道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

08/31  「竹田の油揚げ」と「恵方巻」

2013年08月31日 | 食・レシピ

【竹田の油揚げ】
「竹田の油揚げ」は、福井県坂井市の谷口屋が製造販売しているもので、「秘密のケンミンシヨー」で紹介され全国的に認知された。
福井県は油揚げの消費量が全国一。というのも、福井県には、曹洞宗の大本山・永平寺があるので、永平寺の精進料理として使われる油揚げ料理が一般家庭に広まった。
谷口屋の油揚げは地元では「竹田の油揚げ」と呼ばれている。14センチ四方、厚さ4センチの大きさで、表面の皮はカリッと揚がって香ばしく、サクサク、カリカリである。

『谷口屋』
谷口屋は、大正14年創業の歴史を持つ福井県の高級豆腐の老舗である。恵まれた越前・竹田村で創業以来、当時から変わらない伝統の製法で一枚一枚、心を込めて手作業を守り続けている。

『水』
霊峰白山の伏流水からなる地下50メートルから汲み上げる白山禅定り清水を使用している。油揚げの出来は全て「水」で決まるほど、この水が無ければ谷口屋の油揚げは決して出来ない。

『豆』
全国各地の理想の大豆を探し求め、契約農家で特別栽培された国産高級大豆のみを使用している(福岡県・フクユタカ、福井県・エンレイ)。この厳選された大豆を使い、風味豊かな豆乳を自社で作り出している。

『にがり』
自然豊かな越前の海で夏場採取した「天然にがり」を貯蔵し、一冬越した「越冬にがり」のみを使用している。「にがり」は豆乳を凝固させるためには必要不可欠。そのため、「にがり」の成分にもトコトン拘っている。

『油』
揚げるのに必要な「油」を徹底的に追求した結果、カナダのオーガニックアイランドとも呼ばれる「プリンスエドワード島」で栽培された菜種油に行き着いた。また、通常の濃度よりさらに5倍の圧搾一番搾りのみを使用している。

『気』
特別な材料と優れた技があれば素晴らしい油揚げが必ず出来るというわけではない。製造に携わる全ての職人たちの「美味しいお揚げをお客様に届けたい」という「気」を常に注入しているからこそ、谷口屋の油揚げには感動の美味しさがある。

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【恵方巻】
「恵方巻」は、節分に食べると縁起が良いとされる「太巻き」や、その太巻きを食べる行為で大坂地方を中心として行われている習慣。
恵方巻の名称は1998年にセブン・イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによる。
大坂地方の地元における名称として、単に「巻き寿司」や「丸かぶり寿司」などがある。別称として「恵方寿司」「招福巻」「幸運巻」「開運巻き寿司」「太巻き丸かぶり」などと表現れることもある。
起源・発祥は複数の諸説が存在しており、信憑性についても定かではない。

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08/29 「チヂミ」と「パジョン」

2013年08月29日 | 食・レシピ

【チヂミ】
「チヂミ」は、韓国料理の一つである。チヂミの呼称は慶尚道で話される東南方言に由来するもので、韓国の標準語では「プッチムゲ」または「ション」とし、いずれも「平たく延ばして焼いたもの」という意味である。
特に朝鮮王朝の宮廷料理では「ジョンユファ、ジョンユオ」と呼んでいた。「韓国風お好み焼き」と呼ばれる場合もある。
地方によっては様々な「プッチムゲ」があるが、日本で一般的に知られる「チヂミ」は、薄く外側はパリッと、内側はモチッとした食感のものであり、タレに付けて食べる。
日本では大抵の韓国料理店で食べることができるほか、食品スーパー等て「チヂミの粉」が売られており、馴染みが深くなっている。
韓国では、雨の日になると「チヂミ」を食べるというのがあるが、それは、「チヂミ」を焼く音と雨の音が似ているためである。

『チヂミの作り方』
小麦粉・米粉・水・卵にタマネギ・ニラ・ニンジン・ネギなどの具を混ぜ合わせ、タネを作る。これにキムチを加えると「キムチチヂミ」、イカやカキなどの海産物を入れると「海鮮チヂミ」になる。お好み焼きよりも水を多めに加え、やや緩めに作るのが薄く焼くコツである。
熱したフライパンに多めのサラダ油を引き、タネを流し入れ強火で揚げるように焼き、焦げ目が付いたら弱火で火を通す。仕上げにフライパンの肌にさらに胡麻油を垂らし、香りを付けるとなか香ばしくなる。
タレは醤油・酢・胡麻油・コチュジャン・胡麻・刻みネギなどを好みで合わせて作る。

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【パジョン】
日本ではよく、チヂミとパジョンが混同されることがあるが、パジョンとはフッチムゲの一種である「ジョン」のうち、ネギ(パ)を使用したものである。「ジョン」にはこのほか、キムチを使用した「キムチジョン」、ジャガイモを使用した「カムジャジョン」、海産物を使用した「ヘルムジョン」などがある。
パはネギ、ジョンは鉄板に油を敷き薄く切った具材に小麦粉を付けて焼いたものの総称を意味する。
ジョン料理の中では代表的な存在であり、日本で「チヂミ」と呼ばれているものは「パジョン」であることが多い。
細ネギを使用し、小麦粉や米粉などを水で溶いたものとともに焼いて作る。具材としては細ネギとともにアサリ、カキ、エビ、イカなどの魚介類、牛肉などが用いられる。焼き上がったら食べやすい大きさに切り、タレにつけて食べる。
主に家庭料理として食べられるほか、屋台、民俗酒場などで酒肴としてだされることも多く、食堂などでは副菜として出されることもある。
慶尚南道釜山の東萊が特に有名で、東萊パジョンの名は全国に広く知られている。

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08/28 「ちょぼ焼き」と「ラジオ焼き」

2013年08月28日 | 食・レシピ

【ちょぼ焼き】
「ちょぼ焼き」は、「ラジオ焼き」、「たこ焼き」の原型であり、地域によっては「一銭焼き」を一括りにした呼称として用いられている。そのルーツから、現在における「もんじゃ焼き」、「お好み焼き」、「たこ焼き」等と類似する。
水で溶いた小麦粉を半円に窪んだ物が並んだ金板に流し、そこにコンニャク、紅ショウガ、エンドウ豆、他に醤油を入れたネギや鰹節をまぶしたものを、上下2段になった箱形のカンテキ(七輪)で焼いたもの。
大正から昭和初期のおやつ的存在で、子供達が集まっては各家庭でつくっていた。
形の窪んだ所だけでなく、一面(べた)に小麦粉をひいて作ったのを「べた焼き」という言い方もある。
ちょぼとは、サイコロの目に似ているなどの印や、点などの小さな丸いものをちょぼやぽちと言う事からきたとされる。
熊本の「福田流ちょぼ焼き」は中身が焼きそばを使用するお好み焼きに似ており、この「ちょぼ焼き」とは異なる点が多い。

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【ラジオ焼き】
「ラジオ焼き」は、たこ焼きの元祖であり、スジ肉を具材として丸く焼いた粉物料理である。球状に窪んだ鉄板を使用して、小麦粉を主体とする生地と他の具材を入れて丸く焼き上げる。ちょぼ焼き板を使用してカンテキで焼く「ちょぼ焼き器」という調理器具も使用されていた。
子供のおやつの屋台を中心に、明治~大正で流行した。また、昭和8年頃、ちょぼ焼きにおでん種として用いられる醤油味の牛スジ肉を入れて売っていたともされ、当時まだ高価でハイカラの象徴だったラジオにあやかって「ラジオ焼き」と呼ばれるようになった。
後に明石焼きの具を真似てタコを入れたものが「たこ焼き」となり、これれが大坂で人気となったため、現在においてはたこ焼きの方がポピュラーとなっているが、たこ焼きの具が違うだけてで元祖料理であることから、ラジオ焼きは関西圏のたこ焼き屋のサブメニューとして供されていることが多い。

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08/27 「たこ焼き」と「明石焼き」

2013年08月27日 | 食・レシピ

【たこ焼き
「たこ焼き」は、日本生まれの粉物料理の一種。 小麦粉の生地にタコを入れて直径3~5ミリほどの球形に焼き上げた、大坂発祥とされる料理である。

『概要』
「明石焼き」・「ちょぼ焼き」・「ラジオ焼き」をルーツとしており、おやつ・間食として食べられるが、ご飯のおかずとして食する地域もある。

『歴史』
たこ焼きの創始者は、大坂西成区「会津屋」の初代・遠藤留吉とされている。1993年、遠藤はラジオ焼きを改良し、従来のコンニャクの代わりに醤油味の牛肉を入れて「肉焼き」として販売。1938年、タコと鶏卵を入れる明石焼きに影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるうになり、「たこ焼き」と名付けた。
会津屋のたこ焼きは、生地に味がついているため何もつけずに食べるが、戦前は会津屋以外のたこ焼き屋でもダシや醤油味で何もつけずに食べるたこ焼きが大半だった。
1948年にトンカツソースが発明されたことにより、これがお好み焼きやたこ焼きにも用いられるようになったが、ダシや醤油味のソースをかけないたこ焼きも売られている。
第二次世界大戦前の大坂では、2個で1銭程度の価格で売られていた。戦後、たこ焼きを販売する者か増え、また週刊誌が大坂らしいものとして紹介したことで普及が加速し、1955年には大坂市内でたこ焼き屋が5000軒はあるという説が出るほど一般化した。その頃は10円で4個から6個という価格であった。
1960年中頃には、関東地方でも屋台での販売が見られるようになる。東京・銀座では生地にエビのすり身を入れたたこ焼きの屋台が、独特の風味で人気を博した。

『作り方』
水またはダシ汁で溶いた小麦粉を、多数の半球系の窪みのある鉄板に流し込み、タコなどの具材を窪みにひとつひとつ入れて加熱していき、生地を窪みの中でひとつひとつ裏返して球形に焼き上げる。
鉄板には、自動型や半自動型があり、素人でも焼き上げる事が出来るようになっている。

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【明石焼き】
「明石焼き」は、鶏卵・出汁・浮粉または沈粉と呼ばれる粉と小麦粉・タコを材料に調理される軽食で、兵庫県明石市の郷土料理である。

『概要』
柔らかく、直径5センチ程度の球形が自重で押し潰れたような形をしており、見た目はたこ焼きに似ている。江戸時代の末期頃から食べられていて、たこ焼きの元になった食べ物と云われている。
材料に鶏卵を使う点、生地が非常に柔らかい点、小麦粉以外に沈粉と呼ばれる小麦澱粉を使う点、焼き板が熱伝導が良い銅製である点、明石焼きを裏返す時に、銅製の焼き板を傷つけないよう、金属製の道具を用いず菜箸を使う点、具が基本的にタコのみである点などが、大坂の他たこ焼きと異なる点である。
焼く際に焼き板に胡麻油を曳く店舗もある。店によっては、タコ以外にこれも明石名産の穴子を具として入れているところもある。
小さなまな板状の木製の皿に盛り付けられ、添えて出される出汁に浸けて食べる。この出汁に浸して食べるスタイルこそが、明石焼きの最大の特徴である。
元々は熱い明石焼きを冷まして食べるために存在していた物であり、温度は常温であったが、現在は温めた出汁や常温の出汁を提供する店なとど様々である。出汁に薬味として三つ葉を浮かべて出す店舗も見られる。
まな板状の木皿は手前が低く奥が高くなっている。これは、皿の洗浄の際に同じ方向に重ねると水切りが良いためや、奥の柔らかい明石焼きを取りやすい為等諸説があり、また明石焼きが柔らかくまた崩れやすく、焼き板から木皿に取り出し難いため、焼き板の上に木皿をかぶせ焼き板ごと裏返しして板状の木皿に載せる。また、この焼き板を裏返して木皿の上に明石焼きを載せる動作も、明石焼きを焼く上でのひとつの見せ場になっている。

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08/26  「お好み焼き」と「もんじゃ焼き」

2013年08月26日 | 食・レシピ

【お好み焼き】
「お好み焼き」は、鉄板焼き料理のひとつ。水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類などを具材とし、鉄板の上で焼き上げ、調味料をつけて食するものであるが、焼き方や具材は地域によって差が見られる。「関西風お好み焼き」と「広島風お好み焼き」の2種類の調理法が特に代表的であるが、その他の地域にも同じような料理は多数存在する。

