道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

06/30 朝鮮飴&キラキラ丼

2014年06月30日 | スイ-ツ・お菓子

【朝鮮飴】

「朝鮮飴」とは、熊本県の銘菓である。餅米と水飴と砂糖を独自の製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である。食感は餅に近い。

16世紀、園田屋の開祖・園田武衛門にって作られた。当初は「長生飴」と呼ばれていたが、文禄・けいちょう役での出兵の際、当時の城主・加藤清正の軍はこれを携行して籠城中の兵糧として役立てた為、これを「朝鮮飴」と呼ぶ様になった。

江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法は管理され市販されていなかった。
代々の肥後藩主がこれを江戸幕府、朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。

当初は黒砂糖と玄米を使用した淡褐色の「黒朝鮮飴」しか無かったが、現在は白砂糖と精白米を用いた「白朝鮮飴」が大半を占めている。1970年代後半には30軒以上手掛けて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少氏、業者も園田屋など数軒になっている。

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【キラキラ丼】

「キラキラ丼」とは、南三陸の有名な「キラキラ丼」のスイ-ツ版。
南三陸キラキラ丼は、「ウニ」や「イクラ」などをふんだんに使用し、震災前は1年間に45000食を売り上げたヒット商品。
そんな「キラキラ丼」シリ-ズに「オーイング菓子工房」が作ったお菓子が参上。
お菓子と分からない程まで海産物を忠実に再現氏、本格的な「丼」まで使用するなど、拘って拘り抜いた、工房の情熱が生み出した芸術品である。

「おかゆ」に低脂肪のフロマ-ジュブランを使ったチーズムースを使用。とってもヘルシーでありながら、真ん中の方には果物のムースを使用している。
ウニ・マグロ・サーモン・ワサビの材料は食べてからのお楽しみという。

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06/28 柿ッ子&つるし柿

2014年06月28日 | スイ-ツ・お菓子

【柿っ子】

「柿っ子」は、三重県伊勢市の「久住屋菓舗」が製造する和菓子。長野県産干し柿の中に求肥と白餡を詰めたものを、液状の羊羹と餅米を粉状にした「いらこ」でコーティングしたお菓子。

干し柿は長野県の提携農家から直接仕入れている。また、素材に羊羹を加えることで、色合いと風味の両方にアクセントをつけている。

干し柿は瞬間冷凍で保存したものを、作る時に解凍して使っている。工程としては、まず種だけを取り、次に餡を詰めていったん冷凍する。
その後、ぐつぐつ煮立てた液状の羊羹を干し柿にからめて作るのであるが、冷凍したものを中に入れることから羊羹がすぐに固くなってしまうので、その都度暖め直して作業を続ける。
全て手作業であるので、製造する際は、何人かのスタッフが一斉に作業をする。

干し柿の仕入先については、色々と探していたところ、同業の仲間の知り合いが長野県で干し柿づくりをしていると紹介され、直接交渉して提携を結んだ。

40年位前に東京のデパートで干し柿を使ったお菓子を見て、自分でも何か作れないだろうかと思ったのがきっかけで、「柿っ子」か゛誕生した。

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【つるし柿】

「つるし柿」は、埼玉県秩父市の「つるし柿本舗 愼榮」が地元の干し柿を利用して製造する和菓子。
干しを楽しんで柿の中に餡を入れた和菓子であるが、干し柿は主に地元の提携農家が作ったものを使用している。元々干し柿はこの地域の名産品であったが、近年では作られる農家が減小していることから、纏まった数を確保するために、農家と提携とている。

とにかく干し柿本来の味を楽しんで貰う菓子ということで、北海道産の小豆で作った自家製餡の中にも柿ペーストを入れるなど、徹底して干し柿の味を追求したお菓子となっている。
さらに、見た目も吊してある干し柿のようにという拘りから干し柿の白い粉を、餅粉を使って再現している。

干し柿の種をくり抜き、その空洞部分に餡を詰めるのだが、梱包も含め手作業で作っている。干し柿を切って餡を詰めた部分は、干し柿自体に元々ある粘着性を活かし、まったくつなぎ目が出ないように工夫している。

手作業に拘る理由としては、自然の素材であり柿の形、大きさも違うことから、手作業に勝るものはないからである。

「つるし柿」は、秩父音頭のお囃子にも出てくるほど、この地域では歴史もあり馴染み深い食べ物であるが、先代が最初商売として干し柿を売ろうとしたところ、いわゆる乾物はデパートに置いてもらえないという事があって、それならば、干し柿を使ったお菓子を作ろうと発想し、この菓子が誕生した。

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06/27 淡雪&かもめの玉子

2014年06月27日 | スイ-ツ・お菓子

【淡雪】

「淡雪」は、三州岡崎宿名物であった雪豆腐を模して作られた、溶け出しそうな雪のように舌の上でとろける食感の和菓子。
泡雪羹、阿わ雪、泡雪とも呼ばれる。

水を加えた寒天を火にかけて溶かし、砂糖を加えてしばらく煮詰めたものに、メレンゲを合わせて固めた菓子。
メレンゲを合わせる際に、荒熱を取らないと分離するため、人肌程度まで冷ます必要がある。寒天の代わりにゼラチンを使えばマシュマロとなる。

土産菓子としても有名で、淡雪が名物である都市として、愛知県岡崎市(備前屋)、広島県三次市、山口県下関市(松琴堂)などがある。

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【かもめの玉子】

「かもめの玉子」は、さいとう製菓(株)が製造している岩手県大船渡市の郷土菓子。
白餡を薄いカステラ生地で包んで焼き上げ、全体をホワイトチョコレートでコーティングした卵型の菓子である。

