道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

11/26 逸品⑥

2014年11月26日 | 日記

【十勝ワイン】

「十勝ワイン」は北海道中川郡池田町で作られているワイン。ワイン工場は「ワイン城」と言われる町営のブドウ・ワイン酒研究所となっている。

元々、池田町は産業が乏しく、加えて1952年の十勝沖地震とその後2年連続の凶作が重なって町の財政は破綻状態だった。
町民の暮らしも周辺に比べて貧しく、当時の町長であった丸谷金保が町内に自生している山ブドウをヒントに町営でワインの醸造に乗り出すことになった。

当然のことながらワインの醸造技術を知る者は町内におらず、町役場職員の大石和也をドイツのミュールハイムに国費派遣しライネル・マルゲートが営むワイン醸造所に飛び込みで修行し始めた。
また、つてを頼って戦後当時のソ連に抑留されワイン農場で働かされいた者を招いたという。

当時、ワイン酵母の国外輸出はドイツの国内法で禁じられていたが、マルゲートは大石の熱意にうたれ酵母の分配を黙認した。

1963年6月7に1klの試験醸造を始めが、寒冷地に向いた品種のブドウではなかったため冷害でほとんど収穫出来ず、醸造技術も未熟で品質は安定しなかった。
当然ながら売り物にならず、加えて本格的なワインが日本で受け入れられなかったことから町内の農家はブドウ栽培を放棄し町長を批判する声が多くあった。
しかし、ドイツ派遣で習得した技術と耐寒性の高い品種のブドウに切り替えるなどして1975年にってうやく商品化に成功した。

以降は生産量や品種の拡大、知名度アップに努めた。現在は品質も向上しており、本格的なワインが広く受け入れられるようになったことから、「十勝ワイン」として高い評価を受けるようになっている。
また、町民に対しても「町民還元ワイン」としいて安価にワインを提供し、普及につとめた。
ワインによる収益はトータルで20億円以上となり、町の財政を潤すことになった。

この池田町の町おこしの取り組みは後に大分県で展開される一村一品運動などに影響を与えている。

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【十勝ブランデー】

「あのダメなブドウでつくれるものを考えよう」そして誕生したのが「十勝ブランデーである」。

池田町ブドウ・ブドウ酒研究所が造る「十勝ブランデー」は今年、製造50周年を迎えた。
ワインの1963年の製造開始から1年後の64年11月20日に免許を取得したことにちなみ、同研究所は20日、50周年記念の3商品を発売。
国内で高い評価を受けるようになるまでには、職員たちの技術向上が背景にある。

プランデー造りは、64年の冷害が発端。完熟しなかったブドウの活用を模索していた“ワイン町長”の故丸谷金保が「他の酒は造れんかな」と職員に持ちかけたことがきっかけだった。

ブランデー造りには酸の強さが必要なため、ブドウが豊作の年はワインを、作況の悪い年はブランテーを造る戦略に行き着いた。
ただ、実際には、ブランデーはワインを蒸留して造ることから、原料に加えて、蒸留の技術だけでなく、樽に入れて熟成させる技術も重要。当初し自己流で造っていたという。

転機になったのは80年、同研究所職員を8ヵ月の長期間にわたり、仏・コニャック地方に研修派遣したことだ。渡仏したのは現在同研究所の技術専門指導員を務める廣瀬さん。
「蒸留も熟成も、本来のやり方をそれまで知らなかった。現地の蒸留所で学につれ、自分の中のモヤモヤが晴れていく感じになった」と振り返る。

ブランデー造りでワインを蒸留すると、温度の違いでアルコールだけでなく様々な成分や物質が出てくる。この際、ブランデーに不要なものが混じるのを避けるため、適切な温度管理と、蒸留の状態を確認することが欠かせない。

廣瀬さんは、コニャック地方の蒸留所で寝泊まりしながらこうした技術を学んだ。と言っても、教科書もなく手取り足取り教えてもらえるわけでもない。「まさに目で見てやり方を盗んだり、夜は作業員に酒を飲ませて作業の手順を聞き出したり。何より学んだのは、効率主義ではいいものは出来ないということ」。

帰国後、研究所の先輩や同僚、後輩にコニャックで学んだ蒸留・熟成技術を伝え、全ての工程を見直した。試行錯誤の連続であった。池田ならではのやり方も編み出しつつブランデー製造技術を向上させてきた。

技術研鑽を重ねていた93年、町内のブドウがまた冷害に遭った。ブドウを機械で破砕しようとすると、ブドウの実が硬く、機械からポンポンと跳ね上がるほど。
しかし、その93年産ブドウを原料にしたブランデーは、ブドウの香りが特徴的な原酒に仕上がり、50周年記念の商品となった。

製造開始から半世紀の筋目に際し、廣瀬さんは、「十勝は食材が豊富。ワイン・ブランデーは、食事との組み合わせや調理にも広く使える。十勝ブランデーの発信で、十勝の食文化の発展に一役買えるはず」とブランデーの可能性に期待している。

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11/25 逸品⑤

2014年11月25日 | 日記

【ミルクジャム】

こんがりと焼いたトーストに塗って囓ると、口の中に濃厚なミルクの風味が広がる。練乳よりもコクが深く、優しい甘みで、コーヒーや紅茶にも合う。

「十勝しんむら牧場」は、穀物飼料をなるべく使わず牧草中心の放牧酪農に取り組む。土づくりから拘って育てた牛のミルクが自慢だ。フランスの農村部で作られていたジャムにヒントにして、2000年に商品化した。

材料は、道産ビートを原料とする砂糖と、牧場で絞った牛乳だけ。
専用釜で量が3分の1ほどになるまでじっくりと煮詰め、トロリと仕上げる。
放牧の牛乳は季節や天候によって脂肪分などの成分が変わるため、スタッフの目で確認しながら、火力や材料の配合などを加減している。

プレーンのほか、バニラやメープル、ショコラ、抹茶など9種類の風味を取り揃え、季節限定のサクラなどもある。年14万本を売る、同牧場の看板商品だ。地元産の菩提樹蜂蜜を使った「ハチミツミルクジャム」も今月、発売した。

同牧場の新村社長は「牛乳の美味しさと多様な魅力を伝え、豊で楽しい食卓を演出したい」と話している。

上士幌町の同牧場に併設の「クリームテラス」や、さっぽろ地下街の「きたキッチン」、ネット通販などで販売している。

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【さかなみそ・にしんのおかげ】

昔から和食に欠かせないのが「みそ」。麹と塩、大豆を原料にした伝統的な醗酵食品だ。近年は、大豆の代わりに水産物を原料に使った「さかなみそ」の製造が、道内で広がりつつある。
水産加工の現場では、身に傷ついた、という理由で商品価値が損なわれた原料を有効活用てせきる上、自社で扱う水産物の付加価値向上につなげられる利点があるためだ。