『歴史』
お好み焼きの歴史は、安土桃山時代の千利休が作らせた「麩の焼き」であると言われている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼き」が生まれる。
この食べ物は東京の麹町で生まれ、明治時代には「もんじゃ焼き」、「どんどん焼き」が生まれた。
1923年の関東大震災の際には主食的位置を占め、昭和になると東京ではウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」が食料不足を補う方法としてもてはやされるようになる。
それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具を入れた醤油味で食べる「ベタ焼き」、「チョボ焼き」が誕生し、それらが各種鉄板焼きへと派生、関西地方や広島県において現在「お好み焼き」と呼ばれるスタイルに発展したと言われる。

『関西風お好み焼き』
大阪を中心とするお好み焼きには様々な調理法があるが、最もポピュラーな形としては、小麦粉の生地に刻んだキャベツや魚介類などの具材を混ぜ合わせて、鉄板の上で焼く調理法をとる。
全国においてはこのスタイルのお好み焼きを、一般に「お好み焼き」と呼んでいる。なお、生地の中にナガイモを混ぜ込み食感を軽くする工夫が行われることも多い。因みに地元の関西では「お好み」と略して呼ばれる事もある。
それ以外の調理法としては、鉄板に生地を薄く敷き詰めその上に具材や多量のネギを載せて焼く「一銭洋食」のスタイルや、同様に鉄板に薄く延ばした生地に多量のキャベツと具材を載せてさらに上から生地を少量かけながら焼く広島風スタイルもある。

『広島風お好み焼き』
戦争で小麦粉が不足した戦後に作られた野菜を多く使用したお好み焼きが始まりであるが、戦前に子供のおやつだった「一銭洋食」を元にしている。近年では「ご当地グルメの代表格」ともいわれ、2006年現在、広島市だけで800軒以上、広島県内には2000軒あるといわれる。
1950年頃に発生した屋台街で開業した「みっちゃん」の井?井三男と「善さん」の中村善二郎が広島風お好み焼きの元祖といわれる。その他、初期のお好み焼きの屋台の流れをくむ店は「蘭ちゃん」「へんくつや」などがある。1950年当時のお好み焼きは「ネギ焼き」に近い物であった。
戦争や原爆で夫を亡くし、自宅の土間を改造して店を始めた女性も多く「◯◯ちゃん」という屋号が多いのはその名残りである。また、1963年に中国地方を襲った昭和38年1月豪雪で、中国山地の農村から一家で離村し、高度経済成長期の広島市に移住した農家の主婦が住宅地に開業した例も多い。
昭和40年頃までは、家から卵や肉を店に持っていって入れてもらう事も出来た。現在は肉や卵は当たり前に入っている事が多いが、昔は野菜とそばだけ、或いは野菜だけのお好み焼きも珍しくない。
広島風お好み焼きの焼き方は、昔から今まで一貫して重ね焼きである。当初は肉の入っていない野菜の重ね焼きで、二つ折りにして新聞紙に包み提供されていた。キャベツや揚げ玉などは入れられていたが、この頃はまだ、蕎麦等は入れられていなかった。このクレープのような生地に二つ折りにして挟むというスタイルは現在でも残っており、円盤状のものに比べて場所をとらず、またやり方によっては、片手で食べることも可能になるので、焼き蕎麦と玉子焼きを挟んだものが広島県内のスーパーマーケットでよく売られている。
戦後の食糧事情により、季節により供給量が左右されるネギを、単価が安く年間通して手に入りやすいキャベツに変えた。昭和30年代になると、中華麺やうどんを入れるようになる。これはその頃発売されたインスタントラーメンの影響とも言われている。
広島風お好み焼きも、最初の頃はウスターソースを使っていた。多くなった具に対応するために蕎麦を焼き蕎麦のようにソースで味付け、さらに表面にも塗っていた時期があった。地区によっては、ソースはお好み焼きソースに変わったが、、作り方自体は今に残っている所もある。
具材が増えたことでソースの味を濃くする必要があったためにソース会社に意見を出し、ソースを作る際に出る沈殿液を使うようになり、さらに甘く味付けしたり、とろみを付けたりしたことで、現在のお好み焼きソースに発展した。
見栄を良くするために二つ折りを円盤状にした。当初おやつ程度だったのが、主食に変化して行った。そうして、1955年頃に現在の広島風お好み焼きになった。
お好み焼き突然完成形が出来たわけではなく、当時は屋台営業の為に他店の手の内が分かりやすく、互いに影響を与えながら現在の形に進化していった。
名前についても、当初は決められた名前は無かった。好きな具材を入れて焼くことで「好み焼き」、しかし、この名前では良くないのではとなり、頭に「お」を付けてお好み焼きになったらしい。今となっては何が嘱矢であるか正確には分からないが、自然発生的に「お好み焼き」という名前が現れ、それが一般に定着し今に至っている。

大坂風お好み焼き

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神戸モダン焼き

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広島風お好み焼き

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【もんじゃ焼き】
「もんじゃ焼き」は、小麦粉を主体とした、いわゆる「粉もの」料理の一つで、材料を鉄板で調理して食べる。「もんじゃ」と呼ばれる事も多く、「もんじゃやき」「ぼったら」「おいの」と呼ぶ地域もある。もんじゃ焼きを食べる地域は日本各地にあり各地の特徴がある。

『概要』
もんじゃ焼きは、お好み焼きの原型となった料理で、駄菓子屋などで間食として食べられていた。
もんじゃ焼きの原型は、安土桃山時代に千利休が作らせた「麩の焼」てある。
「麩の焼」とは、巻いた形が巻物経典を彷彿させる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、「秋の麩」の和菓子であり、茶会の茶菓子として千利休が作らせていた。
その「麩の焼き」が江戸時代に伝わり、江戸時代末期に「麩の焼き」に使われていた味噌に替えて餡を巻く「助惣焼」が出来た。この「助惣焼」は東京の麹町で生まれ、明治時代には「助惣焼」を原型に「もんじゃ焼き」が生まれた。
その後、「もんじゃ焼き」が大阪、広島など各地に伝わり、現在の「お好み焼き」に枝分かれ発展したと伝えられている。
「もんじゃ焼き」は、小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴である。鉄板にコテで押さえつて焼ながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけか足りない部分どはトロッとしている。
現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。

