道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

手打ちそば・満月食堂:10/09/30

2010年09月30日 | インポート

大樹町の街中にある「満月食堂。

田舎町の小さな食堂ですが、蕎麦通の間で有名な食堂で、遠方から通う人が大勢います。

同店の蕎麦は、地元大樹町産の蕎麦を大樹町農協で、蕎麦収穫時に年間使用分を確保し、並み粉を使った手打ち蕎麦です。基本は生粉打ちですが、時期によっては多少の「つなぎ」を使うとのことです。今回は外1でした。細切りで、風味豊か、喉越し満点の旨い蕎麦でした。天麩羅の揚げ方も上々で、カラッと揚がった天麩羅は旨かったです。

蕎麦汁は、日本有数の漁港、鹿児島県山川産の鰹を使っています。1本ずつ丁寧に削って取った出汁と、幾日も寝かせ熟成した「かえし」とのバランスは絶妙で、辛さも丁度よく、蕎麦湯で割って呑んでも旨い汁でした。

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レアア-ス:10/09/30

2010年09月30日 | ニュース

【レアア-ス使わぬモ-タ-】

北大大学院情報科学研究科の小笠原教授、竹本准教授のグル-プは29日、東京都内で記者会見し、新エネルギ-・産業技術総合開発機構(NEDO)と、レアア-ス(希土類)を使わないハイブリット車用モ-タ-を開発したと発表した。実際に車に搭載した試験を重ねた上で自動車メ-カ-に売り込み、実用化を目指す。

レアア-スは、ハイブリット車などのモ-タ-に使用する磁石に不可欠な材料。中国が世界生産量の90%超を占めているが、尖閣列島沖での中国漁船衝突事件発生後、対日輸出手続きが一時停止するなど、安定供給に不安がある。このため、北大グル-プは2008年度、レアア-スを使わないモ-タ-の開発に着手した。

レアア-スを使った従来型のモ-タ-は、磁石自体の性能が優れているため、高い出力がある。これに対し、開発したモ-タ-には酸化鉄などが原料の一般的なフェライト磁石を使用。磁力が弱い欠点を補うため、モ-タ-の構造を変えた結果、従来型とほぼ同等の出力を達成した。フェライト磁石の原価はレアア-ス磁石の10分の1以下というい、竹本准教授は「価格や安定供給に優れる上、振動も少ない。ただ、新しい構造のため、実用化には生産ラインの開発が課題」と話す。

                        『北海道新聞』


普天間移設問題(96):10/09/29

2010年09月29日 | 普天間移設問題

【仲井真知事・県外移設を要求】

仲井真知事は28日、県議会9月定例会の代表質問で、普天間飛行場の移設先を名護市辺野古崎とした5月の日米合意について、「政府に対し日米共同声明を見直し、普天間飛行場を県外に移設することを求めていきたい」と表明した。仲井真知事は11月28日投開票の知事選に向けた公約に普天間飛行場の県外移設を求める方針で検討していいたが、明言するのは初めて。仲井真知事は県内移設反対を明言したことについて「県外移設とイコ-ルとはいえないが、ほとんど似ている」と述べ、余地を残した。

仲井真知事は「県外移設を政府にどのように求めるのか」との記者団の質問に「議会が終わってから行くが、ちよっと時間がかかると思う」と明言を避けた。

                      『沖縄タイムス』

【これで民意は定まった】

仲井真知事は28日、開会中の県議会で普天間飛行場の移設問題について、「政府に県外に移転することを求める」と初めて言明した。日米両政府による辺野古への移設合意は振り出しに戻らざるを得ないだろう。この発言の意味は大きい。

移転先の名護市と市議会、県知事と県議会という4者が「県外移設」を求め足並みがそろったのは初めてだ。この民意は日米両政府の対沖縄政策にくさびを打ち込むだろう。復帰運動が沖縄返還を実現させる原動力となったように、民意が政治を動かせることを県民は経験してきた。

それは沖縄だけではない。戦後の50年代米軍の基地問題は日本のそこかしこにあり、住民の反基地運動が激しかった。海兵隊の最初の駐留地だった山梨県でも演習場周辺の住民が大砲にしがみつき演習を阻止した。そんな安保激動期に海兵隊は沖縄に移駐し、現在の普天間へと続いている。

こうして見ると米軍基地は必ずしも不動のものではない。地域住民の協力をなくしては存続し得ないのだが、仲井真知事が批判するように、民主党はあまりにも地元を粗末に扱ってきた。「最低でも県外」と公約しながら、鳩山前首相は「学べば学ぶほど」と空疎な言い訳で押し切ろうとしたから、県民の怒りを買った。

11月の知事選を前に仲井真知事も民意を読む。知事はこれまで県内移設もやむ得ないと考えていた。

辺野古にV字型滑走路を建設する日米合意について、騒音軽減を理由に沖合へずらすよう求めた。普天間の危険性除去を優先し、辺野古移設もやむ得ない、というスタンスだった。長年の問題に一定の解決策を見いだし、経済振興に精力を注ぎたい、というのが本音のようだった。

そうした選択が一定の支持を集めていたのは事実だ。しかし、中央で政権交代があり、1月の名護市長選で「陸にも海にも基地は造らせない」と主張する稲嶺市長が当選すると情勢は一転した。これまで移転容認派が優勢だったが、今月12日の市議選で勢力が逆転し反対派市議が圧勝するなど、地元で大きな地殻変動があった。

県議会は2月に「県外・国外」を求める意見書を全会一致で議決した。何度も表明される県内移設反対の民意はしだいに強固になった。

この流れの先に11月の知事選がある。

立候補を表明している伊波宜野湾市長も日米合意わ強く批判している。いまのところ仲井真、伊波両氏の一騎打ちの公算が大きく、どちらが勝っても政府は知事の埋め立て許可を得るのはこれで不可能になった。

この期に及んで管政権が米政府に対して、辺野古移設の実現を目指す、と空約束をするのは無責任だ。これでは同盟の信頼性を失う。民意を無視して軍事基地建設を強行できるわけがない。

                   『沖縄タイムス・社説』


9/24:小樽紀行の帰り道

2010年09月29日 | インポート

【そば太郎】

小樽紀行の帰りは、この店に寄りたくて、高速を通らず日勝峠経由となりました。

「そば太郎」は、日高町の道の駅に入店しています。昔は、日高町で民宿を経営し、そこで蕎麦を提供していましたが、それが評判となり、道の駅がオ-プンと同時に入店したのです。今も民宿は経営しているはずです。

蕎麦は幌加内産の蕎麦粉を使い、10割の田舎系です。風味、歯応え、喉越しも十分で旨い蕎麦です。汁も少し辛めの旨い汁で、蕎麦を引き立てている。店主の情熱が感じられる蕎麦汁です。

店の名物は、日高名物の「やまべ」を使った「やまべ天」です。その天麩羅はホクホクしていて旨いです。さすが、名物だけある「やまべ天」でした。

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9/23:小樽紀行のおり

2010年09月29日 | インポート

【いろないそば】

土蔵風に設けられた小さな建物。入口横にはミニ花壇があり、白壁とマッチしている。

隣のガソリンスタンドより通り側から奥まって建てられているので、車だと見落としてしまうかもしれない。

店内は小じんまりとしていて、本棚には蕎麦と将棋、山歩きの本などが多数並んでいる。今年で7年目の、小樽では新しい蕎麦屋であるが、店主の年齢を考えると、どこかで、蕎麦造りの腕を磨いてから独立したものと思われる。一人で打つので、数量に限界があり、売れ切れ閉店で、午後2時には閉店となる。

蕎麦は幌加内産を石臼で手挽きした、並粉と、荒挽き部分をブレンドした粉を外2で手打ちしている。それによって風味豊かな蕎麦となるそうです。汁は北海道の平均的辛さ、若干薄口で出汁がしっかり効いている旨い汁でした。

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【そば矢・一福】

明治27年創業の小樽市内で老舗中の老舗です。知名度では藪半に少し劣るが、市民には馴染みの店である。

蕎麦は幌加内産のの蕎麦粉で、2:8の更科系である。更科系の特徴で、喉ごしと甘味を楽しむには十分な蕎麦である。

汁も老舗らしい味で、少し辛めの旨い蕎麦汁でした。

メニュ-に3種類の「ヌキ」があり、今回は「天ヌキ」を注文。エビが3匹入っているかき揚げが入っていました。汁はかなり濃く、もう少し薄くしてほしいところでした。

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9/22・小樽紀行のおり

2010年09月29日 | インポート

【伊佐美屋】

国道5号線沿、小樽市内。創業昭和11年の小樽の老舗蕎麦店。

蕎麦は2種類あり、うどんも自家製。

粉に拘り、出汁に拘りであるが、メニュ-は定番で超オ-ソドックである。

蕎麦は北海道産石臼挽き蕎麦粉を使用した更科系である。基本は手打ちの2・8。汁は複数の鰹、昆布等をい、化学調味料などを不使用、甘味が少なく、すっきりした味であるが、熟成度が少ない蕎麦汁である。天麩羅は普通の食感、及第点であった。

古い店舗、蕎麦の味など、ト-タルで老舗の味を醸し出している。

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【藪   半】

1954年創業。初代・小笠原昇が設立し、現店主・小笠原格が2代目であるが、店舗はすでに4代目である。

現在の店舗は、北前船で繁栄した回船問屋の旧白鳥家の敷地内に、昭和61年に解体された、小樽でも有数の邸宅「旧金澤邸」の邸宅内部部材を移築、再生しており、風格かるたたずまいである。

最大の特徴は、白鳥家邸宅にあった土蔵を店舗の一部として使用していることである。土蔵内部を改修し、当時の豪華さを体感できる環境になっている。なお、白鳥家の住宅は、小樽市祝津にあり、藪半のすぐ隣にある「白鳥家別邸」とともに、小樽市の歴史的建造物に指定されている。

蕎麦は地物粉蕎麦は江丹別産蕎麦粉を使った並粉の手打ちで、2:8の中細打ちの更科系である。

並粉麺は内モンゴル産蕎麦粉と北海道産蕎麦粉のブレンドで2:8の細打ちである。

当日は地物蕎麦粉麺を注文。風味豊かで、喉ごしも十分感じられ、旨い蕎麦でした。蕎麦汁は本枯本節、荒亀節、宗田節、鯖節、笹宗田節など数種類の節を使用。出汁を加えて出汁を感じさせず、甘味を加えて甘味を感じさせない、旨い汁でした。

他処での修行から戻ってきた、若女将の素晴らしい対応が、店員の対応にも影響し、さすが老舗と思わせる。これが蕎麦の味を良くする要因でもある。

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小樽紀行⑦

2010年09月28日 | まち歩き

小樽市には今回掲載した以外にもまだまだ古い建物が色内地区や住吉地区を中心に散在している。以下の写真はそれらをランダムに写したものである。

この家は私が小学校から高校卒業まで暮らした家です。当時のままの姿を保っていました。

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小樽名物の飴、「澤の露」です。今回もお土産を購入

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小樽の老舗菓子店「新倉屋」。店舗は新しくなっていました。

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小樽港から天狗山方向を見る

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小樽紀行⑥

2010年09月28日 | まち歩き

【天上寺本堂】  このお寺は、明治13年、奥沢十字街近くに浄土宗函館中教院小樽出張所を開いたのが始まりで、明治15年に天上寺を公称している。この本堂は、明治23年に入船十字街近くに建立され、その後、大正4年に現在地に移築された。その外観は、長野県の善光寺の外観を模した入母屋妻入。内部は、中央に設けられた柱列で、外陣と内陣に分けられ、その奥に阿弥陀3尊が安置されている。

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【遠藤又兵衛邸→立正佼成会小樽教会】   明治35年に建てられたこの建物は、海産物卸商で富みを築いた遠藤又兵衛の邸宅だった。邸宅は、小樽港を望む高台にあり、木造瓦葺き下見板張りの武家屋敷を思わせる豪壮なつくりで、和風を基調としながらも、玄関脇の応接間に大きな三面のベイウインドウをつけた和洋折衷住宅。また、重厚な門、塀には鷲などの飾り瓦が付き、全体的に良く調和のとれた建物といえる。

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【カトリック富岡教会】  小樽におけるカトリックの布教は明治15年に始まり、数度の聖堂建設を経て昭和3年に現在地に起工し、翌年6月30日に献堂式を挙げた。正面玄関部の尖塔ア-チから十字架を掲げた八角小塔にいたる上昇感を強調した建物で、外観は主にゴジック様式を取り入れている。2階にある礼拝堂には、色ガラスを組み合わせたア-チ窓から柔らかな光が入り、神聖な空間となっている。

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【島谷汽船(株)社長宅】  昭和2年に建てられたこの建物は、港を見下ろす富岡の高台にあり、玄関と2階入母屋瓦葺屋根の重なりがあり重厚な印象を与えている。全体わ和風にまとめながら、一部応接間に洋風を取り入れている。戦後は一時進駐軍の情報部として使用されていたと伝えられている。昭和初期の小樽を代表する住宅建築である。

