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内田樹×三砂ちづる『身体知』その1

2010-11-25 07:21:00 | ノンジャンル
 内田樹さんと三砂ちづるさんの'06年に刊行された対談集『身体知』を読みました。
 まずまえがきで三砂さんが、人がひどい体験をした後、「まあ、なにごとも思うようにはならないのだから、しかたがなかろう」と思うのと、「私がこんなにひどい経験をしたのは、誰かが、あるいは環境が悪かったからである」と思うのでは、その後のその人自身の方向性がまったく逆になり、前者は「私にはそういうことはできなかったけど、次の世代には、もう少しよい経験ができるように」と寛容になれるのに対し、後者は人を受け入れられない、心の狭い人間になると語り、人間が実際に経験できることは限られているにもかかわらず、想像力と共感する知の力があれば、その折々に求められる適切な行動がとれるようになり、こうしたことがこの本のテーマであることが明らかにされます。また期待されながら役割を受け入れることによって、自分には到底そのような力はないと思っていても、役割を全うできる人間になっていくことも語られます。
 で4つの対談が始まるのですが、その中では、
1、出産時にはエンドルフィンという、とても気持ちのよくなるホルモンがたくさん出て、それは本来赤ちゃんに対して使われるものなのですが、近くに男性がいると、そのホルモンの影響で、その男性に突然恋に落ちたりすることもよくあるということ、
2、出産時に光を落として、静かで周りに人がいない状態にすると、お母さんは自分自身と赤ちゃんに集中でき、産んだ直後に女性はアドレナリンハイになるので、産んだ赤ちゃんをすぐ自分で抱っこするプロセスを大事にしてあければ、自然に赤ちゃんに愛着がわき、お産経験をいいものとして体験できるということ、
3、子供は親を全て許すことによって先に進んでいけるということ、
4、明治維新以来、「直感的に身体が正しい選択肢を教えてくれる」という考え方を組織的に排除して今日に至っているので、生命力を奪うような存在が近くにいても、身体感受性が鈍い人はそれに気付かず、自ら衰退していくというケースが増加してきているということ、
5、自分が生まれる前も、自分が死んだ後も含むような、時空を貫く流れがあって、自分はその「広大なるもの」の一つの構成要素であるといく感覚が持てるようになると、生きる意欲を維持することができるという事こと、
6、日本で昔から美徳とされてきたことの中には、「受け流す」「まわりに気をつかう」「お金にうるさくない」「『まあまあそれでいいです』と言ってニコニコしてその場を終わらせる」といったことがあったということ、
7、邪悪な者は邪悪なままで矯正しようがないと諦め、それが及ぼす被害をどうやって最少化するかにエネルギーを集中した方が効率的であるということ、
8、デートで一緒にご飯を食べるとか、誰かと会食するというのは、ごはんがまずくなるような相手であるかどうかを知る術として人が行っているということ、
9、自分がそのままで受けとめられているという気持ちがあると、人間は次に進めるということ、
10、しかし師弟関係の基本的なメッセージは「今の君でいい」ではなく、「君には君の知らない可能性がある」であるということ、
(以下、明日に続きます。)