『駄菓子屋ともんじゃ焼き』
東京・田町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代頃までは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏ていたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代中頃を過ぎると、キャベツはもちろん、切りイカなどの具の種類も増えていった。
もんじゃ焼きはかって、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしままった。
近年、もんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。

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08/22 カレー⑩(完)

2013年08月22日 | 食・レシピ

【チキン南蛮カレー】
2011年、口蹄疫の被害が冷めやらぬ宮崎に新たな試練が襲い掛かかった。
相次ぐ鳥インフルエンザの発生。そして新焼岳の噴火。
甚大な農業被害だけでなく、あらゆる分野の産業に影響し、地元経済は急速に疲弊して行った。
ウイルス拡大防止のための外出や集会の自粛、降灰、風評被害による観光客の激減は飲食店にも大きな影響を与えた。そんな中、自分達にできる事で何か地元を盛り上げたい飲食に関わる有志が集まり知恵をしぼり、喧々鍔鍔の協議が始まった。
ある時、宮崎の複数のカレー専門店で同じメニューを提供している事に気付いた。
それは「「チキン南蛮カレー」。宮崎のカレー店の間で徐々に人気の出て来たカレーである。
カレーとチキン南蛮の融合は単なる複合メニューでなく、刺激的なルーにチキン南蛮の甘酢、タルタルが合わさったとき、味の化学反応が起こり、独特の旨味が誕生する。この「チキン南蛮カレー」で地域おこしを決定する。
既存のカレー屋に加え、新たに「チキン南蛮カレー」に挑む飲食店はいつしか10店舗を超えた。それぞれの店舗をつなぐルートを「チキン南蛮カレー街道」とし、各店舗で趣向を凝らしたチキン南蛮カレーをメニュー化した。

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【もつカレー】
「もつカレー」は、静岡県静岡市清水区を中心に食されてるご当地グルメ。

『概要』
元々は、カレー味の「もつ土手煮」であったが、原罪ではもつを具材としたカレーと考えられている。

『沿改』
1950年、静岡市清水区にある「金の字」本店にて、もつにカレー味を付けたのが始まりと言われている。
初代店主は満州国にてカレーの技法を習得しており、愛知県名古屋市の土手煮を参考にしつ考案したオリジナルメニューである。
現在では、東海旅客鉄道清水駅周辺の居酒屋にて、定番メニューになっいる。また、静岡市に本社を置く「はごろもフーズ(株)」では、もつカレーを缶詰化した「清水もつカレー」缶を販売しており、家庭でも手軽に食する事が出来るようになった。

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08/21 カレー⑨

2013年08月21日 | 食・レシピ

【苫小牧ホッキカレー】
「苫小牧ホッキカレー」は、北海道苫小牧市で販売されているご当地グルメのカレー料理である。


『概要』
苫小牧市はホッキ(ウバガイ)の水揚げ量日本一で、昔から一般家庭では肉り代わりにホッキをカレーに入れていた。その昔は肉よりもホッキの方が安かったため。
このホッキ入りのカレーをご当地グルメとしてアピールして売り出すことになり、市内の飲食店でメニュー化されたり、各店舗にて販売されるようになった。
水揚げ量の多い東北地方でもホッキを使ったホッキカレーやほっき飯は一般的である。福島県浜通地方では同じように名物になっている。

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【トドカレー】
「トドカレー」とは、北海道で土産などとして売られている、トドの肉を使用したカレーである。多くは缶詰として販売されている。辛さはやや強めである。販売が好調なため缶詰だけではなく、レトルトパックの商品も登場している。知名度が上がるにつれ北海道以外でも入手可能となっている。

『姉妹品』
■ヒグマの肉を使用した「熊カレー」
■アザラシの肉を使用した「アザラシカレー」
■エゾシカの肉を使用した「エゾ鹿カレー」
■ミンククジラの肉を使用した「ミンククジラカレー」

『共通点』
トドカレーにはトド肉、熊カレーには絶滅のえそれのある地域固体群でもあるヒグマの肉を使用し、他の製品もほとんど食卓に上がらないような動物の肉が使用されている。トド、ヒグマ、エゾシカなどは鳥獣保護法により無制限の狩猟は禁止されているが、トドは年間10億円、エゾシカは年間30億円とも言われるの農業・漁業被害をもたらすと言われ、ままた、ヒグマのように、その存在そのものにより住民の安全が脅かされることも少なくない。
こうした場合には、有害獣として一定数の駆除が認められている。例えば、トドは北海道では年間116頭までの駆除が認められ、エゾシカも年間に約3万頭が駆除されている。こうした駆除獣は放置されるわけではなく、専門の業者・機関に販売・譲渡され、加工材料や研究素材となるのである。

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08/20 カレー⑧

2013年08月20日 | 食・レシピ

【甲子園カレー】
甲子園球場のカレーは大正13年の甲子園完成当時からあった。
元々、戦前・戦後はハイカラな食べ物で人気があったが、本当の意味で名物になったのは1980年だ。
ホテル阪神などでコック歴20年の遠部勝さんは、その腕を見込まれて阪神喫茶営業係長に抜擢された。遠部は万人受けするカレーの開発に努めた。甲子園カレーのレシピは遠部が開発したものである。
彼は製造を委託する業者に、大阪市城東区のベル食品工業を選んだ。ベル食品工業は1952年創業で固形ルーを最初に開発したカレーの老舗で、知られるだけでも、甲子園ホテル、三田家などのレストランのカレーを作っている。
ベル食品工業では、牛肉やタマネギなどの素材を混ぜ合わせて85度で加熱、その後15日間熟成させる。以前は、50人分を9キロの缶詰に入れて甲子園に出荷していたが、現在は10人前を2キロのレトルトパックに入れて出荷している。
外野スタンドなどの厨房が無い場所で販売するものはレトルトパックで一人分に分割して出荷される。そして甲子園球場の1階内野下の厨房に納入される。
甲子園カレーの売上は、団体で弁当を購入している高校野球大会よりも、ナイターのプロ野球の方が圧倒的に多く、1日最低4000皿を売り上げる。
普段売っているのは、リンゴエキスの入ったさっぱりしたカレーだが、辛いバージョンもあるが、過去2度ほど、辛いカレーを売ったシーズンがあり、味は良かったが、子供が食べられないので不人気だった。最近でもオープ戦限定などで、たまに幻の辛いカレーが出る時がある。
説明なくても分かるくらい有名な甲子園カレー。球場内で買うことの出来る食べ物としては、安い500円という料金でまぁまぁのボリュウムのカレーを食べることができる。
現在の味は、甘口・中辛口・辛口の3種類が販売されている。トッピング無しで食べるとボリューム的には少し頼りないと感じる人は、別売りのトッピングを添えれば十分になるくらいのボリュウムとなる。

