9月18日は愛知県豊田市に行ってきました。
暑いけれど湿気がなく、からっとしたいい天気でした。
言わずと知れた世界のトヨタの本拠地、本社工場がデンと構えております。名古屋からは電車で1時間くらいです。
駅から徒歩5分ほどで「豊田市近代の産業とくらし発見館」があります。建物は大正10年に建てられた国の登録文化財・旧愛知県蚕業取締所第九支所です。
このあたりはトヨタ自動車の工場がくるまでは養蚕製糸の盛んな町で挙母(ころも)町といい加茂蚕糸の工場があり、西三河地方北部の繭取引の中心地としてさかえていました。古い町で近代産業遺産も数多く残っています。
それらを市街地の変遷やくらしの紹介を通じて市民に知らせているのが「くらし発見館」です。
こじんまりとしていますが、手作りのわかりやすい展示で温かみを感じました。
この「くらし発見館」で昨年「宇都宮三郎 最初の近代技術者になったサムライ」企画展が行われました。
宇都宮三郎
我が国近代化学技術の先覚者で、明治7年にセメントを日本で最初に製造し、耐火レンガ、炭酸ソーダ、ヤスリ紙、製鉄がまの改良、清酒醸造法など工業化学の分野に輝かしい業績を残している。
幕末に勝海舟の招きで製錬所に出仕、名称を化学所と改称する。化学を公で使用したはじまりである。
三郎は、天保5年(1834)尾張藩士神谷半右衛門の三男として名古屋に生まれ、16才の頃、宇都宮小金次と称し、後に三郎と改めた。
明治17年、病で工部大技長を辞し、その後も化学技術者として活躍、多くの後継者を育成する。明治35年(1902)7月23日、東京で没する。享年69才
この宇都宮三郎と堅曹さんは友人でした。
堅曹の日記と自叙伝に彼のことが書かれています。
明治17年(1884)10月、富岡製糸所の鉄製の煙突が暴風雨により中央より折れて倒れてしまった。技師に見積もりを頼んだら、業務を2ヶ月間休み、足場だけでも千円以上かかるといってきた。
我は素人なれども此論を採らず。速かに謝絶し、自ら建築を掌り予て宇都宮三郎氏に謀りて教を受たる事に基き、何人の言をも用ゐずして練化石の八角煙筒を三本建つ。業は一日も休まず入費は悉皆三百円余にて出来せり
(中略)
又宇都宮氏の教に随ひ、蒸汽釜に用うるの石炭は之を卵大に砕き、一時間の定法斤数を定め、十二分して五分毎間に投じて灰を一筋掻く事を励行す。此為め莫大の利益を生ぜり
(自叙伝『六十五年記』)(句読点は筆者)
このように宇都宮氏に教えてもらったやり方で自分で煉瓦の煙突3本立てて、工場も休むことなく経費も格段におさえられた、と。そして蒸気釜に使う石炭の大きさを卵大にして、量と時間を決めて入れることによって利益が莫大にでた、といっている。
こんな為になることを教えてくれた宇都宮三郎って何者?とおもい調べていました。
何年か前には調べてもほとんどわからず、それが今年7月に「くらし発見館」の天野さんのブログ(http://vajra.at.webry.info/)で企画展をしたことを知り、名古屋出身で、豊田市の菩提寺「幸福寺」に資料があることがわかったのです。
(くらし発見館のHP http://www.toyota-hakken.com/top.html )
早速に宇都宮三郎の資料集であるCD-Rを送ってもらい、企画展のパンフレットも同封していただきました。
知れば知るほど変わった人物で、日本で最初の生命保険加入者になったり、一時具合が悪くなったとき「解剖願」を出してそれが日本で最初であり、極め付きは自分の遺体を防腐処理の化学装置付きの特殊な棺に納め埋葬してもらっていることです。
企画展をなさり、資料集もつくられている天野さんとお会いし、お話を聞かせていただきました。ブログをお互いに読んでいたせいか、すぐに打ち解け話は盛り上がる。
ブログつながりは初めての体験。
幸福寺へも案内していただきました。
ご住職一家総出で迎えていただき、身に余るおもてなしを受けてしまいました。
びっくりしました。私のような学者や研究者でもないものを。ただ遠い昔先祖がお友達だったというだけなのに。
うれしかったです。
ご住職のやさしいお話と共に貴重な資料をたくさん見せていただきました。
堅曹の日記にたくさんでてくる辞令。たとえば
内務一等属 速水 堅曹
内国勧業博覧会審査官申付候事
明治十年十月一日 内 務 省
(『履歴抜粋 甲号自記』)
宇都宮さんは本物が全部とってありました。
写真や展覧会で展示してあるのは見たことがあっても、じかに触るのは初めてでした。
シミひとつない状態です。B5横型ほどの大きさで、きれいに三つ折りにされています。おもったより厚手の紙で、画用紙くらいです。
他にも手紙類や省庁からの呼び出し状、宇都宮氏の系図等々。
天野さんとご住職のお話からお人柄が浮かび上がってきました。
ひょうきんな一面もあり、しゃべりだしたらとまらない、新しい発見があったらどんどん話して書いてもらう。全然名誉とか財産には頓着しない。それでも日本の化学を創始して、なんでも自分の体をはってでも実験してしまおうとする精神にはおそれいります。
堅曹と宇都宮三郎、共に幕末明治という時代に下級武士から維新を迎え、国のためと必死に真実をみつめながら、時代の一歩も二歩も先を歩いてきた苦労と気概が共通点であったのだろうとおもいました。
名誉や財産にはかまわず、先祖を敬い供養し、几帳面に身辺を整理し後生のため書き残していく、という面は堅曹と似ているとおもいました。
最後に宇都宮氏が生前すべての先祖の供養をしてその一段下に自分と妻の墓を作ったというお墓におまいりさせていただきました。
二人が生きていた時より百年以上たってから、こうして子孫の私が宇都宮氏のお墓をおまいりさせていただいたことは本当に不思議で、でもきっと堅曹さんも喜んでくれているだろうなと心のそこから感じることができました。
幸福寺のみなさん、天野さん本当にありがとうございました。
うれしい気持ちいっぱいで豊田市を後にしました。
先日は遠方よりお越しいただき、
ありがとうございました。
おかげさまで宇都宮に関する知見を広げる事ができ、大変喜んでいます。
これも宇都宮とご先祖様のご縁によるものと、感慨深いです。
今後とも
どうぞよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
お忙しい中本当にお世話になりました。
私もいろいろ教えていただき、浅草の神谷バーの神谷氏が宇都宮三郎の親戚であるとか、しかも神谷氏が作った牛久ワイナリーはすぐ近くでした。近々に行って神谷記念館を見てこようと思っています。
どんどん知見はひろがりますね。
これからもよろしくお願いします。
宇都宮は、この器械を水戸反射炉を作っていた大島高任と会った後に見たと記述があります。
水戸へ行ったのは、父が亡くなった年だと同じく記述がありますが、父の亡くなった没年月日は、お分かりになりますでしょうか?
ガス燈の始まりを記録する上で大変貴重な情報です。
宜しくお願いします。
メールを頂いても結構です。
mitaketami33@ab.auone-net.jp