道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

05/31 ライスバーガー

2014年05月31日 | 食・レシピ

今、テレビでマツコデラックスが宣伝している「ミスドのライスバーガー」を購入して来ましたので、早速試食です。

この「ライスバーガー」はモスバーガーの製品をミスドで販売するという企画で誕生したものです。
2種類のバーガーを販売していますが、今日購入したのは「坦々牛焼肉」です。

焼きおにぎりのようなライスに挟まれているのは、坦々味の焼肉(挽肉)と刻みタマネギ、チーズなどです。
普段「バーガー」類を食べることはないので、なかなか美味しく感じました。
今度はモスバーカーの店舗で同じバーガーを購入して味比べしなければなりません。

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05/31 けんぴ&ぬれせんべい

2014年05月31日 | スイ-ツ・お菓子

【けんぴ】

「けんぴ」は、高知県の郷土菓子であり、和菓子、干菓子の一種である。堅干、犬皮と当て字にする事もある。堅干という当て字の通り、堅めで歯応えのある菓子である。
土佐の伝統菓子として贈答品や日常のお茶請けとして用いられている。また茶の湯で用いられる場合もある。

『製法』

製法は小麦粉に砂糖・水を加えて堅めに捏ねた生地を棒状にして適宣伝に切り、オーブンで焼く。

『起源』

起源は諸説あり、唐菓子から発展した説、室町時代に明から渡来した点心の一つである「巻餅」説、安土桃山時代に土佐の名産であった「白髪素麺」や麩の製法を応用した説などがある。この説によると、1601年に土佐一国を拝領した山内一豊が入国して来た時に、西川屋才兵衛という者が一豊に献上した菓子が「けんぴ」の始まりだとされる。現在、「けんぴ」の製造元である西川屋はこの説を主張している。

異説もある。紀貫之が930年、土佐の大湊に立ち寄ったとき、土地の人々が紀貫之を訪ね、古くからこの土地に伝わる、米麦の粉に蜜、甘酒、鶏卵などを小麦色に焼いた菓子を献上したところ、貫之が大いに喜んだとする話も伝わっている。貫之は、病弱な人もこれを食べれば肥(ふと)り、健康が増進する評して、「健肥」とつけられたとする説もある。

また、「けんぴ」と呼ばれた砂糖を加えて練った小麦粉にゴマとクルミを入れ焼き上げた、「けんぴ」に類似した菓子の存在も江戸時代の文献に見られる。土佐において室町時代から続くものとされるが、現在の「けんぴ」とは原材料が少々異なる。0

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【ぬれせんべい】

「ぬれせんべい」は、日本の菓子であり、煎餅の一種。

『概要』

煎餅の生地を焼いた直後の熱いうちに醤油に漬けることで、しっとりとした歯ざわりと濃厚な醤油味の煎餅となる。

銚子市は、米の名産地であると共に醤油の名産地であり、古くから煎餅を作るところが多く、近隣に煎餅の観光名所もある煎餅の産地である。銚子市の米菓店「柏屋」2代目店主の横山雄次が考案し、1960年ごろから規格外品の「おまけ」として頒布し始めた。1963年、商品化。「ぬれせん」は柏屋の登録商標である。当初は湿っているという苦情も多かったが、口コミで人気が高まった。

現在は複数の業者が参入している。各店はそれぞれ特徴を持った商品を販売しており、師弟関係の「イシガミ」と「銚子電気鉄道」でも風味がかなり異なるという。最近は健康志向で薄味の商品も増えてきた。
現在では千葉県北部から茨城県、埼玉県東部など広範囲で同様の製法による「ぬれ煎餅}が製造されている。

『銚子電気鉄道のぬれ煎餅』

千葉県銚子市の地方私鉄である銚子電気鉄道(銚電)は、1995年より「銚電のぬれ煎餅」の名で「ぬれせんべい」を製造販売している。
慢性的に経営難という問題を抱え続ける同社の増収策として位置づけられ、先行していた「イシガミ」が銚電を支援するため無料で技術を指導した。

仲ノ町駅構内にあった変電所が移転したため、跡地に「ぬれ煎餅」工場が作られた。ほかに犬吠駅でも製造の実演・販売をしている。
仲ノ町駅の南隣にはヤマサ醤油の本社と銚子工場があり、銚電の「ぬれ煎餅」にはヤマサ醤油の「ぬれ煎餅専用醤油だれ」が使われている。味の違う3種類のバリエーションがある。

2006年11月18日、運転資金の不足に陥っていた銚電は、自社のサイトに「ぬれ煎餅」を買ってくれるよう呼び掛けた。「電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」という訴えに対して鉄道を趣味とする人や「2ちゃんねらー」などの多くの人が反応して拡散されたこともあって通信販売による注文が殺到、極度の品不足となったため、通信販売を一時停止したこともあった。
これらは、新聞や放送局などのマスコミ各社も報道した事から、この「ぬれ煎餅」は全国にその名が知られることになった。2008年5月に通信販売を再開し、現在はサイトで購入できる。

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05/29 芋ケンピ&あんまき

2014年05月29日 | スイ-ツ・お菓子

【芋ケンピ】

「芋ケンピ」は、サツマイモを短冊状に切って植物油で揚げ、砂糖を絡めて作った、スナック系の和菓子。「かりんとう」と類似したところがあるためか、「芋かりんとう」という別称がある。

『概要』

砂糖のコーティングにより表面は生の状態より硬い食感になっており、容易に折れやすいものの歯応えがある。表面にゴマ和えるものも多い。もっぱら菓子として食され、料理の食材等に利用されることは少ない。

「芋ケンピ」は、小麦粉を使った和菓子の「けんぴ」とは主原料も製法も全く異なるが、派生して作られたとされる。

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【あんまき】

「あんまき」は、愛知県知立市名物の和菓子。

薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。餡は小豆餡、白餡、抹茶餡の3種類ある。餡と一緒に栗が入っているもの、餡と一緒にカスタードやチーズが入っているのもある。また、これを揚げた「天ぷらあんまき」も販売されている。

市内に「あんまき」を出す店は何軒かあるが、発祥の店と言われているのは「小松屋本家」である。また、ドライブインや主要駅などに出店している「藤田屋も広く知られており、愛知県内のスーパーや上郷サービスエリリアなどに常設の販売店を置く他、主要駅で出張販売も行っている。