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【黒部ダムカレー】
「黒部ダムカレー」は、長野県大町市内の約20店舗が提供している黒部ダムをモチーフとしたカレーライス。
立山黒部アルペンルートの長野県側の拠点である、関西電力トンネルトロリーバス扇沢駅にて昭和40年代より、「くろよん観光(株)」が運営する「レストラン扇沢」で、ご飯をアーチ型に模りダムの堰堤とし、ダム湖をカレールーで表した「アーチカレー」として販売していた。
2009年7月、大町市にある「くろよんロイヤルホテル」において、地元の食材を使った新しい「黒部ダムカレー」を販売開始。地元の飲食店約20店舗が参加している。

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08/19 カレー⑦

2013年08月19日 | 食・レシピ

【大沢食堂極辛カレー】
泣く子も気絶させると評判なのが、東京巣鴨にある大沢食堂。「世界一辛いカレーを食わせる」という噂が全国の激辛マニアたちの辛味欲をかき立て、寝しなに唐辛子を丸かじりするような猛者達が毎日ひっきりなしに現れては禁断の味覚兵器・極辛カレーに挑むが、その想像を超えた未知の辛さの前に次々と壮絶KOされ、滅多なことでは完食を許さないというのだから恐るべし。
気がつけばいつの間にか、激辛大魔境総本山・大沢食堂の真ん前に辿り着いていたのだ。
入店し席に着き、並辛・中辛・大辛・極辛とあるメニューの中から迷わず一番きつい「極辛」を注文。と、「止めてといた方がいいよ~」と不敵なニヤニヤ笑いを浮かべた大沢氏にあっさり制止されてしまった。極辛が殺人的に辛いため、一見の客はまず中辛カレーから食すことを勧められるのだ。中辛といってもあくまで大沢食堂独自の基準値に則った辛さの値なので、何が中辛なのかさっぱりわからないほどこちらも殺傷能力があるらしい。
無理に注文して出て来たカレーを見た途端、言葉を失った。パッと見は何の変哲もない町の食堂カレーの素朴な外見。だが、その色彩たるや地獄の血の池のような濃紅色をしており、更には煮詰められた過剰な唐辛子フレグランスが鼻腔にザクザク突き刺さる。
鬼気迫る極辛カレーの佇まいに飲まれそうになるも、気合いを入れ直して遂に一口目をパクリ。アレ?辛いというより旨いよ、これ!
気絶するほど辛いとか、辛さに関する情報ばかりに踊らされ肝心の味を伝々することを忘れていたが、カレーとして純粋に味が良く、ただの虚仮威しのビックリ料理ではないことを知る。
調子に乗ってガッ食いしたのだが、それも3分の1を食い切るところまでだった。頭上を通り過ぎた超音速旅客機の爆音が数秒遅れで届くように、突如として舌にラウドな激痛が走る!。あまりに辛すぎて味蕾が瞬時に反応出来ない味のソニック・ブーム現象が起きていたのだ。
間違って塩酸飲んでもこれほどまでに口の中痛くねえよ、絶対に!
続いて涙・鼻水・リンパ液他、体中のありとあらゆる体液が沈没前の客船から逃げ出すネズミにように我先にと一斉に飛び出してくる!
あまりの辛さになんか耳も聞こえなくなり、頭の中で巨大なアブラゼミが鳴き出す始末。辛いという感覚が限界点を超えた時、胃腸が運動を停止するぐらいは想像出来たが、三半規管が狂い出すとは思いも寄らなかった。
だが、最後の一口を飲み込んだところで俺は意識を失い、極辛カレーとの壮絶な死闘は、ダブルKO劇で幕を閉じたのだった。

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【救急車カレー】
「救急車カレー」とは、2007年2月に、あのハバネロを抜いて世界一辛い唐辛子としてギネス世界記録に認定された「ブート・ジョロキア」入りの超極辛カレー。

『ブート・ジョロキア』
「ブート・ジョロキア」は、インド北東部アッサム地方原産の唐辛子品種で、現地の言葉で「幽霊のトウガラシ」という意味で、英語では「ゴースト・ペッパー」と呼ばれることがある。
唐辛子の辛さの度合いを示す「スコヴィル値」について言えば、タバスコの200倍、ハバネロの約2倍。この「ブート・ジョロキア」は他の唐辛子に比べて桁外れというか、ダントツの辛さを誇る。

『概要』
「カレーショップ・モア」では、他店の違いを出したくて、オリジナルなメニューを色々考えていた時、たまたまスタッフの一人が唐辛子のいっぱい入ったドライカレーを作った。それはめいっぱい辛かったのであるが美味しものであった。「そうだ!こういう辛いカレーを作ろう!しかももっと辛いものを」と思いついた。
それから唐辛子を沢山持っていると評判のうどん屋に行き、様々な唐辛子を分けてもらったところ、その中に例の「ブート・ジョロキアむがあったのである。それで、この世界一辛い唐辛子を使って世界一辛いカレーを作ろうという発想につながったのである。

『商品名と価格』
このカレーは、まともに食べると死ぬことはないかもしれないが、たぶん救急車を呼ばなければならない状況になるかもしれない・・・・・というこど「救急車カレー」と命名。
「救急車カレー」は辛いものに相当自信がある人でも、おそらく完食出来ないほどの辛さなので、料金も常識を越えた額に設定。救急車の119番にちなみ「11万9千円」に決めた。
うっかり食べて怪我?をしたり、折角つくった料理を無駄にしないために、まず、注文できない金額にしたのである。