「さかなみそ」は、道立総合研究機構食品加工研究センター(食品研)が、2003年から約6年かけて開発した「新しい調味料」だ。

着想のヒントになったのは当時、道内で商品化の動きが出ていた「魚醤」。大豆の代わりに魚を原料にして造った醤油だ。醤油は味噌と同様、大豆のタンパク質を麹に含まれる酵素で分解し、さらに酵母などによって醗酵させたもので、代用品の水産物はタンパク質を豊富に含む。「魚のみそだって造れるはずだ」。そう考えた食品研の浜岡研究主任らが、研究に着手した。

とはいえ、「さかなみそ」の開発は一筋縄ではいかなかった。通常の味噌造りの場合、醗酵を促すため、大豆が約2倍の重さになるまで水分を吸わせるが、魚は最初から水分が豊富だ。水分量が多すぎると醗酵が安定せず、酸味が増すなど味が損なわれるため、このコントロールに苦労した。

試行錯誤の末、浜岡氏らは、醗酵前に魚を蒸す時間を調整したりする方法を考案した。魚種によって対応は異なるが、08年頃から基本技術や原材料の配合割合を水産加工業業者らに公開した。

「さかなみそ」は通常の味噌に比べて強い旨味が特徴だ。代表的な旨味成分の「グルタミン酸」の含有量は一般に家庭で使われている「赤色米みそ」に比べ、鮭で造った味噌の場合は1.8倍程度に達するという。

そうした技術の提供を受けてニシンの味噌を製造しているのが、岩内町の「一八興業水産」だ。商品名は「にしんのおかげ」。麹と塩とニシンを原料にし、瓶詰め商品として09年から販売しており、これまでに累計600万円の売上を記録した。

同社の主力商品は、身欠きニシンと数の子。特に身欠きニシンは関西や北陸への出荷が中心だが、魚離れなどによる慢性的な消費低迷で需要が落ち込んでいる。在庫を抱えることも多くなり、「ニシンの良さを伝えられ、手に取りやすい商品を作らなければ」と悩んでいた頃、「さかなみそ」と出会った。

アラスカからの輸入する冷凍ニシンからは身に傷が付くなどして商品価値が無くなる冷凍ニシンが1%程度出る。
それらを味噌に加工すれば、魚はミンチにするので傷や折れは関係なくなる。地元の海洋深層水を使用したり、地元産のニシンとブレンドするなど工夫を凝らして商品化にこぎつけた。

「さかなみそ」の知名度はまだ低いが、現在、釧路市の「釧路フイッシュ」も12年から、スケソウダラを原料にした「廣助」、「鱈助」の2種類を、伊達市の中井商店では「キンキ」を使った「みそ」を開発中だ。

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11/23 逸品④

2014年11月23日 | 日記

【オホーツクの塩】

14年前に「つらら」から売り出されてから、一般の食卓だけでなく、その美味しさに惚れ込んだ多くの食品関連企業から引っ張りだこだ。

ポテトチップスやキャラメルなどの菓子類、焼肉のタレ、「オホーツク北見塩やきそば」などあらゆる食材の旨味を引き立てている。

製麺会社を営む南川さんが、亡くなった従弟の味噌醸造会社を引き継いだのを機に、原料の全てがオホーツク産の味噌造りに拘ったのが塩を作るきっかけとなった。

オホーツク海につながるサロマ湖の海水を1日10トン前後汲み上げ、釜で3日間煮詰めた上で、にがりを分離して作る。
「海水は季節ごとに変わるため、職人の舌を頼りに火加減を調節しながら仕上げます。ミネラルも豊富なオホーツク海の海水が美味しいから、塩も美味しい」と南川さんは力を込める。

現在は乾燥した道産ホタテの粉末を混ぜた「ホタテ焼塩」や「お握りの塩」、「歯磨き塩」などラインアップも増え、土産物として人気も高い。

湧別町の「道の駅愛ランド湧別」をはじめ、新千歳空港など、全道の主な土産物店で買える。

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【トマトのドレッシングソース】

茹で上げて冷水でしめた麺に絡めるだけで、冷製パスタが手軽に味わえる。野菜サラダやトンカツのソースなど様々な料理に使える優れものだ。

原料は4年まえから「余湖農場」で作付けを始めた「なつのしゅん」、「なつのこま」など調理用トマト。
製造は、「タレのソラチ」が請け負い、札幌のイタリア料理店のシェフらにも味の調整で協力を仰ぐなど、農家と企業の連携から生まれた。

原料に使うニンニクの味と香りを抑え、トマトの酸味をどう引き出すなどで1年近く試行錯誤を繰り返し、昨秋に商品化した。

普通の生食用トマトはツルを伸ばすための支柱を設ける必要があり、栽培に手間がかかる。
これに対し、調理用トマトは価格が割安な半面、地面にはわせる形で栽培するため、収穫時を除けば人手がさほどかからない利点がある。

余湖農園代表の余湖智さんは、「調理用トマトは、食品メーカーなどに膨大な需要がある」といい、道内を1大産地にしようと、近隣の農家などにも栽培を呼び掛けている。

農園の直売所や北海道どさんこプラザ、HUGマートなどで扱っている。

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11/22 逸品③

2014年11月22日 | 日記

【にんにくねり味噌】

「にんにくねり味噌」には、素材へのこだわりが凝縮されている。農薬や化学肥料を使わずに育てた大豆や道産の有機栽培ニンニク、それに地下70メートルから汲み上げた天然水を使って加工し、1年半近くかけてじっくり熟成させた。クマザサが防腐剤代わり。

肉や野菜につけて食べてもいいし、焼きおにぎりや豆腐田楽などにも合うという。

会社(味噌らんまん)は、豊かな自然環境や自給自足に近い暮らしに憬れ、東京や愛知、福岡、小樽など道内外から胆振管内洞爺湖町に移り住んだ29人が2010年夏に設立した。

味噌造りは、およそ10年前に複数の移住者が自家製の大豆で試作したのが始まりで、「当初は本州の知人らに送っていたが、結構美味しく仕上がったので、会社を興そうかという話になった」と、1年前に横浜から移住してきた総務・経理担当の川本さんは話す。

大豆の作付面積は20アールに上がる。営業マンや技術者など職歴も様々な社員の中になぜか食品加工に詳しいメンバーがおらず、試行錯誤しながら主力の「熊笹味噌」など商品数を増やしてきた。

洞爺湖畔の「道の駅とうや湖」、「洞爺水の駅」、札幌の「らる畑」などで買えるほか、同社サイトでも注文できる。

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【くりりんかぼちゃパイ】

函館の菓子製造会社・吉田食品が「地元素材にこだわった名物菓子を造りたい」と、昨年7月から販売を始めた。濃厚な甘さが特徴のカボチャ餡と、パイ生地のサクサク感が絶妙だ。

