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内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』後編

2010-11-14 06:03:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 二人目の小田嶋さんは、平和憲法は日本だけのものではなく、古くは日本国憲法の下敷きにされたとも言われている1931年のスペイン憲法、1935年のフィリピン憲法があり、第二次大戦後のドイツ基本法、イタリア共和国憲法、大韓民国憲法、その他永世中立国のオーストリア、そしてインドやパキスタンですら平和憲法国家であること、アメリカの場合は独立宣言で保障された権利が当初は白人男性だけに限定されていたのに対し、マイノリティが激しい弾圧と妨害と戦って数々の憲法修正条項を加えさせ、現在の憲法の形になっていったこと、日本国憲法にも「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という記述があること、歴史的に見ても、人種、民族、宗教を超えて人々が「自由・平等・博愛」という普遍的な理想を実現せんと一致団結したのが、そもそもの「国民」と「国民国家」の成り立ちなのであり、それが本来の「純粋な」ナショナリズム(国民主義)なのであって、日本で主張されている「単一民族国家=ナショナリズム=国家主義」というのは歴史的に見ても非常に幼稚な発想でしかないことを語ってくれます。
 三人目の平川さんは、イエスかノーかを問う質問は、質問者があらかじめ用意した枠組みの中に回答者をはめ込む罠として機能すること、4人目の町山さんは、自分たちが法律を意識しなくとも、自らが持ち合わせている倫理や、自然法的な掟に従っていれば、普通に生活していけるのが、法律が健全に機能している状態であり、常に憲法を頭において行動しなければならないなどというのは、国民にとっては不幸な事態なのであって、憲法なんて意識しなくとも、国を愛し、同胞を助け、隣人を敬って生きてゆけるのがまっとうな社会であるということ、憲法は理想を述べたものであり、その理想に向かって現実を作り変えていくというのが「現実的」な態度なのであって、ただ現実の状態に迎合し、理想としての憲法を作り替えて、その言葉の本来の意味での「政治」に代えて、戦力の行使に問題解決の希望を見い出そうという態度こそ「理想主義」なのではないか、と語ります。

 どの主張も説得力があり、何となく直感として普段私が感じていた改憲派の幼稚さ、頭の悪さを見事に指摘してくれていたと思います。憲法に興味のない方でも楽しく読める本になっています。気軽に読める本としてもオススメです。

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内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』前編

2010-11-13 06:09:00 | ノンジャンル
 内田樹さんらによる'06年作品『9条どうでしょう』を読みました。日本国憲法の第9条の改憲論議の盛り上がりとそれに対する護憲派の動きを受けて、4人の方たちがそれぞれの主張を書いた本です。
 まず、まえがきで内田さんが「既成の護憲派とも改憲派とも違う『第三の立場』を探り当て、そこからの眺望を語」り、「護憲・改憲の二種類の『原理主義』のいずれにも回収されないような憲法論を書く」ことが本書の目的であること、そしてそのためには、「ラディカルな知性を好まない」日本のメディアとの対立を辞さず、「『国民全員を敵に回す』可能性」もあえて引き受ける、つまり「メディアからしばらく干されても構わない」人たちに書いてもらったという決意(?)表明がなされます。そしてこうした文章を書くのに必要なものは、「政治史や外交史についての博識でもなく、『政治的に正しいこと』を述べ続ける綱領的な一貫性でもなく、世界平和への誠実な祈念でも、憂国の至情でもな」く、「硬直的なスキームの鉄格子の向こうに抜けられるような流動的な言葉」なのだと内田さんは主張します。
 そして先ず内田さんの文章。主な内容は以下の通りです。すなわち、
1、改憲派が「武装国家」か「非武装中立国家」かの二者択一しかないと主張するのは、ものごとが単純でないと気持ちが悪いという「子ども」の論理であること、
2、「現実が複雑なときには、単純な政策よりも複雑な政策のほうが現実への適応力が高い」というごく当たり前の事実の指摘、
3、二者択一の結果選ばれた政策は外れた時のリスクが高く、日本が生き延びるための国家戦略として、はなはだ不都合であるということ、
4、そしてそうしたことを内田さんに教えてくれたのは戦後のアメリカによる対日戦略であり、彼らは財閥解体・婦人参政権といった一連の民主化政策によって権力と財貨と情報を集中的に占有してきた支配階級を解体してくれ、それはたいへん「よいこと」とされてきましたが、戦略的な見方をすれば、意思決定に大変な手間ひまがかかる非能率的な統治システムを日本に作ることに成功したとも考えられること、
5、「平和憲法」を制定した後、大日本帝国に変わってアメリカの主敵となったソ連中国社会主義国との覇権闘争に備えて、アメリカは「後方支援部隊」として日本軍を目的限定的に再建するという合理的選択を取ったことが戦後のアメリカの対日戦略だったのだということ、
6、こうしたアメリカによる日本の従属国化を日本はそのまま心情的に受け入れることができず、改憲派と護憲派に人格解離することによって精神的に苦しまなくて済む道を日本は選んだのだということ、
7、こうした日本の自己欺瞞にはアメリカ占領軍も深くコミットしていて、それは具体的には、占領軍による略奪やレイプなどアメリカ人の犯罪は一切報道してはならないという指示がGHQから出され、また占領軍を構成していたのが、日本軍と交戦経験のあるアメリカのベテラン兵士たちではなく、本土から呼び寄せられた戦闘経験のない新兵たちだったということ、
8、そして1960年の安保闘争は心情的には紛れもなく、日本を従属化したアメリカに対する反米=独立闘争であったこと、
以上が内田さんの文章の主な内容でした。
 ということで、ちょっと長くなったので、続きは明日に‥‥。