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【小樽組合基督教会】  大正15年に建てられたこの建物は、公園通りの景観に魅力を添える教会で、2階礼拝堂への階段塔が角地を強調している。尖頭ア-チや装飾ア-チ帯などでゴジック風にデザインされている。玄関ア-チは昭和47年の改修で形態を変え、3連ア-チとなっている。

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【小樽区公会堂】  明治44年、皇太子の本堂行啓に際してのご宿泊所として建てられた。この時、小樽区への寄付を申し出たのが、海産商として名を馳せた藤山要吉である。工事を請け負ったのは小樽の棟梁加藤忠五郎です。建物は和風の建築様式で、御殿、本館、付属建物からなる。行啓後公会堂として活用されるが、市民会館建設に伴い、昭和35年に現在地に移築された。この時、御殿と本館の配置が代わり、地下部分が増設されている。

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【小樽市役所】  小樽の有力者・土肥太吉の10万円の寄付を機に昭和8年に新築された。設計者は小樽市建築課長だった成田幸一郎以下の建築課スタッフで、土肥秀二もかかわったと言われている。外壁はタイル張りで、正面入口の車寄せ部分とその周辺を茨城県産花崗岩積みとした近代建築。正面上部に彫刻を施した6本の柱を配し、内部中央部階段の正面はステンドグラスで彩られ、重厚な市庁舎となっている。

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【花園町会館】  昭和2年建設の会館の維持管理は、周辺の6町内会が出資する有限会社で行っている。外観正面は、左右対称のデザインとなっている。縦長の正面は、マンサ-ド屋根のつく玄関から2階上部小屋裏の窓上まで、変化のある形が並び、最上部に切妻の三角屋根をのせている。平成12年に外壁や屋根などの補修工事が施されている。

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【小樽無尽(株)本社→おたる無尽ビル】  昭和10年に建てられたこの建物は、後に北洋無尽と名称を変え、また、本店を札幌に移した後も北洋相互銀行の小樽支店へと変遷し営業を続けてきた。しかし、平成13年、北洋銀行のの店舗統合により小樽支店が廃止され、取り壊される計画が起き、これを知った市民有志がこの建物を自ら買い取り、今では市民の集う建物に活用されている。外観は幾何学的デザインのモダニズム建築であり、八角柱と装飾がその特徴である。

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【猪俣安之丞邸→銀鱗荘】  小樽の港を一望する平磯岬の高台に、どっしりとした構えで立っている銀鱗荘の建物は、余市で事業家として成功した猪俣安之丞により、建てられました。現在は観光旅館として利用されているが、冬期は休業となる。明治33年に3年の歳月をかけ余市に建てられ、昭和13年に現在地に移築された。余市随一の大邸宅だったこの建物は、木造平屋建ての大規模な中に、華麗さを見せる建物だ。屋根中央には、シンボルとなっている望楼があり、両端に鯱が据えられているが、これは移築後のもの。他の市から、移築されて建っている建物としては、祝津の鰊御殿と双璧をなす。

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【北海道庁土木部小樽築港事務所見張所】  昭和10年建てられたこの建物は、北海道経済を先導してきた小樽港の発展とともに歩んできた事務所である。小規模であるが、外壁は2種類の板壁を使い分け、方形屋根に小さい屋根をのせるなど、工夫を凝らしている。小樽港縦貫線の道路工事に伴い、平成13年に東より約60メ-トルの位置から現在地へ曳き家されている。

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【徳源寺本堂】  このお寺は、文久2年塩谷村吉原に創立され、その後、明治30年に現在の場所にこの本堂が建てられた。本堂の屋根は入母屋造りで正面中央に唐破風をつけている。本堂の平面は奥から内陣、外陣、廊下からなり、内陣の左右に脇陣がある。本堂と左手の龍神堂が並ぶ形式は、小樽市真栄の龍徳寺と共通している。境内には、小樽市の保存樹木に指定されているクロマツとイチョウがある。

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【高島町役場庁舎→小樽高島町診療所】  昭和10年に建てられたこの建物は、高島町役場として新築されたが、昭和15年の小樽市との合併により小樽市役所高島支所となり、昭和21年から診療所として使われている。外壁は石綿セメント板を下見板風に羽重ねし、ネジとめとている。1,2階を通した窓額縁、その間のパネルのメダル状装飾などが、洋風建築の趣を伝えている。高島町時代のシンボルとして地区の大切な建物となっています。

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【渡邊酒造店】  昭和5年梁川通りの角地に建ち、この地区のランドマ-クとなっている。建物の外壁に褐色のタイルを貼り、軒先には雷文や卵と檜の模様をつけ、2階窓上には酒樽の看板を掲げている。店内には、天井に模様を型押しした金属板を貼り、壁に鏡を飾るなど、昭和初期のモダンなデザインを伝えている。同時期に建てられた田中酒造店は、木造建築で町屋形式の外観をもち、対照的な形態といえる。

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【篠田倉庫】  大正14年に建てられた本倉庫は小樽運河の海側に建ち、連続して倉庫群れを形成する主要な建造物です。煉瓦の壁は、周辺の石やコンクリ-ト壁に対して景観のポイントになっている。構造は、内部の柱や梁を木で組み立て、外壁に煉瓦を積み立てる「木骨煉瓦造」で、小樽の同規模の倉庫て゛は数少ない事例である。運河沿いの壁は、平成8年の改修で新しい煉瓦に取り替えられているが、古い色合いになるよう工夫が施されている。

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【作左部商店蔵→シ-ポ-ト】  明治初期に建てられ、1世紀以上にわたり厳しい風雪に耐えてきた建物。蔵は母屋に付属し、物を収納するため、耐火構造にすることが必要だった。小樽の蔵は、はじめ土蔵造りが多く、明治後期から次第に外壁に石を張り付ける木骨石造りに変わった。本建築は、屋根や壁など土蔵造りの特徴を伝える代表的なもので、妻壁の植物をあしらう模様は、外壁のアクセントになっている。平成15年に外観が修復されている。

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小樽紀行⑤

2010年09月28日 | まち歩き

【中越銀行小樽支店→銀の鐘】  大正13年創建の頃、この周辺は入船川の河口であり、海側に船入淵が開け、複数の道路が交わり、交通の要になっていた。昭和18年に合併して北陸銀行となり、昭和38年南小樽支店に改称されている。外壁はモルタル仕上げで、2階窓列の壁に褐色のタイルを張り、その上に雷文の模様を一列に並べアクセントをつけている。

