杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

広辞苑、重版の旅

2019-06-11 21:02:26 | 地酒

 6月7日(金)夜の静岡県朝鮮通信使研究会で、北村欽哉先生が『広辞苑の中の日朝関係』というお話をしてくださいました。

 1955年(昭和30年)の初版から2018年(平成30年)の第七版まで、過去63年間に7回重版された広辞苑の中で、日朝関係を示す言葉がどのように説明されてきたのか=日朝関係に対する日本人の意識がどう変わってきたのかを検証しようというもの。〈朝鮮通信使〉という言葉が登場するのは1983年(昭和58年)の第三版からで、初版・第二版には掲載されていなかったんですね。で、広辞苑第三版に掲載されてから、突如、学校教科書に取り上げられるようになったそうです。さすがの影響力!

 日本人の歴史観の変化が如実に判るのが〈鎖国〉という言葉です。1955年の初版では「国を閉ざすこと。外国との通商・交易を禁止すること」の22文字のみ。1969年の第二版になると「国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限する事。一七世紀から一九世紀中頃まで、東アジア諸国は鎖国政策をとった。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国・オランダ以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航とを禁じた」となり、第三版(1983)、第四版(1991)、第五版(1998)まで同じ記述となっています。

 2008年の第六版では第五版までの記述の前に『一八〇一年、志筑忠雄がケンペル「日本誌」を抄訳し、「鎖国論」と題したのに始まる語。』という一文を加え、最新の2018年第七版では第六版の記述の後ろに『この状態を「鎖国」と呼ぶのが一般的になったのは近代以降。近年では、幕府が四つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して国際関係を築いて来たという見解が通説』が続きます。対馬=朝鮮王朝の外交窓口だったってことが、日本を代表する国語辞書の中で認識されたのってつい最近なんだな・・・と痛感させられました。

 

 そんな北村先生の面白い研究手法をさっそく真似して、図書館をあちこちハシゴして〈清酒〉〈杜氏〉という言葉を過去の広辞苑で探ってみました。残念ながら、広辞苑初版を唯一所蔵する静岡県立図書館が老朽化の影響で倉庫を開けられないとのことで閲覧不可(涙)。第二版以降からのチェックです。

 まず〈清酒〉。第二版(1969)では「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。日本酒。↔濁酒」とあり、第三版(1983)、第四版(1991)まで同じです。

 第五版(1998)は「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。澄んだ純良な酒。↔濁酒」とあります。澄んだ純良な酒。というのが追記されたんですね。これが直近の第七版まで踏襲されています。吟醸酒ブームが影響したのかしら・・・?

 

 〈杜氏〉を見てみると、第二版から第四版まで「酒造家で酒を醸す男の長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」とあります。そして第五版になって「酒造家で酒を醸造する長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」となり、第七版まで踏襲されています。「男の長(おさ)」がただの「長(おさ)」に変わったのは、男女雇用機会均等法の影響なのでしょうか。確かに女性の杜氏が注目され始めた頃でした。

 私は手元に第四版を持っているのですが、これは、1993年にヴィノスやまざきさんの新聞全面広告を制作して静岡新聞広告大賞奨励賞を受賞したとき、河村傳兵衛先生がお祝いに「これからも誤字のない文章をしっかり書くように」とくださったものでした。でも第四版はまだ「男の長(おさ)」の時代。それから第五版が発行された1998年までの間、私自身、しずおか地酒研究会を作り(1996)、初めての著書『地酒をもう一杯』を出版(1998)することができたのは、酒の世界をはじめ、世の中の保守的な社会で必死に努力し、辞書から性別表現を排除させるほど社会を変えた人々の存在あってこそ・・・と胸が熱くなりました。

 

 図書館の職員さんに、3000頁近い広辞苑を何冊も倉庫から運び出してもらうのに気が引けましたが、版の異なる広辞苑を並べてみると、言葉の大群が「保守」と「革新」とに分かれて闘っているようでワクワクします。広辞苑初版…なんとか見られないかなあ。