カボチャは渡島管内森町の、みよい農園で有機栽培された「くりりん」を使う。約2年前に「くりりん」と出会った吉田社長は「糖度が約25度と、普通のカボチャの約2倍あるんです」と抜群の甘さを絶賛する。

この「くりりん」をペースト状にし、道産のバターや生クリームを混ぜてカボチャ餡を造る。
函館・南茅部産の真昆布を粉末化し、パイの生地に練り込んでいる。甘い菓子に昆布という一見ミスマッチな組み合わせだが、昆布のほのかな塩味が、カボチャの甘さを引き立てる役割も果たす。

販売開始から1年余りで、同社の売上の1割超を占める人気商品に成長した。「有機栽培や地元産ということから、母親が安心して子供に食べさせられる点も評価されているのでは」と吉田社長。

函館を訪れる観光客だけでなく、地元客からも愛される商品になっている。

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11/21 逸品②

2014年11月21日 | 日記

【甘えびの燻製】

地元の前浜で採れたばかりの新鮮な甘えびを、一手間加えた燻製に仕上げた。殻ごとバリバリ食べられ、甘えびのコクのある味わいと燻製の香ばしさが、酒のつまみにぴったりだ。

南保留太郎商店のさまざまな燻製の中で、今や1番人気だ。
後志管内余市町は甘えびの産地で、小さすぎて売り物にならないエビを有効活用できないか、と地元漁師から相談を受けた南保社長が燻製?思い立ち、工夫を重ねて15年前に商品化した。

生きたままに新鮮な甘えびを塩だれに漬け、20度ほどの煙で長時間いぶす「冷燻」という手法で調理し、最後に高温で乾燥して仕上げる。
いぶすために使うチップも道産材のブナやサクラなどを用いている。

山崎専務は「新鮮なうちに加工するから、透明感があるピンク色の色合いも生かせました。この食感は、ほかでは真似できません」と話す。

根強いファンが多い店頭販売限定の「ヘラガニの燻製」は、この冬から地方発送を始める準備を進めている。

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【とかちマッシュ】

軽く火を通すと、香り豊かでコクのある旨味が広がる。生のものは、水煮と全然違う新鮮な味わいと食感が楽しめる。

「十勝の地の利と偶然が生んだキノコです」。鎌田きのこの池内社長は、「とかちマッシュ」誕生のいきさつをこう説明する。

もともとは、香川県の醤油製造「鎌田醤油」が新たな出汁素材を検討する中で、旨味成分が多い「マッシュルーム」に注目。
ばんえい競馬の厩舎の敷き藁から作った堆肥を使い、2007年にテスト生産したところ、試食した帯広市内のレストランから「欧州産と同じ品質だ。ぜひ譲ってくれ」と迫られた。

欧州では麦藁と馬糞の堆肥で「マッシュルーム」を生産する。日本でも生産農家はあるが、稲藁の堆肥によものが主流のため、欧州のような味わいではなかった。

十勝は有数の小麦産地で、ばんえい競馬があり、「実はマッシュルームの最適地だったことに、後から気付いたんです」と池内社長。09年に本格栽培を開始し、今では17棟の栽培ハウスで年に9作、計約250トンを生産する。

ホワイトとブラウンの2種類があり、全道の主なスーパーなどで1パック(100グラム)200円前後で販売。
「かさが少し開いて裏が黒くなったマッシュルームが、炒め物に最高です。ぜひ試してほしい」という。

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11/20 逸品①

2014年11月20日 | 日記

【エゾシカ肉缶詰】

十勝管内で狩猟したエゾシカの肉をニンジンやタマネギ、ショウガなどと一緒煮込んだ缶詰。醤油味の「大和煮」のほか、「味噌煮」、「カレー煮」の3種類を揃え、くせの無い、あっさりした肉の旨味が味わえる。

エゾシカによる農林業被害は年間60億円を超え、北海道は被害軽減のため、狩猟による駆除を強化している。
ただ、エゾシカ肉の用途は、「ジビエ」として各地のフランス料理店などで重宝される分を除けば、まだ限られている。

こうした中「キャンプ中や家にいる時でも気軽に食べれるように」と、自らもハンターとして猟に出る「狩人の蔵」の引地安久体表が十数年前に市販を始めた。

脂がのり始める8月半ば以降にとれるエゾシカの肉を使い、1週間ほど冷蔵庫で熟成させた後に加工する。

物珍しさから雑誌やネットなどで取り上げられることも増え、販売量も年々伸びているという。

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【宝ウニ缶詰】

ご飯やパスタに、ウニを混ぜて贅沢に食べたい。

生ウニは日持ちしないが、この缶詰なら急な思い付きにも対応できる。

日本海北部に浮かぶ離島・宗谷管内礼文町特産の「エゾバフンウニ」を蒸し上げた。口に含むと、磯の香りとウニ独特の甘みが広がる。

1缶3900円という高級品でありながら、大人気商品だ。新聞の「ご当地缶詰」の人気ランキング1位に輝いたこともある。昨年、冒険家の三浦雄一郎さんがエベレスト登頂の際にこの缶詰を携え、手巻き寿司の具にしたことが知られると注文が殺到した。

島のウニ漁がピークを迎える7,8月の間に水揚げされた新鮮なウニを使用する。
水揚げ後すぐに30分ほど蒸し、その後、礼文沖で採った塩を振るだけのシンブルな味付け。船泊漁協によると、半世紀ほど前から販売されているが、製造方法は当時から変わらないという。

同漁協の大村専務は「礼文のウニは高級食材の利尻昆布をエサに育った。だからとても濃厚な味になる」と胸を張る。

「エゾバフンウニ」に比べ粒が大きく、あっさりとした味が特長の「キタムラサキウニ」の缶詰もあり、こちらは2400円。

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11/19 売れ筋最前線(24)

2014年11月19日 | 日記

【かにめし】

弁当箱を開けると、温かいご飯の上に、細かくほぐしたズワイガニの身がびっしりと乗っている。口に運べば、舌の上でふんわりと溶け、凝縮された旨味が広がる。カニのハサミをイメージして盛り付けられた甘辛く煮たシイタケも、カニの味を引き立てる。

渡島管内長万部町のJR長万部駅前に本店を構える「かにめし本舗かなや」の「かにめし」は1950年の販売開始以来、駅弁などとして道南を行き交う旅人に親しまれてきた。5月の大型連休やお盆時期には、本店や同町内の直営ドライブインの分を含めて1日4千個も売れる。開店前から並ぶ観光客がいるほどで、従業員は息つく暇もない忙しさだ。