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【共成(株)→小樽オルゴ-ル堂】  明治24年創業共成(株)は北海道有数の精米、米穀商だった。明治45年に建設されたこの建物は、メルヘン交差点、かっての有幌倉庫群入口に当たる角地に位置している。石造の多い小樽では珍しい煉瓦つくりの建築で、内部には木骨の構造を組んでいる。壁の褐色の煉瓦、ア-チ状窓のキ-スト-ンや開口部と隅部に積んだコ-ナ-スト-ンなどが特徴。家具店舗を経て、現在はオルゴ-ル専門店に再活用されている。

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【上勢吉商店→遊工房】  小樽では明治末期以降、3階程度の木骨石造が建てられていたが、大正10年に建てられたこの建物は小樽に現存する数少ない本石造り3階建の店舗建築である。寄棟の瓦葺き屋根にド-マを設け、正面壁にキ-スト-ンを強調した窓を並べた意匠が特徴。昭和55年に正面1階左側の出入口が窓に改修されている。

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【久米商店→石ケ守商店】  小樽は大火がたびたび起こったが、商店は新築する際には防火に工夫を凝らした。酒や食料品、雑貨を商った久米商店が明治30年に建てた店舗。建物の両袖は煉瓦積みの防火壁が守り、2階の窓には、蔵の扉のような厚い防火扉が設けられている。

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【塩田別邸→料亭・夢二亭】  大正1年頃に建てられたこの建物は、小樽有数の回漕店を営む塩田安蔵の邸宅だった。初代安蔵は、明治20年代に堺町と南浜町に店を構え、2代安蔵は、昭和初期に小樽・樺太間に豪華な客船を就航させた。本亭は和風の主屋に石造りの蔵を組み合わせている。かって「大玄関」が左側に応接間と茶室、縁側の奥に「大広間」があった。平成3年、原型を活かして料亭に改め、小樽市都市景観賞を受賞している。

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小樽紀行④

2010年09月27日 | まち歩き

【岡崎倉庫→田中酒造・亀甲蔵】  明治初期、小樽で初めて市街地が形成されたのは、この周辺地区です。明治38年~39年に3棟の連続する倉庫が建設された。海側の倉庫は、臨港線拡張工事で一部を切り取られたため、平成8年に壁が改修されている。この小屋組は、たる木を棟から棟桁に架けるだけの「たる木小屋」になっている。3棟の基礎は、土台と柱の腐敗を防ぐため、下部に煉瓦を積み、その上に軟石を重ねている点で共通している。

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【岡川薬局】  岡川薬局は、小樽で有数の「薬種売薬」の老舗である。昭和5年、本薬局は信香町から奥沢につながる道路に面した場所に建てられ、この辺りは小樽市の市街地として早くから開かれたところである。木造モルタル塗り2階建てに、マンサ-ド屋根をかけ、ド-マ窓を設けて屋根裏も使用している。工期2年のうち基礎工事に1年をかけたと伝えられ、昭和初期の代表的な木造商店建築といえる。

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【住吉神社社務所】  昭和9年に建てられた住吉神社社務所は整った和風建築であり、木造の社務所としては道内で最大の規模である。平面は、中央に中庭を設ける「口」の字形で、本館、客殿、社務所の関係緖室からなっている。中央車寄せと社務所車寄せは、唐破風の屋根をかけ、母屋の千鳥破風と対になっている。境内には、ハルニレなどの樹木が植えられ、住吉神社の森として市民に親しまれている。

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【佐々木邸→住之江カトリック教会】  精米業として道内一となった、共成(株)の社長佐々木静二が、明治30年頃建てた邸宅である。社屋はメルヘン交差点に建つ小樽オルゴ-ル堂であった。この邸宅は、木造平屋造りで和洋折衷のしゃれた建物で、住吉町の高台にあり、小樽港の眺めが良い。昭和24年に、カトリック富岡教会の分教会として、邸宅を譲り受けた。民家利用の教会として再利用され、今では静かに賛美歌が流れている。

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【龍徳寺本堂】  龍徳寺本堂は、市内で最古の寺院本堂である。寺院設立の発端は、安政4年、函館の高龍寺18世和尚による。創設の地は信香町、次いで若松町、さらに現在地へと移転した。現本堂は、棟梁・北見八百蔵、脇棟梁古山仁三郎によって建てられた。屋根は入母屋造り、平入りでほぼ旧態を残している。本堂左手の金比羅殿と鐘楼は、明治22年の創建である。

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【野田邸→和光荘】  和光荘として知られ、周囲の緑に映える白塗りのモダンなこの豪邸は、北の誉酒造の経営者野口家がその自邸として、大正11年に建てた木造3階建て一部鉄筋ンクリ-ト造りの洋館である。天井にクラッシックなシャンデリア、床に豪華な絨毯がひかれ、大正ロマンのモダニズムを色濃く匂わせている。裏に回ると日本庭園が広がり、大正天皇が宿泊した和室がある。昭和29年には昭和天皇夫婦の宿泊所として利用された。残り少なくなった小樽を代表する豪邸の一つで、現在は会社のクラブとして利用されている。

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【潮見台浄水場管理棟】  昭和2年に設置された、潮見台浄水場は朝里川を水源とし、入船や松ヶ枝方面へ送水するために造られた。工事は、大正11年7月に始まり、昭和2年に完成した。小樽の水道施設では奥沢浄水場に次いで2番目のものである。管理棟は、八角形の平面上に、子供の絵本に出てくるようなとんがり帽子状の尖頭屋根をのせ、周りの自然と調和した建物になっている。

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【小樽聖公会】  小樽聖公会の最初の会堂は、明治28年、他の場所に建設されたが、その後焼失し、この場所に明治40年に再建された。この建物は水天宮の丘の中腹、急な石段の脇に小樽の町を見下ろすように建ち、木造下見板張り、切妻屋根に鐘撞室をのせている。軒のレ-ス飾り、星形模様のバラ窓、やや幅広の尖頭ア-チ窓などが特徴。内部は正面祭壇がある簡素なな造りとなっている。

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【板谷邸→海宝楼】  大正15年に建てられたこの建物は、海運業などで財をなした板谷宮吉の邸宅でした。東雲町の高台にあり、和風の母屋とその北側に続く洋館ねそれに背面の石蔵からなり、内外ともに創建時の姿をよくとどめている。木造モタル塗りの洋館には、銅板で葺いたマンサ-ド屋根をのせ、堂々とした雰囲気を醸し出している。