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05/28   南部煎餅&草加せんべい

2014年05月28日 | スイ-ツ・お菓子

【南部煎餅】

「南部煎餅」は、小麦粉を原料にした煎餅の一種。八戸南部氏が藩主だった旧八戸藩地域に伝承の焼成煎餅である。
青森県南部地方、岩手県全域が主な生産・消費地で、同地域の名物になっている。

『由来』

その由来には諸説あるものの、大方は「長慶天皇創始説」を取っている。

「長慶天皇創始説」

南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇か名久井岳の麓(現・水戸郡南部街)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家から蕎麦粉とゴマを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の「南部煎餅」の始まりであるとする説である。

さらに天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松に作らせ、天皇は煎餅に赤松の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼き入れることを許したという。現在の「南部煎餅」には確かに「菊水」と「三階松」の紋所か刻まれている。昭和20年代初頭、八戸煎餅組合によって「南部せんべい」の創始起源の再整理が行われた際、この説を中心に整理された。

「八戸南部氏創始説」

応永18年の「秋田戦争」で八戸軍の兵士たちが戦場で蕎麦粉にゴマと塩を混ぜ鉄兜で焼いて食べたところ、将兵の士気大いに上がり、戦勝することが出来た。その後多くの合戦に携行され、「南部せんべい」の始まりとなったとする。

「キリスト創始伝承」

昭和10年頃に新郷村の盆踊り「ナニャドラ」から、突如誕生した新郷村「イエス・キリスト日本渡来伝説」と共に湧いた話の一つ。ゴルゴダの丘での処刑を逃れたキリストは、シベリア経由で日本に渡来した。八戸の八太郎に上陸して新郷村の沢口や迷ヶ平で生活したという。この時、キリストの郷里で食べていたパン(マッツアー)に似せて作ったとも、モーゼ伝説におけるマナだともいう。聖書ではマナは煮ても焼いてもよいとされ、煎餅状にしたものが、現在の「南部せんべい」の始まりであるという説である。

『歴史』

元々は八戸藩で作られた非常食である。現在は青森県と隣接する岩手県にまたがる地域、そして北海道にも存在する。

旧弘前藩側の津軽地方では「津軽煎餅」、「八戸煎餅」と呼ぶ。これは青森県西側に位置した弘前藩初代藩主・津軽為信は元々主南部家の家臣であり、南部家の領土の一部を後の弘前藩として独立したため、南部家支配下時代の風習がそのまま残ったことに由来する。

『概要』

小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作る。これは、日本の古い煎餅作りの方法である。縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴。

通常の「白せんべい」と呼ばれるものの他にゴマ、クルミ、落花生などを加えて焼いたものもある。近年ではイカ、カボチャ、リンゴ、ココアなどバリエーションが豊富である。クッキー状の生地で作られるものもある。

「白せんべい」はそのまま食べる他に、水飴や赤飯を挟んで食することもある。水飴を挟んだものは「飴せん」と呼ばれ、津軽地方の「津軽飴」を用いることが多い。

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【草加せんべい】

「草加せんべい」のルーツについては諸説あるが、最も親しまれているのは「おせんさん」説である。
草加が日光街道の宿場町として栄えた頃、「おせんさん」という女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を売っていた。
この団子はたまに売れ残ってむしまうこともあった。団子は日持ちがしない。おせんさんはその団子を捨ててしまうのはもったいないと悩んでいた。ある日、茶屋の前を通りかかった侍から「団子を平らにつぶして天日で乾かし、焼き餅として売るむというアイデアをもらう。
早速焼き餅を作って売り出したところ、たちまち評判となり、その焼き餅は街道の名物になったという話が語り継がれている。

草加の観光マップなどで紹介されるこの話は、実は昭和時代に作られた物語である。

『歴史』

草加は昔から米所と言われ、多くの米が採れたことから、農家の人達は余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていた。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになる。この頃から保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まって行ったと考えられている。
当初は生地に塩を練り込んだものであったが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いた煎餅に醤油が塗られるようになった。
明治後半になると、煎餅屋が増えてくるが、当時は煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていた。

大正時代以降、煎餅の認知度が高くなる。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにある。
これが「天皇が召し上がったおいしい草加の煎餅」として名称が広がっていった。この頃から煎餅作りは地場産業として発達していった。

昭和に入っても順調だった煎餅産業は、太平洋戦争の激化から配給物資の統制により材料の米が手に入らず、煎餅屋は次々に廃業。警察の厳しい闇米取締の中、どうにか材料の米を手に入れて製造を続けた業者もいたが、煎餅産業にとって受難の時代がしばらく続いた。

しかし、この時危険を冒してまでも技術の伝承を途切れさせなかった事が後に幸いした。

昭和30年代米の統制解除や高度経済成長の波に乗って、駅屋デパートでの即売会などで、「草加せんべい」の知名度は飛躍的に上がった。

しかし、「草加せんべい」の知名度が上がるにつれ、草加以外の煎餅屋の製品や、異なる製法によるものに「草加せんべい」の名称を使う業者が横行し、その結果「草加せんべい」は全国的な知名度を得たものの、類似品や模倣品によって信頼が低下してしまった。
こうした状況を打開し、正真正銘の「草加せんべい」ブランドの復権と確立に向けて、草加市と業者が一致団結し、「本場の本物」の設定に続き「地域団体商標」を登録した。

『本場の本物』

その地域で伝統的に培われた「本場」の製法とその地域の材料を使った「本物」の味を作り続ける加工食品に対し、農林水産省が所管する「食品産業センター」が認定する地域食品ブランド表示基準により、平成18年に「草加せんべい」他6品目が第一号として認定された。
「草加せんべい」の基準は次のとおり。

・製造地ー草加・八潮・川口・越谷・鳩ヶ谷で製造

・材料ー関東近県で収穫された良質の粳米

・製造ー最低10年の経験を持つ職人が製造を管理

・焼き方ー押し瓦での型焼き叉は押し瓦方式を取り入れた堅焼き

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05/17  石焼き芋&大学芋

2014年05月28日 | スイ-ツ・お菓子

【石焼き芋】

「石焼き芋」は、サツマイモを加熱した、日本の食品である。焼き芋の一種であり、加熱された石を利用する。

『概要』

サツマイモを熱した小石の中に埋めて、間接加熱によって焼いたもの。間接的にゆっくり加熱することで、アミラーゼが、デンプンを麦芽糖に変える。そのため通常の焼き方よりも甘くなる。