カニの味付けは塩、コショウと日本酒だけだ。本店では毎日、熟練の職人がその日に使う分を大鍋でいって作る。
タケノコと一緒にじっくりと火にかけて、香ばしさを引き出し、食感良く仕上げている。
創業者の孫で、現社長の長男の金谷圭一郎専務は「おいしく食べてもらえるよう、長年積み重ねてきた工夫がある。調理には細心の注意を払って居ます」と胸を張る。

長時間の作り置きをしないのも信条だ。駅弁は99年まで長万部駅ホームで旅行者に対面で売っていたが、今はそんな余裕はない。特急列車の停車時間は1分たらずしかないからだ。
その代わりJR北海道と協力し、札幌と函館を結ぶ特急「北斗」「スーパー北斗」の車内で乗客から注文を取り、長万部駅に到着すると、注文があった数の弁当を積み込む。

正確な注文数は駅到着の30分前、列車からの電話で初めて分かる。時には10分前のこともある。従業員が手分けして「かにめし」を弁当箱に詰め、駅に走る。これを1日12回、運行ダイヤに合わせて繰り返す。「できたての温かい状態で提供するため」だ。車内販売の弁当の売上で毎年1位という。

カニを使った弁当は道内外各地にあるが、「かなやのかにめしは、道内の元祖」。その起源は終戦直後の食糧難の時代にまで遡る。

「かなや」の前身である「長万部駅構内立売商会」の創業者、金谷勝次郎の妻・靜枝さんのアイデアで、余っていた長万部産の毛ガニを塩茹でして駅で売った。これが当たった。列車が長万部駅を過ぎると車内で黙々とカニを食べる人たちの姿が見られ、床にカニの殻がたくさん散らばった。当時の国鉄から苦情が寄せられ、清掃を担当する従業員を同乗させるほどだった。

ただ、長万部では毛ガニの漁期は夏場だけで、商機は限られる。勝次郎氏は各地からカニを集めて、1年中販売できる弁当作りを思いついた。
試作品を50以上作り、国鉄職員にも試食・味見してもらった。今とはほぼ変わりない形で完成するまで、およそ3年かかった。
痛みにくく、食べ易い「かにめし」は、塩茹で毛ガニを上回る人気を呼んだ。交通の主役が鉄道から自動車に移る風を読み、70年代には長万部町内の国道沿いにドライブインを開業し、バスツアー客も取り込んだ。

調理法も創業者の教えを守りながら、時代の変化に柔軟に対応してきた。噴火湾産の毛ガニ減少を受け、半分ほどズワイガニを混ぜるようになり、8年前からズワイガニ100%に切り替えた。それでも味や見た目はほとんど変わっていない。

「かにめし」の売上は91年、勝次郎の息子で2代目社長の勝之氏の時代にピークを迎えた。その後のバブル経済崩壊で徐々に売上が落ち込み「冬の時代」に。勝之氏の後を継ぎ、2004年に3代目社長に就いた妻・玲子氏は逆境を乗り越えようと、様々な取り組みに着手している。

道内外の催事に出かけて実演販売したり、5年間かけて冷凍の「かにめし」を開発して09年から通信販売したりーー。「かなやのかにめし」のDNAを守りながら、多くの人においしい弁当を届けたい」と、金谷専務は力を込めると、長万部の味を守り続けている。

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11/12 売れ筋最前線(23)

2014年11月12日 | 日記

【焼きたてチーズタルト】

「きのとや」の店内。黄金色に焼き上がったばかりの香ばしいタルトが並んでいるのはショーケースの中ではなく、このタルトを焼くのに使った縦60センチ横40センチほどの鉄板の上だ。
口に運べば、タルト生地のさくっとした食感と、クリームのさっばりした甘み広がる。味の秘密は、2度焼きして食感を高めた生地のほか、軽い風味の函館産、コクのある別海産、塩味が強めのフランス産の3種類のクリームチーズを独自にブレンドした特製クリームにある。

「焼きたてチーズタルト」の歴史はまだ2年半ほどと浅いが、原型の「チーズタルト」は2002年に発売されている。まず三越札幌店で売り、人気が出たため、2ヵ月後には同店を含む全三店で(当時)扱うようになった。
年間販売20万~30万個と、定番商品として順調に歩んできた「チーズタルト」に思わぬ転機が訪れたのは11年9月、シンガポールのスーパーで開かれた北海道物産展に出展したときのことだ。
クッキー、チーズスフレと一緒に「チーズタルト」を並べた。担当したのはきのとや社長・長沼昭男さんの長男で、当時オープンしたての新千歳空港店で店長を務めていた真太郎さんだった。

「チーズタルト」は現地で焼いて売ったが、陳列用の箱が途中で足りなくなり、やむなくオーブンから取り出した鉄板ごとカウンターに並べてみた。その瞬間、客の雰囲気ががらりと変わった。「飛ぶように売れ始めたのです。商品の見せ方でこれほど反応が変わるとは思いませんでした」と真太郎さん。
タルトの「焼きたて感」が結果的に強調され、前日に1日200個程度だった販売数は一気に千個
を超えた。

当時、新千歳空港店の売上高は低迷していた。真太郎さんは業績を伸ばすための起爆剤として、すでに「チーズタルト」に目を付けていたという。店の従業員の間で一番人気だったのに加え、自分も発売当初から大好きな菓子だったからだ。
「こんなに美味しいのだからもっと売れるはずだ」。そう考えていた折りに目の当たりにしたシンガポールでの“奇跡”が真太郎さんにヒントを与えた。

日本に戻ると早速、ショーケースの上に紙箱をいくつか並べて、そこにオーブンから出したばかりの「タルト」を鉄板ごと置いてみた。鉄板はまず1枚。客の反応は上々だった。2枚にするとさらに売れた。
ショーケースは、鉄板を置くための台に改造した。2ヵ月ほどで鉄板は5枚に増え、店の前には客が列をなした。
社内では異論もあった。「タルトを冷蔵庫に入れなくても大丈夫か」、「200度もの鉄板を店内で持ち歩くのは危険だ」、「せっかく導入した冷蔵ショーケースを改造するなんて」-。だが、真太郎さんには「売れる」という確信があった。

店の前では自ら試食販売を繰り返し、客の声をもとに改良した。さくっとした歯応えをもっと楽しんでもらえるよう生地を厚くし、より多くの人に支持されるよう、中に入れたブルーペリージャムを抜き「プレーン味」にした。
販売方法は焼きたて
限定。こうして12年4月、「焼きたてチーズタルト」が誕生した。 

当初は新千歳空港店限定だったが、半年後の10月にはJR札幌駅東口に「焼きたてチーズタルト」専門店「KINOTOYA BAKE」を開店した。今年2月には、真太郎さんが社長を務める子会社「BAKE」が東京・JR新宿駅前の商業施設内にも専門店を開き、道外初進出を果たした。今月1日には東京・自由が丘に道外2店目を開き、12月には埼玉・大宮にも出す予定だ。