大船渡市を代表する菓子として人気の高い三陸土産の定番で、県内限定の季節商品や一口サイズの「ミニかもめの玉子」など、様々なバリエーションが販売されている。

『ゆりかもめの玉子』

「東京タワーさんま祭り」をきっかけに港区との交流が出来た「さいとう製菓」によって、都の鳥「ゆりかごめ」にちなんだ商品として製作され、2010年3月23日に発売された。京葉道路下り線パサール幕張以外は全て都内の販売となっている。

「かもめの玉子」とはコーティングしているチョコレートの色が異なる他ねこちらは中心部に練乳が入っているなどの差異がある。

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06/26 かりんとう饅頭&味噌松風

2014年06月26日 | スイ-ツ・お菓子

【かりんとう饅頭】

「かりんとう饅頭」は、主に福島県で販売されている饅頭菓子。

黒糖を練り込んだ生地で、甘さ控え目の漉し餡を包んだ饅頭を油で揚げることで作られる。
特殊な製法で揚げることにより表面がカリッとした食感になり、かりんとうに似た風味になるのが特徴。

福島県内ではローカル番組などで紹介されたことから、広く知られるようになった。田村市のものが有名。後に郡山市や会津若松市、隣県の群馬県などでも類似品が販売されるようになり、人気を博している。

現在、栃木県にある「高林堂」の「かりんとう饅頭」、「かりまん」が、2011年6月にテレビ朝日の「シルシルミシルさんデー」のお菓子グランプリで一位を獲得し、メディアに多く取り上げられている。

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【味噌松風】

「味噌松風」は、京都を代表する焼き菓子の一種。

『製法』

小麦粉、砂糖、水飴、卵(入れない事が多いが一部の菓子店は使用)を水で混ぜて作った生地に白味噌(赤味噌の場合もあり)を加えてそのまま、もしくは発酵させる。この生地を

1・平鍋に流し入れて形を整え、表面にケシ粒(店によっては大徳寺納豆やクルミなど)を散らして、上から天火で焼く。大きなホットケーキのように平たい円形に仕上げる場合もある。カステラや厚焼き卵のようなスポンジ状の厚い仕上がりとなる。

2・鉄板に薄く延ばし、板状に焼き上げて、食べ易く切り分ける。煎餅や八つ橋のような仕上がりになるが、店によって厚みに差がある。

『歴史』

起源は織田信長の本願寺攻めを背景に生まれた説や、京都の大徳寺の住職が考案したお菓子である説、一向一揆の際の食糧いう説もあるがはっきりしない。

表面はケシで飾られ、焼き色が付いているのに、裏側は白くて寂しいことから、「浜の松風うらさびしい」と語呂合わせされ、この名がついた。京都には大徳寺納豆を添えるなど特徴のある「味噌松風」が多く作られる。

江戸時代には、朝廷や幕府にも献上されており、嘉祥菓子の一つとされた事も多い。

沖縄県の「まつかじ」は、この松風が琉球に伝播して変化した菓子とみられる。こちらはケシを一面にまぶした薄い板状のタイプのみであり、ピンク色に着色した捻った形となっている事が多い。

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06/25 わいろ最中&福梅

2014年06月25日 | スイ-ツ・お菓子

【わいろ最中】

「わいろ最中」は、静岡県牧ノ原市の土産菓子である。
同市の前身である相良町は田沼意次ゆかりの城下町として知られており、包装には笑顔の田沼意次が描かれている。贈収賄にまつわるダーティーな印象が強い田沼意次であるが、実際には、田沼時代に特に金権政治が横行したという話には根拠がなく、松平定信ら反田沼派のプロパガンダが影響を及ぼしていると考えられている。

そのダーティーなイメージをあえて押し出すことにより、新奇さを狙った商品である。

箱を開けると、「付け届けには饅頭にかぎるのう」との言葉と共に饅頭の写真が印刷された紙が入っている。
これをめくると、小判をかたどった「最中」が詰められており、「したごころ」の表書きのある熨斗袋、さらに相良茶のティーバックが附属している。
最中にはお茶と粒餡の2種類の風味がある。

牧ノ原SAにて毎週土曜日朝より販売されているものの、生産量が少ないためアッという間に売り切れることが多い。郷土の有名人の悪評を逆手に取ったこの商品に対して、地元の人々の評価は様々である。

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【福梅】

「福梅」は、石川県で古くから伝わる正月の和菓子。梅の花の形をしたもの。

『概要』

「福梅」は、加賀藩前田家の第十代目藩主・前田重数の時代、新春の茶席に献上されたものが正月の菓子として伝えられたのが始まりとされている。
これが次第に金沢城下に広まり、やがて前田家の家紋である「剣梅鉢」が形取られた和菓子として伝えられた。
紅白は縁起が良いとされ、石川県では鏡餅においても紅白のものが流通している。

梅の花を形取った紅白の最中で、年末から松の内の間に売り出される。「辻占い(占いの紙が入った和菓子)」、福徳(縁起物の人形などが入った煎じ餅皮の和菓子)」と並ぶ金沢を代表する縁起菓子である。主に石川県内の和菓子店やスーパーなどで販売されるが、近年ではコンビニでも販売されている。

梅の形をした最中の皮の中身は、よく練った小倉餡が詰められている。また、皮の表面には蜜が塗られており、砂糖がまぶしてある。
皮は白と薄紅色の2種類があり、餡の中身には日持ちさせるように水飴も練り込まれている。
また、一般的な最中の柔らかさとは違い堅めに作られている。近年では、嗜好の変化に伴って、小倉餡の他に白餡を詰めたり、一口で味わえるように小さめに作る店舗もある。

