堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

原三溪のふるさと岐阜を訪ねて

2008-11-21 23:54:38 | 原三溪市民研究会

20日は原三溪市民研究会で、原三溪の生まれ育った土地、岐阜を訪ねました。


朝6時50分に横浜集合で、バスで日帰りという強行軍です。

一路晴天のもと東名高速を走りぬけ、岐阜へ到着。


Cimg5476 富士山がくっきりきれい!




まずは三溪が岐阜へくるといつも訪れ、ゆっくりしていたという

老舗料亭「水琴亭」に行きました。


Cimg5529 水琴亭


玄関には三溪の掛け軸が飾られていました。

Cimg5524_2 玄関のお軸


おいしい懐石料理をいただきながら、郷土の大学の先生たちから、

三溪とふるさと岐阜についてお話を聞きました。

食後は三溪の書いた襖絵のある部屋「時雨の間」の見学。

ここは三溪園にある臨春閣を模してつくられた部屋です。

天井、欄間、二階へあがる階段、縁側すべて同じです。

Cimg5507_2 2階への階段 臨春閣とそっくりです


驚いてしまいました。

床の間には、ここにも三溪の筆による掛け軸が。


Cimg5500 庭園


庭をみても、全体に建物の雰囲気が、とても三溪園と似ています。

「三溪さんらしい」感じがしました。



そこを後にして、次は三溪がとても感化されたのではないかといわれている

母方の祖父、南画家の高橋杏村の碑を見にいきました。


Cimg5560 高橋杏村の碑


この碑文は来年出版される『原三溪翁伝』に載っています。

これを校正作業している最中なので、

実物で文字を確認するという作業をしました。


Cimg5544_2 確認してます


一文字ずつ追って、原稿と照らし合わせ、写真をとり改行を確認する。

時間がないので、大急ぎで皆で手分けして、結構大変でした。



そのあと、私は一行と別れて、先生たちともう一つ『原三溪翁伝』に載っている

野村籐蔭の碑文の確認に行きました。


Cimg5575 野村籐蔭の碑


自分が担当した箇所なので、確認したい文字がいくつかあり、

気になっていたので同行させていただきました。

こちらも大きな碑で、保存状態もいいのですが文字がむずかしい。


Cimg5564 異体字?隷書?篆書??