販売数は12年が55万個、13年には170万個。14年は360万個を見込む。きのとやの主力商品のひとつに育った。
最近は「タルト」の評判を聞きつけたアジア諸国の企業からも問い合わせが増えており、「BAKE」は海外進出も検討している。

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11/10 売れ筋最前線(22)

2014年11月10日 | 日記

【木彫り熊】

「木彫り熊を土産物ではなく、優れたクラフトであり北海道の文化として見てほしい」。
札幌市在住の造形作家・山里さんが、木彫り熊の写真287点を納めた「北海道 木彫り熊の考察」を出版した。ページをめくると、大正の草創以来の多彩な木彫り熊の世界が表れる。

山里さんのアトリエに入ると、無数の木彫り熊が目に飛び込んでくる。その数大小300体以上。本の資料にするため、4年前からインターネットのオークションや骨董店などで買い求めたという。

木彫り熊は、尾張徳川家の旧藩士らが開拓した渡島管内八雲町が発祥の地。徳川家19代当主の徳川義親さんが大正期、スイスを旅した際、木彫り熊などの民芸品を発見。貧しい開拓農家の副収入にるようにと推奨した。

アトリエには、ガラスが手に入らず、釘で目を表現した八雲初期の熊をはじめ、アコーデオンを弾いたり、巨大なサケを引きずる熊、熊のマスクのなどでぎっしり。

本はこれらの熊に、八雲町開拓資料館などの収蔵作品を加えて収録した。床ヌプリさん、藤戸竹喜さんら彫刻家の作品のほか、「木彫り熊の3大流派」といわれる、八雲、旭川の松井梅太郎さん、空知管内奈井江町の堀井清司さんの熊などを紹介している。

そもそも本づくりを思い立ったのは、木彫り熊が惨めな扱いを受けているのを見たから。「親が亡くなった家なんかで、木彫り熊がよく処分されていた。機械彫りより、古い一刀彫りの熊が捨てられていた」。
「木彫り熊は技がすごくて一朝一夕で彫れるものではない。彫師の気迫と愛情が伝わってくるし、毛の向きが1本1本とても繊細」と語る山里さん。

「素材の木は北海道の森から生まれるし、熊はアイヌ民族にとって位の高い「カムイ」。木彫り熊は優れたクラフトであり、和人もアイヌ民族も近代以降の歴史を越えて共通の思いを持てる北海道の文化だと思う」と。

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11/09 売れ筋最前線?

2014年11月09日 | 日記

【テレビ父さん】

「あ、テレビ父さんだ」

真っ赤な体に緑の腹巻き。のほほんとした表情の着ぐるみ札幌・大道のテレビ塔に姿を見せると、修学旅行で訪れた小学生が歓声を上げ、集まってくる。札幌を代表する「ゆるキャラ」の一つだ。

ブログなどで発信する、ほのぼのとした口調も好評で、「癒やされる」と女性にも人気がが高い。父親のいない花嫁から頼まれて、結婚式で一緒に入場したこともある。

初めて登場したのは2002年。テレビ塔の運営会社「さっぽろテレビ塔」が、グッズ製作の工房「アルティスタ」に、売店で売るプリントTシャツを発注したのがきっかけだった。
同社からイラストを
頼まれたデザイナーの亀さんは当初、テレビ塔にペンキを塗るキャラなどを描いてみたが、どうも気に入らない。「駄洒落でいこう」。最後にそう考え、「テレビ塔さん」をもじってイメージを作り上げたのが「テレビ父さん」だった。

イラストを一目見た同社の永谷代表社員は「これは面白い」と大笑い。一方で、さっぽろテレビ塔の社内には重く強い空気が流れた。「うちの会社をバカにしているのか」。一部管理職には、そう酷評する声まであった。だが、「インパクトのある方がグッズは売れる」と直感した若手社員が2週間かけて上司を説得し、販売にこぎつけた。

Tシャツが売店に並ぶと、修学旅行で来ていた本州の女子高校生が反応した。「何これ」、「ここでしか売っていないだって」。あれよあれよという間に当初作った20枚が完売し、次々と追加発注するほどの人気商品となった。

その後、ポストカードも作ったところ、また飛ぶように売れた。それを見たテレビ塔幹部もすっかり気をよくし、父さんグッズは一つ、また一つと増えていった。今では、ぬいぐるみやラーメンなど約120種類ある。ほとんどのグッズはテレビ塔のみ販売し、売店の年間売上高約1億円の4割弱を占めている。

グッズ製作には秘訣かある。新しい商品を生み出すたびに亀さんがイラストを描き、同じ絵はどれ一つとして使わない。「ちょっとバカっぽくて自分で面白いと思う絵にしている」と亀さん。「テレビ父さん」に妻子がいるーなどの設定もグッズから広がった。

05年には最初の着ぐるみが出来上がり、07年ごろらか全国的なゆるキャラブームが起きたことも「テレビ父さん」の人気をさらに押し上げた。永谷代表社員は「コンテストでキャラを選んだりすると、平均的でインパクトのないものになりがち。最初からグッズしたのが良かった」と振り返る。

09年テレビ塔は“大劇震”に見舞われた。元社員らの売上金着服事件が起きたのだ。体質を刷新するため、新たに北海道銀行出身の高山氏が社長に就任。「信頼を取り戻そう」と取り組んだのが、「テレビ父さん」を前面に出す地域密着の活動だった。

10年から札幌近郊の幼稚園や小学校などを対象に、着ぐるみの無料出張を始めた。テレビ塔周辺にも姿を見せ、観光客や市民との記念撮影に積極的に応じるようにした。また、毎年12月には「テレビ父サンタ」として、市内の幼稚園にプレゼントを届けている。

地道な活動が奉功して、近年はテレビや雑誌などに取り上げられることが増えた。今年3月には人気グルーブSMAPのテレビ番組に各地のゆるキャラと一緒に出演した。女性雑誌のアンケートで、札幌在住者の一番好きなゆるキャラに選ばれたこともある。

こうしたブームに札幌市も乗り出した。13年には中央区役所から父さん一家に「特別住民票を贈りたい」と打診があった。だが、ここで一つの問題が起きた。実は、「テレビ父さん」はテレビ塔の非公式キャラ。ほとんど知られていないものの「タワッキー」という公式キャラが別にいるためだ。
これには市の担当者もびっくり。「非公式キャラに贈っても大丈夫ですか」とこっそり聞いてきた。
テレビ塔側も一時公式キャラ化を検討したが、出した結論は「面白いから今ままでいい」。特別住民票も非公式キャラのまま受け取った。
このゆるさ、遊び心こそ、「テレビ父さん」の魅力に違いない。

