【由来と内容】
御節料理、または正月料理とは、節日(節句)に作られる料理。特に、正月に備えて年明けまでに用意されるお祝いの利用李(献立)を指す。単に「おせち」ともいう。
お節の語源としては中国から伝わった五節供の行事が奈良時代の朝廷内で節会として行われ、そこで供される節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであった。五節句の行事は江戸時代には庶民にも広まったが明治6年太政官布告によって朝廷の行事としては廃止された。また五節供のうちの人日は陰暦1月7日であったが新暦採用により約1ヶ月ほど早まることになった。
御節料理は基本は、お屠蘇、雑煮、祝い肴三種(三つ肴、口取り)、煮しめ、酢の物、焼き物である。地方により、三つ肴、雑煮、煮しめの内容は異なる。祝い肴の内容は関東では、黒豆、数の子、田作り(ごまめ)、関西では、たたきごぼう、数の子、田作りまたは黒豆となる。また関西ではにらみ鯛といって三が日の間は箸をつけずに睨むだけの尾頭付きの鯛の焼き、重箱に詰めて供される。
一般的には、御節料理とは、献立すべてを指すのではなく、重箱詰めされた料理こみを指す。重箱に詰めるのは、めでたさを「重ねる」という意味で縁起をかついだものである。同様の意味合いから、雑煮もおかわりをするのが良いとされている。
一つ一つの料理は、火を通したり干したり、あるいは酢に漬けたり味を濃くするなど、日持ちする物が多い。これは、火の神である荒神を怒らせないため、正月に台所で火を使うことを避けるという平安時代後期からの風習により、正月には台所仕事をしないからである。実際には、女性を正月位は休ませるためという意味合いもある。
【主な料理】
■紅白かまぼこ-祝儀用として目出度い彩りから。元は赤米、白米を模したもの
■伊達巻き-「伊達」の由来は華やかさや派手さを表す言葉で伊達政宗の派手好きに由来するとの他、諸説ある。見た目の豪華さで定番となる。巻物(書物)に似た形から、知識が増えることを願う縁起物。
■栗金団(くりきんとん)-「金団」とは黄金の団子という意味で、見た目の色合いが豪華で金塊のように見えるところから定番となる。
■昆布巻き-「よろこぶ」の語呂合わせから。■お多福豆-文字通り福が多からんことを祈願した。
■紅白なます-お祝いの水引をかたどったもの。
■ちょろぎ-植物の根をシソ酢で赤く染めたもの。
■酢蓮(すばす)-蓮根の酢の物
■数の子-数の子の粒の多さがむ子孫繁栄を連想されるから
★★焼き物
■鰤の焼き物-出世魚である事から出世を祈願したもの
■鯛の焼き物-元は神饌。「めでたい」の語呂合わせ。
■海老の焼き物-ひげが長く腰が曲がっている様子が老人を連想させることから長寿を祈願したもの。伊勢海老を使うことが多かったが、高価であるため、車海老などが使用されている。
■鰻の焼き物-鰻登りから出世を祈願。ごく最近の風潮
★★煮しめ
■くわい-大きな芽が出ることから「めでたい」、芽が出る=出世を祈願。また、古くは、平仮名の「か」を「くわ」と表したので、くわい=かい=快-から一年を快く過ごせるように。 ■蓮根-孔が空いているいることから遠くが見えるように先見性むのある一年を祈願
■牛蒡-牛蒡は地中深く根を張ることから。
■里芋-里芋は小芋が沢山つくことから、子宝を願って。
■八つ頭-同じく小芋が沢山つくことから、また八は末広がりの意味をかけて子宝、子孫繁栄を願う。
★★重詰め
