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吉田喜重監督『幕末に生きる中岡慎太郎』&『愛知の民族芸能』他

2013-10-07 10:18:00 | ノンジャンル
 吉田喜重監督の'87年作品『幕末に生きる中岡慎太郎』と'92~93年作品の『愛知の民族芸能』と'95年作品『愛のシネマ 東京の夢 明治の日本を映像に記録したエトランジェ ガブリエル・ヴェール』を見ました。
 『幕末に生きる中岡慎太郎』は、土佐藩の下級武士の家に生まれ、勤王の志士として王政復古の1年前に坂本竜馬とともに殺された中岡慎太郎の人生を、景色、中岡の写真、人物画、鎧、演出された殺陣により描いたドキュメンタリー。
 『愛知の民族芸能』は愛知県に依頼されて作られた2部構成のドキュメンタリーで、第一部「聖なる祭り 芸能する心」では、アニミズムが芸能に変化したとして、その具体例として、火おんどり、夜念仏、そして奥三河の花祭り、名古屋の難追(なおい)神事、中でも花祭りが念入りに描かれ、第2部「都市の祭り 芸能する歓び」では、初春に知多半島で行われる門付漫才“七福神”、津島天王宵祭りと朝祭りとほこ持ちの儀式と稚児を前にした神前奏楽と秘かに行われる葦流しが描かれ、町すべてが祭りの場所になることで町も生まれ変わっていくとされ、地域社会が崩れた名古屋でも、豊明市では梯子獅子舞が行われ、江南市安良町では棒の手という武芸が奉納され、有松では山車からくりが町を練り歩く様子が描かれます。
 『愛のシネマ 東京の夢 明治の日本を映像に記録したエトランジェ ガブリエル・ヴェール』では、セピア色の写真が示され、そこに映っているのがヴェールと同僚のコンスタン・ジレルであることが語られ、ともに映っている番傘が彼らが日本に行ってきたことを示していると語られます。リュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明と成功が語られ、もの珍しい世界の出来事をカメラに収めるために世界へカメラマンたちが派遣されたことも語られます。ヴェールは薬学を学んでいましたが、当時のカメラマンは撮影、現像、映写すべてができないといけないため、家族を養うためにカメラマンになりました。最初は中南米に行きましたが、当時のメキシコはディアス大統領の独裁時代で、権力が事実をいかに隠蔽するかを知ります。インディオは映されることを拒絶し、カメラが差別を産む装置であることも。1898年に再出発したヴェールは日本に着きましたが、彼はすでにジレルのフィルムで日本を知っていました。明治時代の日本橋、八坂神社の祭礼のフィルム。彼は10ヵ月滞在しましたが、リュミエール兄弟と昵懇の京都の実業家・稲畑勝太郎に招かれたからでした。彼は北海道でアイヌも撮影し、彼らの美しく気高い姿に魅せられます。彼は日本は好奇心にかられる国だと母に手紙を書いていますが、帝国主義の道を進む日本がいかに危険かも知っていました。エキゾチズムにあふれた描写は母のための偽りだったのです。彼は2年後のパリ万博のために撮影を進めていましたが、カメラが権力や格差を映し出すことを知っていました。当時のカメラは動かせず60秒しか撮れないため、銀座を撮っても無秩序に歩く人の姿を映し出すだけです。当時のヨーロッパの人たちは日本人のことを様式化された浮世絵のようなものだと思っていましたが、歌舞伎をヴェールが撮ったのはその点では賢明でした。彼は軍国主義や男尊女卑を嫌い、貧しい女性たちを積極的に撮りました。自由な身でない芸者、恥ずかしがっている彼女たちがカメラを見返してくれるのを待って。結局帝の前での映写会は実現せず、パリ万博へヴェールは帰りますが、リュミエール兄弟は既に映画製作から手を引き、万博ではパノラマ映像を出品していました。東洋のエキゾチズムの夢はまだ存在し、ヴェールの映画が上映された記録は残っていません。彼はリュミエール社を離れ母の許へ戻ります。妻のジャンヌに問われ、日本はあいまいな天国、映画はこわれた夢と答えるヴェール。彼はモロッコのスルタンに招かれ、ハーレムの宮廷カメラマンとなりますが、1年後に妻は娘を出産して死んでしまいます。母が奴隷だったスルタンとヴェールは親しくなり、彼はそれ以後もモロッコに留まり、1936年に63歳で亡くなります。墓には映画という文字も日本という文字もありません。古き都を彼は最後に撮影し、ユダヤ人街も撮っていました。それはユダヤ人が自らと同じ永遠のエトランジェだったからなのかもしれません。

 人物の写真の前に物を置いて、その人物が生きているかのように撮影するショットが目立ちました。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto