道彦の散歩道

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07/27 「精進料理」と「普茶料理」

2013年07月27日 | 食・レシピ

【精進料理】
「精進料理」とは、仏教では僧は戒律五戒で殺生を禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されていたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理である。

『仏教と精進料理』
インドの初期仏教においては、部派仏教の律による十種肉禁を除いた三種の浄肉であれば食べることが出来、釈迦も牛乳で作った粥の布施を受け大悟したどなど、乳製品の摂取も禁止されていなかった。
これに対して大乗仏教では、後に肉食そのものが禁止されたため、中国、朝鮮、日本等の大乗仏教圏では菜食料理が普及した。

『日本の精進料理』
仏教が大陸から流入してきた頃から既に精進料理は存在したと考えられるが、古代におれる「精進」という言葉は粗末なものという意味で用いられたもので、魚肉を禁じたとするのは仏教における解釈に過ぎないとする説もある。
また、神道の場合においては仏教よりも肉食への規制は緩かったものの、信仰する神と縁のある動物の肉は禁忌とされた肉のみ除外した料理も一種の精進料理だった(春日大社の鹿肉、八幡神宮の鳥肉)。
精進料理が本格的に発達したのは鎌倉時代以降とれる。鎌倉時代以降の禅宗の渡来は、特に精進料理の発達に寄与した。禅宗の精進料理は菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。
味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理法は、日本料理そのものに取り入れれることになる。
江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなった。
精進料理は日本料理にも影響を与え成長を促してきた。永平寺の精進料理は、室町時代か江戸時代前期にかけて普及した「本膳料理」に通じる。また、懐石料理は精進料理から派生したものである。

献立は宗派によって異なるが、京都にある臨済宗の禅寺・天龍寺の精進料理の献立は、1・御飯、2・汁(白味噌)、3・平(湯葉・麩・椎茸の炊き合わせ)、4・木皿(胡麻豆腐)、5・木皿(紅生姜・こんにゃく・栗・ごぼう等)、6・壺(しめじと青菜のおしたし)、7・香の物

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【普茶料理】
「普茶料理」は、江戸時代初期に中国から日本にもたされた料理。日本の精進料理とは異なり、葛と植物油むを多く使った濃厚な味、一つの卓を4人で囲む形式が特徴である。代表的な普茶料理に胡麻豆腐、精進うなぎがある。
江戸時代初期の1654年、中国の禅僧・隠元隆が来日。1661年には山城国宇治に萬福寺を開いて、開祖となった。隠元は中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲン豆、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本にもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(中国式の精進料理)が「普茶料理」である。
「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、煎茶などを飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。
基本的に一つの長方形の座卓を4人で囲み、一品ずつ大皿料理を分け合って食べるという様式が非常に珍しいがられた。料理においても中国風ののが多く、巻織(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、油磁(下味を付けた野菜などを唐揚げにしたもの)や雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理)などがある。

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