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06/21 八ッ橋&鳩サブレー

2014年06月21日 | スイ-ツ・お菓子

【八ッ橋】

「八ッ橋」は、京都を代表する和菓子の一つである。米粉や砂糖などを原料とする短冊形の堅焼き煎餅のほか、生地を焼き上げない「生八つ橋」も有名である。

『起源・由来』

江戸中期にあたる元禄2年に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道における茶店にて供されたのが始まりとされる。

「八ッ橋」の名前の由来については、箏曲の祖・八橋検校を忍び箏の形を模したことに由来するとする説と、「伊勢物語」第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。

『特徴』

米粉・砂糖・ニッキ・を混ぜて蒸し、薄く延ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅の一種で、形は箏を模しており、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている。

蒸し終えて薄く延ばした生地を、焼き上げずに一定のサイズに切り出したものは「生八つ橋」と呼ばれ、1960年代に登場した。
純粋に生地だけのものと、正方形の生地を二つ折にして餡を包んだものがある。とくに後者はメーカーにより多種多様な種類が作られている。生地は通常のニッキのほか抹茶やゴマを混ぜたものがあり、餡も通常の粒餡のほかに果物やチョコレートの餡を用いるものもある。

昔の「八つ橋」は、竹皮によって包まれていたが、現在は賞味期限を延ばすためにほとんど真空パック詰めされている。そのため、真空パックを開封しなければ賞味期限はおよそ9日から11日となっている。ただし、昔ながらの製法を特徴としているメーカーの商品の場合は、品質保持についても昔ながらであるため、賞味期限は他と比較して極端に短い。

『京都の代表的銘菓』

統計調査によると京都観光の土産として菓子類を購入する人は96%にのぼるが、そのうち「八つ橋」の売上は全体の45.6%(生八ッ橋24.5%、八つ橋21.1%)を占め、京都を代表する土産物になっている。

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【鳩サブレー】

「鳩サブレー」は、神奈川県鎌倉市の豊島屋が製造・販売するサブレー。名前が示す通り鳩を模した形が特徴。主に鎌倉八幡宮に参拝した人の土産として有名で、現在では神奈川県を代表する銘菓となっている。

『概要』

「鳩サブレー」は、豊島屋の初代店主が店に来た外国人からもらったビスケットが原点であはる。
フレッシュバターをふんだんに使用した製品だが、開発を始めた当初はバターか゜゛使われていることが分からず、それを見つけるまでに大変苦労したという。
ビスケットとの違いを出し、日本人に馴染みやすい味にするため、スパイスやフレーバーを使用していない。
鳩の形となったのは、初代店主が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いることから着想を得たためと言われている。なお、開発当初は鳩の尾びれは2本あったが、尻尾が大きく見えるという理由で3本になった。
現在、本店二階にあるギャラリー「鳩巣」に尾びれが2本の型が展示されている。

『エピソード』

「鳩サブレー」は明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」と呼ばれていた。これは、この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」という耳慣れない単語を聞いた時に「「サブレー」=「三郎」と連想したためである。また、当時は一般的にも「サブレー」という外来語よりも「鳩三郎」の方が馴染み゛あり、通りがよかったという。
現在でも「鳩サブレー」のマスコットグッズの中には「鳩三郎」の名称が付けられたものがある。
ただし、「鳩三郎」はあくまでも初代がつけた愛称であり、正式な商品名は当初より「鳩サブレー」である。

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06/20 みすず飴&翁飴

2014年06月20日 | スイ-ツ・お菓子

【みすず飴】

「みすず飴」は、長野県土産として販売されているゼリー菓子である。果汁に水飴等を加え寒天で固めて作られており、弾力性があって柔らかく果汁の風味と独特の歯応えが好まれている。

飴同士、あるいは飴と包装紙がくっつかないようにオブラートで包むが、砂糖でまぶすなどの処置が施されている。
商品としてはセロファンで包まれたものと、紙の包装のものがあり、セロファンで包まれたものは首都圏でも売られている。

「みすず飴」は、大正8年、(株)敷島商店の飯島新三郎によって翁飴をヒントに開発された。信州というイメージで商品化するという狙いから、「みすず飴」という名前になった。
最初はアンズ、イチゴ、リンゴの3種類であった。現在ではアンズ、梅、三宝柑、ぶどう、りんごの6種類である。

「みすず飴」は長野県土産の常連で、駅や土産店でも目立った場所に置かれている。なお、「みずず飴」は上田市に所在する(株)敷島商店の商標である。

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【翁飴】

「翁飴」は、秋田県能代市の「桔梗屋」という菓子店が作った淡黄色の飴である。
桔梗屋自体は、文禄元年創業という老舗中の老舗の菓子店であるが、この「翁飴」も文化年間から約200年の伝統を持っている。

飴といっても、餅とゼリーの中間のような独特の歯ざわりであり、口の中で嚙むとやさしい甘さがほんのりと広がる。

原料は餅米と大麦で、砂糖・添加物などを一切使用せずに、自家製の麦芽糖化水飴に「特別な原料」を配合して固形化している。その製法は桔梗屋の家業を継承している武田吉太郎家の秘伝とされ、一子相伝で伝えられている。

職人も雇わず、すべて武田吉太郎氏一人の完全手作業で、仕込みから完成まて゜一週間もかかるので量産が出来ない。この「翁飴」は、夏場でも溶けず、真冬でも固くならない。

他の菓子店でも「翁飴」と称した菓子を見かけることがあるが、桔梗屋のものとは別物で味もまるで違う。

名前の由来は、滋養に富み、病人や老人にも食しやすいので、長寿わ全うできるという意味が込められている。

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06/17 萩の月&水戸の梅

2014年06月17日 | スイ-ツ・お菓子

【萩の月】

「萩の月」は、1979年9月から菓匠・三全が販売しているカスタードクリームをカステラで包んだ饅頭型のお菓子のことである。正式名称は「仙台銘菓 萩の月」。

『概要』

「萩の月」は、明治初期誕生の「笹かまぼこ」や昭和20年代誕生の「仙台牛タン」と並び、昭和50年代誕と歴史が短いながら仙台土産の定番になっている。
業界紙のアンケートを基に選んだ「20世紀を代表する土産品」では、北海道の「白い恋人」、福岡県の「辛子明太子」に次いで、宮城県の「萩の月」が全国三位になった。現在では宮城県外の店舗でも販売され、1日当たり10万個が製造・販売されている。