焼き芋屋が屋台や軽トラックに専用の釜を積み売り歩姿は、日本の冬の風物詩のひとつである。売り歩く際には、「いーしやぁーきいも、おいもー」としいった独特の節回しで呼び掛けるのが定番で、地域によっては「ポー」あるいは「ピヨーー」と聞こえる音が鳴る独特の笛の音を響かせて街を巡回する。この笛は芋を焼く窯に取り付けられており、排ガスの圧力で鳴る仕組みになっている。
焼かれた芋は、紙袋に入れられたり新聞紙や銀紙で包まれて渡される。

最近では家庭用の「石焼き芋器」が市販されており、家庭でも手軽に「石焼き芋」を楽しめるようになってきている。屋台が減少した今はスーパーの軒先での路上販売やコンビニなどでも売られている。

「石焼き芋」に適した品種として「紅あずま」、「鳴門金時」や「ベニオトメ」が挙げられる。

『焼き芋』

石焼き釜を使わずに焼いたものは、単に「焼き芋」と呼ばれる。

日本では昭和やそれ以前の時代において、冬の時期に道路や庭に積もった落ち葉を集め、焚き火として燃やす際に、一緒にサツマイモを入れて焼く光景は、冬を物語るものとして扱われ、冬を表す季語ともなっていいる。
こちらは「石焼き釜」とは違い、裸火を使うことから火加減が難しいなどの問題もあるが、上手に焼ければ甘い風味を味わえる。
ただ、2002年12月に施行された「改正廃棄物処理法」により、一部の例外を除いてゴミを野焼きすることが禁止された。焚き火などの軽微なものは例外に該当するが、産業廃棄物は量の如何を問わずに禁止されているほか、地方自治体が落ち葉などを可燃ゴミとして排出するように指導している場合もある。

焦がさないようにするには濡らした新聞紙やアルミホイルに包んで焼くと良い。家の中で作る場合は、石油ストーブの上に置いたり、オーブンや電子レンジでも作られる。

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【大学芋】

「大学芋」は、油で揚げたサツマイモに糖蜜を絡めた日本の菓子てある。

『概要』

家庭でも簡単に作る事ができ、栄養価も高く、甘さと食べ応えがあることから、おやつとしての人気が高い。主に、関東地方など東日本でよく食べられる。食用サツマイモの生産量が日本一の茨城県などでは、ご飯のおかずの一品として「大学芋」を食べることもある。

中国には「大学芋」よりも砂糖を多く使った、異なる食感の飴がかかった「抜絲地瓜」などがあり、それに近い物が関西地方で「中華ポテト」としてよく食べられている。ただし、中国風あるいは関西風の堅い飴をかけても、一晩程度放置すると、サツマイモや空気中に含まれる水分によって飴が潮解して、液状の蜜に変化してしまうことが多い。

『歴史』

「大学芋」という名は、大正時代に、東京の神田付近の大学生が好んで食べていたため、付いたといわれる。
また、昭和初期に東京大学の学生が学費を捻出するためにこれを作って売ったのが名前の由来だという説もあるが、「大学芋」のメーカーである「台東氷業」の話では、東京大学の赤門の前に三河屋というふかし芋屋があり、大正初期に蜜に絡めた芋を売ったのが大学生間での人気を呼びこの名が付いたという。三河屋は1940年まで門前で営業していた。早稲田大学のある高田馬場周辺が発祥であるともされる。

元々は、中華料理であった可能性がある。1912年に出版された「実用家庭支那料理法」に「蜜餞紅薯」という料理が掲載されており、甘藷の砂糖蜜がけと説明されている。これに記載された作り方は、皮を剥いたサツマイモをラードでキツネ色に素揚げしておき、別途鍋で煮た砂糖汁を糸が引く程までに煮詰め、揚げたサツマイモを投入してから、くっつかないように冷やすというもので、ゴマをまぶさない以外はほぼ「大学芋」である。

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05/26 チーズ饅頭&水まんじゅう

2014年05月26日 | スイ-ツ・お菓子

【チーズ饅頭】

「チーズ饅頭」は、宮崎県で製造販売されている饅頭。餡の代わりにチーズが入っている。

宮崎県の人なら誰もが知るお菓子だと言う「チーズ饅頭」は、現在、県内にある250の店でと取り扱っている。

「風月堂」、「南国屋今門」、「わらべ」の3社がそれぞれ元祖を名乗り販売しているが、実際の元祖は曖昧であるが、県民は気にしていない。

チーズ饅頭を製造している250の店舗では、それぞれに特徴があり多種多様で各店のこだわった味にそれぞれファンがいる。県民の多くは自分好みのチーズ饅頭を探求し続けている。

中には普通のチーズ饅頭に宮崎を代表する宮崎マンゴーをはじめ、バナナやブルーベリーのジャムを包み込んだ珍しいチーズ饅頭など、南国宮崎らしてトロピカルな味を楽しめる物もある。

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【水まんじゅう】

「水まんじゅう」は、大垣市を代表する夏の風物詩。元々和菓子処で水の質の良い大垣ならではの水菓子の代表的なものとして江戸時代末期から庶民に大いに好まれてきた。

上質の葛粉と漉し餡を使い、大垣の水で仕上げたもので、独特の「つるり」とした舌触りが人気である。

「水まんじゅう」は葛澱粉で餡を包んで水で冷やした水菓子である。
明治30年頃、菓子屋・上田屋文七が、水につけておいても流れない「葛粉」で餡を包むことを考案し、蕨糊の適量を葛澱粉に混ぜて「水まんじゅう」を作ったものである。

平成7年、大手製パン会社が「水まんじゅう」の商標登録を特許庁に出願した。大垣市内の業者は「対策委員会」を設け、発祥の地であることの証明書を市長、医師会、鉄道会社などから28通集め、街を挙げて異議を申し立て「大垣名物」の名を守った。

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05/24 たい焼き&今川焼き

2014年05月24日 | スイ-ツ・お菓子

【たい焼き】

「たい焼き」は、鯛の「焼き型」に入れて焼いた食べ物であり、餡入りで小麦粉主体の和菓子である。
明治時代から食べられている日本の菓子の一つだが、20世紀末期以降は餡に替えて別の食材を詰めたものも見られる。

『概要』

小麦粉・砂糖・重曹などから作った生地を、鯛をかたどった焼き型に流し入れて焼き、片側に餡を載せて両側を合わせて焼く。近年では餡に替えてクリーム溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどを詰めたもの、などの様々なバリエーションが見られる。