初めて見る文字も多くて、私にはお手上げでした。

小一時間かかって確認は終わりました。



その後、三溪の生まれ育った柳津町に行きました。

家のすぐ前が小学校(現在は保育園)、

その隣は参道に石灯籠がずらっと並ぶ神楽殿のある大きな八幡神社。

そして家から数十メートルのところには土手があり境川が流れていました。

こういうところで育ったのだな、と空気をめいっぱい感じることが出来ました。



そして最後は県立図書館に寄りました。

帰りはバスを降りてしまったので、名古屋にでて新幹線で家路へ。


予定外の行動をとってしまいましたが、

もし岐阜にいくことがあったら見たいとおもっていたところを

全部見ることができて、とても満足です。


同志社講座 in Tokyo 「新島襄」

2008-11-15 02:51:52 | 勉強会、講演会

京都の同志社大学が東京で生涯教育をはじめました。


その一つとして東京オフィスで講座がはじまりました。


「~新島襄と門下生 その軌跡~」


月一回のペースでこれから5回行なわれます。

今日(14日)はその一回目。


テーマは「新島襄」。

いわずと知れた同志社大学の創立者です。

群馬県の安中市の出身で、上毛カルタにも

「平和の使徒(つかい)新島襄」とうたわれています。


私も名前とおおよその経歴は知っていますが、

ちゃんとわかっているのかというと、全然自信がない。


そんな時、早稲田でお世話になっている先生から、

この講座のことを教えていただき、早速申し込みました。

東京駅から歩いて2,3分という大変便利な場所で、

開始も18:30からなので、仕事が終わってから余裕でいってこれました。



講師は同志社大学の 本井康博教授です。

新島襄の生涯を普段の大学の講座なら3ヶ月かけて教えるところを

1時間でギュッとまとめて話してくださいました。

レジュメがよくできていて、名前の変遷から生涯を3期に分けて、

実にわかりやすく一生を解説してくださいました。


本名は「新島七五三太(しめた)」。

これを第一期。


函館から上海、そしてボストンと密出国して

その時Joe  →Joseph Neesimaとなる。

ここから第二期。


パトロンのハーディーさんのお陰でアメリカで大学院までいき、

牧師となり、アメリカン・ボードの宣教師となって日本に布教にもどってきた。

あくまで、ボストンから日本に派遣されたという形なのだそうです。

一生アメリカン・ボードから月給をもらっていたそうです。


そして日本での名前をJoseph Hardy Neesima のJoeを漢字にして

新島襄としたそうです。

ここから第三期。



名前のはなしはいろいろあって、本当はNiijimaであるのに、

どういうわけか英文はすべてNeesimaだそうです。

「多分本人は〔にいしま〕がよかったのかもしれない」と先生は言っていました。


父親の名前も「民治」をTamijiと書いたり、Tamiharuと書いたりして

どちらが正しいのか今でも研究者の間で議論になるそうです。

「新島は結構いい加減だったのですね」と先生はおっしゃいました。



でも私は堅曹さんの「けんそう」「けんぞう」論をとおして考えるに、

当時の人々は名前に対して、現代のようにこれが本名でこう読むのが正しい、

という意識が薄かったのではないかとおもうのです。


いろんな文献をよんでいると、みんなよく名前変えたり、いくつも使ったり。

女の人は「子」がついたり、つかなかったり、同じ読みの違う漢字になったりは、

しょっちゅうです。


自分がこうしたいという読みをとおしたり、字をいろいろに読んだりすることは

全く普通のことだったのではないでしょうか。


新島襄は漢字も「島」の山の部分をひらがなで「しま」と入れたりしていたそうです。


堅曹さんが家族に「けんそう」と呼ばせていたのも、

きっと本人がそれを気に入っていたからだとおもうのです。

アメリカに行ったとき「Kenzo」と書いたのは

外国ではそれがいいとおもったからなのでしょう。

講座を聞いて、思わぬ方向に思考がいってしまいましたが、これは収穫でした。



あっという間の楽しい講座で、新島襄のこともよくわかったし、

同志社の成り立ちも理解でき、とてもよかったです。



ここで久しぶりにたべておいしかったもの載せます。

帰りに東京駅のキッチンストリートにある頂上麺というお店で

「ふかひれ麺」を食べました。

Cimg5462 写真じゃよくわからないですね。

運ばれてきたときはグツグツいって熱々です。

おいしかった~。コラーゲンたっぷりです。


『我が祖父 川島忠之助の生涯』

2008-11-14 16:46:46 | 本と雑誌

小春日和の昨日13日、前橋に歴史WGの勉強会に行ってきました。


毎回のとおり、堅曹さんの『六十五年記』を読みました。

昨年の4月より読み進めて、全22回のやっと半分の11回まできました。

明治18年(1885)と19年(1886)の事になります。


   同伸会社頭取を辞職して、再び富岡製糸場の所長になります。


    亡き父の35年回忌を川越で親族一同集まり行ないます。

   たぶんこのときに昨年発見した墓石をつくったとおもうのです。

   いくつもの歌を詠んで父を追善しています。


    年があけ例年より寒くて工女たちが感冒にかかっていると書かれています。

   この「例年より」の根拠が毎日の気温の温度の合計を割って平均値をだし、

   去年と比較しているのです。華氏で書かれています。細かいですね。


   当時の工女さん達の健康管理や状況を把握するのにしっかりデータを

   とっていたことがわかります。



さて、勉強会もおわり、帰りに県立図書館に寄りました。



今月末にフランスのリヨンにいく予定にしているので、

支店があった同伸会社のことや富岡製糸に関する本を探しにいったのです。


ふと目に留まった

  『我が祖父 川島忠之助の生涯』 川島瑞枝著 皓星社 2007.7発行

を手にとってみました。


       Photo_3 『我が祖父 川島忠之助の生涯』



 
著者がリヨンに行き、祖父の足跡をたどっている場面がありました。

これだ!と思い、借りてきて読んでみました。



幕末の嘉永年間に生まれ昭和まで生きた、一銀行家の生涯です。