商品名は「萩が咲き乱れる宮城野の空に浮かぶ満月」に由来している。松任谷由実の発言で全国的な知名度を得たと言われ、全国に模倣品が数百種あると見られる。

業界では、食品の賞味期限延長に脱酸素剤を利用した先駆けの商品として知られる。また、現在よりも高価な移動手段であった旅客機の機内で供された歴史から、ビニール包装の上、さらに小箱に個包装されているのが特徴。

メーカーが推奨したわけではななく、自然発生的に消費者自ら多様な食べ方わしているのも特徴である。常温のまま食べる方法の他、冷蔵庫で冷やしてから食べる方法や、松任谷由実が絶賛する冷凍庫で凍らせてアイスクリームのようにして食べる方法も著名である。
このため、模倣品の中にはあらかじめ凍らせた状態で売られているものもある。
逆に、温かい状態では中のカスタードクリームが軟化し、常温のそれより舌触りが良く美味しいとサンドイッチマンや熊田曜子が絶賛している。

『歴史』

1964年の東京オリンピックを境に主力商品の「かりんとう」の売り上げが芳しく無くなっていた三全工業(現菓匠三全)は1970年、伊達騒動を描いNHKの大河ドラマ「樅の木は残った」の放送を機に観光客が増加していた宮城県の土産品に新規参入することを決意市、バウムクーヘンをもとに新商品「仙台銘菓 伊達絵巻」を開発した。
また、同商品は「個包装の上で箱に入れる」という方式を採った。「伊達絵巻」は知名度の低さから当初、デパートでは扱ってもらえなかったが、仙台空港での販売が始まると売り上げを伸ばし、デパートや鉄道弘済会での取扱も始まって仙台土産としての地位を確立した。

「伊達絵巻」の成功を機に同社は直営店展開も始めたが、品揃え拡充のために新商品開発にも取りかかった。当時、洋菓子では一番売れている商品はシュークリームであり、贈答品として人気があるのはカステラであると同社は分析し、両者を組み合わせた「萩の月」を開発。しかし、「萩の月」は保存料を使用しない生菓子だったため日持ちせず土産品や贈答品としては不適だった。そこで、1970年代中葉に三菱瓦斯化学が商品化に成功した脱酸素剤を用いて、賞味期限延長の共同研究を始めた。

1978年3月1日、初めて仙台空港と福岡空港を繋ぐ定期便が就航したが、これに合わせて運航会社が提供する機内菓子を探していた。それを知った菓匠・三全が積極的に営業をかけたところ、同社の主力商品である「伊達絵巻」は採用されず、新商品である「萩の月」が採用された。

三菱瓦斯化学との3年以上にわたる共同研究の結果、脱酸素剤「エージレス」が完成。酸素が入らないよう密閉したフィルムで個包装された生菓子「萩の月」は、「エージレス」を同包することで、保存料なしでも日持ちする土産品「仙台銘菓 萩の月」へと生まれ変わった。

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【水戸の梅】

「水戸の梅」とは、茨城県水戸の銘菓で、餡入りの求肥を赤紫蘇の葉で包んだ和菓子である。名所である偕楽園の梅をモチーフとして作られた。

菓子の外観は丸い梅の果実に見立てた姿である。中身の餡は、白餡を使う店と小豆の漉し餡の店がある。梅酢に漬け込んだ赤紫蘇の葉を使うことが特徴である。
この紫蘇の葉は蜜で煮込んだり、さらに蜜漬にするなど店ごとの工夫が凝らされている。紫蘇の葉の高い香りが独特の風味を添えている。

1963年に水戸菓子工業協同組合が出願、1965年10月に登録された、商標登録である。同組合に加盟する5社のみが使用することが出来る。

『由緒』

水戸の菓子店である「亀印製菓」は、同社の二代目が、1892年に開発したと称している。水戸ならではの菓子の開発を思い立ち、水戸藩の古文書に記述のある「9代藩主・徳川斉昭が作らせたという紫蘇巻き梅干しを参考にした菓子」にヒントを得て、考案したとする。
もともとは亀印製菓が漬物店であったことから、梅干し用の紫蘇の葉の利用を試みたのだという。初期の姿は、練った白餡を紫蘇の葉でくるんだ菓子で、「星の梅」の名で発売された。その後、三代目のときに「水戸の梅」に改名したという。

別に「井熊総本店」という菓子店も、「水戸の梅」の元祖を名乗っている。同社によると、1900年頃、常磐線開通に伴い、当時の「県令」の安田定則が、観光客向けの土産品の開発を命じたのが誕生のきっかけだと言う。これに応じて、同社の初代の小林熊次郎が、偕楽園で採れた梅の実を使った菓子として考案したものだとしている。

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06/16 人形焼&こんにゃく餅

2014年06月16日 | スイ-ツ・お菓子

【人形焼】

「人形焼」は、カステラに漉し餡、小倉などを入れて焼いた和菓子である。餡のないものは単に餡なしと呼ばれたり、カステラ焼きとも呼ばれる。
変わり種としては、抹茶餡、さくら餡やカスタードクリームなどを入れたものもある。

東京都中央区日本橋人形町が発祥地とされ、東京土産として有名である。

『かたち』

文楽人形や七福神の焼き型を用いたものが伝統的なものであったが、焼き型は時代とともに移り変わっている。
大正時代に人形町で修行した職人が浅草で始めたものは、雷門や五重塔など浅草の名所をモチーフとし、当初は「名所焼」と称して販売していた。
また、戦時色の強かった時代は戦車や大砲などを模したものもあった。現在でも人形町のごく一部の店舗では、この焼き型で製造されている。近年ではハローキティーをはじめとする様々なキャラクターを模した型を用いた製品もあり、合格を記念した「人形焼」もある。

『日持ち』

浅草寺境内の売店等では、「人形焼」をその場で焼いて販売しており、焼きたての食感を楽しめるが、その日のうちに食べてしまわないと風味が落ちてしまう。鉄道駅や土産物店で販売されている「人形焼」は、工場で量産ものなのでどうしても焼きたての風味は薄れてしまうが、真空脱酸素パックされ1ヵ月程度の長期保存が可能となっており、土産物や進物として人気が高い。

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【こんにゃく餅】

「こんにゃく餅」は、福島県白川郡塙町の菓子司・「陣野」の菓子。

『概要』

同町の特産品であるこんにゃくを使った餅菓子。
粉末にしたこんにゃくを餅米と練り合わせ、一晩寝かせて作られる。「山ふぐ餅」と呼ばれることもある。
独特のふわふわした触感と軽い甘さが特徴。

『歴史』

この菓子の誕生には、プロレスラーのジャイアント馬場が大きな影響を与えている。
1966年に行われたプロレス興行の際、ジャイアント馬場が露天で特産のこんにゃくを使った「おでん」をあっと言う間に平らげ、その美味しさに驚いたという。それを見て、こんにゃくを使った名物となる菓子を作れないかと試行錯誤を行った末、出来上がったのが「こんにゃく餅」である。

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06/15 安倍川もち&長五郎餅

2014年06月15日 | スイ-ツ・お菓子

【安倍川もち】

「安倍川もち」は、和菓子の一種。静岡市の名物。本来はつき立ての餅に黄な粉をまぶし、その上から白砂糖をかけた物である。現在では、黄な粉をまぶした物しと、漉し餡を絡めたものの二種類を一皿に盛った物が一般的である。

『歴史』

江戸時代初期、安倍川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄った所、そこの店主が黄な粉を安倍川上流で採れる砂金に見立て、つき立ての餅に黄な粉をまぶし「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで「安倍川もち」と名付けたという。

実際は、江戸時代、日本では大変貴重で珍しかった白砂糖を使っている事から有名になり東海道の名物となった。東海道中膝栗毛には「五文どり」(安倍川餅の別名)として登場ている。

徳川吉宗も「安倍川もち」が好物だったようで、駿河出身の家臣に作らせたりしている。

『現在』

昔ながらの「安倍川もち」は、旧東海道の安倍川橋の東側(葵区弥勤務2丁目)で製造・販売している茶店風の店が3軒ある。黄な粉・小豆餡の「安倍川もち」のほか、山葵醤油をつけて食べる辛味餅もある。また、お土産用のものが市内の何軒かの菓子店で製造されていて、静岡駅などで購入できる。

一方、お盆に「安倍川もち」を仏前に供え、食べる風習のある山梨などでは黄な粉と黒蜜で、スーパーや和菓子店等でも、この時期に販売される物は黄な粉と黒蜜の物であり、黄な粉と白砂糖の物は見かける事はなく、「安倍川もち」と言っても静岡市内で売られている物とは違う。また、餅の形も基本的に角餅である。

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【長五郎餅】

「長五郎餅」は、餡を羽二重餅でくるんだ和菓子で、北野天満宮の名物。餡入り餅の祖とされている。

『由緒』

「長五郎餅」は、天正年間、紅葉の名所として多くの参拝客で賑わっていた当時の北野天満宮で、参拝客をもてなしていた河内屋長五郎によって考案された。当時の菓子は味も見た目も素朴なものが主流だったが、長五郎が作ったこの菓子は、上品で洗練された味とその意匠で評判を呼んだ。

天正15年、豊臣秀吉が北野で催した北野大茶湯におおいて、この餅が茶菓として使われたところ、秀吉から高く評価され、「長五郎餅」との命名を下賜された。
その後、「長五郎餅」は河内屋長五郎の後裔によって作られ続け、明治維新まで皇室の御用達となり、小松宮家や山階宮家といった各宮家からも愛された。
明治維新の際、京都詰めとなった諸国の大名が「長五郎餅」をこぞって買ったことから、その名声が全国に広まった。

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06/13 栗きんとん&栗金団

2014年06月13日 | スイ-ツ・お菓子

【栗きんとん】

「栗きんとん」は、岐阜県の美濃東部名産の栗を使った高級和菓子である。

栗に砂糖を加えて炊き上げてつくる。水分は栗から出るものだけで、十分しっとりしている。お節料理の「栗金団」と違い、粘り気はない。形は茶巾絞りで栗の形している。程よい甘さで美味である。

『生産』

岐阜県中津川市の「本家すや」が元祖という説と岐阜県加茂郡八百津町の「緑屋老舗」が製造たのが最初という両方の説がある。

栗の収穫が始まる9月1日から翌年1月頃まで手作りで製造し販売される。恵那・中津川地方で値段は1個220円~240円、八百津地方で1個180円程度。賞味期限は2~3日程度であるが、味は落ちるものの冷凍することにより保存することは可能である。

岐阜県南東部の恵那地方(中津川市・恵那市)は、恵那栗と呼ばれる良質な栗の産地であり両市内には「栗きんとん」を製造する和菓子屋が軒を連ねているが、毎年9月1日から翌年1月頃までの期間限定で首都圏・東海・関西などのデパートでも販売されている。近年はインターネットによる通信販売も行われている。

