拶を怠なかったという。

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07/23 「竹原たけめし」と「境港新かにめし」

2013年07月23日 | 食・レシピ

【竹原たけめし】
「竹原竹飯」は、広島県・竹原市の新・ご当地グルメ。
2009年12月に開催された「観光資源調査事業報告会」以降、竹原市での食による交流人口の増加を目指し、1年3ヵ月かかって開発されたメニューである。
竹原市では、竹林の間引きや肥料を撒くことにより筍を生産している地域がある。その竹原産の筍を是非ともブランド化したい、筍料理で町を活性化したい、長年そういった思いを持ち続けていた経緯がある。
竹原産の筍と瀬戸内の魚介類や野菜等を組み合わせた2種類のお寿司と新鮮な地場産タコ刺身を味わえる。
1・竹原産の筍を訴求するメニューとする。2・「筍寿司」は2種類用意する。3・お米は竹原産コシヒカリを使う。4・主菜は竹原産のマダコ等、瀬戸内の海産物とする。竹焼塩と醤油を用意する。5・協議会認定の箸袋を使用する。
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【境港新かにめし】
「境港新かにめし」は、鳥取県境港市の新・ご当地グルメ。
境港市は全国屈指の水揚げ量を誇る港町である。ベニズワイガニに関しては、全国の60%以上が水揚げされている。年間約1万トンの水揚げがある中、その大半は缶詰や冷凍食品など加工用として流通しており、観光客だけでなく地元住民もベニズワイガニを姿のまま消費することは多くない。
肉質は繊細でとても瑞々しく甘味の強い「赤い宝石」であるベニズワイガニを、もっと沢山の人に食べてほしい、そういう思いで「境港新・ご当地グルメを創る会」が設立され、2011年3月に「境港新・かにめし」が誕生した。
水揚げ日本一を誇るベニズワイガニを丸ごと一杯使用し、酢飯のご飯や地場産食材と一緒に紙で包み蒸し上げた、これまでに無かった新感覚の「かにめし」である。

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07/22 「みやま玉めし」と「那須の内弁当」

2013年07月22日 | 食・レシピ

【みやま玉めし】
「みやま玉めし」は、九州・みやま市の名物料理。「秘密のケンミンショー」で紹介されている。「玉めし」とは、お店のお母さんが一個一個手作りする「おにぎり」。
「おにぎり」は地元のお米を使用しているので冷めても美味しいと評判である。おにぎりの中には玉子かけご飯に合うように改良された和食用の新鮮な半熟の赤玉子が丸ごと一個贅沢に入っている。生でも食べられる玉子なので半熟でも安心である。その新鮮な玉子を老舗「森山醸造」の醤油を使った秘伝のタレで煮込んである。
秘伝のタレは10年以上継ぎ足して作ってあるので独特の風味と甘味を堪能できる。

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【那須の内弁当】
「那須の内弁当」は、栃木県・那須市の新・ご当地グルメ。
野菜や米、牛乳、そして和牛と豊富な食材が揃う那須地地域で、地元の人たちがこの地域が食材の宝庫であることを再認識し、その食材を使って観光客に来ていただいたお客様をもてなすことに力を注ぐことで、り多くのお客様が集まる「那須むになって行くことを目指し、2010年3月に「なすとらん会議2010」で開発された「那須の内弁当」。九尾の狐にあやかって、9種類の地元食材を使い、九つの料理にして、九個の器に盛り付けた「幕の内弁当」スタイルの地産地消スタイルランチメニュー。
1・九種類の那須産農畜産物(那須のコシヒカリ・那須のニラ・那須の白美人ネギ・那須和牛・那須の美茄子叉は那須の春香うど・那須の旬の高原野菜・那須の食材・那須のフルーツ・那須の牛乳)を食材として使用する。2・9種類の料理は全て個々の器の盛る。