「たい焼き」の「焼き型」には、1匹ずつ焼き上げる型と複数匹を一度に焼き上げる型の2種類があり、「たい焼き」の味にこだわる人々の中には前者で焼いた「たい焼き」を「天然物」・「一本焼き」、後者を「養殖物」などと呼び、違いを明確にする場合がある。
手間がかかり鋳物の焼き型を一つずつ返す為に体力が必要な前者の焼き型の使用は減少を続けているが、こだわりを持つ「たい焼き」職人もいる。特に東京において1匹焼きを守る店が多い。天然物と養殖物は焼き方の違いにより、皮の焼き上がりが異なり、火の通り方によっいも味が違う。

「たい焼き」は「今川焼き」から派生した食べ物である、とされる。「たい焼き」としての発祥については、説が複数あり定かではない。
明治時代に鋳物の型を使って作られたとされるが、三重県津市大門「日の出屋食堂」が東京や大阪のデパートに出店し全国に広まったとも、「浪速屋」の発明ともされるが、決定的な発祥の証拠は無い。
今川焼きを基に種々の動物などを模した形に焼いた菓子が生まれ、その中で縁起が良く庶民がなかなか食べられない鯛の形にしたものが特に優勢になって生き残り、以後、長く愛されるようになったものと思われている。

『エピソード』

しっぽまで餡が入っているかどうか、また、入っているべきかについて、かって文学者を巻き込んだ「たい焼き論争」とでも言うべき論争があった。
これは小説家の安藤鶴夫が「たい焼きはしっぽまで餡がはいっているのが美味しい」という趣旨の話を読売新聞に書いたところ様々な賛否があったもので、以下に示すものが代表的な意見とされる。

1.元々しっぽは指でつまんで食べるための持ち手であり、最後に捨ててしまうものだったので、餡はないのが正式である。

2.甘い餡を食べた最後の口直しとするために、餡を入れるべきではない。

3.しっぽの先まで餡が入っていないと、損をしたような気がするので、入れるべきである。

4.しっぽまで餡が入ることで、値打ち感のアップなどの差別化が図れる。

また、上記に関連して、頭から食べるのが正統かしっぽから食べるのが正統かという議論も繰り広げられた。

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【今川焼き】

「今川焼き」は、小麦粉を主体とした生地に餡を入れ、特製の型で焼いた和菓子。形状が重ねた大判のように見えることから「大判焼き」など、多数の別称が存在する

『概要・名称』

小麦粉・卵・砂糖を水で溶いて作った生地を円形にくぼんだ専用の焼き型に流し込み、餡を中に包み、高さの低い円筒形に焼いたもの。型は鉄や銅で作られており、全国各地で同様の食品が様々な名称で呼ばれている。

「今川焼き」の名称は、江戸時代中期の安永年間に、神田にかって存在していた竜閑川に架かっていた「今川橋」近くの店がこの種の焼き菓子を売り出したことに基づいていると考えられている。
この商品が評判になったため、「今川焼き」という商品名が一般名詞化して広がった。戦国大名の今川氏を語源とする説は否定される事が多い。

しかし、「今川焼き」の名称は全国に広がる過程で統一されず、地方や店によって以下のような様々な名称が付けられた。

■形状や製法に基づく名称

・大判焼き ・二重焼き ・回転焼き ・きんつば ・おやき

■店舗や地域による名称

・甘太郎焼き ・義士焼き ・太鼓焼き ・太閤焼き ・夫婦まんじゅう ・ヒット焼き ・太鼓饅頭 ・蜂楽饅頭 ・あじまん ・御座候 ・びっくり饅頭 ・志〃まんやき(じまんやき) ・人工衛星饅頭 ・花見焼き ・画廊まんじゅう ・ 日切り焼 ・
あるいは、JRAの競馬場内で販売する「G1焼き」など、販売場所のイベントや祭りに関する名称を付けていめ場合もあり、台湾では、車輪餅・紅豆餅・太鼓饅頭などの名で販売されている。

『派生』

生地に挟まれる餡は、小豆餡が主流であったが、現在では白餡やカスタードクリーム、ポテマヨ、ラザニア、など様々な派生形が現れた。形状は小判型や丸形が多く占めていたが、「ぱんじゅう」のように「たこ焼き」に似た半球状と釣鐘状のものもある。
台湾では、タロイモ、ゴマ餡とピーナッツ、キャベツ炒めやカレーなどの具を入れた商品も存在している。

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05/23 甘納豆&ソフトりんご

2014年05月23日 | スイ-ツ・お菓子

【甘納豆】

「甘納豆」は、マメ類やクリ、ハスの実、サツマイモの輪切りなどを砂糖漬けにした和菓子の一つ。

『概要』

主な材料は、アズキ、ササゲ、エンドウマメ、ソラマメ、インゲンマメ、ハナマメ。最近ではラッカセイやダイズなども用いられる。これらを砂糖と共に煮詰め、さらに砂糖をまぶしてから乾燥させて作る。

1857年に榮太楼が発案した。当初は浜名納豆に似せて甘納豆糖と名付けられ、第二次世界大戦後に簡略化され「甘納豆」と呼ばれるようになった。

従来の「甘納豆」よりも水分を多く、より低糖度に仕上げ、保存性よりも柔らかな食感とサッパリした甘さを優先した「ぬれ甘納豆」や「つや甘納豆」と呼ばれる製品も登場した。

『利用』

北海道の道央圏や山梨県には、甘納豆を赤飯に入れる風習がある。室町時代に甲斐国南部の人達が移住した青森県の一部でもこの風習が残っている。
北海道・石川県には、「甘納豆」を用いた「豆パン」、北海道北見地方では、「甘納豆」にハッカをまぶした銘菓もある。登山家の加藤文太郎は「甘納豆」を行動食として利用しており、厳冬期の山中では湯に入れ汁粉のようにして食べていた。

『岡女堂本家』

「岡女堂本家」は安政2年に神戸市で創業したが、20数年前に本別町に転居した。春から秋の暖かく夜涼しい寒暖の差が大きい気候が豆の生育に適していることから、豆の産地である十勝地方の中でも特に、甘くて風味豊かな、最高品質の豆を育てる土地柄である本別を生産拠点として選んだのである。
岡女堂では現在40種類以上のオリジナルな製品を、本別産の豆を中心に使用し、安政2年より「甘納豆」一筋に作り続けた伝統の味を提供している。

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『岡女堂』

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【ソフトりんご】

「ソフトりんご」は、フレッシュな青森産のりんごの芯の部分をくり抜き、厚さ1センチほどの輪切りをフリーズドライ製法でそのまま乾燥させたシンプルなお菓子。しかし、その味は「りんご」そのもの。口の中で水分を含むと、「りんご」特有の酸味と甘み、そして香りが広がる。

油で揚げる「りんごチップス」のパリッと感とは違い、これまでにないような新食感に仕上がっている。この独特の新食感は、厚すぎても薄すぎても出ないため、試行を繰り返して辿り着いた結果なのである。

「りんご」のほかには、酸化防止のための食塩しか使っていないので、小さな子供にも安心して食べさせることができ、「りんご」の栄養素が凝縮されているので、離乳食にも最適である。

「ソフトりんご」は、東京・大阪・福岡にある青森県のアンテナショップ3店でも、毎月の売れ筋商品となるほど人気で、なかでも甘酸っぱい「ふじりんご」を使ったタイプが好まれている。

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05/22 ひよ子&くろ玉

2014年05月22日 | スイ-ツ・お菓子

【ひよ子】

「ひよ子」は、1912年に福岡県飯塚市の吉野堂で生まれた、見上げるような「ひよ子」の形をした菓子。
大手亡という白インゲン豆から作られる黄身餡を小麦粉と卵などから作られる皮でくるんでいる。

『概要』

元々は筑豊炭礦地帯であった飯塚のお菓子である。かって飯塚は、長崎街道を通って本州へ運ばれる砂糖を比較的容易に手に入れられていたため菓子製造が盛んだったのと、重労働である炭鉱作業の後に甘い物が好まれることから地元で定着していった。
1957年に、福岡市内にに進出、ここでも人気となり福岡市内一円に進出、辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番となった。

1964年に開催された東京五輪をきっかけに東京へ進出し、東京駅屋羽田空港などターミナルを中心に出店し、現在では東京土産としても有名。関東以北では「東京銘菓ひよ子」と宣伝し知名度を獲得した経緯から、福岡発祥の菓子であることを知らない人も多く「東京から来た人が福岡の人に東京土産として「ひよ子」を持ってきた」などという実話もある。毎月14日、15日を「ひよ子饅頭PRのために「ひよ子の日」に制定している。

ヒヨコの形になつた理由は、二代目店主の石坂茂が「大勢の人に愛される、従来の丸い形ではない饅頭を」と考えて悩んでいた時に、自らがヒヨコで埋め立てられる夢を見たのがきっかけという。

現在は(株)ひよ子の本社は福岡市南区にあり、東京にもグループ会社がある。「吉野堂」が付く法人は過去にはあったが現在は存在しない。

関連商品として、ゼリーやサブレーやマカダミヤチョコレートなどがある。なお、福岡県内限定で、季節限定販売商品「季ひよ子」シリーズとして中身が桜餡の春限定の「春ひよ子」や八女抹茶入り白餡の夏季限定の「茶ひよ子」、型職人の技術継承のために作った特注の型で作られた通常の5倍の大きさのものが「大のひよ子」という商品名で販売されている。「大のひよ子」シリーズには2倍や3倍、10倍や3分の1程の大きさのものが存在し、たまに「家族ひよ子」としてこれらが詰め合わせられたものが売られている。

昔は「ひよ子」の形をした木型を使い、職人によって一つ一つ手作業で作られていた。その後、製造工程は完全に機械化され、焼きゴテで「ひよ子」の目を入れる作業も自動化されているが、しばしばデパートなどの実演販売において手作りを見ることができる。

『商標』

「ひよ子」の菓子の形状は、(株)ひよ子の立体商標として商標登録を受けているが、同じ福岡市内に本社を持つ二鶴堂の「二鶴の親子むなど、全国には類似の菓子が多数存在するため、商標登録をめぐり争いになっている。

二鶴堂は、ひよ子社から類似菓子の販売差し止め請求訴訟を受けたことをきっかけとして、ひよ子社の商標登録の無効審判を請求したが、特許庁は請求不成立(登録維持)の審決を出した。それを不服として二鶴堂は知的財産高等裁判所に審決取消訴訟を提起し、2006年11月29日、知財高裁は特許庁の審決を取り消す判決を下した。その結界を受けて、今度はひよ子社側が判決を不服として最高裁判所に上告したが、2007年4月12日、最高裁は上告を棄却する判決を下し、特許庁の審決取消が確定した。

この判決では、「特許庁が二鶴堂の請求を退けた審決」を取り消されただけであって、商標登録自体の可否が決定したわけではないが、今後、判決を踏まえて特許庁が再度審判を行うことになる。

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【くろ玉】

「くろ玉むは、昭和4年に発売され、甲斐の銘菓として「澤田屋」が自信を持って販売している伝統の逸品てある。

名前の通り黒い玉状で、外は真っ黒。中を割ってみると黄緑色の餡の、見た目にもちょっと珍しい和菓子である。

中の餡は、青えんどう豆を用いたウグイス餡であるが、餡とは別に煮た北海道産のえんどう豆を一緒に混ぜており、風味が一層増している。

真っ黒ん外観は、黒砂糖を羊羹に仕立て、うっすらと包んでいる。
コクのある黒砂糖の甘さと、ウグイス餡の優しい甘さが互いに引き立て合う、素朴な、懐かしさを感じる和菓子である。

1929年に発売開始、当時山梨には代表的な土産菓子が無かったことから「くろ玉」は大ヒットし、この売上を基に3階建てのビルを建て、洋菓子店とレストランを開業させたほどである。しかし、このビルは1945年の甲府空襲で焼失してしまっている。
戦後は「桔梗信玄餅」の人気に王座を奪われた感があったが、近年再び注目を浴びている和菓子である。

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05/21 きなこねじり&雷おこし

2014年05月21日 | スイ-ツ・お菓子

【きなこねじり】

「きなこねじり」とは、きな粉を主原料として作られるねじれた棒状の練り菓子である。
京都が発祥の和菓子と言われている。

『概要』

この菓子を作るのに最低限必要な材料は、きな粉と水飴だけである。水飴を熱して柔らかくなったところにきな粉を混ぜて生地を作り、それらを平らに伸ばして適切な大きさに切り分け、それをさらにねじれば出来上がってしまう。
この菓子の食べ方は人それぞれだが、そのまま食べることもあれば、何かの飲み物と一緒に楽しまれたりすることもある。なお、類似の菓子としては「きなこ棒」がある。

『一般的なきなこねじり』

この菓子は大豆を炒って粉にしたもの(つまり、きな粉)に適量の砂糖を混ぜ、これをやや熱して柔らかくした水飴と混ぜて練ることで生地を作り、それを短い棒状にして、さらにややねじった形に仕上げられる。
原材料のきな粉をこの形に仕上げるためこの名がある。仕上げに砂糖をコーティングしたり、また、着力料を使って着色したりは普通されないので、色はきな粉に近い色の褐色をしている。
きな粉がふんだんに使われている上に、他に強い香りを持つ材料は使われないため、きな粉特有の香りが感じられる。

『その他のきなこねじり』

上記の作り方は基本的な作り方であり、好みにによってやや作りが違う場合がある。必要最低限の材料だけでなく、さらに砂糖わ加えて甘味を増したり、少量の食料油も加えたりすることもある。この他にも食べる人の好みに応じて、炒ったゴマをすり潰したものを混ぜてゴマの風味を加えたり、抹茶を加えて抹茶の風味を加えたり、場合によってはその他の材料を加えたりすることもある。

『歴史』

「きなこねじり」は、江戸時代の初期に京都で作られたとされている。この菓子は比較的保存性が良くて携行することも出来たので、北前船の船員達が携行したことで船の寄港先に広まり、さらに日本全国に広まっていったとされる。
なお、この菓子がねじられているのは元々注連縄の形を表現しものであり、縁起物とされる。

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【雷おこし】

「雷おこし」は、米をいったん蒸かし、その後煎って膨らませたものに水飴、砂糖、落花生などを混ぜて固めた和菓子である。

名前の由来は、「雷門」と「家を起こす」、「名を起こすむをかけたもの。
江戸時代後期に、浅草雷門近くの露天商が縁起物として売り出したのが発祥と言われ、浅草名物の土産物として知られる。サクサクとした食感が特徴である。

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05/20 おやき

2014年05月20日 | スイ-ツ・お菓子

【おやき】

「おやき」は、小麦粉、そば粉などを水に溶いて練り、薄く伸ばした皮で小豆、野菜などでつくった「あん」を包み、焼いた食品である。形状は円形で直径8~10センチ程度が一般的。

発祥は北信地方・安曇野地方だが、現在は長野県全域で作られ、名物とされている。同様の食品は長野県のみならず、日本各地の気候や水利の関係で稲作が難しかった地方で作られる。

『製法』

長野県の多くの地域は、急峻な地形や寒冷な気候ゆえに米の栽培に適さない。したがって、米の代わりにソバやコムギを原料とした食品が古くから食べられていた。
「おやき」はその一つてあり、小麦粉や蕎麦粉を練って作った皮で具を包む。一方、豪雪地帯の下水内郡栄村は、小麦の栽培に適さない代わりに稲作には向いているため、米粉を原料とした「あんぽ」という「おやき」が作られてきた。

「あん」の材料には野菜、山菜が用いられるのが一般的。小豆餡、野沢菜、茄子、おから、きのこ、南瓜、切り干し大根、野菜ミックス、胡椒など、様々な種類がある。
野菜・山菜の「あん」は、あらかじめ味噌、塩、醤油などで味付けしておく。太平洋岸・日本海沿岸と交流の多かった地区では、塩秋刀魚や鰯など魚を「あん」に用いることもあった。

元は小麦粉や雑穀粉の皮で「あん」を包み、焙烙で表面を軽く焼いて乾かしてから囲炉裏の熱い灰に埋め、蒸し焼きにした食品だった。しかし、各家庭から囲炉裏が無くなった現代では、油を引いた鉄板で焼くか、オーブンなどで焙り焼きにする。
長野市中心部など善光寺平では、「おやき」の名前ながら蒸籠や蒸し器で蒸すのが一般的である。

『販売』

近年では、コンビニに置かれたり、土産品として全国出荷されているほか、海外のイベントへも出品している。
高速道路のパーキングや土産物屋の一部では、「おやき」特有の具をバリエーションに加えただけの中華まんが「おやき」として売られていることがある。
最近は、長野県の観光土産として、名を上げており、具材のバリエーションも多彩である。

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5/19 落雁&五家宝

2014年05月19日 | スイ-ツ・お菓子

【落雁】

「落雁」は、米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子である。型に押す際に、餡や小豆、栗などを入れて一緒に押し固めるものもある。
名は近江八景の「堅田の落雁」にちなんで付けられたという説と、中国の軟落甘の「軟」が欠落したという説とがある。

『製法』

「落雁」の製法には二通りある。

1.すでに蒸して乾燥させた米の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの。

2.加熱していない米の粉を用いて1同様に水飴を加えて成形し、蒸籠で蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの。

通常は、前者は落雁、後者は白雪糕(はくせつこう)と呼ばれるものである。後者は新潟県長岡市の「越の雪」が有名である。ただし、改良の末、前者に限りなく近い製法となっている。

製法は明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した。
これが室町時代に日明貿易で伝わり、茶道の勃興によって広まった。なお、中国にはこの「軟酪甘」が現在も存在しており、長崎市には「軟落甘」が江戸時代に再上陸したものとして「口砂香」と言われる「落雁」がある。

江戸時代には加賀藩が大々的に製菓事業に対して奨励策を取ったことから、金沢市では「落雁」の技術が進化しており、「長生殿」はこうした成果の一つである。なお、この原料である糯は軍事作戦には不可欠の食料であるため、奨励策は軍備維持における糯の在庫処分ではないかという説もある。

また、松江藩でも松平治郷が茶の湯と共に和菓子を奨励したため、山川という「落雁」を生み出しており、前述の「越の雪」・「長生殿」と共に日本三大銘菓として挙げられている。

このように茶席菓子や供物などに用いられていることが多かったことから、茶の湯では薄茶点前に供される定番の菓子となっている。また、仏事の供物として用いられることも多い。このことから、「落雁」は和菓子の中でも高級なものとされている。このような高貴な場に供されるものは、糖類に和三盆、または精製された糖蜜の少ない黒砂糖が使われる。

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【五家宝】

「五家宝」とは和菓子の一つで、おこし種を水飴で固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらに黄粉を表面にまぶしたものであり、青色のものは青大豆を用いて製造されている。