八百津市内においては、狭い地域に5軒の和菓子屋があり、街道沿いに軒を連ねている。

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【栗金団】

「栗金団」は、日本料理のひとつ。主にお節料理に用いられる。「金団」は、金の団子もしくは金の布団という意味で、転じて金塊や金の小判などに例えられ商売繁盛・金運・財運をもたらす福食として正月のお節料理の定番となったものである。

糖分濃度が高く粘り気の強い餡で栗をまとわせた非常に甘い料理で、餡には栗もしくはサツマイモを材料に用いるのが一般的である。また、黄金色をより鮮やかにするためにクチナシが用いられることも多い。

『歴史』

「栗金団」の文字自体は室町時代の文献に見受けられるが、これは栗餡を丸めた和菓子のようなもので、むしろ「栗きんとん」に近い、現代の「栗きんとん」とは似ても似つかぬものであったと考えられている。

今日見られるような、「栗を濃厚な餡で和えたもの」になったのは明治時代頃といわれ、元々「勝ち栗」として古来から縁起の良い食材の一つとされていた栗が、その見た目の美しい色合いから金運を呼ぶものとして、正月などの目出度い席で供されるようになったとされている。

『調理法』

水と砂糖を煮詰めて餡を作り、これに栗を加え時間をかけて柔らかく粘り気が出るまで煮込むことで出来る。栗には「栗の甘露煮」を用いると手間もかからず甘く仕上げることが出来るが、食感や風味を重視して新栗を用いる場合もある。

餡には水・砂糖のほかにサツマイモを用いることもあり、また砂糖の代わりに和三盆や中双糖や栗甘露煮の漬け汁を使うとより風味の強い仕上がりとなる。餡に使う芋は金時芋が一般的だが、紅芋や紫芋を用いた変わり種もある。

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『栗鹿の子』

長野県の小布施地方の名物に「栗鹿の子」がある。この「栗鹿の子」は、小布施地方の4社で作られているのが特に有名である。
「栗鹿の子」の原料は、栗100%で、「栗金団」と製法がほぼ同じであるが、芋等は使っていない純粋な栗和菓子である。

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06/10 大手まんぢゅう&藤戸饅頭

2014年06月10日 | スイ-ツ・お菓子

【大手まんぢゅう】

「大手まんぢゅう」は、和菓子で饅頭の一種である。岡山市の銘菓・土産菓子として有名。「大手」の略称でも呼ばれる。

『概要』

薄皮の酒饅頭であるが、小ぶりに丸めた餡を包む皮が極薄に作られているため、饅頭の表面随所で餡の黒色が透けて見える独特の外見を持つ。

岡山市の菓子舖・(株)大手饅頭伊部屋によって作られている。同社は最中も製造しているが、今でも売り上げの9割以上が「大手まんぢゅう」てあるという。
現行品は饅頭の一つ一つが、巾着を思わせる紙箱に包まれているのが特徴である。この形態は1980年代以降に登場したものである。

岡山市の土産菓子としては、吉備団子に比べ対外的知名度では劣るが、岡山市民を中心として非常に愛着を持たれている菓子であり、日常の贈答には多頻度で使われる。
また、岡山市民が県外に土産品として持ってゆくことが多く、土産品売り場において吉備団子を買う者は他地区の者、「大手まんぢゅう」を買う者は地元の者とはっきり分かれる傾向があるという。

また、出来たての温かいものは特に人気があり、売り場でもその表示がされることもあり、温かい饅頭を指名買いする者も少なくない。

『歴史』

天保8年(1837年)に誕生した。当時の店が岡山城大手門のそばにあったことから、自身この饅頭を好んだ時の岡山藩第7代藩主・池田斉敏により「大手まんぢゅう」と名付けられ、その後も池田氏代々の藩主に愛された。
岡山市出身の小説家・内田百聞の大好物であった。百聞は「大手まんぢゅう」について随筆でも幾度となく言及しており、「大手まんぢゅう」になら「押し潰されてもいい」とまで書いている。

現在も本店は旧岡山城下町であった岡山市北区京橋町にあるが、製造工場は現在は岡山市中区雄町に構えている。これは、この地が名水として名高い「雄町の名水」があることから、この水を「大手まんぢゅう」製造に生かすためである。

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【藤戸饅頭】

「藤戸饅頭」は、和菓子・饅頭の1種で、岡山県倉敷市の銘菓・土産菓子である。

『概要』

甘酒で作った麩と餅米で甘酒を作り、絞った汁を小麦粉と混ぜ合わせて出来た薄皮で漉し餡を包んで球状にし、蒸したものである。

「むらすずめ」と並ぶ倉敷市の歴史ある銘菓として有名である。

岡山市の銘菓として有名な「大手まんぢゅう」と見た目・味ともに似ているため混同され、さらに知名度や企業規模では「大手まんぢゅう」の方が勝るが、「藤戸饅頭」の方が歴史が古い。
また、「大手まんぢゅう」との大きな違いとして、消費期限が挙げられる。「大手まんぢゅう」が一週間程度なのに対し、「藤戸饅頭」は3日程度と短い。
そのため、倉敷市民は「大手まんぢゅう」より「藤戸饅頭」を好む傾向があるにも関わらず、土産物として渡す場合に消費期限の関係で「大手まんぢゅう」を仕方なく選択することもある。