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サミュエル・フラー監督『折れた銃剣』

2010-11-12 05:43:00 | ノンジャンル
 海保における中国船ビデオの流出がこのところマスコミをにぎわせていますが、昨日の朝日新聞の朝刊に「保安官、独断の公開」という見出しが踊っていました。海上保安庁の職員は「保安官」なのですね。西部劇みたいでカッコいいなあ、とちょっと笑ってしまいました。

 さて、サミュエル・フラー監督・脚本の'51年作品『折れた銃剣』をWOWOWで再見しました。
 「朝鮮戦争についての映画。アメリカ軍の歩兵に捧げる。協力してくれた陸軍に感謝」という主旨の字幕。1万6千人の師団撤退命令が下されますが、それを敵が知ると総攻撃をかけてくることが分かり、敵の目を欺くため、48名の小隊を連隊と見せかけて後方防備に置くことになり、ロック軍曹(ジーン・エヴァンズ)がその任に就くことになります。倒した敵から乾いた靴下を手に入れて喜ぶ部下たち。敵はラッパを鳴らして挑発してきます。砲撃を受け、崖の中腹に空いた鍾乳洞に逃げ込む小隊。伍長のデノ(リチャード・ベイスハート)は過去に小隊を指揮して部下を死なせたことをトラウマとして、敵を撃つこともできずにいることを軍曹に告白し、軍曹とロネガンが死んだ後は自分が小隊の指揮を取らなければならなくなることを恐れ、降格を直訴しますが、軍曹はそんなデノを励まします。敵をかく乱するために部下が敵のラッパの奪取に成功しますが、一人が戻らず、ロネガンは救出に向かいますが、自分が銃撃されて地雷原の真ん中に取り残されます。デノは地雷原から彼を救出することに成功しますが、既にロネガンは息絶えていました。人形を敵に撃たせて敵の位置を知り、迫撃砲でやっつける軍曹。しかし敵の襲撃を受けて鍾乳洞に退却したところで、軍曹は敵の跳弾を受けて死にます。すぐに撤退を主張する部下たちに対して、指揮官となったデノはあくまで命令された時まで留まることを主張し、反抗したら銃殺すると言います。そしてやっと時間が来て撤退を開始すると、それに気付いた敵は戦車で追ってきますが、デノは偵察兵をおびき出して射殺し、戦車を地雷原で破壊して道を塞ぎ、敵の進軍を阻止することことに成功します。そして味方の待つ対岸へ、疲れ切った表情で歩いて川を渡るデノたちの姿で映画は終わります。
 すべてセット撮影であり、画面はオーソドックスながら、360度のパン撮影や、一人一人の表情を追いながらそれぞれの独白をナレーションで流すなど、注目すべき画面も多くありました。地雷で黒焦げになった兵士や、台詞だけながら、ちぎれた耳の描写など、それまでの戦争映画にはなかった戦争描写もあったように思います。フラー・ファンの方以外にもオススメです。

