正月に行った無理な姿勢での長時間のマ-ジャン。その後遺症が腰痛となって、1月中旬に発症。
一時は歩けない程の痛みで、2週間ほどはベットの上での寝起きのみ。
1月末には、痛みをほとんど感じなくなったが、そこに大雪襲来。妻が除雪していたので、手伝わなくても良いと言われたのに、少し除雪の手伝い。
その結果、腰痛が再び襲来。
病院に行ってみたが、持病の頚椎症脊髄症の後遺症で、背筋部が弱っているので、無理な運動は厳禁、痛みがある時は、痛み止めを服用し、寝ている事との指導。
昨日から、腰の痛みはほぼ無くなったが、今度は、リハビリを休み、外出もしなかった影響で、下肢筋肉が落ち、歩くのが不自由な状態に。
リハビリで付けた筋肉の復活を期して明日から軽運動と、リハビリでのマシントレ-ニングに励まなければならない。
「ラジオ体操」とは国民の体力向上と健康の保持や増進を目的とした一般向けの体操の1つである。また、その体操用音楽をピアノ伴奏にのせて指導を行うラジオ番組。日本で単にラジオ体操と言った場合、「ラジオ体操第一」を指すことが多い。
「ラジオ体操」は、1922年4月にボストンの放送局が放送しており、1925年までに世界初の商用ラジオ放送局として知られるピッツバ-グのKDKAはじめ、ドイツなどでも同様の放送があったという。日本では、1928年8月1日から1ヵ月間、日曜を除く毎朝6時から、NHK大坂中央放送局が放送したのが最初であるが、既にあった徒手体操を指導員の号令のみで行い、伴奏はなかった。
後につながる日本のラジオ体操は、アメリカのメトロポリタン生命保険会社により健康増進・衛生思想の啓蒙を図る目的で考案され、1925年3月31日から広告放送として放送されていたラジオ体操番組が基となっている。放送開始に先立ち1923年に保険事業に関する調査のために訪米した通信省の役人・猪熊貞治がメトロポリタン生命保険会社のラジオ体操の企画を知り、1925年7月に『通信協会雑誌』で紹介した。猪熊は1927年8月、簡易保険局の会議において、昭和天皇即位を祝う事業としてラジオ体操を提案。1928年5月24日に簡易保険局、日本生命保険協会、日本放送協会の3者が体操の考案を文部省に委嘱した。文部省では体育課長の北豊吉を委員長とし、体育研究所技師の大谷武一などを委員として検討を重ね、10月29日に「国民保険体操」のま名称で発表、同年11月1日7時に天皇の御大典記念事業の一環として東京中央放送局で放送を開始した。実際の振り付けは郵便局員が全国に周知した。なお、全国放送は1929年2月11日から実施されたことになっているが、大阪や名古屋の放送局では同時刻に独自の体操番組を放送していたことがあり、この放送が全国放送として定着したのは1934年以降である。
現在の体操は3代目である。つまり過去2度改訂が行われている。終戦時、軍国的側面を助長するとされ禁止されたこともあったがその後復活している。
『ラジオ体操第一』
■初代-1928年11月1日~1946年4月13日。作曲-福井直秋。■2代目-1946年4月14日~1947年8月31日。作曲-服部正。■3代目-1947年9月1日~。作曲-服部正
『ラジオ体操第二』
■初代-1932年7月21日~1946年4月13日。作曲-堀内敬三。■2代目-1946年~1947年8月31日。作曲-深海善次。■3代目-1952年6月16日。作曲-團伊玖磨
『ラジオ体操第三』
1939年12月に制定されたが現存していないが、テレビ体操で放送される「みんなの体操」が初期にラジオ体操第三と呼ばれたことがあった。
1月27日に入院した義妹の千栄子の病院に長男の昌彦が見舞いに行ってくれた。
これは、義母が付き添いに27日に行って以来、ずっと一人寂しく食事しているようなので、激励の意味で何か旨いものを食べさせてやってほしいという、妻の希望を連絡した結果であると思う。これが無くても見舞いには行っていたと思うが、感謝。
千栄子からの連絡によると、横浜中華街にある水餃子の旨い店に行ったようだ。
千栄子本人は、入院治療の効果が出て、症状が改善し、4日に退院し、通院治療に切り替えるとの事。一先ず一安心。