結婚式が終わった次の日、11月3日に
茨城県水戸市にある茨城県立歴史館で行なわれている
特別展「幕末日本と徳川斉昭」を見にいってきました。
なんでまた徳川斉昭なのか。
ひと月前に読み解いた速水家の古文書(←クリック)に関係するのです。
水戸藩の藩士の名前が書かれており、その人物のことを
調べたいと思ったのです。
展覧会の内容は徳川斉昭の生涯を幕末日本の歴史とリンクさせながら、
順を追って展示しているものでした。
藩主として行なった藩政改革をくわしく取り上げていたり、
阿部正広との交流、井伊直弼との比較をしながら
幕末の斉昭の政治姿勢を説明しています。
最後は夫として父としての斉昭の展示でした。
なんといっても子沢山で、なんと37人の子女をもうけました。
うち22人が男子。
7男が15代将軍徳川慶喜、
8男が堅曹さんが仕えた川越藩主松平直侯(なおよし)になります。
そう考えると、川越藩と水戸藩は大変近い関係です。
堅曹さんが17歳の時、江戸のお台場勤務をしていて、
その時に徳川斉昭に会っています。
日記にはこんな風に書かれています。
安政2年(1855)
六月七日御台場ニ於テ八十斤大炮打試致シ、
水戸中納言殿及前中納言殿御覧ニテ、親シク一段トノ御意アリ
『速水堅曹 履歴抜粋自記』より
訳: 6月7日お台場に於いて80斤(きん)の大砲の試し打ちを行なう。
水戸中納言(徳川斉昭)(徳川慶篤)殿および
前中納言(松平典則)(徳川斉昭)殿が御覧になり、
親しく一段と励むようにとのお言葉がある
堅曹さんは晩年に綴った自叙伝にもこのことを書いています。
彼の中では大変大きなインパクトのある出来事だったのだと思います。
まだ17歳の若い下級武士にとって、雲の上の人であり、
かつ当時一番の勢いのあった徳川斉昭からお言葉を頂戴したのは、
実におおきな喜びであり、励みになったことが想像できます。
じつはこのブログを書くまでは、堅曹さんが徳川斉昭に会ったことは
それほど重大なことだとは思っておらず・・・、
今、日記や自叙伝を引用しながら書いていて、
そうか、きっと堅曹さんにとっては一番若い多感な時期に会った大人物で、
ものすごい憧れやそのカリスマ性とかに惹かれていたのかも知れない、
と初めてわかってきました。
そうすると、例の古文書を堅曹さんが手に入れた、というのも納得できるし、
すこし謎がとけそうです。
調べにいった水戸藩の藩士のことは、ちょうど学芸員さんが出てこられたので
お聞きしたところ、調べてくださるということでお願いしました。
水戸まで行った甲斐がありました。
次の藩主(10代)の徳川慶篤(よしあつ)で、前水戸中納言が徳川斉昭だと
思います。(斉昭は弘化元年謹慎を命ぜられ家督を慶篤に譲っている)
堅曹さんの日記に安政7年7月水戸前中納言殿ご逝去と記しており、これが斉昭のことであるので間違いないと思います。
いずれにしても謹慎を解かれた後、幕政に関与した斉昭と息子の慶篤の前で
大砲の試し打ちを行い激励の言葉を頂いたことは後々まで強い印象として
残ったことだと思います。
ご指摘ありがとうございます。
間違えていました。
早速訂正します。