横須賀でフランス語を学び、富岡製糸場でポールブリュナーの通訳をしていた人物です。


そして明治9年にはイタリアに蚕種を売りに行こうという5人の日本人の

通訳兼ガイドとして世界一周の旅に出ています。

その一人が二本松製糸で堅曹さんと関係した梅原親固。


そして船で太平洋をわたり、サンフランシスコでパレスホテルに泊まり、

フィラデルフィア万国博覧会に行き、製糸企業家チニーのところを訪ねている。

堅曹さんがフィラデルフィアに行ったのと同時期に同じルートで海を渡っていて、

驚きながら、どんどん読み進んでしまった。


その後彼等はヨーロッパまで行き、イタリアで蚕種を売りさばこうとするが、

なかなかうまくいかない。

でもまあまあの結果をもって、ものすごく膨大な経験と知識を得て帰国するのです。

島村の蚕種のイタリア輸出は知られていますが、

当時同じことをしていた日本人はおおかったのだなあ、と知りました。




その後川島忠之助は正金銀行にはいり、リヨン支店長として

13年間フランスに暮らします。

その時の支店の場所を尋ねて著者がリヨンを訪問しています。

リヨンの街は100年たった今も地名を変えず住所がわかれば、たずねられるという。

現在の町のようすも書いてあります。


帰国後は、正金銀行の東京支店長をしたり、インドのムンバイ支店長も歴任しています。


ジュール・ヴェルヌ著の『八十日間世界一周』の翻訳をしたことでも

後年名を知られています。




孫が先祖の生涯を書き、足跡をたどるというとても気になる本であると同時に、

内容があまりに堅曹さんの仕事とかかわるところがおおく、

一気に読んでしまいました。


著者は長い波乱に富んだ祖父の人生で、すごく惹かれた部分を楽しそうに書いています。


もっと川島忠之助のきっちりした履歴も知りたいというおもいも残りましたが、

人物伝として、とても気持ちよく読むことが出来ました。


『原三溪翁伝』校正

2008-11-09 00:43:44 | 原三溪市民研究会

8日は横浜へ原三溪市民研究会に行きました。


来年出版の運びとなった藤本実也著の『原三溪翁伝』。

先月、原稿が活字となって出来上がってきて、

それを手分けして、手書きの原稿と照らし合わせる校正をはじめました。


ひと月かけて、自分の担当の箇所を校正していくのが宿題でした。



60年以上前に書かれた手書きの原稿。

手書きゆえ癖があり読みにくいのと共に、難解な漢字や旧字の連続。

漢籍からの引用が多い豊富な修飾語。

おびただしい数の学者や芸術家の名前。

最後は漢文の碑文。


出版社の方が打ち込んだ活字でも、?とおもう文字がでてくる。


すべてを調べて読み仮名をつけ、文章の意味をとり、正しいかどうかも考えていく。



丁寧にやっていたら、えらい時間がかかってしまいました。

大学の図書館で7時間くらいすわりっぱなしで集中してやること数回。

まるでお尻に根が生えたようだ、と思いました。

広辞苑、逆引き広辞苑、明解国語、新漢語林、古語等のはいった

電子辞書は酷使しすぎて途中で電池切れです。


そんな苦労してなんとか宿題終わりました。

最後、校正した文章を「通し」で読んでみると、

なんと格調高いリズムのある日本語なのでしょう。

実に味わいがある文章ですよね、と一緒にやっていた方は言っていました。



本当に自分は言葉を知らない、とつくづく思うとともに、

今回こうやって勉強させてもらう機会に恵まれたことはよかったな、

思うのでした。


「幕末日本と徳川斉昭」展

2008-11-07 03:09:13 | 人物

結婚式が終わった次の日、11月3日に

茨城県水戸市にある茨城県立歴史館で行なわれている

特別展「幕末日本と徳川斉昭」を見にいってきました。


  Cimg5449 茨城県立歴史館


なんでまた徳川斉昭なのか。


ひと月前に読み解いた速水家の古文書(←クリック)に関係するのです。

水戸藩の藩士の名前が書かれており、その人物のことを

調べたいと思ったのです。


展覧会の内容は徳川斉昭の生涯を幕末日本の歴史とリンクさせながら、

順を追って展示しているものでした。

藩主として行なった藩政改革をくわしく取り上げていたり、

阿部正広との交流、井伊直弼との比較をしながら

幕末の斉昭の政治姿勢を説明しています。


最後は夫として父としての斉昭の展示でした。

なんといっても子沢山で、なんと37人の子女をもうけました。

うち22人が男子。

7男が15代将軍徳川慶喜、

8男が堅曹さんが仕えた川越藩主松平直侯(なおよし)になります。


そう考えると、川越藩と水戸藩は大変近い関係です。



堅曹さんが17歳の時、江戸のお台場勤務をしていて、

その時に徳川斉昭に会っています。

日記にはこんな風に書かれています。



安政2年(1855)

  六月七日御台場ニ於テ八十斤大炮打試致シ、

  水戸中納言殿及前中納言殿御覧ニテ、親シク一段トノ御意アリ

                         『速水堅曹 履歴抜粋自記』より


  訳: 6月7日お台場に於いて80斤(きん)の大砲の試し打ちを行なう。

     水戸中納言(徳川斉昭)(徳川慶篤)殿および

     前中納言(松平典則)(徳川斉昭)殿が御覧になり、

     親しく一段と励むようにとのお言葉がある



堅曹さんは晩年に綴った自叙伝にもこのことを書いています。

彼の中では大変大きなインパクトのある出来事だったのだと思います。


まだ17歳の若い下級武士にとって、雲の上の人であり、

かつ当時一番の勢いのあった徳川斉昭からお言葉を頂戴したのは、

実におおきな喜びであり、励みになったことが想像できます。



じつはこのブログを書くまでは、堅曹さんが徳川斉昭に会ったことは

それほど重大なことだとは思っておらず・・・、


今、日記や自叙伝を引用しながら書いていて、

そうか、きっと堅曹さんにとっては一番若い多感な時期に会った大人物で、

ものすごい憧れやそのカリスマ性とかに惹かれていたのかも知れない、

と初めてわかってきました。



そうすると、例の古文書を堅曹さんが手に入れた、というのも納得できるし、

すこし謎がとけそうです。


調べにいった水戸藩の藩士のことは、ちょうど学芸員さんが出てこられたので

お聞きしたところ、調べてくださるということでお願いしました。

水戸まで行った甲斐がありました。