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M・バルガス=リョサ『子犬たち/ボスたち』

2010-11-11 07:10:00 | ノンジャンル
 今年のノーベル文学賞を受賞したM・バルガス=リョサの'67年の中編小説『子犬たち』と'59年の短編集『ボスたち』を読みました。
 『子犬たち』は、勉強もできスポーツもでき友情にも厚かった少年クエリャルが、ある日シャワー室で犬に襲われて「ちんこ」に損傷を受け、〈ちんこ〉というあだなとなり、無頼な性格となってわざと危険な行動に出て仲間をハラハラさせ、仲間に次々とガールフレンドができるに従って孤立感を深め苦しみ、やがて大人になって仲間たちが家庭を持つようになると仲間と疎遠になり、結局無頼の徒として事故死してしまうという話。文が句点で次々とつながり、括弧が省略され、主語と述語、名詞が混然となっている独特の文体が魅力的でした。例えば、「ブラザー・レオンシオ、転入生が来るってほんとうですか? 三年A組、ブラザー? うん、そうだ、ブラザー・レオンシオは顔にかかった髪を乱暴に払いのけ、さあ、もう静かにしなさい。」といった感じで、ほとんど会話文でなりたっているのですが、そこから感じられて来るクエリャルの心の生々しい痛みが胸に迫り、息苦しくなるほどでした。
 『ボスたち』に含まれている短編は6つ。表題作『ボスたち』は、新しい校長が試験の時間割を発表せず、今後抜き打ちテストを行うと宣言したことに対し、「全員を落第させるつもりか」と怒りをつのらせた俺を含む中等科の有志が他の生徒たちに登校拒否を呼びかけ、学校のロックアウトをしようとしますが、過激派のルーが学校に無理矢理入ろうとした下級生に暴力を振るったことをきっかけに逆に体勢派の反撃をくらい、挫折する話、『決闘』は、 俺たちの仲間のフストがお互いの仲間が見守る暗闇の中で「ちんば」とナイフで決闘をし、負けて殺され、それに立ち合っていたフストの父の家まで遺体を運ぶ話、『弟』は、リマから数年ぶりに牧場に住む兄妹の元に戻ったフアンが、妹を犯したというインディオを山奥に追って殺す兄に同行しますが、戻ってみるとそれは妹の狂言であったことが分かり、フアンは怒り狂ってリマに戻ることを宣言し、妹の馬に当り散らしますが、その後納屋に閉じ込められていた他のインディオを解放すると気持ちが落ち着き、兄から一緒に飲もうと言われるという話、『日曜日』は、恋する女の子を賭けて、仲間の見守る中、ミゲルはルベンとビールの飲み合いで決闘しますが決着がつかず、冬の海での泳ぎの決闘へと至りますが、そこで二人は死の恐怖を体験し、結果としてミゲルが勝ち、ルベンとの友情も取り戻すという話、『ある訪問者』は、囚人が解放される条件で、荒れ地にある宿の女主人を襲ってその愛人を誘い出すのに成功しますが、愛人が警察に連行された後、警察にわざと現場に取り残され、復讐に燃える愛人の仲間たちが囚人を殺そうとするところで終わる話、『祖父』は、老人のドン・エウロヒオが道で拾った髑髏を油で磨き上げ、中にロウソクを灯して道の真ん中に置き、孫を驚かせようとしたところ、ロウソクの火が油に引火し、髑髏全体が炎に包まれ、それに気付いた孫が隠れている老人の存在に気付かず、老人は満足して帰って行くという話です。
 どの短編も登場人物の偽りのない生々しい感情が見事に描き出されていて、読みごたえがありました。暴力と仲間意識がすれすれのところで均衡を保っている話が多く、スリリングな短編に仕上がっていたと思います。これからバルガス=リョサの他の作品も読みたいと思わせる出来でした。単純な面白い読み物としてオススメです。

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サミュエル・フラー監督『ショック集団』

2010-11-10 06:10:00 | ノンジャンル
 サミュエル・フラー製作・監督・脚本の'63年作品『ショック集団』をスカパーの洋画★シネフィル・イマジカで再見しました。
 「私はジョニー・バレット。実話に基づく話です」というナレーション。「人類を滅ぼすには狂人にすればいい」という聖書の言葉の字幕。ピューリッツァー賞に野心を燃やす新聞記者ジョニー・バレットは、編集者と精神科医フォンの指導の元、精神病者として受け答えする練習を積んでいます。酒場で半裸で歌う恋人キャシー(コンスタンス・タワーズ)は本当に狂ってしまうことを心配して反対しますが、結局彼が強姦未遂をした妹の役を演じることに同意します。ジョン・バレットの名の元、精神病院に入院することに成功した彼は、病院内で起こった殺人事件の3人の目撃者から証言を得ようとします。1人目は自分が南軍の少将であると思い込んでいる男でしたが、彼が一瞬正気に戻って時に、犯人が白いズボンをはいていたことを彼から聞き出すことに成功します。2人目は、黒人で唯一大学に入学して迫害を受けたことによって自ら白人至上主義者になってしまった若者で、彼も正気に戻った時に看護人が犯人だということを証言しますが、名前を告げる直前にまた発狂してしまいます。バレットは面談に来たキャシーにキスされることを拒み、キャシーは彼が自分を本当の妹と思ってしまっていることに気付き愕然とします。3人目は原爆を発明したにもかかわらず精神年齢が6才の物理学者で、バレットはついに彼から看護人のウィルクスが犯人であることを聞き出しますが、直後に記憶をなくし、廊下に雷雨が振り注ぐ幻覚を見ます。そして名前を思い出せた彼はウィルクスと死闘を演じ、最後に彼の口から犯行を自供させますが、既に狂人と化したバレットの言うことを院長は信じられません。廊下に茫然と座り、腕を差し出したまま動かない彼の姿に、冒頭の字幕が重なって映画は終わります。
 奥行きのある構図・シルエットの多用が映画的な空間を作り出していましたが、カリカチュアライズされている登場人物の振舞いや、バレットの夢に現れるキャシーの映像などは、リアリティには欠けていたように思います。それでもやはり廊下の雷雨のシーンには今回も鳥肌が立ちました。このシーンを見るためだけでも一見の価値のある映画です。

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