『発祥』

発祥には諸説ある。

■―水戸藩の銘菓「吉原殿中」を元に改良を加えたという説。

■―幕末に下総国露村(現在の茨城県猿島郡五露町)で開発されたという説。

■―文化年間に武蔵国不働岡(現在の埼玉県加須市)で開発されたという説

■―享保年間に上野国五箇村(現在の群馬県千代田町)で開発されれたという説。

■―原料に「五穀」を用いたことから名付けられたとう説。

『現在』

埼玉県熊谷市の銘菓として知られ市内各地に取扱店舗があるほか、希に公立小中学校の学校給食に出ることがある。
草加市の草加煎餅・川越市の芋菓子と共に埼玉の三大銘菓とされており、埼玉の音風景・かおり風景10選の一つ(かおり風景)にも選定ささされている。
熊谷市では「五嘉棒」の名で文政年間に熊谷で売り出され、その後「五嘉宝」、「五箇宝」表記を経て、「五穀は家の宝である」という祈りを込めて現在の表記になったと紹介している。

また、前述の不働岡を市域に含む加須市でも特産品となっている。加須市では約130年前から総願寺の門前で売られていたと紹介している。なお、熊谷市や加須市以外ぶも販売を行っている企業も多い。

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05/17 軽羹&練り切り

2014年05月17日 | スイ-ツ・お菓子

【軽羹】

「軽羹」は、鹿児島県をはじめとする九州特産の和菓子である。
名前の由来には諸説があるが、「軽い羹」という意味であるとされる。本来は棹物菓子であるが、近年は饅頭状として餡を仕込んだ「かるかんまんじゅう」が一般的になっている。

『製法』

原料としては、かるかん粉、砂糖、山芋を用いる。かるかん粉は米の粉であるが、特に軽羹用に鹿児島県を中心とした数社で製粉されている。
山芋については、大和芋(長芋)
などよりも自然薯が適しているとされる。

これらの原料に水を加えて蒸し、弾力性の有る白色の半スポンジ様に仕上げたのが「軽羹」である。一般的な市販の「軽羹」は、水分が約40%、糖度は約40%、気孔率が約1.3センチ/グラムとなっている。

『歴史』

「軽羹」は、定亨3年(1686年)から正徳5年(1715年)頃に薩摩藩で誕生したとみられ、正徳5年の藩主用の献立には、羊羹などとともに「軽羹」の記載がある。薩摩藩で「軽羹」が成立した要因としては、原料の山芋が藩内のシラス台地で自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられる。
一方で近世の砂糖は高級品であり、天明6年(1801年)に菓子類の値下げが発令された頃には、「軽羹」一箱は日本酒一斗と同程度の価格だった。
その後、享和元年(1801年)の御船奉行の食事の記録にも「軽羹」の名出ている。鹿児島県には「ふくれ菓子」言われる黒砂糖、小麦粉、重曹を用いた一種の蒸しパンが古くからあり、この菓子が参考にされたとも言われる。

なお、20世紀後半までは、島津齋彬が江戸から招聘した明石出身の菓子職人・八島六兵衛によって安政元年(1854年)に「軽羹」が考案されたとうのが一般的だった。「軽羹」の誕生が安政以前に遡ることは明らかになったものの、誕生当時の「軽羹」がどのような品質のものであったかについては記録がなく、八島六兵衛が「軽羹」に何らかの改良を加えたのではないかとする説もある。

現在では、鹿児島県内の多数の菓子舖で作られている。宮崎県でも鹿児島県産の「軽羹」が広く販売されているとともに、県内でも製造されている。大分県別府市の菓子舖でも1952年以来、「軽羹」が製造・販売されており、別府を代表する銘菓となっている。最近では関東や関西でも和菓子の一種として使われるようになっている。

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「軽羹饅頭」

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【練り切り】

「練り切り」は、白餡に求肥やつくね芋を混ぜて練った生菓子の和菓子である。

適度な柔らかさと粘度があり、これを様々な形に彫刻した木型に押し付けたり、手やへらで整形して加工を施し、食紅やクチナシなどの食用色素で彩色した仕上げる。

季節に合わせた色、形の物が作られる。

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05/16 煉化もち&トンネル餅

2014年05月16日 | スイ-ツ・お菓子

【煉化もち】

「煉化もち」は、北海道江別市野幌のお菓子、名物である。山サ煉化餅本舗が製造を行っており、市内の鉄道駅やパーキングエリアで購入することが可能である。

『改革』

「煉化もち」は1901年より、久保兵太郎によって発案・佐野利吉により創業されて以来、江別市の銘菓として人々に親しまれている。久保兵太郎は、北海道炭礦鉄道会社の野幌煉瓦工場を経営しており、そこで行われていた煉瓦の製法にヒントを得て「煉瓦餅」を考案した。

その後、工場で雑貨商を営む佐野利吉が、この「煉瓦餅」を製造する会社を創業。食べ物であることを考慮し、建材などに使用する「瓦」という文字を変更することとした。「瓦は食べられないが、瓦が化けると食べることが出来るだろろう」という発想から、「煉化餅」として販売を開始した。その後、1985年に製造元の廃業で一度廃れたが、1993年に新しく「煉化もち」として製造を再開した。

『概要』

「煉化もち」は江別市の煉瓦をモチーフに長方形に形どられた餅であり、中に漉し餡が入っている。甘さが抑えられているほか、北海道産の無農薬餅米を使用し、添加物が加えられていない点が特徴である。

餅米を一度粉末にしてから加工する製法で、十勝産の小豆が主原料である。10個入りと20個入りが販売されており、JR江別駅・野幌駅のキヨスクや道央自動車道野幌パーキングエリア等で購入できる。

パッケージは煉瓦作りを思い起こさせる煙突の絵が描かれている。また、石川啄木の作品である「雪中行」 の中で、当時の「煉化餅」について触れれて羅いる。

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【トンネル餅】

「トンネル餅」は、函館本線・小沢駅名物の銘菓。とは言っても、小沢駅で売られているわけではなく、人けのない駅前の「末次商店」で売っている餅なのである。駅弁風の折りに入った餅は、数個並んでいるだけで、一日に作られる個数も限定的である。

函館本線の、稲穂トンネル・倶知安トンネルの開通で函館ー札幌間が開通したのを記念して作られた。小沢駅には既に廃線となった岩内線も接続していたが、今は無人駅となっている。

