海外のニュースより

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ダルフールの虐殺は、なぜアラブ世界では何の反響も呼び起こさないのか?

2005年03月20日 | 国際政治
「イスラム教徒の沈黙」と題する『ヴェルト』紙(3月19日号)の記事。
 ダルフールで最近起こっている破局は、多くの人によって、世界中で最も重大な人道上の危機であると見なされている。信じるに値するすべての報道は、殆ど250万人が既に死に、適切な処置が講じられない場合には、数ヶ月のうちにさらに数百万人が後を追うだろうと述べている。国連のアナン事務総長は、この事件を民間人に対する集団的虐殺であると述べた。
 これと対照的なのは、アラブ世界の際だった沈黙である。この謎を『ウオール・ストリート・ジャーナル』紙に寄せた論文の中で、カメル・ラビディは、次のように説明している。「アラブの人権擁護団体は、公的なメディアにアクセスすることができないので、あまり影響力がないのだ。」しかし、事実は、独立系のテレビ局やインターネットが存在しているのだから、公的メディアは今日アラブ人にとっては何の役割も果たしていないということである。今日、中東に大きな災いをもたらしている、二つの原理主義、すなわち、イスラム主義と汎アラブ主義を理解する場合にのみ、このアラブの沈黙を説明することができる。信頼できる情報を手に入れようとする人は、「アル・ジャジーラ」と「アル・アラビア」に頼らねばならないが、しかし、両者は、現在まで全く原理主義者によって支配されている。
 なぜ、これらの原理主義的勢力は、ダルフール地方における虐殺についての真実を大したことではないと考えようとするのだろうか。第一に確認しなければならないのは、もし、犠牲者が非イスラム教徒であったならば、その事件にモスレム世界ではだれも興味を示さなかっただろうということである。
 非信者がイスラム教に改宗するか、あるいは自分を「ジンミ」、第二級の市民として従属し、人頭税を支払うかするまで、非信者と戦うということは、イスラム教徒にとっては、常に宗教的な義務であった。この「ジンミ階級」という地位は、「聖書を持つ民族」、つまり、ユダヤ人とキリスト教徒に限られており、アニミストやヒンヅー教徒や他の異端者は、「ナジュス」(汚れた者)と見なされ、差別された。南スーダンのアニミスト達やバハイ教徒や他のイスラム教国のイスマイリア派の人たちは、それがどういうことであるかを現在経験している。
 しかし、ダルフール地方の事情は、これとも異なる。と言うわけは、非アラブ系のモスレムであるとしても、ここではモスレムに対する虐殺が行われているからである。理論的には、モスレムは、他のモスレムを殺してはならない。ここで最も引用される関係資料は、『コーラン』の中のある詩句である。そこには次のように書かれている。「信仰と信心だけが、アラブ人と非アラブ人を区別している。」このことは大部分、イスラム主義と汎アラビア主義の間にある歴史的敵意を説明している。後者は、アラブ系国民に関係しているのに対して、イスラム主義者達は、「ウンマ」、つまり「信仰の共同体」について語り、アラブ民族主義を「フィトナ」、つまり「兄弟同士の喧嘩」の一つの場合と見なしている。
 しかし、実際には、歴史は全く違ったように見える。奴隷制は、アラブ人達が非アラブ系のモスレム、特にアフリカ系のモスレムを征服する際の最も残酷な手段であった。奴隷制は、国際的圧力によって廃止されまで、サウディ・アラビアにおいては、20世紀の60年代まで広まっていた。
 にもかかわらず、「イスラム主義がダルフールの虐殺に責任がある」と仮定する根拠はない。「アル・ジャジーラ」や「アル・アラビア」が虐殺について報道したからと言って、両者を斟酌してやる必要はない。
彼らは、コフィ・アナン事務総長が虐殺について明瞭な言葉を述べた後に、「スーダンのハッサン・アル・ツラビが抗議のために断食を始めた」と述べた。この二つのテレビ局以外に、教養あるアラブ人は、BBCや通信社のアラビア語版などの国際的なメディアに対するアクセスを持っている。
 この特殊な場合における沈黙の主要な原因は、汎アラブ主義であるように見える。「汎アラブ主義」とは、50年前に軍事力によって権力についたファシズム的な運動である。ナセル主義は、エジプト、スーダン、アルジェリア、北イエーメン、リビアを虜にし、バース主義は、イラクとシリアを席捲した。これらの国々では、それによって、20世紀前半以来の初期の改革的近代主義的発展は窒息させられた。脅迫とテロによってリベラル派は、沈黙するように強いられるか、国外に追放された。
1967年の第二次中東戦争における汎アラブ主義の敗北や、経済的社会的約束を実現することができなかったにもかかわらず、アラブ人達は彼らの宣伝に乗りやすい。多くの場合に、アラブ政府は、反西欧的煽動が自分たちの無力から民衆の注意をそらせるだろうという希望によって支えられている。
 このアラブ民族主義の宣伝を妨害する唯一の道は、アラブ人のリベラルな運動を動員することである。これは今までは余りうまくいかなかった。その理由は、それが西欧の政府によって殆ど支持されなかったからである。それ故、アラブの大衆は、アラブ主義やイスラム主義の詐欺師達の人質であり続け、更にダルフールが続くかもしれない。(この記事の著者Abu Khawla氏は、アムネスティ・インターナショナルのチュニジア部の元部長である。)
訳者の感想:ダルフールの虐殺に対してアラブ人が沈黙している理由がイスラム原理主義にあるよりは、アラブ民族主義にあるというのは、余り西欧の論者が指摘しなかった視点だと思って訳しましたが、論者は、アラブ人のリベラリストだということが後のほうで分かりました。私などはアラブ民族主義の挫折が、イスラム原理主義を産み出したのであって、近代主義的であるという点では、むしろアラブ民族主義のほうがイスラム原理主義よりましではないかと思っていたのですが。
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