6月10~11日、駿河茶禅の会で京都・大阪・堺を廻ってきました。20名の大所帯ツアーながらお天気にも恵まれ、大変充実した大人の修学旅行となりました。
今回のツアーのテーマは千利休ゆかりの国宝探訪、そして利休の生まれ故郷・堺の歴史ウォーキング。利休の唯一の遺構にして日本最古の茶室『待庵』(国宝)の見学からスタートです。2011年に会を作ってから6年越し、ようやくホンモノの待庵とご対面です。
10日朝、集合時間より1時間早く山崎入りした私は、見学ルートを確認した後、時間まで天王山の登山道をブラブラし、登って10分ほどの宝積寺を訪ねました。天王山の合戦では秀吉が陣を置き、幕末禁門の変では尊皇攘夷派の真木和泉ら十七烈士の陣が置かれた古刹。724年に聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられ、本堂の本尊の木造十一面観世音菩薩立像、閻魔堂の木彫りの閻魔大王に間近に拝顔できました。戦国、幕末の動乱期の人間の所業を、御仏たちはどのように見つめておられたのか想像すると、背筋がピンとしてきます。閻魔堂の出口扉を開いたら境内から聞き慣れた声がし、望月先生ほか数名のツアー仲間が「まゆみさんが閻魔堂から現れた!」と目を丸くしていました(笑)。
待庵は、山崎駅前の妙喜庵という禅宗寺院の一角にあります。創建は室町時代。聖一国師の教えを継ぐ東福寺春嶽禅師が開山で、この場所は連歌や俳諧の始祖といわれる山崎宗鑑が隠遁していた屋敷跡だったそうです。宗鑑は応仁の乱の元凶とされる足利義尚(こちらを参照)の侍童だった人物で、義尚が25歳で早世した後、髪を下ろし、一休禅師に教えを乞い、一休亡き後、山崎に移り住んで華道や連歌を嗜みました。
天王山の合戦が起きたのは妙喜庵3世の功寂和尚の時。秀吉は戦に勝った後も山崎に1年ほど住み着き、利休も山崎に屋敷を建てて功寂和尚に茶を指南したそうです。江戸時代の寛永年間1643年に第5回朝鮮通信使が訪日した折には、写字官金義信が『妙喜庵』の墨蹟を残しました。私は実物を2013年に高麗美術館開催の『朝鮮通信使と京都展』で見ています。
高麗美術館企画展『朝鮮通信使と京都』2013年 図録より
利休の茶室待庵があるお寺、という認識しかなかった妙喜庵が、今までさまざまな機会に学んだ歴史上の人物たちと深いかかわりがあることを知り、何やら急に親近感を覚えました。
待庵はもともと利休の屋敷か天王山の秀吉の陣中に造られたようで、秀吉が大坂城に入った後、妙喜庵に移築されたとのこと。千家二代少庵の手が少し入っているそうです。
それにしても、本物の待庵の佇まい。テレビや雑誌で何度も目にし、待庵の写しといわれる沼津御用邸内にある駿河待庵を訪ねたこともありましたが、本物はまったく違いました。禅の侘びを表現したわずか二畳敷の簡素な茶室ながら、壁に藁スサを塗り込んだり、隅をカチッと切らず丸く壁土を塗りまわしたり、窓のサイズが全部異なったりと、快適な空間づくりのために緻密な設計が施されていることを、素人目にも感じました。
外から窓越しに眺めるだけ、入室はもちろん写真撮影もNGですが、戦国動乱の時代に建てられたとは思えないほど穏やかで優しい佇まい。ニセモノやレプリカが多く出回るような著名な建造物や芸術品の多くは、本物にはホンモノらしい気品があったり、意外に地味で小ぶりな印象だったり、ということがありますが、待庵にはそのどれにも当てはまらない不思議な「やわらかさ」を感じ、ツアー仲間の建築家永田章人さんと「ずっと眺めていたいですねえ」と眼を見合わせました。好奇心ではなく、心地よさから溢れ出たひと言です。建物だけでこれほどの感動を覚える経験は初めて。茶道経験者でなくても通じ合える感動だろうと思いました。
妙喜庵しおりより
*妙喜庵待庵の見学は、往復はがきによる事前申し込みが必要です(こちらを参照)。
山崎は中世、油の産地として繁栄し、駅の近くに油の神様を祀る『離宮八幡宮』があります。その御神油を使っているという天婦羅の老舗『三笑亭』でお昼をとり、JRで大阪へ。向かったのは国宝『曜変天目茶碗』を所有する藤田美術館です。年に春と秋の2期のみの開館で、今期は6月11日まで。しかもこの後、全面的な改築工事に入り、次の開館は2020年ということで、長期休館前のギリギリの訪問となりました。
同館は明治の実業家藤田傳三郎と息子たちが収集した国宝9件、重要文化財52件を含むそうそうたる東洋美術コレクションで知られます。藤田傳三郎(1841~1912)は幕末の長州出身。明治初めに大阪に出て岡山の干拓事業、秋田の鉱山事業等を手掛け、さらに鉄道、電力、新聞など明治の近代化をけん引した事業で成功をおさめ、大阪商法会議所二代目会頭を務めました(初代会頭が、朝ドラ『あさが来た』でディーンフジオカさんが演じた五代友厚ですね)。藤田は若いころから能や茶道をたしなみ、古美術にも造詣が深く、明治の廃仏毀釈で貴重な仏教美術が海外へ流出するのを憂いて私財をなげうち、美術品の収集に努めました。
曜変天目茶碗は藤田が水戸徳川家から買い取ったもので、もともとは徳川家康が所蔵し、水戸家へ譲渡されたようです。南宋(12~13世紀)に作られた、宇宙に浮かぶ星々のように瑠璃色の斑紋を描く奇跡の文様。世界に現存するのは3つのみで、大徳寺龍光院、静嘉堂美術館、藤田美術館が所有していますが、昨年末にテレビの『なんでも鑑定団』で第4の曜変天目が見つかったと話題になり、真贋論争が巻き起こっていますね。
私は数年前にここ藤田美術館で初めて見て強烈な印象を得、今回再確認し、今年5月には東京国立博物館の『茶の湯』展で静嘉堂美術館所蔵品も拝見しています。ネットに上がっていた第4の曜変天目なる茶碗はホンモノが有する品格、きめ細やかな斑紋の美しさ、深みといったものが感じられず、素人目にみても紛い物だと思えるのですが、テレビ番組的にはどうなったのでしょう・・・。
この日は長期休館直前ということで、もともと藤田家の土蔵だったという展示会場に大勢のギャラリーが押し寄せ、館内は蒸し風呂状態。国宝をゆったり鑑賞する雰囲気ではありませんでしたが、ロビーで紹介されていた藤田家と美術館の歩みを眺めるにつけ、長州出身者が徳川家の秘宝を現代に守り伝えて来たことに、歴史の面白さを感じました。(つづく)
解体予定の展示館(藤田家土蔵)前で