『歴史』

倉敷市藤戸地区は源平合戦の古戦場であり、「藤戸の渡し」という史跡がある。そこでかって行われた「藤戸の合戦」に由来する。

平家物語によると、源平両軍が大戦した寿永3年、源氏軍の将である佐々木盛綱は、藤戸村の村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の軍に勝利した。
しかし、作戦上、この村人を斬り殺したという。そこで村人たちの手により殺された村人の供養が藤戸寺で行われ、近くの民家から饅頭が供えられた。この饅頭が「藤戸饅頭」の起源とされる。ただし、饅頭の伝来とされるのは源平の戦いから100年程度後世であることから、現在の「藤戸饅頭」とは同一ではないと考えられる。

現在の形となったのは江戸時代末期であり、天保年間に創業した「大手饅頭」と歴史はあまり変わらない。

元来備中国は、延喜式にも小豆の産地として記載されている一大産地の一つであった。後に北海道、丹波とともに三大産地とされれた。藤戸は備前国であるが、備中との国境に位置するため、小豆が豊富に手に入ったと推測されており、そのことが、餡を大量に使用した饅頭を生んだといわれる。

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06/09 鬼饅頭&薄皮饅頭

2014年06月09日 | スイ-ツ・お菓子

【鬼饅頭】

「鬼饅頭」は、芋饅頭とも呼ばれ、薄力粉と砂糖を混ぜた生地に、角切りのサツマイモを加えて蒸した菓子。主に愛知県などの東海地方で見られる。

一般の饅頭や中華まんとは異なって、菓子の中央部に具(餡)がまとまって入りそれを生地が包んだ形ではなく、具であるサツマイモの角切りが生地に混じっており、表面にもサツマイモの角切りがいくつも見えている。また、一般の饅頭や中華まんよりも生地の粘りが強く、生地の表面は光沢がある。

表面にいくつもサツマイモの角切りが見える様子がゴツゴツして鬼やその金棒を連想させることから、この名称が付いた。サツマイモの替わりに、リンゴの角切りなどが食材として使用されたものもある。

庶民的な菓子であり、愛知県や岐阜県では、高級店でなく庶民的な和菓子店には必ずといってよいほど「鬼饅頭」が売られている。学校・学校教育の現場では給食でデザートとして出されたり、家庭科の調理実習で調製する地域もある。また、家庭では蒸しパンの素にサツマイモの角切りを混ぜて製する場合もある。

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【薄皮饅頭】

「薄皮饅頭」は、福島県郡山市の土産菓子。甘い饅頭で、名前の通り黒糖を使った薄い皮で包んでいることが特徴である。

『特徴』

寛永5年から続く和菓子の老舗「柏屋」が製造・販売している。
2010年、郡山市内で行われた「春のまんじゅう祭り」では重さ159キロの巨大「薄皮饅頭」に入刀する「薄皮大萬寿開き」が行われた。

皮は、小麦粉に黒糖を多く混ぜて作った生地を使用しているため、茶色をしている。通常の饅頭よりも皮が薄い分、餡の占める量が多い。このためかなり甘いが、くどい味わいではない。

現在、餡の種類で「漉し餡」、「粒餡」の2つがある。また、小さいサイズの「薄皮小饅頭むや、蒸篭に入れて販売している「せいろ薄皮むがある。そのまま食べるほかに、焼いて食べたり、凍られて食べたり、衣をつけて天麩羅にして食べたり、茶漬けにして食べたりする人もいる。

『歴史』

柏屋の当主である初代・本名善兵衛が考案したとされる。江戸時代の奥州街道の郡山宿で薄皮茶屋という店を開き、主に旅人相手に販売した。当初は漉し餡を用いたものであったが、現在は好みの変化もあり、粒餡も用いている。

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06/08 栗饅頭&十万石まんじゅう

2014年06月08日 | スイ-ツ・お菓子

【栗饅頭】

「栗饅頭」は、和菓子の種類の一つであり、饅頭の種類の一つである。
饅頭の餡の原料に栗を使用するもののことを言うこともあれば、饅頭の表面に卵黄を塗り焼くことによって、栗のような色・照り。形をした饅頭のことを言うともある。あるいは、この二つのいずれも取り入れたもののことを言うこともある。

『概要』

多くは白餡が使われ、白餡に茹でた栗をつぶした餡を混ぜたもの、あるいは茹でた栗をそのまま入れたものなど多くの種類があるが、スーパーなどで市販されている「栗饅頭」の多くは、卵黄を塗ることによって焦げ茶色の焼き色をつけている。栗の形をしたものの下の部分にヒナゲシの実をまぶすこともある。
味は、栗と白餡を使用するため、そのままではかなり甘いものとなるが、「栗饅頭」を製造しているメーカーは様々な努力によって甘さを抑え、甘党でない顧客にも食べやすくするなどの工夫を凝らしている。

『土産菓子としての栗饅頭』

「栗饅頭」は、和菓子の中でも最も身近なものの一つであり、スーパーやコンビニでも多く売られているが、全国各地には古くより「栗饅頭」を作っている製造元も多く、その中にはその地域の名物菓子、土産菓子にまでなっているものもある。

「北九州市」

北九州市小倉区の「湖月堂」の「栗饅頭」は、1895年の創業以来作られている小倉の名物菓子である。創業当時は日清戦争・日露戦争の戦勝祈願として、「勝ち栗」に通じるとして高い評価を得た。
現在では北九州市を代表する土産菓子となっている。北九州市出身の作家・松本清張もテレビCMなどで「栗饅頭」について語っている。

「長崎市」

長崎市の「田中旭榮堂」の「栗饅頭」も、明治中期より長崎市の名物菓子で、小ぶりのものから栗を丸ごと使った大きなものまでのサイズが多種である。
1988年の第21回全国菓子大博覧会で最高賞の名誉総裁賞を受賞している。昔は夏場に日持ちさせるために栗を煮るのに使う汁を煮詰めていたため、「長崎一甘い饅頭」と呼ばれていた。