『注文と食べ方』
特製の、オーガニック100%最高品質のブート・ジョロキアを使用した救急車カレーの調理シーンを、実際に厨房で見学する。その後、「免責同意書」に署名した後に、救急車カレーを用意されている大・中・小のスプーンを使い、注意書きを読んでから、どの程度の量を口に入れるかを考えながら食べる。

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08/18 カレー⑥

2013年08月18日 | 食・レシピ

【神代カレー】
「神代カレー」は、秋田県仙北市周辺で販売されている合い掛けのカレーライス。正式名称は「あいかけ神代カレー」。昔風のカレーと現代風のカレーをひと皿に盛り付け、ご飯を添えたものである。

『概要』
2005年12月に「農業を観光や商業と連携しながら、神代地域を元気にていこう」という目的で、秋田県仙北市の田沢湖近郊のの神代地区を中心とした地域の有志30名で発足し、2008年3月よりこの神代地区の町おこしの一環として正式に活動を展開している。

『カレーの発展』
1950年代後半以降、秋田などの東北地方の田舎にもカレー粉がようやく普及し、神代地区の家庭ではフライパンで少量のカレー粉をたくさんの小麦粉とそれぞれ練り合わせ、カレーのルーを作っていたと言われる。具材には野菜のほか、牛肉や豚肉などの畜肉が思うように入手出来なかった1950年代後半~1960年代前半、当時のこの地域においては畜肉の代わりに鯖や鮭などの魚肉の水煮の缶詰や、魚肉ソーセージが使用され、鰹節のほか煮干しや昆布などで摂った出汁を基本とした醤油味の和風ブイヨンで煮込み、手作りのルーを入れてカレーのソースを作っていた。2000年代現在のカレーと異なりカレーソースそのもののコクや香辛料の香りがかなり少なく、後からウースターソースをかけて食べるのが一般的であった。当時、子供が食べることが出来た香辛料の入った料理は唯一カレーライスしかなく、当時のこの地域の子供にとっては最も人気のあった家庭料理だった。
しかし、1960年代中盤以降に入ると「バーモントカレー」や「ゴールデンカレー」などに代表される板チョコーレート状の固形ルウの市販普及に伴い、かっての調理方法はほとんど行われなくなった。

『新旧の融合』
しかしながら、昔ながらのカレーは現在の一部の家庭においては「お婆ちゃんのカレー」もしくは「父ちゃんのカレー」として認識され今日に至っている。
神代カレーは、1950年代~1960年代当時の製法をほぼ再現し、具材には魚肉ソーセージとニンジン、ジャガイモ、タマネギのほか地元産のエリンギなどを用いた昔風パートの和風カレーとともに、もう一方はデミグラスソースを基本し、具材にはタマネギと豚肉などを用いた現代風パートの欧風カレーを作り、両者を合い掛けにしたものである。トッピングとして片面だけ焼いた目玉焼き、もしくは半熟卵が用いられ、薬味には福神漬けやラッキョウの代わりに「いぶりがっこ」(たくわんの燻製)を添えるのが神代カレーの大きな特徴である。

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【金沢カレー】
「金沢カレー」とは、主に金沢市を中心とする石川県のカレーライス店で供される独特の特徴を持ったカレーライスを言う。

『概要』
代表する店の多くは既に30年以上の歴史があるが、そのカレーに「金沢カレー」の名称が付されるようになったのは非常に新しい。各店とも地元での営業が中心で、金沢カレーのような名称は使われていなかったが、形としては地元では古くから定着している。
源流や元祖の店舗には以下諸説ある。定かではない。
■現在の代表店よりもさらに古くから営業し、黒いルーの味、ステンレス皿やキャベツを使う盛り付け、先割れスプーンまたはフォークを使う「インデアンカレー」

■北陸でのカツカレー提供という視点で「カレーのチャンピオン」の創業者が経営した「洋食屋タナカ」
■盛り付け方などから「キッチン・ユキ」

『特徴』
■ルーは濃厚でドロッとしている。
■付け合わせとしてキャベツの千切りが載っている。
■ステンレスの皿に盛られている。
■フォークまたは先割れスプーンで食べる。

■ルーの上にカツを載せ、その上にはソースがかかっている
■ルーを全体にかけて白いライスが見えないように盛り付ける。
なお、全ての店舗が上記の特徴を満たしているわけではない。

『その他』
2010年6月放送の「秘密のケンミンSHOW」において、「カレーのチャンピオン」が金沢カレーとして紹介され、ご飯を全て覆い隠す量の濃厚なルーと千切りキャベツにトンカツを載せ、スパイスの効いたカレーとキャベツを混ぜながらフォークで食べるスタイルが取り上げられた。しかし、地元石川県ではキャベツをカレーに混ぜて食べるという作法や習慣はなく、混ぜない人が圧倒的に多い。

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08/17 カレー⑤

2013年08月17日 | 食・レシピ

【奥美濃カレー】
「奥美濃カレー」は、岐阜県郡上市白鳥町を中心に販売されているカレー及びカレーライスである。
地域振興の一環で地域ご当地グルメとして展開しており、郡上市内32店舗で提供されている。カレーの味は東京のカレー店「パク森」の店主・森幸夫からアドバイスを受けた。

『定義』
「奥美濃カレープロジェクト」では、「郡上市で生産されている食材や天然水を使用し、隠し味として郡上市特産の郡上味噌を使用したカレー」と定義されている。
郡上味噌を使用する事以外は自由であるため、各店舗がそれぞれのカレーを製造販売しており、レトルトパック入りの商品も存在する。

『郡上味噌』
「郡上味噌」は、長良川流域の地、郡上地方の味噌。大坪醤油(株)の登録商標でもある。
麦こうじと大豆こうじを使用する独自の製法で、他に類を見ない種類の味噌である。

『食材』
奥美濃カレーで多く使用される、郡上市特産の代表的な食材は次の通りである。
■飛騨牛■奥美濃古地鶏■美濃ヘルシーポーク・けんとん■長良川のアユ・イワナ■ひるがの大根■いとしろスイートコーン■明宝トマト■イノシシ・シカ。

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【白老シーフードカレー】
「白老シーフードカレー」は、北海道白老町で販売されているご当地グルメのカレーである。地元で多量に採れ、特産品とも言える「サラ貝」を加えているのが特徴である。