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【寿原邸】  大正1年に建てられたこの建物は、小樽を代表する実業家寿原家の邸宅です。創建者は「小豆将軍」として著名な雑穀商高橋直治とされている。水天宮の北側、急な傾斜地に建てられ、主屋から上手に2つの接客棟を連ねている。庭園は、斜面を三段に地割りし、上段には和室に面して池を配した日本庭園があり、中段には洋間に六角雪見灯籠を配し、下段では小樽港を見下ろすことができる。

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【光亭→罐友クラブ】 板谷邸を山田町へ下った角地にする数寄屋造りの料亭建築で、東京信濃町にある料亭「光亭むの小樽店として賑わった。昭和12年に建てられた檜造りで3棟の「居間」「松茶屋」「蘭の間」が並んでいる。2階には大広間があり、芸者の舞う檜板の間も設けられており、今にも三味線の音が流れ出る雰囲気を持っている。現在は北海製罐の罐友クラブとなっている。

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【戸出物産小樽支店→ス-ベニ-ルオタルカン】  大正15年に建てられたこの建物は、富山県に本社のある戸出物産の小樽支店として新築された。入船七又路(メルヘン交差点)の一角にあり、外観は左右対称で、窓周りに垂直性を意識した意匠が施されている。旧社屋裏に煉瓦造3階建ての倉庫が続き、一体で活用されている。1階室内には、鉄製の円柱が並び、柱の上に肘木をのせ、2階の床組を支えている。

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小樽紀行③

2010年09月27日 | まち歩き

【三菱銀行小樽支店→北海道中央バス第2ビル】  大正11年建築のこの建物は、かって、北のウォ-ル街といわれた地区の中心に位置する。建築当初は、外壁に煉瓦色のタイルが張られていたが、昭和12年に現在の色に変更された。1階正面には、ギリシャ・ロ-マ建築様式を表すように6本の半円柱が並んでおり、この建築を印象づけている。

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【北海道拓殖銀行小樽支店→ホテル・ヴィラントオタル】  この建物は、小樽経済絶頂期の大正12年に建設され、三菱、第一各銀行小樽支店と共に北のウォ-ル街の交差点を飾っている。銀行に貸事務所を併設する当時の道内を代表する大ビル建設で、銀行ホ-ルには2階まで吹き抜けで、6本の古典的円柱がカウンタ-に沿って立ち、光を受けた様は圧巻である。初期鉄筋コンクリ-ト造建築の道内主要遺構でもある。

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【113銀行小樽支店→小樽浪漫館】  小樽支店の開設は明治26年で、当初の店舗はこの通りのもう少し南寄りにありますが、業務拡大に応じ明治41年に建築されたのがこの建物である。寄棟、瓦屋根で、角地に玄関を設け、上部にギリシャ建築を思わせる飾りを配しているのが特徴。外壁は石張りになっていたが、その後煉瓦タイルを張り現在の姿になっている。

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【荒田商会→オルゴ-ル海鳴楼】  昭和10年、荒田商会の本店事務所として建築された。現在は店舗は再利用されているが、内壁の漆喰や、照明器具、窓枠は創建時の形態を伝えている。石造倉庫が軒を連ねていた小樽運河沿いに建ち、背面の旧高橋倉庫や左隣の旧通信電設浜ビルなどと中庭でむすび、歴史的景観のまとまりを創っている。

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【通信電設浜ビル→レストラン協和浜ビル】  昭和8年、石造倉庫が軒を連ねていた小樽運河沿いに、モダンな鉄筋コンクリ-トのビルディングとして建ちました。昭和初期の建築が装飾に富んでいたことを知るよい例である。建物の正面デザインは、すべて左右対称になっていて、窓の縦枠はア-チを描き、4階までつながっている。玄関周りは花崗岩で飾り、出入口の欄間は幾何学模様を描いている。玄関の両脇に立つ半円の柱に外灯が組み込まれている。

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【島谷倉庫→北のアイスクリ-ム屋さん】  木骨石造の特徴をよく伝える、明治25年に建てられた小さな倉庫。室内側に木で骨組みを造り外壁に石を積む構造である。木と石は「かすがい」でつないでいる。この構造の建物は、小樽市内に約350軒あることが平成4年の調査で確認されている。

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【高橋倉庫→オルゴ-ル海鳴楼】  大正12年、大豆を収める倉庫として建てられた。平成元年に改修され、店舗として再生している。前面は運河に面し、背面は出抜小路に接して建ち、周辺の歴史的景観を形成している建物のひとつです。小屋組は梁を二重に架け2本の束を陸梁の中央付近で左右対称に立てるクイ-ンポストトラスと呼ばれる洋風の構造である。

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【岩永時計店】  明治29年、時計商・初代岩永新太郎の店舗として建てられた。店員で構成された楽団を持つハイカラな商店だった。平成3年の改修により正面2階のバルコニ-、半円ア-チ扉、手摺などが修理され、ほぼ創建時の姿になった。屋根の装飾、軒の操り型など細部にもデザインが施され、瓦葺き屋根を飾る一対の鯱は商店では珍しい装飾であり、当時の小樽商人の意気込みが感じられる。

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【弟113国立銀行小樽支店→花月堂】  明治26年に、小樽支店として建てられたが、業務拡大に応じ明治41年にこの通りの少し北寄りに支店が移されている。その後、木材貿易商の事務所や製茶会社の建物として使用されてきた。平屋建ての比較的小規模な建物であるが、寄棟の瓦屋根に「トンガリ」飾りを付けた和洋折衷の構成で、明治の面影を良く伝えている。軒下に刻まれた分銅模様のレリ-フが113銀行のシンボルである。

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【北海雑穀(株)→光と香りの館】  北海雑穀(株)は資本金20万円を以て明治40年7月10日設立して諸雑穀委託販売を商いとして始めた。会社設立と同時に建設された建物規模は正面5間、奥居行4間で、屋根は瓦、外観は軟石、窓に飾り鉄扉、両袖に硤立を立て、和風意匠としては木柱、漆喰壁、2階天井には杉、録杉で天井で床の間を設けている。洋風意匠として2階上げ下げ窓と飾りカ-テンボックス、階段の手摺りなどがあり、意匠の混在が見受けられる。明治の風格と趣が残る建物である。