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07/21 「茄子すの蒲焼き重」と「肉玉ライス」

2013年07月21日 | 食・レシピ

【茄子の蒲焼き重】
「茄子の蒲焼き重」は、群馬県太田市の名物料理。元々は、料理コンクールへの出品のために考え出されたメニュー。その結果「第四回ぐんまふるさとレシピ大賞」を受賞している。
身の締まった茄子を厚切りにし、ウナギの蒲焼きと同じように焼き上げ、ウナギのタレで味付けしたアイデア料理。
見た目は、本物のうな重そっくり。蓋を開けるとうな重の香ばしい匂いが漂ってくる。もちろん、ふっくらと焼き上げた茄子の味は、まさにウナギそのもの。そのウナギの下には、同じタレで味付けされた鶏肉が隠れている。甘辛のタレと絡まって、茄子・鶏肉・ご飯のハーモニーが食欲を進める。
地元・太田で採れた新鮮で瑞々しい茄子を使用。ヘルシーなで、健康に気を使っている女性や、カロリーが気になるサラリーマンからも人気を得ている。

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【肉玉ライス】
「肉玉ライス」は、広島県・呉市のソールフード。今から40年前、食堂「ポパイ」の女将の父親がうどんと焼きそばの店をやっていたが、食べ盛りの学生客が多く、焼きそばとライスを食べていたお客から、白いご飯じゃ寂しいので上に何か載せて欲しいと頼まれて作ったメニューが「肉玉ライス」。
広島県民なら誰もが常備している振りかけ「旅行の友」や、焼きそばのお好みソースなど有り合わせながらも県民熱愛の食材から「肉玉ライス」が生まれた。
1・丼にご飯を大盛りにし、振りかけをまんべんなくかける。2・半熟の玉子焼きを作っててご飯の上に載せる。3・豚肉を塩コショーで味付けし焼き、丼に載せる。4・お好み焼きソースをたっぷりかけ、仕上げにマヨネーズをかければ出来上がり。

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07/20 1000円バーガー第三弾

2013年07月20日 | 食・レシピ

7月20日、1000円バーカーの第三弾「ルビースパーク」が販売された。
ドイツ国家認定の食肉加工マイスターが監修したチョリソ5枚とディップのように濃厚なアボガドフィリング、1/4バウンドのビーフパティとハラペーニョを練り込みスパイシーに仕上げたペッパージャックチーズを噛み応えある食感のソフトフランスパン風パンズでサンド。

『ソフトフランスパン風パンズ』
たっぷりのチョリソに合うように、ソフトロールとハードロールの中間の食感。皮の噛み応えに拘っている。厚くてパリッとしたフランスパン独特の皮を作るため、窯で蒸気をかける特別の製法を使っている。表面にたっぷりの小麦をまぶすことでね嚙むほどに小麦の香りが口の中にいっぱいに広がり、パンチの効いたチョリソを引き立てている。

『チョリソ』
ドイツ国家認定の食肉加工マイスターがこのバーガー用に開発したオリジナルチョリソ。赤唐辛子を主体に肉と相性のよいコリアンダー、ガーリック、ナツメグ、ペッパーなど19種類以上のスパイスを組み合わせ。辛味だけでなくしっかりとした旨味と味に深みを出すことに拘っている。

『グリルオニオン』
スライスしたタマネギを厨房で焼き上げる。グリルしたタマネギの甘味に塩コショウのみのシンプルな味付けでビーフの味を引き立てている。

『アボカドフィリング』
フレッシュな風味と濃厚でコクのあるアボカドのクリーミーな味わいを最大限に生かしたシンプルな味付けのフィリング。細かく刻んだアボカドを、タマネギ、レモン果汁、ガーリックピューレー味付け。チョリソとチースを融和させバガー全体を纏めている。

『ペッパージャックチーズ』
クセのないモントレージャックチーズにメキシコ産のパラペーニョを練り込み、パラペーニョのスパイシーな味わいと爽やかな刺激。クリーミーでマイルドなチーズのバランスを楽しめる。