『概要』
サラ貝は多量に捕れるものの知名度が低く、地元の人間以外にはあまり食べられていなかったが、町おこしと、サラ貝の利用普及のためにご当地メニューとして供することになった。2008年7月頃から販売するようになった。
しかし、現在はご当地グルメで、地産地消を進めている程度であり、外部に対して有名とは言い難く、北海道のご当地カレーのマイナーな一つ程度である。

『定義』
提供店舗には次のルールを義務付けている。
■白老の食材を用いたカレーとする。定番は「サラ貝」とし、旬な魚介類も取り入れて通年で展開する。
■カレーに用いる食材は白老産、または北海道産としする。
■販売店には統一のマーク・愛称を用いる。

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08/16 カレー④

2013年08月16日 | 食・レシピ

【五島軒カレー】
(株)五島軒は函館市に本社を置く、洋食店の経営・菓子・カレー製品の製造・販売をする企業。

『概要』
明治12年4月、初代社長・若山惣太郎が西洋洋食店「レストラン五島軒」を創業。屋号は、初代料理長・五島英吉に由来する。
現在のカレーの味は、初代料理長が函館ハリストス正教会でロシア料理を習得したものが始まりで、大正時代に二代目料理長・若山徳治郎が帝国ホテルで修行で会得したものを地元の食材を活かしてアレンジしたものである。

『メニュー』
「本店」
三代目若山徳治郎リッチ鴨カレー(甘口)2310、

海の幸カレー(中辛)1680、イギリス風ビーフカレー(中辛)、フランス風ビーフカレー(甘口)、インド風チキンカレー各1260
五稜郭タワー店にも同じメニューがあるが価格は別立てである。

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【ホワイトカレー】
「ホワイトカレー」は、北海道を発祥とする、白っぽい色をしたカレーである。

『概要』
クリームソースをベースにして作られており、一般的なカレー特有の黄色い色の元であるターメリックや、その他色のついたスパイスを極力減らしているため白っぽい色をしており、クリームシチューに似た外見である。スパイスの風味は一般に普及しているカレーと大きく変わらないが、クリームソースベースのためまろやかな風味である。
具材はクリームシチュー同様に鶏肉や魚介類などが使われる場合が多い。ソースの白さを引き立たせるために黄色いサフランライスと供に供されることが多い。

『普及』
2006年頃から各種メディアに取り上げられ、同じく北海道発祥のスープカレーについで注目を集めるようになる。同年3月には「白星」につながるとする縁起担ぎとして、北海道日本ハムファイターズの本拠地である札幌ドーム内の売店で販売が始まり、1日100食を超える売上があるという。

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08/15 カレー③

2013年08月15日 | 食・レシピ

【スープカレー】
「スープカレー」は、とろみの少ないサラサラしたスープ状のカレー。商品名として初めて使用たのは、1993年、札幌市の飲食店「マジックスパイス」とされる。そのルーツとしては、漢方の薬膳スープ、スリランカやインドネシアのカレー、タイのレッドカレー、南インド料理のラッサムやサンバールなどがある。

『札幌スープカレー』
1971年に札幌市の喫茶店「アジャンタ」が発売した薬膳カリィがオリジナルとされる。1993年に「マジックスパイス」がそれにソトヤアムというインドネシア料理のエッセンスを加えて「スープカレー」と名付けて売り出したところ、行列が出来るほどの人気店となり、注目された。2002年には札幌市にスープカレー店に乱立し、スープカレーブームというべき状況になった。
2003年、神奈川県の「横濱カレーミュージアム」にマジックスパイスが出店したことにより、スープカレーが全国的に知られるようになった。
東京・大阪・名古屋などにも札幌由来のスープカレー店が開店しており、CoCo壱番屋のようなカレーチェーン店も冬季限定商品として全国的に発売している。

『特徴』
札幌スープカレーに共通する特徴を挙げると次のようになる。
■具の肉や野菜が大ぶりである。
■動物や野菜から摂った出汁にスパイスペーストを合わせスープを作る。「トマト系スープカレー」では、フォン・ド・ボーを使ったり、炒めたバジルとその香味オイルを浮かべることが多い。イタリアンやフレンチを学んだシェフにより取り入れられた。
■具はスープと別に調理する。メインの具はチキンレッグ、豚角煮、ラムチップで、これに素揚げしたジャガイモ、ニンジン、ピーマン、オクラ、カボチャなどの野菜が添えられる。

『食べ方』
スープカレーの食べ方に一定の決まりはない。客はそれぞれ好きな方法で食べている。
1.スプーンにライスを載せ、スープに浸しながら食べる。
2.スープとライスを交互に食べる。
3.スープをライスにかけながら食べる。
4.ライスをスープに投入して食べる。
5.具をライスの上に取り出し、切り分けて食べる。

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【スペアリブカレー】
「スペアリブカレー」は、札幌のスープカレー店「カリー・ディ・サボイ」の看板商品。このスープカレーにはどでかい道産豚のスペアリブ2本がド~ンと載っている。その他、大きなカボチャ、ジャガイモ2個、ゴロリとしたニンジン、パプリカ、オクラと盛り沢山の具が入っている。
スペアリブはトロトロになるまで柔らかく煮込まれて、口の中でホロホロとほぐれる。
他のスープカレー店同様、こちらも自分の好みに合わせて辛さをオーダー出来る。1~5は無料、以降は料金が必要だが、5番でも十分の辛さである。
肝心のスープの味は、きわめてサラサラの、あっさり系スープである。スパイス使いが実に奥深く、いくらでも飽きずに飲めてしまう、とても魅力的なスープである。

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08/14 カレー②

2013年08月14日 | 食・レシピ

【海軍カレー】
「海軍カレー」は、大日本帝国海軍に由来を持つカレー及びカレーライスのことである。
特徴はカレーに小麦粉を炒めて作ったルーを使うことであり、一般的には日本風カレーと言う場合にはこの海軍カレーに類するものを指す場合が多い。その流れを汲む海上自衛隊のカレーライスは副食として、サラダ、牛乳、ゆで卵等が付けられ、艦内での乗組員の栄養に配慮している。