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【百万石まんじゅう】

「百万石まんじゅう」とは、「百万石ふくさや」の店舗などで販売される和菓子である。
「十万石まんぢゅう」、「十万石饅頭」、「十万石幔頭」といった表記も使用される。埼玉県の和菓子として知られるが、「十万石ふくさや」の創業は戦後であり、「十万石まんじゅう」も伝統的な和菓子ではなく、戦後に誕生したものである。

『概要』

製造元の「十万石ふくさや」は、太平洋戦争の終戦後、砂糖の流通が解禁されたことから、1952年に和菓子の製造・販売の「福茶屋」として、埼玉県行田市本町に創業し、創業と共に「十万石まんじゅう」は誕生した。
「十万石」とは、江戸時代に行田市にあった忍藩の石高が十万石であったことに因でおり、「行田名物」にしたいという命名であった。なお、「福茶屋」は1960年に「(株)千石ふくさや」を設立し、屋号も「十万石」と改名している。

キャッチフレーズの「うままい、うますぎる」とは、版画家・棟方志功が手掛けたもので、1979年からは、テレビ埼玉やテレビ東京などで「風が語りかけます。うまい、うますぎる!十万石まんじゅう 埼玉銘菓十万石まんじゅう」という棟方志功の言葉に倣ったナレーションのテレビコマーシャルが放送されている。この特徴的なコマーシャルのフレーズは埼玉県民の間で定着し、埼玉県のローカルCMとして広い範囲で知られている。

『特徴』

埼玉県の菓子であるが、日本各地の具材を使用しており、北海道十勝産の小豆を使った「漉し餡」、奈良県葛城山産の「つくね芋」、新潟県魚沼産の「コシヒカリ」の粉を使った皮を使用している。砂糖はザラメ糖を使用している。

薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)と呼ばれる饅頭の一種で、皮は「つくね芋」の風味があると同時に、小麦粉よりも米を多く使用した皮であるため、米の風味もある。原材料は、砂糖・小豆・つくね芋・上新粉・澱粉・膨張剤と、食品添加物は入っておらず、生菓子であるため、賞味期限は5~6日とやや短い。

一個一個がやや小さく、埼玉県の県名の由来ともなっている行田の歴史の息吹を感じて欲しいという願いが込められ、白い皮には「十万石」という焼き印が押されている。
味の特徴としては、皮が薄く、餡が多く詰まっていてとても甘く、皮が餅のように柔らかい特徴の食感であることが挙げられている。

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06/05 シベリア&鯨羊羹

2014年06月05日 | スイ-ツ・お菓子

【シベリア】

「シベリア」とは、羊羹または小豆の餡子をカステラで挟んだ菓子である。

『概要』

羊羹や小豆餡はサンドイッチのように、スライスしてカステラに挟んでいるのではなく、トレーにカステラを敷いてから融けた状態で流し込み、さらにその上にカステラを被せるので、カステラと具材が密着している。自前でカステラを製造したり、小豆、寒天を煮て、羊羹を作るところから始めなければならず、製造に手間がかかる。

このカステラで挟んでいる部分は、ゲル状の餡子であったり、寒天で固めた羊羹そののものであったりし、製法に関しては菓子店によってまちまちである。
羊羹の色も、茶色、緑色、赤色などの違いがあり、カステラの層数も2層、3層、4層などの違いがある。食品分類上も「洋生菓子」だったり「和生菓子」もしくは「洋菓子」、「和菓子」だったりするなど、これも製造元や成分により多様である。

首都圏を中心とした東日本と中部地方では広まっているが、逆に近畿地方を中心としたて西日本や九州では、あまり馴染みがない。まれに地方菓子として中部地方で作られたものが販売されている程度で、カットのサイズも一口で食べれる小さいものが多い。
四角くカットされるものもあれば、サンドイッチのように直角三角形にカットされるのもある。
現在では山崎製パン等御大手製パン会社からも販売されており、全国的に広がっているが、出荷は東日本に偏る傾向がある。

『歴史』

冷蔵庫の普及していない時代、ひんやりとした食感と涼しげな名前が好まれ、昭和初期には「子供達が食べたいお菓子NO1」であったと伝えられているが、発祥地から考案者、名称由来、食品分類に至るまで未だ正式な解明がなされていない。

ただ、かなり古い歴史があるようで、1916年創業の横浜の「コテイベーカリー」によれば、誕生は明治後半から大正初期頃で、当時はどこのパン屋でも製造されていたとの記録がある。

「シベリア」を考案した人物は不明であり、関東以外の地方や外国にも同種の菓子の存在は認められない。もちろん、東アジアで多用される小豆の餡子を使っているため、ロシアのシベリア地方が発祥ではないことは明らかである。
名称の由来に関しては諸説あるが、特によく聞かれる説は、羊羹をシベリアの永久凍土に見立てたという説、カステラの部分を氷原に、羊羹の部分をシベリア鉄道の線路に見立てたという説、シベリア出兵にちなんだものだという説、日露戦争に従軍していた菓子職人が考案した説等である。

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【鯨羊羹】

「鯨羊羹」は、宮崎県宮崎市の銘菓。米の粉を練ったものである。餡子で挟んで蒸した和菓子。日持ちがしないため、「菓子の刺身」とも言われる。

『由来』

江戸時代、薩摩藩支藩の佐土原藩4代藩主・島津忠高が26歳で早世。その子・万吉丸は2歳にも満たない年齢であったため、世継ぎを巡って争いが生じた(松木じげん)。
その混乱の中、万吉丸の母・松寿院が「息子と藩が、大海を泳ぐ鯨のように力強くたくましく育って欲しい」と願いを込めて鯨に似せた羊羹を作らせた。
万吉丸は後に5代藩主・島津雅久となり、名君と慕われたという。

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