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『実食・味比べ』
パンズはモチモチ感があり、小麦の香りがする。特別美味しいと言う程ではないが。
チョリソの辛味は私には丁度良かった、もう少し厚みが有ると食感が良くなるのでは。グリルオニオンにはアボガドフィリングをかけているが、これは失敗。お互いの良さを相殺している。チーズにはパラペーニョを練り込みスパイシーさを強調している、私好みのチーズとなっている。
チョリソとチーズの辛味が強調され、相対的な食味が損なわれている。
味比べでは、第一位は「ブラックダイヤモンド」、第二位は「ゴールドリング」、第三位は「ルビースパーク」となっている。
再度このような企画が行われる場合には、もっと価格に合うような格調高さが必要なのでは。


07/18 「チャーシュー丼」と「羽幌えびタコ焼き餃子」

2013年07月18日 | 食・レシピ

【チャーシュー丼】
「チャーシュー丼」は、「ラーメン札幌一粒庵」のサイドメニュー。
「チャーシュー丼」はかって新米の季節に合わせて考案されたサイドメニューであった。今年も期間限定で登場した。
一見すると麦めしに肩ロースのチャーシューを載せたよくあるチャーシュー丼であるが、箸を入れるとチャーシューの下からとろ~り玉子が溢れ出る。
「少し前にTGK(玉子かけご飯)が流行ましたが、これはその変わり種」と店主が話す。
チャーシューの煮ダレと醤油で味わうのもラーメン屋さんならでは。京都から取り寄せるという「黒七味」が、香りと味にアクセントを加えている。

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【羽幌えびタコ焼き餃子】
「羽幌えびタコ焼き餃子」は、羽幌町の新・ご当地グルメ。2007年6月に留萌管内中部の3町村(苫前町、羽幌町、初山別村)で、共通の特産品を活かした「食」のブランドを構築する動きが起こり、「甘えびとミズダコ」を活かした「日本海えびタコ餃子」が誕生した。
誕生した2007年度は「スープ餃子」として売り出され、2008年度には揚げた餃子を使用した「カレー丼」とレパートリーを広げ、2009年度からは町村合併の取り組みから、羽幌町独自の動きに変化する中で、「羽幌えびタコ焼き餃子」が誕生した。
「夕陽の町」「甘えびの町」などのイメージが強かった羽幌町であるが、ここ数年の間に「えびタコ餃子」の知名度が広がり、観光客の中には、これを目当てに訪れる方が増えているという。
ルールとして、1・商品は単品の「羽幌えびタコ焼き餃子」とセットの「羽幌えびタコ焼き餃子定食」の2種類とする。2・餃子の皮は道産小麦を使用する。3・餃子の中身は、羽幌近海の甘えびとミズダコとする。4・調理方法は餃子に焼き色を付けて火を通す「焼き餃子」とする。5・餃子のタレは3種類とする。6・定食の場合は、ご飯、汁物、香りの物を付ける。
 

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07/16 「なんぷエソカツカレー」と「いずみ親子ステーキごはん」

2013年07月16日 | 食・レシピ

【なんぷエゾカツカレー】
「なんぷエゾカツカレー」は、南富良野町のご当地グルメ。名称の「なんぷ」は南富良野地域での南富良野町の略称。
近年、北海道の新しい食ブランドとしてエゾシカ肉が注目を集めている。高タンパク・低カロリーで現代のヘルシー志向にもぴったりのエゾシカ肉は、適切に処理すればクセもなく上品な味わいが楽しめる。
急増したエゾシカによる被害を防ぐためにも「エゾシカを食べる」という食文化を確立することは、エゾシカ王国・北海道にとって大変重要なことである。
そこで、2008年2月に町内にエゾシカ解体処理施設が誕生した事を良い機会ととらえ、南富良野町でも「食べるエゾシカ」を実践行く事になった。
一人でも多くの方にエゾシカ肉の美味しさを伝えたい。この事に拘り、エゾシカ肉の食べ方としては最も大衆的で最も人気の出そうな「エゾ風カツレツ」とカレーを組み合わせたメニューを開発した。
料理の定義は、1・名称は「なんぷエゾカツカレー」とする。2・南富フーズで処理したエゾシカのモモ肉を使ったカツカレーとする。3・エゾシカ肉は叩いて伸ばし、肉厚5ミリ程度とすることを厳守する。4・カレーの具材は南富良野産にこだわり、お米は道内産を使用する。5・南富良野産にんじんを使った漬け物(福神漬け、ピクルス、マリネなど)を添える。6・エゾシカの角で作った特製スプーン立てを使い、オリジナルのスプーンカバーをつける。7・南富良野町で製造している「くまささ茶」(缶
)にグラスを添えて提供する。8・価格は全店一律税込み950円とする。