江戸時代には御節料理とは別に、食積(くいつみ)という重箱に酒肴を盛り合わせる新年の装飾が行われてむおり、やがてこの重箱に本来、本膳料理だった煮染めを中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の合体化が進んだ。重箱に御節を詰める手法が確立した時期は、第二次世界大戦後であり、デパ-トなどが見栄のよい重箱料理を発売したこともとも言われている。 御節料理の重詰めには五段重を使うが、近年では省略され三段重が利用される場合が多い。重箱に詰める意味は、目出度さを「重ねる」という意味で縁起をかついだものである。重箱は上から順に一の重、二の重、三の重、与の重、五の重と数える。四段目が与の重と呼ばれるのは四(し)が市を連想させ縁起が悪いと考えられているためである。詰め方は地域や家風によっても異なるがおおむね以下のようになっている。なお、四段重ねが正式であるといわれる場合もあるが、これは控えの五の重を省略した形である。 重詰めの形式は、市松、段取り、博多、七宝などの形がある。江戸風のお重は隙間無く詰める習慣があり、関西で裏白や南天などを飾り付けながらふんわりと散らしながら詰める事がある。最近はその限りで無く、販売している関西風、京風お節も隙間無くキッチリと詰めて販売しているのがほとんどである。
★★お雑煮
■歴史・由来
雑煮の歴史・由来については諸説あり、定かではない。
■初出
室町時代に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「雑煮」という言葉が登場する。これ以前の名称ないし形態については諸説あり、うち一つの名前は、烹雑(ほうぞう)といわれる。
■武家社会における儀礼料理説
雑煮を元来は武家社会における料理であり、餅や野菜、乾燥食品などを一緒に煮込んだ野戦料理だったのではないかと考える説。この説によれば、正月に餅料理を食する習慣は古代より「歯固」の儀式と結びついた形で存在しており、それと関連して発生した。雑煮は元は烹雑と呼ばれており、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。本膳料理においては最初に雑煮が出され、武家社会における饗宴には欠かす事のできない料理であったと見られる。
江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜と呼ばれる小松菜の一種のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎだったという。なお、上記の習わしが武家社会一般の作法だったという説は、誤伝による俗説である。(この影響もあり、現在でも名古屋市周辺では餅と小松菜のみの雑煮が見られる)
■民俗学による説明
民俗学の観点からは、餅を主体とする雑煮は近世以降に全国的に普及したもので、それ以前においては民衆社会に根ざした正月用の儀礼料理であった。また、餅主体の雑煮は磯内周辺にしか存在しなかった。
古来においては一日は夕方から始まるとする慣習があり、元旦は大晦日の夕方から始まると考えられていた。大晦日の夕方に神仏に供えた餅や飯を日の出前に降ろして、具材を加えて煮た物が雑煮のルーッとされている。
■畑作農耕社会における雑煮
また近世以前においては、「餅なし正月」と呼ばれる、正月三箇日に餅を神仏に供えたり食することを禁忌とする習慣が、畑作地帯を中心として広く存在していた。畑作地帯とは、水田を作るには不適当であったため、米以外の作物で定畑や焼畑を行っていた地域がある。これらの地域では、米及びそれを原料とする餅は自己の土地から生み出されない外来の食物であり、神仏に土地の豊饒を願う儀式の場において、こうした外来の食物を用いることは禁忌であった。
畑作地帯では、蕎麦や里芋など自己の土地から産する作物を神仏に捧げ、またこうした食材を主体として雑煮を作っていた。今日でも「餅を使わない雑煮」を作る地域には、かってそうした餅食の禁忌があり、その痕跡ず在したものではないかと考えられる。
■代表的な具材
代表的な具材として、餅、豆腐類、いも類、鶏肉の切り身または肉団子にしたもの、青味(小松菜、ほうれん草)・彩りを添えるための色気(人参、蒲鉾、海老)・香り柚子・三つ葉などがあるが、地方による違いが大きい。
■地方による違い
角焼き餅を入れたすまし汁仕立てが一般的ではあるが、地方による違いがある。
