堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

『温故創新』 須坂の生糸

2009-02-08 12:13:44 | 本と雑誌

親戚の伯父より、

『温故創新』 広田宏著 平成20年10月発行


  Img010_2 広田製作所創立五十周年記念『温故創新』


という本を貸していただきました。


長野県須坂市にある、株式会社広田製作所の創立五十周年記念誌としてつくられたものです。

伯父にとって広田製作所は娘の嫁ぎ先となります。


本の中に富岡製糸所のことが書いてあるから読んでみて、と言って貸してくれました。

広田製作所は須坂市で電子機器の組立てや製作をしている会社で、

オーナー会長の広田宏氏が会社の50周年を機に孫たちのためにきちんと先祖のことをしらべて

町の変遷とともにこれまでの会社の歴史を書き残そうと執筆されたものです。




「滝の町、水車の町、糸の町」といわれたこの須坂の座繰り製糸の器械は

万延元年(1860)上州前橋から購入してきたのが最初であり、

器械製糸については明治8年(1875)富岡製糸所へ視察にいった3人の者によって

はじめられた、というくだりがあります。


そのなかで広田家は、明治3年(1870)に先々代が「三国屋」という生糸の仲買商を始めて、

全国の絹織物工場や生糸問屋と取引をしていました。

群馬では前橋や桐生と取引があったと書いてあります。

それが戦後だんだんと生糸の仕事の減少から須坂にできた富士通の下請けをするようになり、

電子機器の製作所へと転換していきました。



本には生糸で栄えていた頃の須坂の製糸工場や町の様子、大きな水車の写真などが掲載されています。

器械製糸の動力は水車だったため、直径が6.6~11mというものが町に50もあったということです。


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             本の中の須坂の製糸関係の写真


同じ製糸で栄えた群馬と長野ですが、戦前戦後にかけて、日本の製糸業が衰退するのと同時に

長野は多くの製糸工場が精密機器の工場に転換していきます。

群馬ではそういった傾向は少なく、したがって現在でも国内の生糸生産高1位となっています。


そのように変わっていった理由はいろいろいわれています。

気候風土の違い、環境の違い、県民性の違い等。

しかしこの本には生糸の仲買商から、だんだんと電子機器の工場へと変換していった経過が

詳細に記されています。


製糸業の先行きを見極め、経済状況を判断し、家業を新たに興していく決断をどうおこなっていったのか。

生糸仲買商時代からの家訓や家風を大切にし、恐慌や不況にも耐えて、

新しい業種に変換できたことはやはり本人たちの努力がおおきかったのではないかとおもいました。


いつも群馬側からばかりみている製糸業も視点をかえ、長野側からみると知ることも多くありました。




堅曹さんは明治10年(1877)に国の役人として長野の養蚕製糸業の視察にいっています。

その時の様子が書いてある文章を広田さんからいただきました。

きっと地元にいけばいろいろ資料もあるはずだとおもいながら、すべてはまわりきれていなくて、

おもいがけないところから、堅曹さんの史料をいただきうれしい限りです。



今年の10月には「シルクサミット」が須坂でおこなわれます。

養蚕製糸関連の産業遺産も多く残されていて、蔵の街並みもあるそうです。

行って見ようかな、とおもい始めました。


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