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【久保商店→さかい家】  明治40年、この建物は、小間物雑貨卸を営む久保商店の店舗として建てられた。現在は、和風商店の趣を残しながら喫茶店に再利用されていて、堺町通りの歴史的景観を形成する主要な建物になっている。久保商店時の写真によれば、道路側の下屋は母屋から蔵まで一体に続き、蔵は前後に2棟並んでいて、母屋の1階は店先として解放できる引戸が入っていた。

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【木村倉庫→北一ガラス3号館】  明治24年建設の小樽港の繁栄を示す大規模な石造倉庫で、当初は鰊漁場の中継倉庫だった。内部は中央廊下をはさんで2つの倉庫に分けられ、その廊下には港から引き込まれたトロッコレ-ルが今も残されている。昭和58年、内部空間を生かした硝子店舗に再利用され、ほかの石造倉庫の転用を促進させた。

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【魁陽亭→海陽亭】  明治初期に開業した料亭で、亭名は創業期の魁陽亭から開陽亭、海陽亭と変わっている。建物は大半が大正時代の増築であるが、2階大広間「明石の間」は、明治29年大火類焼時の再建と推定されている。明治39年11月、日露戦役による樺太国境画定会議後の大宴会がここで開かれるなど日本史の舞台にも登場し、政財界など多くの著名人が訪れている。

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【猪俣邸】  メルヘン交差点から南へ登る高台に位置する、明治39年に建てられたこの建物は、小樽に多い実業家邸宅の好例である。外見は純和風の造りだが、玄関左脇に洋風の応接間が設けられている。右手が表座敷で、8畳書院の座敷と2室をつなぐ広縁がめぐらされている。石蔵、石塀、石門に囲まれた敷地に建ち、外形がよく保存されている。珍しい中国風の石門は、建築主の中国旅行のスケッチに基づくものと言われている。

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小樽紀行②

2010年09月26日 | まち歩き

【右近倉庫】 明治20年代としては大規模な倉庫で、小屋組にはクイ-ンポストトラフ(対束小屋組)が用いられている。妻壁の「//」印は北前船主・右近権左右衛門の店印「一膳箸」で、船の帆柱に掲げられた船旗にも使われた。

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【広海倉庫】 加賀に拠点を置いた海運商・広海二三郎は、この倉庫を大規模な石造りで建築した。この土地はかって手前まで海岸が迫り、正面と右手の方向に鉄道施設があったことから、陸海ともに荷物の輸送と貯蔵に最適な場所だった。この倉庫は、荷を積み入れるため奥行きのある長方形で、採光のため屋根の中央と両側に段差を設けている。出入り口のア-チは、壁面のアクセントとなっている。

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【増田倉庫】 小樽運河北端に建つ大規模な木骨石造倉庫。右隣に広海倉庫、右近倉庫と大規模な倉庫が並び、切妻面して連ねた小樽港独特の壮観な石造倉庫の往年の景観を忍ぶことができる。

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【渋澤倉庫】 運河北部寄りの倉庫群れのひとつ。大きな切妻屋根を架けた本体の前面に2棟の角屋が突き出る変わった形をしている。向かって右手が一番古く明治28年に建てられた。その後左棟を並べて建て、次いで2棟を合わせた大屋根を架け、今の姿になったといわれている。

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【大家倉庫】 石川県出身の海産商・大家七平によって建てられた。外壁に札幌軟石を使用し、越屋根と入口部分の二重ア-チが特徴。その雄大さと独特の姿は運河地区の石造倉庫を代表するもののひとつ。平成14年におもちゃ博物館として再利用されたこともある。

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【小樽倉庫→小樽市総合博物館・運河プラザ】 色内地先の埋め立て直後の明治23年~27年にかけて建てられた営業用倉庫のひとつ。正面右手の倉庫が最初の建設で、増築を重ね2つの中庭を囲む大倉庫となった。寄棟の瓦屋根に鯱を乗せた和洋折衷のデザインで煉瓦造りの事務所を中心に左右対称に展開し、全体として優雅な美しさをみせている。北側を帯広市総合博物館、南側を運河プラザに活用、公開されている。

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【田中酒造店】  田中酒造店の店舗として昭和2年に建てられ、以来、今日まで営業を続けている。かっての酒造店の店構えを残した数少ない建築で、正面の軒下は、腕木を手前に迫り出す「せがい造り」になっている。大正、昭和初期にかけて、この形の屋根が小樽の木造商店に多くみられた。昭和初期の和風店舗を商品の販売、展示をかねながら修復、活用した良い例である。

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【早川支店】  早川支店は、新潟出身の川又健一郎が茶、紙、文房具を商う早川商店から暖簾分けを受けて、現在の場所に開設したのが始まりで、後に川又商店と店名を変更している。現在の建物は、明治37年の稲穂町大火で全焼したため明治38年に再建されたもので、厚い土塗りの防火戸や隣との境界に設けられた袖壁など、防火に対する配慮がうかがわれる。その袖壁には朝日や鶴と亀などの彫刻が施され、繊細な和風意匠でまとめられている。

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【磯野商店倉庫→海猫屋】  明治20年、新潟県佐渡出身の磯野進が興した磯野商店は、佐渡の味噌や新潟の米、縄の販売で成功し、海産物商として地歩を築き小樽の有力商店となった。この倉庫は明治39年に建てられたものであり、赤煉瓦造り2階建てで、内部にもこの赤煉瓦が露出している。この辺り一帯に磯野商店の店舗や倉庫が建ち並んでいたが、この倉庫が唯一遺構となっている。現在は海猫屋(飲食)として、活用されている。

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【安田銀行小樽支店→新聞社社屋・飲食店】  この建物は昭和5年に建築され、第二次世界大戦後、富士銀行から継承した跡、昭和45年から新聞社と飲食店・花ごころとして使われている。ギリシャの建設様式をもった昭和初期の典型的な銀行建築であり、重量感あふれる円柱が特徴である。

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【塚本商店→後藤商店】

大正9年に建てられたこの建物は、近江出身の呉服太物商の店舗として建てられた。小樽では、明治37年5月8日の大火で市街地を焼き尽くしたことから、防火構造の建物が普及した。この建物も防火のために、外壁をコンクリ-トで塗り固めね出入口や窓を防火戸で覆う工夫を施し、幾多の火災をしのいできた。

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【小樽商工会議所】  昭和8年建てられ、北海道の発展に寄与する小樽経済界の拠点であった。設計は土肥秀二、施工は萬組で、いずれも地元の手によるものでした。外装は石川県産千歳石で彫刻が施され、正面玄関には、土佐産の大理石が用いられている。昭和初期における鉄筋コンクリ-ト造の建物として貴重なものである。

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【越中屋ホテル→小樽グランドホテルクラッシック】 越中屋は、明治30年以降の英国の旅行案内書にも載った旅館である。昭和6年建てられたこの建築は、外国人旅行者のための別館で、国際貿易港小樽を象徴刷る建築のひとつ。正面から見る姿は、中央にある縦2列のベイウインドゥや両脇の丸窓と垂直の窓割りなどが特徴です。また、内部に散りばめられているステンドグラスに第一次大戦後のア-ルデコ様式の影響が見られる

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【三井銀行小樽支店】  昭和2年に建てられたこの建物は、色内大道り面し、小樽グランドホテルクラッシックの向かいにある銀行らしい建物。鉄筋コンクリ-ト造り、2階、地下1階なので、正面にある5つの石組のア-チの外壁がライトアップに浮かび上がる。内部もレトロな作りで2階には廻り廊下があり、天井が吹き抜けで高くゆったりとした気分にしてくれる。大正15年7月に着工し、昭和2年に完成した。2002年11月18日に閉鎖し、札幌支店に統合された。建物は「白い恋人」の石屋製菓が購入した。

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【日本銀行小樽支店→金融資料館】  1900年前後、当時商業を中心として発展する小樽市に各銀行が集中し、市内で徐々に完成していった銀行街は次第に「北のウォ-ル街」と呼ばれるようになった。その中で、日本銀行も小樽市に参入し、東京駅の設計者として知られる辰野金吾や長野平治らが建物の設計者担当し、1912年に竣工した。建物は積み上げた煉瓦の上にモルタルを塗った造りの2階建てで、ルネサンス様式を取り入れている。さらに屋根には八幡製鉄所の鉄骨が使用されており、小樽市内を眺めることの出来る東側の塔にはイギリス製のラセン階段が取り付けられていた。総工費は当時の金額で40万円以上に上がり、これは日本銀行本店と大阪支店に次いで3番目に高額な建設費だった。2002年9月13日、日本銀行札幌支店に統合が決定し、小樽支店としての営業は廃止となった。その後改築が行われ、2003年5月14日に新しく金融資料館として開館。内部は日本銀行小樽支店として機能していた時代のデザインや造りを残したものとなっており、岐阜県の赤坂産大理石が材料として使用されているロビ-と営業場カウンタ-、煉瓦製の壁から鉄骨を組むことで広い吹き抜けの空間を実現した営業場の天井、アイヌの守り神であるシマフクロウをコンセプトにデザインされ、内壁だけで12体数える彫刻などが特徴である。

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【北海道銀行本店→北海道中央バス本社ビル】  明治45年に建設され、設計は日本銀行小樽支店の設計に携わった長野平治で、請け負ったのは地元の加藤忠五郎。銀行建築独特の重厚さをもち、玄関や窓回りの石組みのデザイン、コ-ナ-部分や窓の間隔の変化などに特徴がある。外観の正面は、ほぼ創建当時の姿で残っている。

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【三井物産小樽支店→松田ビル】  昭和12年建設で、戦前の道内事務所建築の代表作で、当時の建築思想を示す国際建築様式の単純明快な意匠である。設計は松井貴太郎、施工は大倉土木。黒御影石の貼られた玄関や1階の壁は、2階以上の白タイルと鮮やかなコントラストを見せ、新鮮な印象を与えている。玄関ホ-ルは琉球産大理石で内装され、正面には2其のエレベ-タ-が設置されている。センタ-コアとして階段室、トイレなどは各階に集約配置されている。

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【第一銀行小樽支店→トップジェント・ファッション・コア】  大正13年に建設されたこの建物は、かって、北のウォ-ル街といわれた地区の中心に位置している。外観デザインは飾り気のない壁面に改変されているが、当初は道路側2面に3階通しの大オ-ダ-が立てられていた。現在は洋服店として活用されているが、内部の2階吹き抜けの営業室は、元のまま残されている。

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小樽紀行①

2010年09月25日 | まち歩き

小樽市は私の生まれ故郷であるが、手元に小樽市関係の記録が無いことで、この度小樽紀行を行った。小樽市が指定している「歴史的建造物」の記録である。

【田中家住宅→鰊御殿】 祝津の先端の小高い丘に「鰊御殿」として知られる豪壮な建物がある。鰊の最盛期に泊村の照岸漁場の網元であった田中福松により、明治24年から30年までの7年間をかけて建てられた。同時の鰊漁場建築を現在に伝えている。網元の自宅と出稼ぎヤン衆たちの宿泊場を兼ねた木造2階建ての建築。右手の網元の正面玄関とヤン衆たちの左手の脇の玄関に分かれている。元々は積丹半島泊村の照岸海岸に建てられたものが、北海道炭礦汽船会社が買い受け。昭和33年小樽市へ移築し、寄贈したものである。北海道指定有形文化財

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【白鳥家番屋→群来陣】 祝津は、北海道の初期漁村集落の様子を伝える貴重な地区。海岸沿いに鰊魚家の住宅、番屋、倉庫などが建ち並び、丘には神社があります。旧白鳥家番屋は主人と漁夫の住居部分が大屋根で一体になっている。主人の住まいには、床の間や欄間を設け和風住宅の特徴を示している。漁夫の寝床は、吹き抜けに巡らされていました。大工は、大棟梁が小林秀作、脇棟梁が土門倉次。平成7年に料理店に再利用され、翌年、小樽市都市景観賞を受賞している。

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【白鳥家別邸→前キャバレ-】 小樽駅からすぐ近くの長崎屋の裏手の静通りに面して、鰊漁場の祝津で三大網元の一つであった白鳥家の居住が立っている。祝津には白鳥家番屋兼用の住宅を持っていたため、白鳥別邸と呼ばれる。白鳥家は次第に事業を拡大、白鳥商店、後に白鳥合資会社と発展し、鰊大尽としてこの稲穂町辺りにも広大な土地建物を持っていた。明治42年に建てられた木造平屋建てのこの建物は昭和23年から「キャバレ-現代」として使用され、ホステスの平均年齢は50代後半が中心で、小樽の名物として全国に知られていたが、創業50年の平成11年8月に閉店し、現在はひっそりと佇んでいる。

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【白鳥家石蔵→藪半奥座敷】 白鳥家別邸の庭内にあった石蔵で、大正末期に建てられた木骨石造り2階建て。現在は「蕎麦処・藪半」の奥座敷として再利用されており、石蔵の中ですする蕎麦の味は別格のものである。石蔵の内部には2階に上がる階段があり、白鳥家の内蔵がいかに大きなものであったかが知られる。

