堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

同志社講座 in Tokyo 「新島襄」

2008-11-15 02:51:52 | 勉強会、講演会

京都の同志社大学が東京で生涯教育をはじめました。


その一つとして東京オフィスで講座がはじまりました。


「~新島襄と門下生 その軌跡~」


月一回のペースでこれから5回行なわれます。

今日(14日)はその一回目。


テーマは「新島襄」。

いわずと知れた同志社大学の創立者です。

群馬県の安中市の出身で、上毛カルタにも

「平和の使徒(つかい)新島襄」とうたわれています。


私も名前とおおよその経歴は知っていますが、

ちゃんとわかっているのかというと、全然自信がない。


そんな時、早稲田でお世話になっている先生から、

この講座のことを教えていただき、早速申し込みました。

東京駅から歩いて2,3分という大変便利な場所で、

開始も18:30からなので、仕事が終わってから余裕でいってこれました。



講師は同志社大学の 本井康博教授です。

新島襄の生涯を普段の大学の講座なら3ヶ月かけて教えるところを

1時間でギュッとまとめて話してくださいました。

レジュメがよくできていて、名前の変遷から生涯を3期に分けて、

実にわかりやすく一生を解説してくださいました。


本名は「新島七五三太(しめた)」。

これを第一期。


函館から上海、そしてボストンと密出国して

その時Joe  →Joseph Neesimaとなる。

ここから第二期。


パトロンのハーディーさんのお陰でアメリカで大学院までいき、

牧師となり、アメリカン・ボードの宣教師となって日本に布教にもどってきた。

あくまで、ボストンから日本に派遣されたという形なのだそうです。

一生アメリカン・ボードから月給をもらっていたそうです。


そして日本での名前をJoseph Hardy Neesima のJoeを漢字にして

新島襄としたそうです。

ここから第三期。



名前のはなしはいろいろあって、本当はNiijimaであるのに、

どういうわけか英文はすべてNeesimaだそうです。

「多分本人は〔にいしま〕がよかったのかもしれない」と先生は言っていました。


父親の名前も「民治」をTamijiと書いたり、Tamiharuと書いたりして

どちらが正しいのか今でも研究者の間で議論になるそうです。

「新島は結構いい加減だったのですね」と先生はおっしゃいました。



でも私は堅曹さんの「けんそう」「けんぞう」論をとおして考えるに、

当時の人々は名前に対して、現代のようにこれが本名でこう読むのが正しい、

という意識が薄かったのではないかとおもうのです。


いろんな文献をよんでいると、みんなよく名前変えたり、いくつも使ったり。

女の人は「子」がついたり、つかなかったり、同じ読みの違う漢字になったりは、

しょっちゅうです。


自分がこうしたいという読みをとおしたり、字をいろいろに読んだりすることは

全く普通のことだったのではないでしょうか。


新島襄は漢字も「島」の山の部分をひらがなで「しま」と入れたりしていたそうです。


堅曹さんが家族に「けんそう」と呼ばせていたのも、

きっと本人がそれを気に入っていたからだとおもうのです。

アメリカに行ったとき「Kenzo」と書いたのは

外国ではそれがいいとおもったからなのでしょう。

講座を聞いて、思わぬ方向に思考がいってしまいましたが、これは収穫でした。



あっという間の楽しい講座で、新島襄のこともよくわかったし、

同志社の成り立ちも理解でき、とてもよかったです。



ここで久しぶりにたべておいしかったもの載せます。

帰りに東京駅のキッチンストリートにある頂上麺というお店で

「ふかひれ麺」を食べました。

Cimg5462 写真じゃよくわからないですね。

運ばれてきたときはグツグツいって熱々です。

おいしかった~。コラーゲンたっぷりです。