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11/08 売れ筋最前線⑳

2014年11月08日 | 日記

【宛名職人】

住所録に住所、氏名を打ち込み、支持通り操作するだけではがきに綺麗な文字が印刷される「宛名印刷ソフト」。

文化庁の昨年の調査によると、ソフトの普及などで年賀状の宛名を手書きず、印刷する人は4割を占める。

アジェンダが手掛ける「宛名職人」は20年余りで計700万本(パッケージ版)を売り、米アップル社のマッキントッシュ(マック)向けの宛名印刷ソフト市場でほぼ100%のシェアを誇る。

「アジェンダ」は1990年、札幌の別のソフト開発会社に勤めていた20~40代の技術者5人が設立した。30歳で社長に就いた松井文也(現会長)は「個人向けに独自のソフトを作りたかった」と当時を振り返る。

まずは電機メーカーなどからパソコン向けのプログラム制作を受託し、自社ソフト開発のための資金作りを進めた。3年後の93年、松井さんは社員にこう告げた。「初めての自社開発ソフトとして、宛名印刷ソフトを秋までに開発したい」。
念願のソフト開発に向けて一歩を踏み出した瞬間だった。だが、松井さんの胸中は複雑だった。バブル崩壊でメーカーからの受注が激減し、十分な資金を蓄える前に、収益源となるソフト開発を迫られることになったのだ。

松井さんは前の会社でワープロソフトの開発に携わり、宛名印刷ソフト作りのノウハウがあった。だが、既に90年ごろ他社がウインドウズ向けに印刷ソフトを製品化していた。印刷ソフトは一度、住所録を作ると、それを保存、更新し、何年も使えるのが特長の一つ。長く同じソフトが使われることが多く、先行した社が有利となる。

そこで目を付けたのが、他社が手掛けていないマック向けだ。住所や名前の長さに応じて文字の大きさや配置を自動的に整える機能の開発に力を注いだ。社員に届いた年賀状を研究し、札幌の書道家を訪ねて美しい住所の書き方などを教わった。

ソフトは予定道り半年足らずで完成した。ところが、販売してくれる会社が見つからない。一緒に開発したウインドウズ向けは札幌のゲーム開発会社が引き受けたが、マック向けは十数社から断られた。「マックのユーザーはデザイナーやクリエーターが多く、宛名書きなど自分でやる。ソフトの需要は少ない」というのが理由だった。

松井さんは自社販売を決断し「売れなければ開発は中止する」と決めた。当初の出荷本数は損益分岐の2千本。実際に発売すると、わずか2週間で品切れになった。問屋や販売店から追加注文が殺到し、社員総出で増産の手配や配達に追われ、最終的に1万本売った。松井さんは「宛名書きに困っている人が、これほどいるとは思わなかった。市場の大きさを感じた」と話す。

評判を聞きつけたアップル社は95年から3年間、マックのコンピューターに組み込む附属ソフトに「宛名職人」を採用。これによりマック向けの国内市場をほぼ手中に収めた。一度マックを買った人がその後、他社のソフトに乗り換えることはほとんどないからだ。

98年からは、ウインドウズ向けも自社販売に切り替えた。こちらは競合する社が多く、市場は飽和状態だ。現社長の千葉均さんは出版社に「年末にうる雑誌の付録に宛名職人を入れたCD-ROMをつけないか」と持ちかけた。提供するのは前年に発売した旧版。これからソフトを買う層にPRるのが狙いだ。

現在は数社と契約し、年間約100万部に挟み込む。「宛名職人の認知度が上がり、パッケージ版の売上にも波及している」という。

2012年にはアップル社「IPHONE」と、「IPAD」に対応したアプリを開発した。外出先でも手軽に年賀状を作成でき、パソコンソフトと同様にプリンターで印刷できる。

昨年発売した年賀ハガキは総発行枚数が約34億枚と、過去最高だった10年前より10億も減った。モバイル端末の普及で電子メールやツイッターで年賀の挨拶を済ます人が増えていることが背景にある。それでも千葉さんは「アプリが年賀状の良さを見直すきっかけになれば」と期待を寄せる。

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11/07 売れ筋最前線⑲

2014年11月07日 | 日記

【宮文刃物店】

「刃物専門 切れ味本位」
と書かれた看板をくぐって店内に入ると、ショーケースや壁に並んだ包丁に目を奪われる。出刃、柳刃、牛刀、麺切りー。よく見ると、その大半に「宮文」の銘が刻み込まれている。

札幌市中心部、狸小路2丁目にある「宮文刃物店」は、道内で知られる老舗のひとつ。3代目の宮本社長は「「お客様に『刃物のことなら宮文に行こう』と言われる店づくりを進めている」と力を込める。

包丁は売上の7割近くを占める主力製品で、店内に約千本を常備する。宮本社長のお勧めは、クロモリ鋼(クロモリブデン鋼)の「三徳包丁」。丈夫で錆びにくく、切れ味も鋭いことから、主婦を中心に高い人気があるという。

「宮文」はいわゆるプライベートブランドで、大阪や福井、新潟の提携先の工場で作られた包丁に銘を入れ販売している。「永年の付き合いで、品質の高さは折り紙付き」と、太鼓判を押す取引先ばかりだ。
さらに、販売時に店員が「切れ味がよくない」と判断すれば、店先で
研いでから客に渡すことにも拘っている。手間を惜しまずに、量販店などのライバルに差をつけている。

創業は1927年。宮本社長の祖父で、東京で腕のいいかみそり職人として評判だった文太郎さんが、大正期に札幌で開かれた北海道博覧会に出展したのがきっかりだ。

かみそりだけでなく、道内で流通する刃物類全般の品質が高くないと知り、「商機がある」と移住を決意した。東京に持っていた工場をたたみ、道外から仕入れた品物を小売りするため、狸小路4丁目に店を構えた。店名は自身の名前を縮めて「宮文」に決めた。

品揃えは、仕立て職人が使うハサミ、大工が使うノコギリやカンナなど幅広かった。ストーブのたき付けを作るマサカリや理髪店専用の椅子も扱い、昭和30年代には、包丁以外の売上が半分を占めた。

ところが、大工道具の電動化など時代の波が押し寄せ、それまで売れていた商品の人気が落ち始める。そんな中、家庭でも常に需要がある包丁の売上比率が高まって、同社の屋台骨を支えるようになっていく。

2代目の父・保次さんは販路開拓のために駆け回るだけでなく、知名度向上を生き残りのカギとみて、テレビやラジオのCMを始めた。保次さんが亡くなり、宮本社長が家業を継いだのは89年のことだ。

改装して一般客でも入りやすい店構えにしたりと工夫を重ねたが、徐々に店は手狭に。ちょうど手頃な物件が見つかったこともあって、思い切って狸小路2丁目に移転したのは2001年。販売スペースを広く取り、接客も強化した。