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【青山別邸→にしん御殿小樽貴賓館】 この建物は、祝津の鰊網元・青山家の2代目政吉によって建てられた別邸。大正7年に建築に取りかかったが、翌8年に前浜の本邸番屋が焼失し、その再建を優先したため、完成までに6年の歳月を要した。屋根を銅板や瓦で葺き、指鴨居や縁側床板のケヤキに春慶漆塗を施すなど、内外ともに贅をつくした建物。平成9年、小樽市都市景観賞を受賞している。

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【浄応寺】 平成13年に大改修を行っていた本堂が落成し、見事な姿を見せている。入母屋造りの瓦葺きの大屋根を有する大伽藍で、風格を漂わせている、木造高棟の寺院建築。ご本尊は阿弥陀如来像。この寺は、道南松前にある専念寺の流れを汲む、名刹の一つに数えられている。

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【日本郵船小樽支店】 重要文化財旧日本郵船小樽支店は1904年に着工し、1906年に落成した。建物は近代ヨ-ロッパ復興様式のスタイルで建てられている。その特徴は外壁の石柱の飾りや内部の円柱の彫刻に表れている。純石造り2階建で内部は漆喰壁に北海道産木材のワニス塗装で、落ち着いた重厚なデザインで統一されている。日本郵船は1954年まで営業していたが、1955年に小樽市が譲り受け、小樽市博物館として利用していた。その後、1969年に国の重要文化財に指定されたが、痛みがひどくなり、1984年から3年間、全面的な修理復元工事を行い、当時の雰囲気を再現した。なお、この建物は1906年11月に2階会議室で日露戦争後、樺太の日露国境画定会議が行われた歴史的建物でもある。

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【日本郵船小樽支店残荷倉庫】 日本郵船小樽支店と同時にこの残荷倉庫も建設された。工部大学第一期生の佐立七次郎の設計による、一連の建築として貴重なものです。マンサ-ド屋根の小屋組、壁の石積みの仕様などは、支店社屋と共通している。平成14年に屋根全部と正面外装部分が改修され、周囲の景観に調和させている。

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【日本石油(株)倉庫→運河公園休息所】 小樽運河周辺には、明治から大正期にかけて、木骨石造りの倉庫が軒を連ねていた。本倉庫は、その典型的な建物です。小屋組は、クイ-ンポストトラスと呼ばれる洋風の構造である。平成10年の運河公園オ-プンに先立ち、新しい石を用いて立て直されている。

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【金子元三郎商店→小樽オルゴ-ル館カリオン堺町店】  金子元三郎商店は、明治・大正期に海陸物産、肥料販売および海運業を営んでいた。店主金子元三郎は、明治32年に初代小樽区長に就任し、その後衆院議員に数回選出されるなど、小樽を代表する政財界人だった。明治20年に建設されたこの建物は、両袖にうだつを建て、2階正面の窓には漆喰塗りの開き窓が収まり、創建時の形態をよくどどめている。小樽の代表的な明治期商店の遺構といえる。

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【名取高三郎商店→ナトリ小樽支店・大正硝子館】  山梨県出身の鋼鉄金物商名取高三郎が、明治37年の稲穂町大火災の後、明治39年に建てた店舗で、裏手に住宅や倉庫を連ねていた。角地に建ち、西側と南側に開いた形で防火のための袖壁を設けている。外壁には札幌軟石が使用されており、上部壁体を鉄柱で支える構造となっている。小樽の明治後期の代表的商家建築といえる。

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そば処・縹:10/09/19

2010年09月19日 | インポート

前に紹介した「そば処・縹」の店主が修行した芽室町の「そば処・縹」に行ってきました。芽室町の郊外にある温泉施設「ゆも-る川北」の一角にあり、暖簾には、「蕎麦と土鈴の縹」と記されています。店内はテ-ブル3席と小上がりに3卓ですが、暖簾の通り数々の土鈴が陳列されていました。ご主人の趣味のようです。

同店の蕎麦は、基本は更科系ですが、毎日、数量限定で田舎系も出しています。田舎蕎麦を注文しましたが、通常は暑寒別産の蕎麦粉を生粉打ちしているが、温度や湿度でつなぎを使う事があるそうです。当日は0.5%のつなぎを使っていました。風味が豊かで、喉越しも感じられ、旨い蕎麦でした。

天麩羅はエビと野菜でしたが、それなりに旨い天麩羅でした。

客がいなかったので、店主と蕎麦談義になりました。

更科系は蕎麦の香りがなく、喉越しと甘味を楽しむ蕎麦であること。田舎系は更科系プラス香りを楽しむ蕎麦であること、と認識が一致しました。さらに、天汁と蕎麦汁は本来違うものであり、天ざる等で1種類の汁しか提供しないのは間違いである。そのような店は蕎麦汁で天麩羅を食べるようになっているが、天麩羅の味を生かせない汁で食べていることになる、さらに、食べる途中で天麩羅を汁につけると、蕎麦の味自体が変わる可能性がある、との認識でも一致しました。そのような時の天麩羅は「塩」を付けて食べるとよいとのことです。

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左側が縹の入り口、右奥が温泉の入り口です。

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千代田頭首工(通称 千代田堰堤):10/09/17

2010年09月17日 | まち歩き

【先人が残した歴史的水利施設】

中川郡池田町千代田にある千代田頭首工(通称千代田堰堤)の規模は堤長169.60m、高さ6.48m、堤幅52.60m。

大正15年 千代田土功組合が十勝川に水田かんがい用の取水施設を設置。昭和7年~10年、治水床止付帯道営土地改良事業で現在の千代田頭首工を整備。昭和50年、昭和56年、道営災害復旧工事により改修。取水は左岸から行っている。

また、千代田頭首工は水田かんがい用水の取水施設として活用されているほか、十勝川における「鮭の捕獲場」として知られており、池田町の観光名所として多くの観光客が訪れている。なお、鮭の捕獲は、自然産卵を確保するため、堰に魚道を造り、自然遡上できるように工夫されている。千代田頭首工は、大正15年に完成後、度々起こる水害に対応するため、昭和7年~10年に、農業用水の取水と十勝川の河床低下防止の2つの目的を持つ千代田堰堤として築造した。このため、千代田頭首工は、千代田堰堤と呼ばれており、「十勝川治水開闘期の施設として歴史を伝える大規模固定堰」として、平成16年度に土木学会奨励土木遺産に認定された。

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