『歴史』
江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本に入ると、カレーが紹介された。この頃イギリスはインドを植民地として支配しており、イギリス海軍は、シチューに使う牛乳が日持ちしなてため、牛乳の代わりに日持ちのいインド起源の香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食としていた。当時、日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の白米中心で栄養バランスの偏った食事であること突き止めた海軍軍医の高木兼寛は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試みた。
しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけてカレーライスが誕生した。
よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のネットリしたルーに多数の具を加味し、とろみによって船が揺れても食器からルーがこぼれる心配もなく日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫それている。
カレーライスの材料は、そのまま調味料を醤油と砂糖に代えると、そっくり「肉じゃが」になる。そのため補給の面でも具合がよく、それも軍隊食として普及した理由である。肉はまだ牛肉で、第二次世界大戦時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。

『現在の海軍カレー』
海上自衛隊で食されているものは「海上自衛隊カレー」と纏めて呼ばれる。現在は、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なり、単一の味・レシピは存在しない。2008年1月より、海上自衛隊のHP「海上自衛隊レシピページ」上において、カレーライスなど海上自衛隊の自慢料理のレシピの公開が始まっている。
カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらに蛋白質補充に卵、ビタミン補強に果物、を加えるなど栄養学的に献立に工夫を加えることが海上自衛隊で通例で、潜水艦のカレーライスにはさらに多くの副食が付く。

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【焼きカレー】
「焼きカレー」とは、米飯の上にカレーソースとチーズなどを載せ、オーブンで焼いたカレーライスの一種である。

『歴史』
「焼きカレー」の始まりは昭和30年代の福岡県北九州市門司港の栄町銀天街にあった喫茶店といわれている。当時、余ったカレーをグラタン・ドリア風にオープンで焼いたところ、実に香ばしく、美味しく仕上がったので、後に店のメニューとして出し、好評であったという逸話が残っている。
門司港は、九州の最北端に位置し、明治から戦前にかけて国際貿易港として繁栄した港町。洋食文化がいち早く発達したことから、「焼きカレー」といったハイカラメニューが誕生し、手軽に作ることが出来たため家庭料理として広まっていったようである。現在でも30店舗以上の店で焼きカレーが提供され、門司港の名物料理として親しまれ「焼きカレーMAP」が作成されるほどご当地グルメとして定着している。

『特徴』
門司港で提供されている「焼きカレー」について、特に決められた定義は無いが、オーソドックスな形状は「ご飯の上にカレーをかけ、チーズと玉子を載せてオーブンで焼く」というものである。しかし、店舗によっては玉子が載っていないものもあるため、少なくとも「カレーとチーズがかかっていること。焼いていいること」の2条件が揃っていれば「焼きカレー」と呼んでいるようである。
店舗によって提供される焼きカレーは形状・味・見た目とも全く異なり、実にバライティ豊か。ご飯一つをとっても、白ご飯、バターライス、ドライカレーなどに分かれている。さらにルーはビーフ系かシーフード系か、濃さや辛さなど異なり、玉子の有無、かかっているチーズの量や種類なども様々。トッピングに関門海峡の味覚「ふぐ」や「たこ」が載っている店もあるなど、各店趣向を凝らした「焼きカレー」が提供されている。

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08/13 カレー①

2013年08月13日 | 食・レシピ

【インデアン(帯広)】
帯広でカレーの味と言えば「インデアンカレー」である。経営母体は、帯広駅前の「ふじもり」。社長がカレー好きで、全国のカレーショップを食べ歩き、味の追求をした上で開店した店で、帯広市民の舌に「カレーはインデアン」とインプットしている。
「シーフード・カツ」。このカレーが当店で一番高く「シーフード703円+カツ250円」である。
この店には、ルーをインデアンルー・ベーシックルー・野菜ルーの3種類からチョイス出来、辛さも普通→中辛→辛口→大辛→激辛と選別可能で、それでも物足りない人はテーブル上の「ホットオイル」で、辛さを加えられる。
常連客は「ルー・辛さ・オイル」で自分の好みのカレーを注文できるのである。
まず、カツである。注文を受けると目の前のフライアーでカツを揚げる。肉はもちろん十勝産豚肉で、適度に脂身があり、さすが畜産王国十勝のカツである。揚げ終わったカツを客の前でサクサクと12分割にする。それも研究し尽くされた大きさで、口に入れるのにベストサイズなのである。
そのカツをスチール製の皿に盛られたご飯の上に載せ、指定されたルーをかける。
ルーも、基本ルーを寸胴鍋で作り、それにシーフード等の具材を客の前で加え、ご飯にかける。
そのルーには、エビ、アサリ、ホタテ、イカとシーフードのオンパレードである。
魚介の旨味がタップリ吸い込んでネットリ加減を増したルーが硬めのご飯に絡みつき、カツの豚肉の上品な脂と淡泊さが合わさって、さらにコクを増している。間違いなく「絶品カレー」である。
なお、最近はカツを一番上に載せる「上載せ」タイプも客の要望で登場している。

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【インデアン(大坂)】

インデアンカレーが大坂に店を出したのは1947年。インドの先生を招いてカレー作りを教わるほど料理が好きだった店主の母が、戦後の不景気の中で活力ある美味しいものを出す店を創ろうと立ち上げたのがこの店である。
最初から個性的な辛さで提供していたので、客からは「辛い・辛い」と言われ続け、途中まで食べて「もうあかん」と帰った客が翌日、「なんや、不思議に食べたくなる」と再度来店することが度々。
徐々にファンが増え、現店主が引き継ぐ頃には行列が出来るようになったという。
インデアンの味は、創業者である母親が考案したものを守り続けている。時代が変わり、材料が良くなったことから、全体的な味の調整はしているが、辛さと甘さのベースは1947年の創業時からずっと変わっていない。
カレールーは沢山のスパイスに野菜、フルーツ、選び抜かれた肉を使って調理している。
そして、特徴として、キャベツのピクルスが自由に添えられることである。
各店舗の社員は長い修行を経てからでないと店頭での盛り付けが出来ないシステムになっている。

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【大坂と帯広】
1.巷間では、大阪の表示が「インディアン」だとする説があるが、店頭ディスプレイでは「インデアンカレー」となっている。
2.大阪→INDIAN、帯広→indian
3.ロゴマークのインデアン、大阪の酋長には髪飾りの羽根がないが、帯広の酋長には髪飾りが付いている。
4.大阪は丸い西洋皿、帯広はステンレスの楕円形