◎海で捕れた魚やその加工品を入れるのは、岩手県、富山県など各地にある。
◎千葉県東北部では地元の濃い口醤油と海で捕れるハバノリをかける。
◎関東では削り節のダシで鶏肉を使用
◎新潟県新発田市周辺では、塩引き鮭・根菜類・鶏肉・蒲鉾など具が多い
◎島根や鳥取の一部では、小豆汁に餅を入れたものを雑煮と呼ぶ場合もある
◎長崎県島原市の貝雑煮のように、季節や風習にとらわれずに通年食べられる物もある。
◎沖縄県には現在も正月に雑煮や餅を食べる風習はなく、祝時の汁物としてはイナムドゥチや中身汁がポピュラ-である。しかし同じ琉球文化圏に属する鹿児島県奄美地方においては比較的普及している。
★★餅の種類
雑煮に入れる餅は地域ごとに差異があり、日本の地方による食習慣の違いを表す例としてよく持ち出される。雑煮に入れる餅は汁に入れる前に焼いて香ばしさを意図したものと、生のまま汁に入れて煮るもの、また四角い餅と丸い餅とに細分される。焼いた四角形の切り餅を使う人が一番多い。
餅を焼かない地域は、関西地方、広島を除く中国地方が多い。
角餅ではなく丸餅を使う地域は、糸魚川静岡構造線から西側(愛知・岐阜・三重・鹿児島は除く)である。
北海道・富山・石川・福井は混在している。北海道では丸餅と角餅が混在しているが、これは明治以降に移り住んだ人たちによって全国各地の雑煮が持ち込まれたためであり、現代の北海道では角餅・すまし仕立てに統一される傾向にあると言われる。また、丸餅を使っていた関西・中国・四国の地域でも角餅を使う地域が広がっている。
香川県や岡山県真鍋島では、白味噌仕立て雑煮に、小豆餡入り餅を使ったアンコ餅雑煮を正月に食する習慣がある。
一方、「餅を使わない雑煮」を作る地方も有り、里芋や豆腐やすいとんなどが餅の代替となる。こうした雑煮は稲作の盛んでない山間部や島嶼部に残っている。
★★屠蘇
屠蘇とは、一年間の邪気を払い長寿を願って呑む薬酒である。
「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠るという意味である。数種の薬草を組み合わせた屠蘇散を日本酒に味醂や砂糖を加えたものに浸して作り、小、中、大の三種の杯を用いて呑む。昔から、「一人これを呑めば一家病無く、一家これを呑めば一理病無し」と言われ、伝統的な正月の祝いの膳には欠かせないものとなっている。
呑む人の順には地域間の差があるが、年齢の若い者から順に呑むのが正式である。これは中国の習慣からきたもので、若い者が毒味をするという意味があった。しかし日本では、明治もしくわ昭和初期に花鳥から呑むことも行われるようになったようだ。
屠蘇は、通常、屠蘇器と呼ばれる酒器揃えによって供される。屠蘇器は、屠蘇散と日本酒・味醂を入れる銚子、屠蘇を注ぐ盃、重ねた盃を乗せる盃台、これらを載せる盆からなる。屠蘇器には、漆器製、陶磁器製、ガラス製など様々な種類がある。
■習慣
正月に屠蘇を呑む習慣は、中国では唐の時代に始まり、日本では平安時代からと言われている。宮中では、一献目に屠蘇、二献目に白散、三献目に度嶂散を一献ずつ呑むのが決まりであった。貴族は屠蘇か白散のいずれかを用いており、後の室町幕府は白散を、江戸幕府は屠蘇を用いていた。この儀礼はやがて庶民の間にも伝わるようになり、医者が薬代の返礼にと屠蘇散を配るようになった。現在でも、薬店が年末の景品に配る習慣として残っている。
基本的には関西以西の西日本に限られた習慣であり、他の地方では、単に正月に祝い酒として、屠蘇散が入っていないただの日本酒のことを「御屠蘇」と称している場合もかなり多い。関西では年末近くになると一部の薬局でティーバッグタイプの屠蘇散が近年は売られている。日本酒や味醂または両方を混ぜ合わせた液体をコップなどの容器に注ぎ、好みに合わせて糖分を加える。袋に入った屠蘇散を一晩程度浸けて出来上がりとなる。生薬が原料なので当然の如く独特の香りと味がする為、好みは人によって分かれる。 (完)