一度買った包丁は、手入れをすれば何十年も使える。そこで「販売と同じくらい大切だ」とみなすのが、刃物研ぎだ。料金は刃に欠けがない場合、1本当たり700円。ここ15年ほど据え置いており、他店で買った商品も同額。毎日50~150本程度持ち込まれる包丁を社員が手分けして研ぎ澄ます。

研ぎの名人も抱える。富田さん、宮本さんの2人はともに59年入社の間柄。熟練した手さばきで、1本研ぎ終えるのに5分もかからない。「本店に直接、持ち込んで頂ければ、普段なら1時間後に切れ味鋭い包丁をお返しできるように作業します」。
馴染み客から指名を受けることもあり、2人は「体が動く限り仕事を続ける」と声を揃える。

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11/06 売れ筋最前線⑱

2014年11月06日 | 日記

【ハッカ油】

ペパーミントグリーン色のキャップを外し、シュッと一吹き。ひんやりと、心地よい香りが鼻の奥を刺激する。ハンカチに吹き付けて顔を拭いたり、部屋に芳香を漂わせたり。紅茶の香り付けや入浴剤、虫除けにも、うってつけの1本だ。

発売は「北見ハッカ通商」の会社創業の1984年。これまで累計500万本超を国内外で売り上げた。30年を経た今も、同社の売上高の約4~5割を占める主力商品だ。

同社のハッカ油は、スーとするハッカ成分(メントール)を40%弱含む植物油だ。インド産のハッカ草を水蒸気で蒸留して成分を抽出する。昔ながらの方法で現地生産された原油「取卸油」を輸入し、兵庫の香料メーカーに精製(濾過や冷却、遠心分離など)を委託している。
そこで針状のハッカ脳(ハッカの結晶)と分離された無色透明のハッカ油を、北見の本社工場に運び瓶詰めしている。

取卸油、ハッカ油、ハッカ脳はそれぞれ香りが異なり、通常は医薬品や食品などに加えて使う。創業社長の永田さんは「ハッカ油をそのまま、一般消費者向け商品として売り出したのは、うちの会社が初めてだろう」と胸を張る。

その原動力になったのは郷土への愛着だ。かって北見を世界に知らしめたシンボルだったハッカそのものを製品の香料としてではなく、消費者に直接届けたかったからだ。

北見地域でのハッカ草の栽培は明治期に始まり、ピークの1939年に栽培面積は2万ヘクタールに達した。
北見産のハッカ製品は世界シェア約7割と、国際市場を席巻した。その黄金期を作り上げた源が「ホクレン北見薄荷工場」。
ここで、地場のハッカ草をハッカ脳とハッカ油に精製し、医薬品や歯磨き粉、菓子などの原料として世界中に輸出して、貴重な外貨獲得の役割を担っていた。

しかし、南米産などの輸入ハッカ草や、石油からつくる合成ハッカの台頭で衰退の一途をたどり、83年にホクレンの工場は閉鎖された。

そこで84年、永田社長が「北見を発展させたハッカの灯りを継承しなければ」と立ち上がった。ハッカ飴を作っていた家業の「永田製飴」を退職して起業した。

最初は天然ハッカ油が入った15キログラム1缶を仕入れ、小分けにして「ハッカ油ボトル」を発売した。翌年には、気軽にシュッと一吹きできる「ハッカ油スプレー」を売り出した。

とはいえ、ヒットへの道のりは「苦労の歴史」だった。

一つは容器作り。ハッカ油はプラスチックを溶かし、ガラスも変色させてしまう。さまざまな材質で試行錯誤を経て、化学実験のビーカーや試験管に使われる特殊ガラスを採用した。

さらに、北見農業は当時、大きな転換点を迎えており、逆風の中での船出を余儀なくされた。すでに農産物の主役はハッカ草からタマネギに交代しており、ハッカは「過去の遺産」と位置づけられ、「地域の後押しはほとんど無かった」ためだ。

知名度を上げるため、全国に販路を求めた。ハッカ油を手に使い方を詳しく説明しながら各地の百貨店などを行脚した。そうした地道な営業が実を結び、今では本州の物産展でなじみの商品に育った。

こうした「ハッカの継承と全国発信」を続ける一方、ここ数年、力を入れているのが国産ハッカの復活だ。

2004年に北見でハッカ草の試験栽培を始め、2年後にはオホーツク管内でハッカ草の契約栽培をスタートさせた。13年には農業生産法人の北見ハッカ研究所を設立し、北見市仁頃地区でハッカ草の栽培を開始した。同研究所によるハッカ畑の面積は現在約2ヘクタールで、まずは約10ヘクタールまで広げる計画だ。

収穫したハッカ草を精製して作ったハッカ油とハッカ脳は、自社製品の原料にする量を確保できるようになってきた。今年6月に発売した「ペパーミントキャンディー」と、顔の汗も拭けるウエットティシュ「ミントフェイス」はともに、北見産ハッカ草を原料に使っている。

今はまだ、すべての商品原料の9割程度は輸入に頼っているが、一歩ずつ北見産ハッカの比率を高めて行くのが目標。「北見にか無い歴史を踏まえ、地域資源であるハッカの再生を目指す。そのために生まれた会社ですから」。社長はそう力を込めた。

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11/05 売れ筋最前線⑰

2014年11月05日 | インポート

【初音ミク】

8月28日、大阪市郊外のコンサート会場は観客約五千人の熱気であふれていた。黄緑色の長髪を二つに束ねた少女がギターを肩に登場すると、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。

「ミク最高」
主役はCGで描かれたバーチャル歌手、「初音ミク」、16歳。プロジェクターで映し出されたミクと仲間のバーチャル歌手が生バンドの演奏で、ポップスなど25曲を熱唱した。

曲は全てネットで発表されたアマチュア作家などの作品。「ミク」を開発した「クリプトン・フューチャー・メディア」社長の伊藤さんは「日本人は昔から一般の人が和歌を作って楽しんできた。創作好きのアマチュアリズムの層の厚さがミクを育ててきた」と感慨深げに語る。

「未来から来た初めての音」を意味する「初音ミク」は「歌うソフトウェアだ」。パソコンで旋律や速さ、歌詞を入力すると、女の子の声で各音節を滑らかにつにぎ合わせて歌を作り出す。伴奏も付けられた「アイドル歌手をプロデュースしているような感覚」(クリプトン)を味わえる。

「クリプトン」はパソコンで制作する音楽「デスクトップミュージック(DTM)」向けに、欧米などから仕入れた楽器の音や効果音など「音の素材」を販売する会社だった。数十万程度のDTM作家向けの狭い市場から抜け出そうと、2001年に一般向けに携帯電話の着信メロディー配信を始めた。当時、着メロ開発で交流のあった楽器販売のヤマハから開発中かの「ポーカロイド」を紹介さたのが契機となった。