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【いずみ親子ステーキごはん】
「いずみ親子ステーキごはん」は、出水市の新・ご当地グルメ。平成23年3月の九州新幹線全線開業に合わせ、新・ご当地グルメを開発し、交流人口の増加を図るために、官民一体となって、「出水の新めご当地グルメを創る会むを立ち上げた。
出水市は、鶏の農業産出額が全国三位で、また、鶏の専門農協も2つあることから、鶏肉と卵を使ったグルメ開発となった。
その結果、鶏肉は焼いて食べる、鶏卵は卵かけご飯で食べる。このシンプルな組み合わせに、鶏サラダと卵スープをつけた、これまでに無かった新しいメニューが誕生した。
定義は、1・出水産の特別飼育鶏「南国元気鶏」もしくは銘柄鶏「赤鶏さつま」を使用する。2・お客さんがミニ鉄板の上で鶏肉を焼くスタイルとする。3・鶏肉の味付けは、塩コショウと自家製タレとする。4・出水産の若鶏が産んだ鶏卵を1個つける。5・ご飯は鶏卵とオリジナル特製タレを混ぜて、卵かけご飯スタイルで食べてもらう。6・地場産の鶏肉と野菜を使ったチキンサラダと卵スープを添える。7・価格は税込み1200円以下とする。

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07/14 「魯肉飯」と「鶏肉飯」

2013年07月14日 | 食・レシピ

【魯肉飯】
「魯肉飯」は、台湾の煮込み豚肉かけ飯。バラ肉など脂身を多く含んだ豚肉を細切れにし、台湾醤油、米油、砂糖、油葱(揚げた赤葱)で作った甘辛い煮汁で煮込み、煮汁ごと白米の上にかけた丼物。器は丼より小振りな茶碗で供される。
日本の牛丼や親子丼のような単品で食べる丼物ではなく、他の料理と共に食べることが前提の料理だから小振りである。台湾では庶民から親しまれてほとんどの定食屋、食堂で見ることができる料理である。
レシピはさまざまで、一般的には醤油ベースで香辛料などを用いたタレに豚肉を漬け込み、よく煮込んでゼラチン質を出した豚の細切れを飯の上にかける。刻んだ高菜のよう野菜やシイタケ、八角、味付け玉子、肉味噌、モヤシ炒めなどをいっしょにかけることもある。
店や各家庭によっては「秘伝のタレ」などとも呼ばれるタレに漬け込み、長時間煮込むことで肉から溶け出たゼラチン(コラーゲン)が独特の風味を生み、この風味が特徴となっている。

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【鶏肉飯】
「鶏肉飯」は、台湾南部の嘉義地方で最もポピュラーな庶民のグルメ。白いご飯に上に、細く裂いた、またはスライスした鶏肉を載せ、鶏皮の油「鶏油」をかけた鶏肉飯は後を引く美味しさである。
鶏肉は細く裂いたものとスライスしたものの2種類あるが、裂いたものの方が一般的である。本場・嘉義の鶏肉飯は滑らかでジューシーな七面鳥ほ用いる。
適度に柔らかで滑らかなスライスまたは裂いた身を白いご飯の上に敷き詰め、鶏を蒸した時に出てくる鶏油をかければ、鶏肉の美味しそうな香りが漂い、絶妙な組み合わせの美味しさとなる。
「鶏肉飯」は、終戦前後に台湾で誕生した。当時はモノが不足し、人々の生活は貧しいものであった。ある飲食店がお客わ呼び込むために、「鶏肉が食べられる」という誇らしい気持ちを満たそうと、高級そうだけども高くない物を出すことに。心を込め作ったタレを使った一品で、瞬く間に人気となり、毎日千客万来となったため、他の飲食店も次々と取り入れ、嘉義市の至る所で「鶏肉飯」の看板が見られるようになった。

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