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吉田照美さんのインタビュー

2008-05-15 17:24:52 | ノンジャンル
 リクルートが毎週発行しているフリーペーパー「R25」の今週号に吉田照美さんのインタビューが載っていました。吉田さんは私が高校生の時、文化放送の夜の帯び番組をしていて、その後最近まで午後1時から無敵の聴取率を誇る「吉田照美のやる気MANMAN」をやっていた思い入れのあるラジオ・パーソナリティです。
 記事から引用すると、「気弱は、吉田照美の軌跡を語るうえで、きわめて重要なキーワード」なのだそうです。「早稲田大学アナウンス研究会は、あの逸見政孝やNHKで大相撲を実況した杉山邦博らを輩出した名門サークルだ。吉田照美は現在57才で、テレビやラジオで活躍しているけれど、34才までは文化放送のアナウンサーで、さらにその前はそのサークルにいた。『初めてテープレコーダーで自分の声を聞いた時“なんて暗いんだ”と愕然とした思いがあって。対人恐怖症でもあったので、これは治したいなと。普通に人前でしゃべれるようになるために、入ったんです。でも夏合宿のフリートークで名前以外はひと言もしゃべれなかった。すごい挫折感でした。』
 そして、アナウンサーになるつもりもないのに、さらにアナウンス専門学校に通い始めることになる。(中略)気弱さを自覚しているから、克服のためのモチベーションが働いた。(中略)『幼稚園ぐらいの話に戻っちゃうんだけど、いつも1才年上の幼なじみの女の子に泣かされ、同い年の男の子からも泣かされてたわけですよ。そしたら僕の死んじゃった父親が、なんとかしなきゃならんと思ったんでしょうね。僕の記憶の中では、下駄が片っぽ脱げた状態で帰ったら、親父がその下駄を握りしめながら相手ともう一回ケンカしてこいって激昂してるんです。じゃないと家に入れないと。それで、しょうがなくその子のところへ行って‥‥頬をつねったとか、その程度だったと思うんですけど、泣かすことになっちゃって。だってうちの親父、僕の後ろで腕組みして見てんですもん(笑)。相手の子だって手出しできないよね。しかも、その様子を全部向こうのお母さんに見られているという(笑)。でも、身に染みてわかりました。やられっぱなしはいけないんだって。こんなショック療法が大切なんだと知りました。』(中略)
 運がよかったのだという。ヤマが完璧に当たって大学に合格し、『たまたま自分が丸覚えしていた素敵な文章があって、それが見事にはまるテーマが出題されて』文化放送に採用された。(中略)最初の仕事は相撲のレポート。『相当鍛えられましたね。(中略)誰も教えてくれないから、最初は他の記者の人たちの様子を見ながらくっついて行って、後ろから話を聞くという。また聞きみたいな取材ですよね(笑)。』(中略)『与えられた時間を一生懸命頑張ってあがいていれば、きっと何かネタが生まれる』ということ。(中略)
 相撲と平行するような形で担当した『桂竜也の夕焼けワイド』の街レポート。歌を歌いながら街を行き、目隠しをして女湯に入った。社内的に、ヘンなヤツだと認定された。そして27才のとき、深夜番組『セイ!ヤング』のパーナリティーに抜擢される。『これはご褒美でしたね(笑)。天にも昇るような気持ちでした。が、タモリさんの『オールナイトニッポン』の裏だったので、それはもう大変。っこでまた挫折感を味わうわけですが‥‥』またも気弱。そしてコツコツ克服。
『若いころにやりそこなった青春を、やり直そうと。若い子がやるようなヘンなことを街なかでやるわけです。そもそも自分に何もないから、そういう放送しかできないわけですよ。(中略)』
 リスナーを集め、国鉄の車内で突如乾杯を始める『乾杯おじさん』に、学生服を着て合格発表の日に東大構内で胴上げされた『東大ニセ胴上げ事件』(これは写真をマスコミが本物と間違えて雑誌に載せてしまい、かなり批判されました。)、テーブルの下でわざわざ食事をする『帝国ホテルでランチ』などなど。
 熱狂的な固定ファンを獲得、2年半で午後9時台に移動し(『吉田照美のてるてるワイド』これには私の妹もモノマネコーナーで出演しました。)、中高生の圧倒的な支持を得ると、今度は日中の帯番組で働く人々を虜にして20年(『吉田照美のやる気MANMAN』小俣雅子さんとのコンビの番組で、これもお助けマンという、照美さんの指示通りにリポーターが行動するという、かなり際どい爆笑ネタをしていました。一番すごかったのはあそこにバイブレーターを入れられてリポーターが買い物をする、というネタで、リポーターがホントに感じてしまって「とさかが、とさかが」と訳の分からないことを口走り始めるという伝説的なものでした。)、そして現在は早朝の帯番組で30代から60代にアタック中。気弱な男はいつしか、ラジオ界のエースとなっていた。(中略)その間にフリーになっているのだ。それはサラリーマンだったら異動で、一生アナウンサーでいることができなくなりそうだったから。(後略)」
  吉田照美さんに関しては、ラジオの中でどんなことをやってきたのか、特に「セイ!ヤング」でしたネタや「やる気MANMAN」でやったお助けマンネタを整理して業績としてきちんと残す必要があると思いますが、おそらく誰かが既にどこかのサイトでされていると思います。とにかく吉田照美さんに思い入れのある私としては、いつかどこかでトリビュートしようと思っています。