堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

原三溪のお墓

2008-09-15 08:47:13 | 原三溪市民研究会

三連休の初日13日は、横浜へ原三溪市民研究会にいってきました。

今回は1時間早くはじまり、作業を終えたら、

原三溪さんのお墓まいりにいくことになっていました。


原家のお墓は横浜市の久保山霊園にあります。

交通の便があまりよくないので、総勢20人以上がタクシーに分乗して向かいました。



霊園は横浜市西区にあり、JRの保土ヶ谷駅が一番近いようです。

高台にあり、その起伏にとんだ広大な霊園からは横浜の町が見渡せます。


 Cimg4858  久保山霊園


入って直ぐに原家の墓地がありました。

門扉がある立派な墓です。


  Cimg4857_2 原家墓地


正面が祖父原善三郎夫婦の墓、左側にその娘夫婦の墓、


  Cimg4837 原善三郎夫婦の墓


  Cimg4834 善三郎の娘夫婦の墓


そして右側に原三溪が収められている原家の墓です。


  Cimg4841 原家の墓(原三溪)



三溪さんのは、五輪塔の墓で 梵字と「昭和十二年十一月 原家建之」

以外何も彫られていないものでした。

その他にも一基、親族とおもわれる墓があり、

また、三溪さんの関東大震災の復興の功績を讃える碑もありました。

皆で花を手向け、水をかけ、線香を供えました。




その人物を知るには、まずお墓参りから、と先祖調べではいいます。

きちんと調べていることを報告して、よろしくお願いします、と。

墓そのものからも、彫られている文字からも史実と情報が得られます。



家に帰ってから、デジカメに撮らせてもらった原一族の墓に彫られた文字を

年表や家系図と照らし合わせて一文字づつ、すべて読んでみました。

あの場ではわからなかったことが、浮かびあがってきます。


他の2基にに比べてとてもあっさりとした五輪塔のお墓は

「三溪さんの美学や美意識、こだわりであのようにつくったのだろう」

と皆で話していました。


ところが、写真で確認した建立年月をみると、

自分の亡くなる2年前に早世した息子のために造られていることがわかりました。



跡取りとして立派に成長して、あとは任すばかりにしていた息子の突然の死。

  彼はその初七日に追善の茶会を早朝の三溪園で開いた。

  池の蓮の華が開くその時刻、客に蓮飯を振る舞い、三溪は茶を点てた。

  客も亭主の三溪も、悔やみの言葉もなく嘆きの言葉もない。

  無言のうちに万感せまるものがあった、と客の一人が綴っている。



あのお墓は彼が深い悲しみをもって、最愛の息子の供養のために

建てたものだったのである。

そのあっさりとした墓の姿は美学などではなく、

愛する我が子の霊を弔うために、三溪が渾身の思いをもって造った、

悲しみを湛えている五輪塔の姿であることに気がついた。



墓になにも刻字されていない理由が、無言の茶会に通じる、

言葉にならない哀惜のあらわれであるのを知る。


私の中で、原三溪という人物の思いが胸に迫ってきた。