「餅」と表示されているが「餅」で゛はない。「すあま」なのである。ふんわりとしていて、弾力がある。透明感のある白い「すあま」に、ピンクと緑の線がうっすらと入っている。2本の線は鉄路をイメージして入れられた。
甘さは控えめ、かすかに塩味を感じる。
この素朴さがファンの心をがっちりと掴んでいるという。賞味期限は本日限りと、日持ちのしない。美味しいスイーツをイメージして購入すると少しガッカリする人もいるかもしれない。俗に言う「懐かしい味」といえる。

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05/15 大沼だんご&酒まんぢゅう

2014年05月15日 | スイ-ツ・お菓子

【大沼だんご】

大沼土産といえば、やはり「大沼だんご」である。製造元である沼の屋の創業は1905年。100年以上り歴史を誇る。
創業者である堀口亀吉は上磯町出身で、上磯ー函館間の乗合馬車業を営んでいた。しかし、大沼の鉄道開設に携わっていた宮川勇と出会い、観光開発による将来性に着目。
1903年に大沼湖畔に小屋を建て、家族3人で生活を始めた。
当時の大沼は、道庁が景観を生かした公園開発に乗り出し、旅館も出来たばかり、観光土産はおろか、観光客が気軽に休憩できる場所もなかった。そこで亀吉が観光地に必要な名物として発案したのが「大沼だんご」であった。
これは亀吉の妻が、米どころである新潟県・佐渡島出身で、米を材料にした名物をと言う思いから生まれたものである。店舗だけでなく、大沼駅でまの立売りも行うようになったので、食べやすいように駅弁を模した折り箱を使った形態で販売するようになり、そのスタイルは現在も受け継がれている。

「だんご」は小指の先ほどの大きさで、湖面の浮島を表現するために串に刺さず、醤油餡、漉し餡、ゴマダレがかかっている。
自家製粉したしん粉を、蒸してから地元の水で急激に冷やすことで、「大沼だんご」独特のつるんとした口当たりになる。

餡は甘いものを想像してしまうが、この「大沼だんご」の餡は一味違い、塩辛いものを感じさせる。それが逆にだんごに合っていて美味しい。
ゴマは、胡麻のシンプルな味がだんごの美味しさを引き立てている。
醤油タレは、想像通り甘辛である。しかし、その濃厚な味は一口食べたら病みつきになる。

毎日店頭に買いに来てくれる地元客を大切にしようと、店舗や商品数わ増やすことなく、創業当時の場所で店を構えている。4代目社長は「シンプルな商品だからこそ、気を抜けません。伝統の味を守ってきたからこそ、100年も続いたと思います」と。

JR大沼駅での販売は1993年に打ち切られたが、現在では特急北斗の車内で販売されている。しかし、人気の「ゴマ折り」は製造数が少ないため「沼の屋」のみでの販売となっている。

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【酒まんぢゅう】

「酒まんぢゅう」は、北海道の駅弁のルーツと言われている。
確実な記録によることは困難だが、明治13年幌内鉄道、手宮ー札幌間が開通して間もない頃、銭函駅ホームで「甘酒饅頭」を売っていた人があり、それが銭函名物として人気を呼んだめ、一時は7,8人も売り子がホームに出勤するという状況を呈するに至ったため、開拓使から規制され4人の者に限り、売り子としてホームに出動することを許可されたという。これが立売そのものの始まりと言われている。

銭函駅の近くにあった和菓子屋が、自家製のドブロクを使って饅頭を作っていた。地元の人の話によると、最初に作ったのは西辻甚太郎という人で、最盛期には4,5軒の店で製造していた。
出来たてのホカホカを直接ホームへ持っていって販売するので、お腹の空いた旅人達によく売れたという。

弁当ではないが、これが北海道の駅弁のルーツと言われている。小樽駅の「トンネルもち」、野幌駅の「煉瓦もち」ともに和菓子の三大名物と呼ばれたが、戦後になってドブロクが自由に製造出来なくなると、自然に作られなくなってしまった。

この「酒まんぢゅう」が数年前に復活し、現在も銭函駅で売られている。作っているのは銭函から約100キロも離れた芦別市の菓子店。なぜ芦別で銭函名物がつくられているのか?

かって、銭函駅の「酒まんぢゅう」が大好きだった少年がいた。彼は銭函で育ち、鉄道マンだった父と一緒に、近所の菓子屋のおばさんから作り方を教えてもらい、見よう見まねで「酒まんぢゅう」を作ったこともあった。やがて終戦となり、「酒まんぢゅう」は銭函から姿を消した。
大人になった彼は、記憶を頼りにその時のレシピを書き留めていて、何時か食べたいと思っていた。

そして1997年、60歳をすぎた彼は、昔を知る同級生とひょんなことから「あの酒まんぢゅう、もう一度銭函に復活出来ないだろうか」と思いつく。同級生は小樽や札幌の知人に話しをもちかけ、とこかの菓子屋で製造してもらえないかと探したが、記憶だけが頼りの半世紀前のまんぢゅうに賛同してくれる人は見つからなかった。

しかし、話は同級生同士を通じてどんどん広がり、芦別市に住む別の同級生の知人を通じて、「近くに腕のいい職人さんがいるから話してみよう」と言うことになった。
そうして、芦別で40年近く菓子作りを続けていた「小川菓子舖」の小川秀雄さんの元に、「酒まんぢゅう」のレシピが届いた。
「酒まんぢゅう」復活に沸き立つ仲間とともに、小川さんは何度も試作を重ねた。
中に入れる酒も色々探し回り、大阪のドブロクを取り寄せたり、道内の酒で試したりした。そして約半年後、なんとか形になつた試作品の「酒まんぢゅう」を宅急便で銭函に住む、かの「酒まんぢゅう」好きの男性に送った。その時の感想の手紙には「幻になっていた酒まんぢゅうが十個ほど入っていた。早速蒸かして食べてみた。只々感嘆。よくぞ生まれ変わってくれたものよ。涙が出てきた。私はすぐに合格と連絡し・・・・・」。

合格の知らせを受けた小川さんは、1998年の末から本格的に製造を始めた。作り方はごくシンプルで、材料も昔ながらの小豆、小麦粉ね砂糖、日本酒、酒種だけを使う。
酒を加えて生地を練り、餡を包み、蒸篭で蒸しあげる。最後に焼き印を押して出来上がり。

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