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山中恒『すっきりわかる「靖国神社」問題』その2

2015-11-01 06:15:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 「明治政府が、欧米の文物を積極的にとり入れ文明開化を図ったように、6世紀半ばから日本は大陸の文化や思想を積極的にとり入れたのです。仏教は、大陸文化を象徴する絢爛豪華な舶来品でした」、「『聞問思想』で考えれば、煩悩に悩む神を救う仏が当然上です。また神前でお経を読むと、神がお喜びになるので、やがてどの神社にも神様のために経を読む僧侶を置き、堂や塔も建てるようになりました。大きな神社には必ず神宮寺を置き、神のために僧侶が経を読み、法要を営みました」、「神宮寺の出現は、神の性格を一変させました。神とは、次の世界に如来として転生すべきもの、すなわち菩薩であると理解するようになりました。その結果、神に菩薩号を奉じ、八幡大神を八幡大菩薩というようになります。平安時代の桓武天皇の頃には、神を菩薩といい、その後、時代を経るにつれて、それがはなはだしくなりました」、「簡単にまとめると、神が仏を鎮守し擁護するという思想から、今度は神が仏の仏法を聞くという思想が生まれました。(中略)これを『神仏の習合』とか『神仏混淆』の思想といいます」、「その後、さらに神仏の関係は変わります。神々は仏の衆生ではない。インドの仏が、日本で『神』という仮の姿になって現れたのだと考える権現思想が生まれたのです」、「平安初期から権現思想は『本地垂迹説』に発展します。実在の仏を本地、権現を垂迹といい、インドの仏や菩薩が基本で、日本の神祗はその仮の姿に過ぎない。天台宗や真言宗の学僧たちは、インドの仏や菩薩が日本の神祗に権現した、つまり、日本の神々は実は仏である、という本地垂迹説を積極的に普及しました」、「原始的な神道では、もともと神体はなく、鏡、剣、玉などを御神体としていました。(中略)本地垂迹説が全国に広がると、平安末期から鎌倉初期にかけて、主要な神祗にインドの本地仏を定めるようになりました」、「6世紀半ばに仏教が伝来してから明治までの約1300年間は、神道と仏教は、融合を重ねながら共存してきました」、「さて本地垂迹説が普及すると同時に、これに抵抗する反本地垂迹説が現れました。わかりやすくいえば、ナショナリズムです。中国やインドよりも、日本の方がすぐれていると考え、日本本来のものを研究しようという流れが生まれたのです。鎌倉中期から、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などの研究が行われるようになりました」、「あるべき理想の神道を、復古主義に立って求めた篤胤は、真宗と日蓮宗を朝敵二宗と呼び、口をきわめて攻撃しました。習合神道を排撃し、歴史的に形成された神道の伝統そのものを、激しく拒否しました」、「国学者平田篤胤はその著書『霊能真柱(たまのみはしら)』の中で、次のような大陸経略論---皇道世界主義を説きました。つまり、一、日本が、世界万国の祖であること 二、日本の皇室が、世界万国の主でなければならぬこと 三、日本の古神道が、世界人類の道であること これはまさに、世界制覇の大野望です」、「『宗教』という邦訳語ができた当時は、宗教といえばキリスト教を意味しました」、「戊辰戦争が終わると、明治天皇は東京招魂社を創建させました。(中略)けれども招魂式、合祀祭、例大祭などの祭典は、神職ではなく陸海軍の軍人が祭主をつとめました」、「靖国神社は、陸海軍省が作った『戦争テーマパーク』です」、「20世紀に入ると、国際社会の間で戦争観が変わってきました。(中略)国際社会が、先に武力行使をした方を『侵略』と判定するようになると、日本はあたかもそれに対抗するように、『八紘一宇』という神がかり的なスローガンを持ちだしました」、「日本と朝鮮王国は鎖国政策をとりましたが、日本は朝鮮に連絡使節を、朝鮮は日本に通信使節を派遣して、両国間の交歓を深めました」(また明日へ続きます……)

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