ポーカロイドはパソコンを使って、人の声を合成して曲を作る技術。それまで楽器の音は再現できても、人の声を滑らかにつなげるのは難しかった。
ポーカロイドもまだ「人であり、人でないような歌声」だった。だが、伊藤さんはその不完全さにかえって魅力を感じた。

新製品の開発に着手し、04年11月、ミクの前身の歌声合成ソフト「MEIKO」を発売した。パッケージにアニメキャラクターのようなイラストを添えたところ、千本売れるヒットと言われる業界で、初年度だけで3千本と異例の売れ行きだった。

「もっと幅広い人が楽しめる商品が作れないか」。06年末、より人間らしく滑らかに歌声を作れるポーカロイド改良版ができたのを機に、「ミク」開発プロジェクトか始まった。

「MEIKO」は東京などでライブ活動している女性歌手の声を素材に使った。しかし、伊藤さんは「プロの歌手のパワフルな声より、かわいらしい16歳の声の方が幅広い共感を得られる」と、声優の声に着目した。机の上でほこりをかぶっていた声優名鑑をめくった。
500人以上の声のサンプルを取り寄せ、「素直で遠くまで通り、機械的になりにくい声」を探し出した。
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作りにも凝った。「16歳、158センチ、42キロ」とプロフィルを設定した。キャラクターはネットで出会った千歳市出身のイラストレーター、KEI(ケイ)さんに依頼した。

そして、07年8月のデビュー。折しもユーチューブなど動画投稿サイトが普及し始めたころだ。発売数日後には自作の「ミク」の歌をネットで発表する人が相次いだ。ネット上には瞬く間に、踊りながら歌う「ミク」のCG動画やイラストがあふれた。
伊藤さんにも「音楽以外の創作活動に広がるのは予想外の展開」だった。さらに創作を活発にしたい、とクリプトンは非営利活動に限ってキャラクターの著作権を解放した。

ソフトの販売本数は11万本超だが、動画やイラストのネットへの投稿数はそれぞれ100万件単位。「ミク」の名付け親で開発責任者の佐々木さんは「ソフト購入者だけでなく、ネット文化全体でミクを盛り上げた」と強調する。

今年5月、「ミク」は米国の人気歌手レディー・ガガの世界公演の前座として登場したほか、ジャカルタのコンサートにも出演し、英語やインドネシア語で歌った。「ネット上に存在するミクに国境はない」と伊藤さん。ミクの世界はどこまでも広がる。

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11/04 売れ筋最前線⑯

2014年11月04日 | 日記

【ホテル・ラビスタ函館の朝食】

ビュッフェ台の上で宝石のように輝く山盛りのイクラ。1,2,3,4回-。お玉で遠慮なしにすくい上げ、丼をオレンジに染め上げる。イカとサーモンの刺身をトッピング。自分の好みを100%反映した海鮮丼に、新婚旅行中の奈良県の久保さんは「朝からこんな海鮮が食べられるなんて」と興奮を隠さない。

函館の観光スポット、ベイエリアの赤レンガ倉庫群にある「ホテル・ラビスタ函館ベイ」の朝食は、世界最大の旅行口コミサイト、トリップアドバイザーの「朝食の美味しいホテル」で2011年から2年連続日本一に輝き、昨年と今年も2位を維持する。

2階の朝食専用会場では毎朝、会場30分前の午前6時には数十人かん列をなし、同10時の終了まで1日平均約600人の宿泊客でにぎわう。

約60種類のバイキングメニューは、7年前の開業当時から基本は変わっていない。目玉は「函館の食」の代表として全国に知られる海鮮丼。イクラとイカ、甘えびの刺し身、生タラコを常に用意し、サーモンとマグロの刺し身も日替わりそで登場する。これらの具材すべてが盛り放題で、自由にアレンジできる。ご飯で刺し身が温まるのが嫌なら、海鮮を別盛りにして刺し身定食にしても良い。

イカはもちろん函館産を使う。1日に25~35キロ使用するイクラも道内産で、川に遡上する前の鮭から取れたものを仕入れる。遡上後に比べ値段は2割ほど高いが、仕入れ前に必ず試食するという酒井料理長は「皮が柔らかくて美味しい」と妥協しない。

海鮮丼以外も例えば、道内産牛肉の大きめの角切りをゴロッと煮込んだビーフシチューは人気の的。焼きたての「炙り焼き」に使う野菜など、食材の大半が道内産や国内産だ。

クロワッサンなどのパン類は、季節ごとに柔軟に種類の変更に対応してもらうため、あえて個人店に注文を出している。ゆっくり味わってもらおうと、わざと入り口の狭い瓶に入れたプリンなど、「遊び心を出したメニュー」も少なくない。

こんな拘りの結果、料理の原価率は「普通のホテルでは考えられない高さ」だが、そうまでするのは、朝食がホテルの価値を決めるーと考えるからだ。
宿泊客にとって朝食は、ホテルでの最後の大イベント。朝食の印象が、ホテルそのものの印象として記憶に残る。鈴木総支配人は「お客様が気持ちよく1日をスタートしてくれればいい。朝食で儲けるつもりは一切ない」と言い切る。

とはいえ、こうした戦略は宿泊客の増加になかなかつながらず、年間稼働率は開業した08年が46.8%、09年も54.6%と低迷が続いた。日によって客数の変動が大きく、見込みで仕入れた食材を廃棄し、損失が膨らむ悪循環に陥った。

それでも、ホイルを運営する「共立メンテナンス」の石塚会長だけは「絶対大丈夫だ」と言い続け、この朝食のスタイルを変えさせなかった。

石塚氏は社長だった05年、自ら函館のホテル用地を視察し、建設にゴーサインを出した。土地を見た瞬間、朝食のメニューを含むホテル全てのイメージが出来上がっていたという。海鮮の街・函館を体現した朝食こそが、宿泊客に道外では体験できない驚きを与え、やがて心をつかむと確信していたのだ。

その確信は見事に結実する。朝食の評判が口コミで広がり、朝食を楽しみに宿泊先に選ぶ人が増えた。年間稼働率は毎年10ポイントずつ上昇、13年には市内ホテルの平均を約10ポイント上回る90.1%に達した。
観光シーズンの夏はほぼ満室状態。今年8月の稼働率は天候に恵まれなかったにもかかわらず99.5%に達した。
朝食の待ち時間が長くなるという別の問題が起きたが、昨年4月にビュッフェ台を1列から2列に増やして解決した。そのビュッフェ台を常時3人で管理する40~50代の女性パートスタッフも大きな戦力。料理の補充や台の清掃を手際よくこなしながら、利用客の要望をキャッチする。海鮮丼用に小さな丼が加わったのは、彼女たちの発案だ。

「1位を目的にすることは今までもこれからもない」。考えるのは顧客の満足だけ。結果は後からついてくる。

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